草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」後8

2020-04-23 18:10:43 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」後8

大奥のお局様(煤かぶり1)

 昨年も一昨年も宴の晩に鈴虫を庭に放すだけだったが、今年は虫籠に入れ庭の方々に置くことになった。列席した諸藩の大名や、旗本の手土産として与える趣向だと聞いた。おかげで今年は鈴虫だけではなく虫籠の注文もあった。名のある竹細工師の作ったご紋の入った虫籠百個が、鈴乃屋に届いたばかりだった。
 
 鈴乃屋の離れには、鈴虫専用に造られた部屋がある。その部屋の中には卵から孵して育てあげた鈴虫が、観月の宴を今やおそしと待ちかねていた。今年は胡瓜や茄子などの餌のほかに猫の餌を細かくして与えたせいだろうか。毎年二~三割りがたは共食いで数が少なくなっていたのに、それも無い。おまけに体も大きく羽音も心なしか澄んでいるようだ。

 虫籠に入れた鈴虫を庭の方々に置くための準備だろう。庭木の植え込みや灯篭の影からチリンチリンと鈴の音が聞こえる。庭の中央では難しい顔をした中年寄りの蔦山さまが、鈴の音に耳を傾けていた。少しでも鈴虫の音色がよく聞こえるようにと、虫籠の置き場を探しているようだ。何度も係りの女中に鈴を鳴らさせ、一つ一つ場所の確認していた。

「これは、これは、鈴乃屋殿。ちょうど良いところに参られた。近こう寄られよ」
 蔦山さまは鈴乃屋を呼びつけると、なにやら熱心に話し込み始めた。秋月のお局さまの片腕といわれる蔦山さまが、じきじきに宴の総指揮をなさるとは。秋月のお局さまの観月の宴への意気込みがひしひしと感じられた。

 あれこれ蔦山さまと鈴乃屋は意見を交わしながら、虫籠の置気場所を決めていった。中には松の木の枝先や池の中の築山の上などもあり、途中から太助が女中に変わって鈴を鳴らしていた。

 最後の場所は庭の梅の古木の根元だった。朽ちて中が洞になった幹の中に置くことになった。女中の鳴らす鈴の音を少しはなれた部屋の前で、蔦山さまは満足げに聞いていた。

「おや・・・・・・」 
 満足げな笑顔がまだ残ったままの顔で蔦山さまは、池の向かい側に目をやると慌ててその場に座る込み頭を深く下げた。お供の女中たちも慌てて地面に座り込み、頭を深く下げた。鈴乃屋も何のことだか分からないという顔つきの太助を急かせて、地面に座り込み、頭を深く下げた。

「若様がまた仔猫を見たいと、お局さまにせがんだのでございましょう」
蔦山さまの話によれば、湯殿の薪小屋の中で猫が子どもを産み、若君とお局さまはその仔猫を見に毎日のように薪小屋に行かれるとの事だった。

 薪小屋の猫などよりももっと可愛らしい猫や犬が大奥にはたくさんいるのに、若君がことのほかその猫がお気に入りだとか。ならばいっそ生まれた仔猫ともども若君のお部屋近くに置いて、女中に世話をさせようとしたのだが、母猫のほうが仔猫を咥えてすぐに薪小屋に戻ってしまうのだという。

「その母猫というのが実に鼠を捕るのが上手であって・・・・・・」
 蔦山さまが言い終わらないうちに、薪小屋の向こうから黒い煙のようなものが上がった。
「なにごとじゃ。あれは湯殿じゃ」
 慌てて駆けだした蔦山まさの後を追って、女中たちにが駆け出し。女中たちに混じって、鈴乃屋や太助までもが駆け出していった。

草むしり作「わらじ猫」後7

2020-04-22 17:06:57 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」後7 


大奥のお局さま 似たような話

―どいつもこいつも、食わせ過ぎなんだ。
 鈴乃屋は喉まで出かかった言葉を飲み込んで、にっこり笑った。

「うん、食べすぎと運動不足でございます。朝と夕方はしっかり運動させ、餌は『犬煎餅』に切り替えましょう。食べさせ方は弟子が説明したしますので」
 
鈴乃屋はもったいぶって油紙の包みを差し出して、後ろに控えている太助に目配せをした。

「この犬煎餅は、手前どもが犬の餌にと考案したものでございます。鮪の腹の部分の切り身に、米ぬか・・・・・・」
鈴乃屋は餌のやり方の説明を太助にまかせると、次の順番を待っていた女中に声をかけた。

 今度は猫のようだ、しかしまあこの猫もずいぶんと太りすぎている。鼻の頭の傷は鼠に齧られたというが、かれこれ一年は経つのに、未だに治りきらなくて、傷口はジュクジュクしたままだ。またしても秘伝の軟膏を猫の鼻に塗ってやり、今度もまた食べさせすぎぬように女中に注意を与えて、太助には「猫あられ」の説明をさせた。

「おやこれは滋養が足りないンじゃございませんか」
 どれもこれもでっぷりと太った犬や猫ばかり診ていたので、最後にやってきた犬を見て太助が思わず呟いた。
「これこれ、一心堂。差しでた口を利くものではない。これが普通で他が太りすぎているだけの話だ」
「そう言われれば、そうでございました」
抱いていた女中が思わずクスッと笑った。女中も犬に負けず小柄で華奢だった。

「しかしお玉殿は、犬をお世話するのが実にお上手ですな」
犬の目やら口やら、毛並みを一通り診た鈴乃屋は女中に声をかけた。
「私は子どもの頃に子犬を拾いまして、それを可愛がって育てておりました。ところがその犬がたいそう利口者でございまして、奉公にあがるのもいつも犬と一緒でございました。奉公先のほうもほんとうは犬だけが欲しかったのですが、犬が私の言うことしか聞かないものですから、しょうがなくわたくしも雇い入れてくれました。
ある時その犬が、奉公先に押し入ろうとした盗賊に噛み付いたことがございました。おかげでその盗賊を捕まえることが出来たのでございます。ところがそれがたいそう評判になり、犬はついにお城のお庭番に上がることになりました。そのついでに私も大奥にご奉公にあがることが出来たのでございます。」

ほう、世の中には犬と猫の違いはあっても、似たような話しもあるもですなぁ」
鈴乃屋は思わず呟いた。

「おさじ殿、似たような話とはいったいどんな話でございますか」
「いや、なに。たいした話ではございません。のう一心堂」
「はー、しかし名前までタマにお玉殿とは………」
「本当になんでございますか。おさじ殿、もったいぶらずに、教えてくださいませ」
話をはぐらかそうとしたが太助が妙なことを言うので、女中はますます話に興味を持ったようだ。

「ご無礼いたします」
そこにやって来たのは、秋月の局さま付の侍女だった。侍女は回診が終わり次第、中年寄りの蔦山様の下に来るように伝えた。
「承知いたしました」 
 鈴乃屋は何気なく答えたのだが、目の前にいる侍女がなんとなく華やいでいるような気がした。そういえばこの侍女だけではなく、大奥自体がいつもよりも華やいで見える。

「何か良いことございましたのでしょうか。皆様一段と華やいでおりますな」
まだ話の続きを聞きたそうにしているお玉に声をかけた。
「そうでございますね。観月の宴が近こうございますから」
お玉はおもしろくなさそうに答えた。
「鈴虫の鳴き声を聞くのがそんなに楽しみでございましょうか」
「鈴虫の鳴き声も楽しみでございますが、その鳴き声を聞きに上様もいらっしゃいますので・・・・・・。もっとも私のような下々の者には、なんら関わりの無いことでございますが」

 お玉の話によれば、観月の宴の席で上様の側室選びが行われというのだ。その日はお目見え以上の者だけではなく、京の都のお公家様の姫君までもが呼ばれているという。おかげで割を食っているのが身分の低いお端下たちだった。
 
 ご膳所のお仲居は、やたらと食事に注文をつけられる。肌の色が白くなるような献立にしてくれと言うのだ。そんな事を言われても何がいいのか分からないので、とにかく白い物を出せばよかろうということになった。おかげでこのところ大根や豆腐料理ばかりが続いている。本当にこんなもので色白になるのかと思うのだが、食べている本人たちはいたって満足しているようだ。

 呉服の間でも似たようなもので、宴のためのお召し物の仕立てに追われている。中でも気の毒なのは湯殿のお端下だそうだ。側室候補の侍女たちが肌に磨きをかけているのだろう。朝早くから夜遅くまで湯を沸かし続けてさせられているのだった。

 「今に湯殿の煙突が煤で詰まってしまいますわ。それに比べたら私などは犬のお世話をしていればいいので、気が楽でございます」
少しふてくされているのだろうか。お玉の顔には、いつもの笑顔がなかった。
「まあ、まあ、お玉殿。お玉殿は希に見る強運の持ち主とお見受けいたします。お犬の世話を一生懸命なさいまし、さすればますます運が開けましょう。ただし運が開ける鍵は笑顔でございます。くれぐれも笑顔をお忘れになりませんように」
お玉の顔に笑顔が戻った。

 やっと機嫌の直ったお玉に暇を告げて、鈴乃屋は太助を伴って観月の宴の打ち合わせに大奥の中庭へと向った。

草むしり作「わらじ猫」後6

2020-04-21 18:14:10 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」後6 

大奥のお局さま6(一心堂誕生秘話②)

 目黒でも驚くほど鼠捕りの上手な猫がおります。獲物はもっぱら藁(わら)小積(こづみ)の中に巣くった野鼠や、落穂をついばむ雀(すずめ)などでございますが、しかしその腕前はタマを彷彿させるものでございます。ぜひ一度目黒にも足をお運び下さい。大奥様の文はそう結んであった。

 大久保屋の大奥様が目黒に行かれてから、かれこれ半年近くになる。京に修行に出ていた大奥様の孫に当る若旦那が、奥様の仕事を引き継いだ。そのおかげでやっと奥様が、奥のことを取り仕切るようになり、大奥様もやっと目黒に行くことができたのだ。  

 それでもやはり「大久保屋の大奥様」と慕われただけの人だ、目黒でも大奥様を慕って多くの人が集まるようだ。この頃では近隣の農家の娘たちを集めて、行儀作法を教えていると聞いた。

 鈴乃屋は読み終えた文を懐に入れると、魚屋の持ってきた丸いあられのような猫の餌を手に取って、明かりにかざした匂いをかいだりしていた。しばらくそうしていたが、何を思ったのかそれを口にポイと放り込んだ。ポリポリとかみ締めながら、二個三個と続けさまに口に入れていった。

 「鮪の腹の部分の脂身と米糠(こめぬか)で練り上げているね。青いのは葉物野菜で黄色いのはかぼちゃと芋かい。よく考えたものだね、なかなか旨いじゃないか。うーんもう少し固くしたほうがいいようだな。猫はカリカリした歯ごたえが好きだからね。」

鈴乃屋の足元には商売物の猫たちがゾロゾロと集まりって来た。 
「今度は犬の餌も作ってみないかい。なに犬はこんなに旨くしなくっていいよ、奴ら猫ほど舌は肥えていないからね。もう少し糠を多めにして魚の骨も砕いて入れておくれ」
鈴乃屋は持っていた餌を、皿に入れてやった。猫たちは旨そうに食いはじめた。
「うニャー、うニャー」
猫たちは餌をほお張ったまま、鳴きだした。

 その後太助が本格的に犬猫の餌を作るようになるまでには、そう大して時間はかからなかった。幕府ご用達商人鈴乃屋善右衛門の後ろ盾もさることながら、やはり天下泰平のご時勢のおかげなのだろうか、当初思っていたよりも客がついた。その上毛並みが良くなっただの、糞の始末が楽になっただの評判も上々だった。長屋の片隅で細々とはじめた商売だったが、今では表通りに店を出すまでになった。それを機に名前も「一心堂」と改めた。

 そして今日、大奥お抱えの生き物医師鈴乃屋善右衛門の弟子として、大奥に入ることになった。

草むしり作「わらじ猫」後5

2020-04-20 17:23:24 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」後5 
大奥のお局さま 一心堂誕生秘話①
 
―今日もまた暑くなりそうだな。
 若い俸手振りが恨めしそうに空を見上げて、溜息をついた。河岸に並んだ魚に朝日が照らし、魚屋たちは仕入れた魚を慌てて桶に仕舞った。早々に仕入れの終わった仲間を尻目に、太助はまだ仕入れを済ませてはいなかった。商売道具の桶を担いだまま、一点を見つめなにやら考え込んでいる。

  太助のが見ていたのは、目方にして百貫はあろうかと思われる巨大な黒鮪(まぐろ)だった。その日一番の大物が水揚げされて、河岸はにわかに活気づいた。ところがそれでなくても傷みやすい鮪は、このところの暑さも手伝って、二足三文で買い叩かれしまった。鮪はその場で切り身にされ、赤身の部分はすぐに買い手がついたが、腹の部分の脂の多いところは、見向きもされなかった。せっかくの大物を二束三文で買い叩かれて、半ば自棄(やけ)気味で鮪をさばく漁師たちの周りには、河岸に住み着くノラ猫どもが集まって来た。

 「ほらよ」若い漁師が猫に腹の身を投げてやっていた。地面に落ちた切れ端に我先にと群がる猫たち。一匹がすばやく漁師の投げた切り身をくわえて走り去った。用心深く周りを見回すと、太助の足元で食べ初めた。

「旨いかい」
旨そうに食べている猫に、太助が声を掛けた。猫は鮪を頬張りながら律儀に返事をした。
「うニャー、うニャー」
「そうかいそんなに旨いのかい。じゃあおいらも長屋の猫に食べさてやるよ」
 
 太助は詰め込まれるだけの鮪の腹の部分を、桶に入れると河岸を後にした。
途中で馴染みの握り飯屋に出会ったので、土産にいなり寿司を包んでもらった。濃い口の醤油で甘辛く炊いた油揚げと、酸っぱめの酢飯を一緒にほお張ると口の中でちょうどいいくらいの甘酸っぱさになる。このごろでは握り飯よりも、いなり寿司のほうがよく売れるようだ。

 男はこれで最後だからと言って、一つ余分に包んでくれた。気を良くした太助は、猫の餌にでもしなと、桶の中の鮪を少し分けてやった。男は知り合いの飴屋の猫に持って行こうと言い、喜んで持って帰っていった。
 
「お前さん、こんなもの何にするの。この暑さじゃすぐに痛んでしまうし、鮪なんて誰も喜びはしないわ」
 女房のお仲が、太助の桶の中の鮪を見て呆れた顔をした。
「猫の餌に出来ないかと思ってなぁ」
  太助はいなり寿司の包みを差し出しながら、このところ河岸に大量に出回るようになった鮪で猫の餌を作れないだろうかと話し始めた。

 夏場になると魚はすぐに傷んでしまうし、時化が続くととたんに魚が値上がりをする。 反対に大漁のときは余って腐らせてしまう。鮪は特に傷みやすく他の魚のように干物や塩漬けにもできない。おまけに江戸っ子の口には合わない。
「けどよ、あんな大物。それこそ漁師は命がけで獲っているんだぜ。それを捨てちまわなくちゃならないなんて、気の毒じゃないか」

 太助の考えは、捨てられてしまう鮪の腹の部分を猫の餌にしたいのだ。それも何がしかの工夫をして、腐らせずに保存のきく餌を作りたいのだ。怪訝な顔をして太助の話を聞いていたお仲だったが、太助がいなり寿司を差し出したとたんにとしてニコニコ食べ始めた。一方太助の方はそう言い出したものの、どうした物かと考えこんでいる。

「まずは湯がいて、干してみましょう」
 大きないなり寿司を三つ、全部一人で平らげてしまったお仲が言い出した。 
試しに切り身を湯がいてはみたのだが、鮪の脂が溶け出し鍋がギトギトになってしまった。貧乏所帯で鍋はこれ一つきりしかなく、「これでは明日の朝の味噌汁が飲めなくなってしまう」と太助が途方にくれていると、お仲が米ぬかを一掴み振り入れて井戸端持って行った。お仲は脂を吸い込んだ糠を手で書きだすと、井戸端で鍋を水で洗いはじめた。いつものように煤の付いた鍋底まで綺麗に洗い終わって、足元の気配に気づいた。 
なんと鮪の脂のしみこんだ米ぬかを、どこからともなくやって来た猫が、旨そうに食べている。

「猫が糠を食べている。美味しいのかしら」
お仲の声が聞こえたのだろうか、猫が返事をした。
「うニャー、うニャー」

 糠はおなつの最初の奉公先の米屋から、太助がもらってきていたものだった。おなつが大久保屋に奉公替えをしてからも、太助は古くからいる女中とは妙に馬が合い、そのまま出入りを続けていた。米屋のおかみさんは、おなつが大奥に奉公に上がったのを自分のことのように喜んでいた。古くからいる女中などは、自分が最初に仕込んだのだと鼻高々だ。

 女中は所帯を持った太助に、事あるごとに米ぬかを持たせてくれた。生臭いとおかみさんに嫌われるから、湯屋には毎晩必ず行って糠袋で体をよく洗えというのだった。太助は湯屋には毎日行って体を洗うように心がけてはいるが、糠で洗ったことなどは無かった。   
女じゃあるまいし糠袋なんかで肌なんか磨けるものかと思いながら、くれると言う女中の言葉には逆らわなかった。そのために大量のぬかが土間の隅に置いてあったのだった。
 それから二人してしばらく猫の餌ばかり作っていた。やっとそれらしき餌が出来上がった頃には、所帯を持ってから二度目の正月を迎えていた。

草むしり作「わらじ猫」後4

2020-04-19 17:29:24 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」後4 
大奥のお局さま④大奥生き物事情1

 それからしばらくしてのことだった。大奥のお広敷の一角では、奥女中たちが診察の順番を待っていた。犬や猫を抱いた女中に混じって、中にはどう見たって鶏だと思える鳥や、鉢に入った金魚まで大事そうに抱えている女中もいる。

―死んでしまわないうちに、早いとこ鶏鍋にでもして食っちまえばいいものを。
 遠目で鶏を見ながら鈴乃屋は思うのだった。
 
 人間ならばさしずめ御天医といったところだろうか。しかし残念ならが鈴乃屋善右衛門は医者ではない。幕府ご用達の生き物問屋の主である。しかるに医者面をして大奥で犬猫の診察をしている。理由は簡単だ、馬や牛を治す馬医はいるが、犬猫を診る医者などいないからだ。だからこうやって月に一度は大奥にお納めした生き物の診察をするのも、幕府ご用達商人の大切な仕事だった。
 
 心配そうな顔をして奥女中が抱いている犬はずいぶんと太りすぎている。
「これは食べすぎでございます。このままだと心の臓に脂が回って、息が出来なくなってしまいますぞ。」
 鈴乃屋は犬の腫れあがった前脚の関節に、秘伝の膏薬で湿布をした。腫れが引くまでは安静にするように言いおき、十日分の薬を渡した。くれぐれも餌をやり過ぎないようにと何度も注意をした。 

 大奥の犬や猫はどれも太り過ぎている。鯛の切り身に生卵は当たり前で、中には鶉(うずら)のあぶり焼が大好物だというおそろしく口の肥えた犬もいる。その上に饅頭や羊羹のご相伴にいつも与(あずか)っている。これでは痩せているほうがおかしいしいくらいだ。さっきから連れてきた女中の顔がやけに小さく見えるのは、抱いている犬のほうがそれだけ太っているからだ。
 
 ただ太っているだけならまだ愛嬌の内で済まされるのが、問題はそれによって色々な病気を伴っていることだ。今診ている犬は足が痛いためだろうが、動くのを嫌がる。その上に一日中食ちゃぁ寝食ちゃぁ寝を繰り返すばかりなので、ますます目方が増えてますます足に負担がかかっている。
  
 中には柔らかいものばかり好み、歯茎がブヨブヨに腫れて歯が落ちてしまったものや、目の上や足の付け根に瘤の出来たもの、体がむくんでしまったなどと色々な症状の犬や猫がいる。鈴乃屋の見立てによるとほとんど食べすぎが原因だった。その上人間と同じ味付けなのでどうしても塩気が強すぎるのだろう、涙目の犬や猫も沢山いる。
 
 餌に関しては事細かく注意しているにだが一向に効き目がない。「だって食べたがるのですもの」の一言で片付けられてしまう。何かもっといい手立てはないものかと鈴乃屋が考えている時だった