予定では某所に約束の時間の2時間前に到着して、久しぶりとなるその界隈をスナップするつもりでいたのが、結局のところは30分前に到着するという展開となった。予想以上の駅前の変貌ぶりに驚くも、遠方からでも近隣の超高層マンションが見えるくらいだから、その再開発は当然の成り行きなのか、とも思うのであった。そんな事を思いながら、早速界隈をスナップする。先方と落ち合うまでに50分ほど時間が空くことになって、フィルム1本を撮る。昨日の暑さとまではいかないけれど、ボクは比較的涼しいところに一日居たから、今日の暑さはかなり厳しかった。先方と会えば、まずは飯ということで、案内されるままに和風レストランみたいなところへ。いざ席に着こうとすると先に会計とともにメニューを決めろという。いきなり直面した問題に、なんと偶然とはいえ店内BGMはオーネット・コールマンの明日が問題だ! に収められたある曲が鳴っていた。この摩訶不思議な組み合わせとも、あり得ないシチュエーションとははっきり言って悪くない。妙な気分になるどころか、ボクは大歓迎だ。有線らしくない選曲が、店長の独断とすれば、実にジャジーだなぁ。それにしても、あっけないほどに解決した注文。ボクは鯖の味噌煮定食、先方はすき焼き定食だった。変な事、その差は0.01マンなのに、お膳が届いた瞬間、それまでのワクワクするボクの期待は見事に裏切られた。そのCPは明らかにすき焼きに軍配が上がるのだ。それも、太刀打ちできないくらいの圧倒的な差だ。いや、ボクはすき焼きのその布陣は恐らくごく当たり前とすれば、鯖の味噌定をあまりにも軽くあしらってないだろうか、という義憤の念にかられるのであった。というよりも、食材の問題なんだろうなぁ。すき焼きも立派な日本産だけれど、魚料理の衰退には正直いって悲しくなってくる。脂ののった肉厚の鯖は何処へ。あっ、ジャズも同じか。
某所にて、大集団の撮影会に遭遇する。その数、およそ把握不可能なほどの集団だった。たしか、数年前にも場所は思い出せないけれど、同じような場面にかち合った記憶がある。さすがに一部始終を後ろから見て回る、なんてことは出来ないから、機会をみてはチラチラと見ることにした。もちろん、この場合は肝心要のナイスバディのキレイなモデルさんを見ることである。なのに、その取り囲む大集団によってモデルさんの姿・形だけでなく気配すら届くことはないのであった。くやしいぃ。仕方がないので、撮影者のカメラをじっくりと観察してみた。とにかく、ボクには無縁の大口径望遠ズームレンズがまるで大名行列のごとく、ユッサユッサとあたりを駆けめぐるのだ。ここでも、キャノンとニコンの二大対決にほぼ間違いないようで、みなさん純正レンズをしっかりと装着している。すごいなぁ~。ペンタックスやコニカ・ミノルタが少数とはいえ、それなりに存在感を示しているのも面白い。そして、ボクが見た限りでは意外なほどフィルム派が多かったことだ。実態はかなり違うのかもしれないけれど、なんとなく安心した気分になる。デジタルも一眼組とコンパクト組とでいい勝負。デジタル一眼なんてのは、随分と安くなったらしいけれど、業界で言うところのハイアマチュアの一部に止まっているのだろうか。だけれど、いつしか休憩タイムになったらしく、みなさん腰を下ろして下を向いている。すなわち、今撮った画像を真剣に確認しているの図であった。やはりデジタル派が多いんだろうネ。
朝は決まってストリーミングでクラシックを聴きながら、ネット・ニュースを見て回るのだけれど、久々に堪えたのがアップルからのG5新登場のニュース。それと、前日に発表されていたというシネマ・ディスプレイの値下げ。もちろん、どちらもボクには関係ない事だけれど、はっきり言ってもの凄くお買い得感が高いのである。パワーアップしての値下げであっても、そのスパンがどうかという問題。ディスプレイに至っては、今年の年初に続いて約3ヶ月後の値下げだということで、悔しい思いをしたユーザーは少なくないはずだ。ずるいなぁ、と一人勝手に意味もなく落ち込んでいるところに、囲碁の趙治勲二十五世本因坊が十段位獲得のニュースを知る。これで無冠返上だ。戦前、石にしがみついても獲りたいと語っていた執念が実ったのだ。アップルの値下げなんてどうでもいいとばかりに、このニュースでボクは気分をガラリと切り替えることが出来た。好き嫌いは別にして、棋界の第一人者が公言通りというか、見事に勝ち取ったこと、そして強い趙治勲の姿を思い浮かべたとき、こんなボクにも勇気を貰ったような気分になったのだ。
なんというのか、嫌な事っていうのはそう簡単には無くならないものだけれど、今はむしろ驚きのほうが日常に沢山潜んでいるのだろうか。いろいろとあるもの。そんな驚くとき、それは自分にとって良いことなのか、それとも「参ったなぁ」という驚きか。いやいや、単純に驚くと感じることなのだから、自分でも可笑しくなってしまう。ネット依存もどうかとか、あるいはもの凄く有り難い機能も時には苦痛しかもたらさない事でもあったり。そんな事が頭からつかず離れずの状態で、昨日からそのスペインのジャズを聴いている。きっかけを感じるまでそれなりに時間が掛かりそうなのだけれど、もとい自分が知らなすぎなだけなのだが、偏ったバイアスが無いだけに、純粋に聴くことが出来る瞬間とはそうそう無いものと思う。それに、歴史的にとかスタイル的にどうとか、と言ったことではなく、恐らく彼らのありふれた日常の中に強く根づいている音楽だからなのだと思う。
訳アリでスペインのとあるジャズ・レーベルをまとめて聴いている。と言っても6枚ほど。恐らく、まだ日本には紹介されていないレーベルだろう。ミュージシャンも含めてマイナーに等しいといっていい。一通り聴くと面白いことに、手元にある作品に共通しているのがギターを取り入れたスパニッシュなテイストに満ちていることだ。それと歌も悪くない。それらのどのトラックを聴いてもとても自然に溶け込んでいるのがよく分かる。ジャズ馬鹿なボクでも、そう感じるのだから音楽とは広いことを改めて感じるのだ。ジャズのスタンダードもいいけれど、こういったひたむきに自己主張する姿勢に出会うととてもいい刺激を受ける。だから、この6枚のなかには少ないけれど良く知られたスタンダードが何曲があって、そんな彼らのことだから思わずハッとするほど新鮮な演奏に驚く。それでも、そこから先にあるものは音楽的な質を問われるということなのだが、彼らの豊かさにただただ羨ましいなぁ、と思わずにいられないのであった。
初鰹。
と言っても、食べたのは昨日の夜。スナップから戻って最寄りのいつものスーパーに飛び込んだら、何とタイムセール中で安かったからつい買ってしまったのだ。ショウガを買い忘れて、結局はおろしニンニクで食べたものだから、夜中から腸の粘膜がキリキリと刺激されてしまうオマケ付きだった。味のこと。無論、旨さは求めていない。でもカツオは大好きなのに、東京で買ってまで食べることは年に3回も無いと思う。
ボクの実家では、刺身といえばカツオだった。それもマグロが出ないかわりに、旬の時節に限らず割と頻繁に食卓にのった記憶がある。マグロなんて、大学に入ってから美味くもない回転系寿司屋で食べたのが最初だったかもしれない。それからも、ボクの普段の日常や外の付き合いなど含めて、悲しいかな上等なマグロとは無縁と言ってもいい。だから、マグロを有り難る気持ちは微塵もない。その代わり、ボクにはカツオが最高のご馳走だ。それも、実家に帰省したときに食べるカツオなのだ。それと、カツオの旨さを分かりはじめたのは、やはり東京に出てからだ。何度か外で食べたカツオの味が、そのなんとも言えない味でがっかりしたことがあったから。それ以来、自分で買うことも滅多になくなった訳だ。
何故、実家で出るカツオが美味かったかというと、それはもう長くて深い付き合いがあった魚屋があったから。一見ごく普通の魚屋なのに、その実態は店頭売りだけでなくレストランへの卸や週末の仕出し弁当などで評判が高かったほど、ダンナさんの目利きがずば抜けていた、ということを知ったのは実はつい数年前だった。時には、注文を出しておけば美味しいカツオが手に入っていたらしい。美味かったはずだ。だが、残念なことに店を畳んでしまい、美味しいカツオを食べることは出来なくなったけれど、福島といえども何度となく食べさせてもらったあの美味さは忘れられないのだ。
と言っても、食べたのは昨日の夜。スナップから戻って最寄りのいつものスーパーに飛び込んだら、何とタイムセール中で安かったからつい買ってしまったのだ。ショウガを買い忘れて、結局はおろしニンニクで食べたものだから、夜中から腸の粘膜がキリキリと刺激されてしまうオマケ付きだった。味のこと。無論、旨さは求めていない。でもカツオは大好きなのに、東京で買ってまで食べることは年に3回も無いと思う。
ボクの実家では、刺身といえばカツオだった。それもマグロが出ないかわりに、旬の時節に限らず割と頻繁に食卓にのった記憶がある。マグロなんて、大学に入ってから美味くもない回転系寿司屋で食べたのが最初だったかもしれない。それからも、ボクの普段の日常や外の付き合いなど含めて、悲しいかな上等なマグロとは無縁と言ってもいい。だから、マグロを有り難る気持ちは微塵もない。その代わり、ボクにはカツオが最高のご馳走だ。それも、実家に帰省したときに食べるカツオなのだ。それと、カツオの旨さを分かりはじめたのは、やはり東京に出てからだ。何度か外で食べたカツオの味が、そのなんとも言えない味でがっかりしたことがあったから。それ以来、自分で買うことも滅多になくなった訳だ。
何故、実家で出るカツオが美味かったかというと、それはもう長くて深い付き合いがあった魚屋があったから。一見ごく普通の魚屋なのに、その実態は店頭売りだけでなくレストランへの卸や週末の仕出し弁当などで評判が高かったほど、ダンナさんの目利きがずば抜けていた、ということを知ったのは実はつい数年前だった。時には、注文を出しておけば美味しいカツオが手に入っていたらしい。美味かったはずだ。だが、残念なことに店を畳んでしまい、美味しいカツオを食べることは出来なくなったけれど、福島といえども何度となく食べさせてもらったあの美味さは忘れられないのだ。
ひたすらスナップ。気が付くと、銭湯の煙突を撮り歩いていた頃のとあるエリアに足が向いていた。さらに、驚くのはその時の光景のいくつかの断片が気持ちとして脳裏に浮かんでくるのだ。そんなに古い出来事でもないのに、あの時のあの場所がいくつも焼き付いている。人間、歳とともに記憶という引き出しが次第に奥の彼方に埋まってしまうらしいけれど、けして古くないとは言え、そんな引き出しをちょっと引っかき回すという気分になった。それに、いつも思うのは、その時とほぼ同じルートを何故か歩いてしまう習性とはボクだけのことなのか、それとも誰にでもあることなのか、不思議に思うのであった。今回は、最初に降り立った起点からなんとなくあちら方面と漠然とした気持ちであったにも関わらず、次第次第に歩く方向が以前歩いたルートへ向かうのである。歩きながらぼんやりと思ったのは、待つこと立ち止まることも重要だということを改めて思い知った。やり方に固執することに抵抗があるとか、まして何様でもないのだから、もっと気楽に構えることが大事なのだと大きく反省。それにしても、日頃喧噪の繁華街ばかりだと、車の騒音を除けばほぼ無音に近い空間はとても新鮮でその場の空気を感じるようなものか。遊技場の雑音も静かなものなのだ。俄然、視覚的なものだけに集中できるかというと、そうはなかなかいかないもの。かろうじて、目標としていた終点に辿り着き、そこから電車でホームグランドに着くと、ヘロヘロになっていた体がピンピンとしていることに驚く。明らかに今回のルーティングは誤っていた証拠だろう。
絶好のスナップ日和。それでも結果とすればやや雲多しといった具合だった。午前中、荷物の受け取りを待つも、時間はドンドン進むのでちょっとイライラする。どうしても不在扱いに出来ない荷物だったからだ。それと、アノ一件以来とくに土日は回避したいから。土曜となれば先方から伝票番号を聞き出すこともできない。駄目もとで宅急便のサイトを見れば、なんと配達エリアのドライバーの携帯番号に辿り着く。これが、単に電話だと伝票番号がないと問い合わせ出来ませんの一点張りで嫌な思いをするのが、その他の多くの会社だったりする。早速電話をすると、突然にも関わらずボクのお願いを受け入れてくれた。クロネコは頑張っているのだ。さて、そうと決まれば即行動となるも、トルクが掛かり全開になるまで2時間を要したのだから自分で呆れてしまう。もっとも妙な腹の具合を感じたからでもあった。でも、無理だなと体が感じるのと踏ん張ることの気持ちの見極めは、勘に頼ることでもないだろうし、何も気合いという気持ちだけでもないだろう。学習? そんな事でもないと思うし、諦めが肝心という気持ちも当てはまらない。まぁ、ボクの場合はカラダが鈍っているだけなのだった。時間が経つにつれ快調になってくるのである。と書けばもっともらしいけれど、最初の駅でフィルム購入につまずき、自ずと180度予定変更を余儀なくされる始末。その後に腹の具合ときたから、半分は損をしたというか捨てていたようなものだった。某所では、中国の反日デモに抗議するデモを見かける。台湾も一緒だった。そのまま靖国神社へ向かうのかと思ってその場を後にすれば、2時間後にまた別の場所で見かける。デジカメで撮っていた外国人が言い返す、go to yashukuni! が印象的だった。
firefoxを常用ブラウザーとして使い始めてずいぶんと経つ。先日もバージョンアップしたというので入れ替えしてみたけれど、体感的には変わるものは無いものの、やはりいい感じだ。すっかりsafariの出番は無くなったに等しい。それでも、firefoxで固まってしまうサイトがあったりするから初めから完璧なものなど望むのが無理というものか。IEに至っては、未だドックに登録してあっても、もはや何だろうかという塩梅だ。ところで、ボクにはそのfirefoxを導入する前に気に入っていたブラウザーにoperaがあった。もちろん、フリーウエアのもの。ちょっとごちゃごちゃとしたインターフェイスに抵抗を感じつつも、悪くないと思っていた。けれど、firefoxを使い出してからは、英語版の7.54を入れたあとそのまま放置といった扱いだった。そのoperaがつい最近、最新版8.0をベータ版として発表したというので、ちょっと気分転換も含めて入れてみた。左側にあったごちゃごちゃが無くなって、すっきりしたインターフェイスは格段に好印象だ。それと、何かしら動作が以前よりキビキビと速くなっている。特別な使い方をする訳でもないから、この速さというアドバンテージが使用感のなかでは一番嬉しい。でも、以前のような興味と関心は薄くなっている。それはfirefoxの完成度が高いからということも多分にあるけれども、マックと言えどもやはり標準以上の機能があって安心感が相当なものであれば、もうそれで充分ということなのだろうと思う。でも、間もなく登場のtigerでまた振り回されるのかなぁ。
このところ最寄りの駅を使うことが少ないものだから、久しぶりに駅前を通るとその変貌ぶりに驚く。玉川通り沿いに専門学校がずらりと建ち並ぶようになったのはいつからなのか。ここ2.3年ほどだろう。それと、駒沢大学の浸食ぶりが目立ったのもつい最近のことだろうか。それらの建物がほぼ完成して、あるいはビルが丸ごと入れ替わるとかですべてが機能している。ラーメン店激戦区? でもあったこの界隈が新たに学校密集エリアとなったようなものだろう。だから、新学期が始まった時の駅前の混みようは凄かった。実は、そんな変わりようのことではなく、普段から歩くことが多い自分にあって風景なのか場所なのか、ごく一部でもいい、ある空間の変化に関していざとなると以前の姿を思い出すことができない傾向があるのだ。突き詰めれば、ということは考えないとしても、そういった場合のほとんどは見ているにも関わらず、自分の中に関わってこないモノは残らないことなのかと思う。そんななか、今は立派なビルが建っているある一角にあった以前の建物のことがフラッシュバックのごとく頭のなかで見えてきたことに驚いた。こんな経験は滅多に無いといってもいい。思い入れの深い店だったからというよりは、むしろ取り残されたとても古い建物だったからではないかと。ボクが街を歩いて、至る所の変化を見るにしても、また生まれ変わるものですら実はそのほとんどはもしかしたら何も変わっていな均一化された表面なのではないだろうか。そのよく言われるところの90年代以降という点を含むことは言うまでもなく。まぁ~、それにしてもこんだけ学生が増えてもまったく繁盛しない商業施設というのも珍しいもんだ。