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無我・有我――今来さまへの返信として③

2011-08-18 00:21:23 | 高森光季>仏教論・その他

 やっぱり「無我」というのは語弊がありますね。私のような凡夫にはわからないということもありますが、仏教の人たちも結構変な解釈をしているのではないかと思える時があります。たとえば、「無我だから私はない、だから死後の霊魂などというものもあるわけがない」とか。
 そして特に、これは、現代唯物論の説、「私は脳内の電気信号の束に過ぎない」「私は様々な構造の結節点に過ぎない」という説に、ひどく似通う印象を与えてしまう。

 前に引用した末木文美士氏の主張を、今来さまは「仏教者として採用できない」とおっしゃいましたが、私は「釈迦が説いたのは『非我説』ではないか」という意見には賛同します。前にも書きましたが、
 《「物質的なかたち(色)」「感受作用(受)」「表象作用(想)」「形成作用(行)」「識別作用(識)」は、「病にかかり」「思うようにならない」がゆえに、我(アートマン)ならざるものである。それらは「常住ならざるもの(無常)」であり「苦」であり、われの我(アートマン)ではない。》
 これは「無我」説ではなく、「非我」説、むしろ「本質的私=アートマン=霊魂?」を想定する説ではないか、と。実在という認識が妄執を招くという考え方はわからないではないですが、「アートマンの存在を認めること」が「常住論」になり妄執になるというのは、行き過ぎではないか。

 また、そもそも「私はない」というのは、そう言っている私をも否定するわけで、やはり論理的に無理がある。様々の要素や関係が私を作っているにせよ、私はそれらに還元できないものとしてあると言わざるを得ない。まあ、単純素朴な議論ですが。
 で、今来さまが、「仏教は無我説ではない、無我説でも有我説でもない」ということを言われたのは、なるほどと思いました。

      *      *      *

 他から完全に独立し、永遠に不変の「私」はない。
 これを「常住でない=実体ではない」というのはわかりますが、それを「無我」と表現するのは、われわれ一般の現代人には、とんでもない誤解を招くように思います。(なお、欲望のない状態=無我という説は、逆に欲望還元主義で、謬説だと思います。あ、ひょっとすると私の印象は、禅仏教からのものに偏っているのかも)(やっぱり「無」とか「空」とかの言葉の使い方が、変わっているんだなあ。)ほんと、仏教者は簡単に無我無我言うの、やめてほしい(笑い)。
 いや、そもそも「他から完全に独立し、永遠に不変の“私”はない」というのは、もう多くの人はわかっている話なのではないでしょうか。また、私に固執することが苦しみを招くということも、多くの人はわかっている。それを軽減するには私を相対化・客観化する視点・叡智(超越的な私)を持てばいいだけの話で、わざわざ「突き詰めていくと実体としての私は見いだすことができない、だから私は実体としてはないと観じて、私を断滅する必要がある」とまで行く必要があるのかどうか。

 私は、実に様々な要素からなっています。唯識や近代の心理学が明らかにしたように、知覚操作に関わる部分(神経魂)や、肉体的情動部分や、無意識もある。前世記憶(準前世人格)もあれば、時代や環境によって刷り込まれた想念もある。他者や外界から知らずのうちに入り込んでくる想念もある。霊学的に見れば、類魂や“霊界にいる私”や“本霊”とつながっている部分もある。いや、そもそも私自身がはっきりと意識できない「魂としての私」もある。
 私はそれら全体を意識することも統御することもできない。私は閉じた「モナド」ではなく、CPUを中心とした完全構造でもなく、様々なものが交錯する混沌とした場である。(「様々な構造の交錯する結節点」という構造主義の表現は、ある意味言い得て妙です。)
 しかし、「だから私はない」ということにはならない。私は、そうしたものの上に、限定的ながらも自由意志を持ち、選択をし、その選択の責任を負う、「準超越的な主体」として存在する。それがなければ倫理も精神的・宗教的探究も存在し得ない。
 私は、「私」を否定する考え方に、反対します。無我であれ、絶対他力であれ、脳内現象説であれ、構造結節点説であれ(フーコーは、「人間という概念を早く葬り去りたい」と述べました)、「私」を無化する思想は、こうやって個性的・主体的存在を創造した宇宙の法に反すると思います。
 私は閉じた固定的な存在ではない。むしろ、前世や類魂の体験や、過去や現在の様々な思念・知識を含み込んで、どんどんと拡がっていく豊かな場です。そしてそれらの体験や思念や知識の上に、より複雑で多層的な叡智を作り上げる場です。私はより豊かに自己拡大していきますが、それは他者や環境を支配する力を持つという自己拡大ではありません。端的に言えば、私はより豊かに成長していくのです。そしてさらに成長を遂げると、私は他と隔てている個別性の壁をなくしていき(他者の体験や思念や知識を共有できるようになるがゆえに)、しかし(そこに築かれる叡智はより強い力と色彩を帯びるがゆえに)より強い個性的影響力のようなものになっていきます。閉じたモナドとしての「我」はなくなっていくのです。
 シルバー・バーチの素晴らしい言葉があります。
 《進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていきます。おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです。》(近藤千雄訳『シルバー・バーチの霊訓』第4巻、78頁)
 さらに私は、現世を超えた叡智的存在とつながることができます。現に、私自身、思索・瞑想している時、私を超えた霊的叡智とわずかなりともつながるという感覚があります。(ただし、私は「叡智的存在になった」ということはできません。その光をわずかなりとも受け取り、稀にそれを人に伝えることができるかもしれない、くらいのことが関の山です。)

 無我を主張する立場は、こうしたすべての「我」の内容を断滅することを要請するのでしょうか。それが妄執であり苦をもたらすから、捨てるべきだと言うのでしょうか。あえて悪く言えば、それは逆に「我」を我欲・妄執に還元してしまうことなのではないでしょうか。そうやって「我」を断滅して、輪廻を超脱して、いったい我は何をなすのでしょうか。すべての衆生が業に従って輪廻する様を眺めるのでしょうか。我を捨てろと言いつつ、実はそれは「唯我独尊」になるということをめざしているのではないでしょうか。
 こうした見方からすると、マイヤーズ霊の仏教批判は、あながち行き過ぎだとは言えなくなるかもしれません。
 《その目的は実のところ再生の定めから逃れることであった。……彼は苦への恐れ、すなわち神が人に授けた本性に対する恐れを表わしているのである。……つまり生に背を向けたのである。というのも禁欲主義者や聖者が自己内部の他の自我を圧倒し、遂にはすべての自我を支配したからである。》(「仏陀として知られるゴータマ」)》

 念のため言っておきますが、私は仏教を全否定しているつもりはありませんし、特に密教や禅の達人的探究を無意味だとするつもりは毛頭ありません。山頂に至る道はいろいろとあるのでしょうし、ある霊統の人にはそれが最上の道なのでしょう。スピリチュアリズムの説くところをよしとする人もいるし、仏教の道をよしとする人もいる。それでいいと思います。
 ただ、異なった霊統・イデアの間にはぶつかり合いもあるだろうし、ぶつかり合いによって高まったり深まったりすることもあるかもしれない。その一つの場を設定してみたかったわけです。

 そして、ブッダの寂滅志向に典型的に見られ、その後の仏教および周辺文化に展開した、「無」「空」の“イデア”(そう、まさしく一つのイデアだと思います)は、確かに人類の一つの霊的栄養であったとも思っています。
 このあたりのことを次回に。


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