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中有のこと

2011-08-25 00:38:42 | 高森光季>仏教論・その他

 仏教では生まれ変わるまでの「中間状態」があるとします。一般には「49日」です。
 これも起源や論拠がよくわからないものです。インドでは「7」が聖数で、7日ごとに儀礼をしていて、それが7回済んだところで、「まあこのくらいで」と思ったのかもしれません(笑い)。
 マイヤーズ通信でも、死後、幻想界へ行く途中に「冥府」という移行プロセスがあるとしています。ただし、前世記憶研究ではあまりはっきりと言われているわけではありません(肉体や精神が傷ついた魂が病院のようなところで治療を受けるという報告はあります)。ちょっと今出典が見いだせないのですが、スティーヴンソンの研究では、マイヤーズ通信と同様、死の直後に「不快なプロセス」があって、「人間が死を恐れるのは死自体ではなくこのプロセスを恐れるのではないか」といった意味深長な記述があったように記憶しています(うう、出て来ない)。

 この「中有」の状態で、魂が迷うと考えられて、その間、「しっかりと向こうへ行きなさい」と説得・応援する必要がある。そう考えられたようです。一時有名になった「チベットの死者の書」(バルドゥ・トゥエドルと言うらしく、このバルドゥは中有のことだそうです)は、このプロセスを前もって学習し、また中有の魂にそれを聞かせることで、迷いなく「向こうへ」行かせる効用があったようです(日本の民間儀礼にも似たようなものがあります。浄土神楽「十三仏の関門」とかいうようなものだったと思いますが正確に思い出せません)。
 迷うことがあるかどうか、少しとどまったりするものなのか、ちょっとはっきりしたことはわかりません。スピリチュアリズムや前世記憶研究では、あまりそういうことは出てきません。ただ、日本の民間説話や2ちゃんねるの書き込みで、49日まで、死者が音を立てたり何かを動かしたりするということはけっこう報告されているので、魂がまだ現界に近いところにいることがあるのかもしれません。それは「49日」が文化になっている日本(や仏教圏)ならではのことなのか、それとも全世界的に似たような傾向があるのかは、よくわかりません。まあ、その間に遺族に何かを示して、「ああ、魂として生きているんだなあ」と納得させたり、愛情を伝えたりすることは、取り立てて悪いことではないように思いますが、あまり地上に未練を残すのはよろしくないことは確かでしょう。

 (まったくの余談ですが、2ちゃんねるの伝説的事件で、「幽霊だけど質問ある?」というスレッドが立ったことがあります。証明としてIPアドレスを開示するのですが、そういうアドレスはどこにも存在しない。そしてその内容が、飄々として、またなかなかじんわりと心を打つ内容だったので、これはひょっとして、と思う人が多かったわけです。発信者は事故で若くして亡くなったと言っていて、向こうに行く前に、好きだった2ちゃんねるのVIP板でスレッドを立て、仲間たちと話して、「浮かばれた」ようです。最後はじんわりと泣けます。まあ証明はできませんので何とも言えませんが、ご興味のある方は、「まとめブログ」の記録を覗いてみてください。ただしたまに下品な言葉が入りますし、長いです。)

 ところで、問題なのは、「49日の転生」によって、「死後他界」が無化されることです。「餓鬼・地獄」や「天・阿修羅」は見えない「死後他界」と言えるかもしれませんが、「人」と「畜生」はこの世です。で、多くの魂が、再び人として生まれてくる、それは49日の中有の後すぐなのだ、となると、これはちょっと実態と異なってしまう。
 (実態と言っても、規則があるわけでなく、ある現世から次の現世までの間隔は、実に様々です。スティーヴンソンの研究例は、事故死などの特殊例のため、あまり参考にはならないものですが、そこでも、わずか数日というものから、かなり間があいているものまであります。前世記憶研究でも、全部を想起できるわけではないので確かなことは言えませんが、生まれ変わりの間隔は様々なようで、中には数百年飛んでいるケースもあります。49日を間違いと言っているのではなく、そう固定するのは間違いということです。またあまりに短い再生期間は、きちんと向こうへ行っていない特殊例という可能性があります。)
 人間は「解脱」できないうちは再び人間に生まれ変わる、それは49日の中有の後だ、というような輪廻観は、これはむしろ「継続する生存」であって、これはかなり偏った見解だと言えるでしょう。こうした論理によって死後他界を否定するのは、誤りだと言えます。
 (ちなみに、ブッダの時代の「善趣・悪趣」が、天界的世界と地獄的世界という意味なのか、よい現実環境・悪い現実環境という意味なのか、よくわかりません。まさか後者だとは思えませんが、もしそうだとすると、「他界否定」ということになります。)

 「移行プロセス」というものがあることを知っておくことは悪いことではないでしょうが、あまり「中有」のことを時間的・実体的に考えない方がいいように思います。細部を知らないから迷うということもないように思えますし、その間地上で何かをやってから行くと考えるのは未練に繋がるものでしょう。また、生前仏教を信じていなかった人が、その状態でお経を聞いて、急にさとるなどということも、まずあり得ないことでしょう。前にも書きましたが、死者に祈る際には、悲しみを訴えたりするのではなく、感謝の念と高級霊の加護があることを祈ればいいのであって、それ以上のことは不要ではないかと思います。


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