「人間の個性は死後も存続する」
この命題を出すと、おおかたの人は「なんだ、宗教の話か。やめてくれ」と言います。
(ちなみに、宗教の多くの人は「そういう露骨な、低俗な話はやめてくれ」と言います。面白いですね。)
宗教というのは、特に現在の日本では、あまり評判がよろしくないもののようです。
2ちゃんねるでは一年に何度か「宗教ってもういらなくね?」といったスレッドが立ち、そこでは宗教に対する罵倒がたくさん書き込まれています(中には一定の擁護をする書き込みもありますが、少数です)。
そこで挙げられている宗教への批判には、次のようなものがあります。
・根拠もないことを言っている(妄想だ)。
・人に押しつけるのが嫌い。
・自分たちが正義で異なる者は悪だという考えが恐ろしい。
・宗教は戦争の原因になってきた。
・宗教は道徳を広める効能があったというのは疑問。
・宗教に頼るのは頭や心が弱い人。
・子供に宗教を教えるのは洗脳と同じ。
・情報も知識も少なかった昔ならいざ知らず、現代に宗教は不要。
・カルトは犯罪の温床で最悪。
とんちんかんな批判もありますけれども、まあ当然だろうなという批判もあります。私などはけっこう批判側につい同意してしまう感じも強かったり。特に最初の三つは、「おっしゃる通り」ですね。
ただ、「宗教」というのはとても広い概念で、いろいろなものが含まれる。だからそのどれを取り上げるかによって、批判も擁護もあるわけで、それ抜きにいろいろ言っても、議論にはなりませんね。
* * *
さて、「人間の個性は死後も存続する」という主張は、「宗教」か。
まあ、それだけでは宗教にはなりませんね。たぶん、「だからこういう修行・儀礼をしなさい」とか「誰か・何かを崇拝しなさい」とか「組織に入りなさい、あるいは寄付しなさい」とかを言い出すと、宗教になるのでしょう。
スピリチュアリストの中には、「こういうふうに考えなさい」「こういうふうに行動すべきです」と強圧的にお説教する人たちもいないではないようですが、もともとスピリチュアリズムというものはそういうものではないと思います。人間が求めるべき価値を示すことはあっても、「まあ、自分で判断し、自分で考えて行動しなさい」とそれぞれに委ねる。
そもそもスピリチュアリズムは、一定の宗教教義を絶対とする「教条主義」や、特定の人物や神を崇拝することを、厳しく批判しています。また、「人に押しつけてはならない」とも言っています。根拠も可能な限り示そうとしています。
まあ、結論として、スピリチュアリズムは、これまでの概念での「宗教」ではない。私はそう思っています。むしろ、ただの「情報」だよ、と。
「人間の個性は死後も存続する」という主張が「宗教」だと思われるのは、「見えない」ものを語っているからでしょう。「死後も存続する人間個性」は一般的には見えないもので、伝統的に「見えないもの」を語ってきたのが宗教だから。
「見えるものしか信じない」というのは、ある意味賢明な生き方ですし、非難されるいわれはないでしょう。ただ、「見えるものを超えたもの」がすべて妄想であるとするのは、ちょっと狭すぎはしないか、そういうものの中に真実があるかもしれないという可能性を排除するのは、あまりに頑迷ではないか、と思うわけです。しかも、「人間の個性は死後も存続する」という命題は、「神がどうたら」よりも、一人一人には切実な問題ではないでしょうか。そういう問題に関して、少し「見える世界」からははずれるけれども、ある程度信憑性がある情報があるとしたら、少し覗いてみるのもいいのではないでしょうか、と、まあ余計なお節介を言いたくなるわけです。
この命題を出すと、おおかたの人は「なんだ、宗教の話か。やめてくれ」と言います。
(ちなみに、宗教の多くの人は「そういう露骨な、低俗な話はやめてくれ」と言います。面白いですね。)
宗教というのは、特に現在の日本では、あまり評判がよろしくないもののようです。
2ちゃんねるでは一年に何度か「宗教ってもういらなくね?」といったスレッドが立ち、そこでは宗教に対する罵倒がたくさん書き込まれています(中には一定の擁護をする書き込みもありますが、少数です)。
そこで挙げられている宗教への批判には、次のようなものがあります。
・根拠もないことを言っている(妄想だ)。
・人に押しつけるのが嫌い。
・自分たちが正義で異なる者は悪だという考えが恐ろしい。
・宗教は戦争の原因になってきた。
・宗教は道徳を広める効能があったというのは疑問。
・宗教に頼るのは頭や心が弱い人。
・子供に宗教を教えるのは洗脳と同じ。
・情報も知識も少なかった昔ならいざ知らず、現代に宗教は不要。
・カルトは犯罪の温床で最悪。
とんちんかんな批判もありますけれども、まあ当然だろうなという批判もあります。私などはけっこう批判側につい同意してしまう感じも強かったり。特に最初の三つは、「おっしゃる通り」ですね。
ただ、「宗教」というのはとても広い概念で、いろいろなものが含まれる。だからそのどれを取り上げるかによって、批判も擁護もあるわけで、それ抜きにいろいろ言っても、議論にはなりませんね。
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さて、「人間の個性は死後も存続する」という主張は、「宗教」か。
まあ、それだけでは宗教にはなりませんね。たぶん、「だからこういう修行・儀礼をしなさい」とか「誰か・何かを崇拝しなさい」とか「組織に入りなさい、あるいは寄付しなさい」とかを言い出すと、宗教になるのでしょう。
スピリチュアリストの中には、「こういうふうに考えなさい」「こういうふうに行動すべきです」と強圧的にお説教する人たちもいないではないようですが、もともとスピリチュアリズムというものはそういうものではないと思います。人間が求めるべき価値を示すことはあっても、「まあ、自分で判断し、自分で考えて行動しなさい」とそれぞれに委ねる。
そもそもスピリチュアリズムは、一定の宗教教義を絶対とする「教条主義」や、特定の人物や神を崇拝することを、厳しく批判しています。また、「人に押しつけてはならない」とも言っています。根拠も可能な限り示そうとしています。
まあ、結論として、スピリチュアリズムは、これまでの概念での「宗教」ではない。私はそう思っています。むしろ、ただの「情報」だよ、と。
「人間の個性は死後も存続する」という主張が「宗教」だと思われるのは、「見えない」ものを語っているからでしょう。「死後も存続する人間個性」は一般的には見えないもので、伝統的に「見えないもの」を語ってきたのが宗教だから。
「見えるものしか信じない」というのは、ある意味賢明な生き方ですし、非難されるいわれはないでしょう。ただ、「見えるものを超えたもの」がすべて妄想であるとするのは、ちょっと狭すぎはしないか、そういうものの中に真実があるかもしれないという可能性を排除するのは、あまりに頑迷ではないか、と思うわけです。しかも、「人間の個性は死後も存続する」という命題は、「神がどうたら」よりも、一人一人には切実な問題ではないでしょうか。そういう問題に関して、少し「見える世界」からははずれるけれども、ある程度信憑性がある情報があるとしたら、少し覗いてみるのもいいのではないでしょうか、と、まあ余計なお節介を言いたくなるわけです。
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