スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

業(カルマ)について

2011-08-26 00:10:59 | 高森光季>仏教論・その他

 この問題は以前に書きましたし(「カルマについての試論」)、その時あまりすっきり書けず、その後もそこから何か整理できたわけでもありませんので、ポイントを羅列するだけですませます。

 近代仏教は、霊魂や他界の存在を捨象しようとするので、仏教の根本前提だと思われる輪廻についても、回避しようとする傾向になります。
 それと、もう一つ、仏教が輪廻を「腫れ物」視するのは、「業思想が差別を助長した」という認識――というかトラウマ――があるからではないでしょうか。私は直接知りませんが、むにゃむにゃがむにゃむにゃして、それがかなり痛手になって、「輪廻・業はもう触れるな」という空気が拡がっている雰囲気があります(前にも引いた末木文美士氏の記述もそのような見解でした)。
 ただ、そこでも言いましたように、「仏教にとって輪廻は前提であって着脱可能なオプションではない」と私は思いますし、もう一つ言うべきことは、「輪廻がある」ということと差別とは同一命題ではないということです。
 よき真理と思われるある命題から、破壊的な思想を引き出すことは容易です。
 たとえば、「人間は霊魂であるから、死を超えて生きる」という命題から、「じゃあ、人を殺しても問題ない」という思想を導くことは不可能ではありません。
 また逆に「人間は偶然生まれた物質から、偶然生まれた生命の、さらに偶然複雑に進化したものである」という命題から、同じく「じゃあ、人を殺しても問題ない」という思想を導くこともできます。
 ですから、「人は生まれ変わり、自らがなした行為の責任は自らが担う」という命題から、様々な破壊的思想を導くことができますが、それらが間違っているからといって、最初の命題が間違いだということにはならないはずです。

 「人は生まれ変わり、自らがなした悪は自らが償う」と言っても、今、不幸な境涯にいる人が、「過去に犯した悪を償っている」のかどうかは、確かではありません。そうしたことは人間にはわからないものですし、時には、「早い成長を求める」魂や、苦悩によって自らを高めようとする高貴な魂が、それを選んでいるのかもしれません。
 (実際そういうことはあるようです。稲垣勝巳氏が『前世療法の探究』等で報告している「里沙さんの事例」では、江戸時代に生け贄となって殺された少女タエが「最初の生」だとされています。タエは別に過去の悪行のためにそういう悲惨な死を課せられたのではなく、「魂が早い成長を求めた」ためだと言われています。そして今生の里沙さんも、難病を患っています。)

 だから、不幸な境涯にある人を見て「過去に悪をなしたせいだ」と思うのは、正しい認識ではないし、カルマの法則は人間には理解不能なものであるがゆえに、そういうことを思うことは越権行為です。また、そうやって人を蔑んだとしたら、それは当人の罪であり、やがて自分に返ってきます。

 カルマの法則は、単純な物理的因果関係ではありませんし、魂の法則は人間には知ることができないものです。自分がどんなカルマを抱えているかすら、ほとんどの人はわからないわけですから。
 従って、カルマに関しては、次のような点だけを押さえておけばいいのだと思います。
 ・人のカルマについて云々してはいけない。
 ・カルマの問題は、「魂は自らが蒔いたものは自らが刈り取る」という自己責任の道徳律としてのみ理解すべきである。
 ・悪をなして、その償いを今生にせずに逃げおおせたとしても、償いは必ず未来にあると知ることは重要である。
 ・魂が死によって消滅しないということと、悪も善もその結果は(死を越えて)自らに返ってくるということは、倫理の基本である。
 (なお、津城寛文氏がブログで「輪廻説(連続)からカルマ説(因果)を抜き取る危険」ということを書いていますのでご参照ください。)

      *      *      *

 今の仏教に、霊的世界・霊的存在を認めるようになってもらいたいと思うのは、無理かもしれません(ごく一部の実践的仏教者を除いて)。まあ、日本仏教者も「無記」とか「空」とかを掲げる(というか振り回す)ようになってきていますので、とてもとても無理な話のような気がします。
 でもせめて、輪廻だけは、手放さないでもらいたいと思うのです。ブッダはいろいろなことを言いましたが、「善趣にしろ悪趣にしろ、生まれ変わりを続ける生は苦であり、それを超脱することをめざせ」ということは初期設定だったのではないでしょうか。それすらなくなったら、「何のために修行するのか」「何のためにさとるのか」(しかも一生の大半の時間を捧げて)ということが、わからなくなってしまうのではないでしょうか。
 それがなくなったら、仏教は、心理学、精神衛生学、人生論、あるいは反実体哲学的世界観、といったものになってしまうのではないでしょうか。あとは伝統を大切にする人々のニーズに応えて儀式をする役者……。(ごく一部の神秘主義者を除いて)
 それでいい、という人も多いのかもしれません。まあ、それなら仕方がありません。
 いいのかなあ……


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (今来学人)
2011-08-27 14:50:07
津城氏のブログがあるとは知りませんでした。マイヤーズ問題や鎮魂行法やら幅広くてついていくのに大変ですが、この方のご意見は非常に有益です。最新の著書もかみ締めながら読んでます。
返信する

コメントを投稿