スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

実在・空・仮設――今来さまへの返信として①

2011-08-16 00:45:50 | 高森光季>仏教論・その他

 今来さまからご批判・ご教示をいただいた点、およびそこから派生することについて、書いてみたいと思います。
 まず、「空を即座に何か哲学的な難しいものと考えて」いる、「西洋哲学」的に捉えている、というご批判は、まったくおっしゃる通りです。「空」「無」を「非存在」と捉えてしまっていました。
 しかし、弁解ではないのですが、これはまがりなりにも西洋の合理主義的思考に染まった多くの現代人にとっては、ごく自然な把握ではないかと思います。
 これに対して、引用されました次の文を読むと、捉え方がそもそも違うのだとわかります。

 《ラマが「生起した本尊は、空だから実体が無く、幻のように顕現している」とおっしゃったのを聴いて、「本尊や曼荼羅は、心にイメージしただけのもので、実際に存在しているわけではない」と思ってしまうのは、正しくありません。「実体の無い空」であるのは、自分自身も同じです。もちろん自分は、実際に存在しています。だからこそ、あれこれ考えたり行動したりできるのです。けれども、自分の実体を徹底的に追求すれば、「これだ」と掴めるものは何一つありません。それで、「空」や「無我」と言うわけです。
 本尊や曼荼羅も、同じです。実体を徹底的に追求すれば、何も得られません。だから、本尊や曼荼羅は空です。しかし、そのように実体性を追求しなければ、本尊や曼荼羅は確かに存在します。》

 「実体性」あるいは「実在」はどこにもない。しかし「存在しない」のではない。この二段階論理が“くせもの”なわけです。
 確かに、「他とは一切関係なく独立的に存在し、永遠に不変であるもの」という「実体」は存在しません(一つだけあるとすればあるのですが、それは今は置いておきます)。その意味では、すべての存在は「実体性」を持ちません。すべては「仮設」です。しかし、だったらどこにも存在しない「実体」をなぜ論じなければならないのでしょうか(これは私が前に、「常住を実在と定義するのはかなり特殊」と言ったことと関係します)。おそらくそれは、「執着(ないし欲、ないし無明)は現象を実体として把握するがゆえに起こる」という釈迦以来のテーゼがあるからでしょう。(ただし、我欲・妄執が「現象を実体として捉える」から起こるのか、また「現象は実体(常住)ではないと捉える」ことで無明が消尽するのかは、現実問題としていささか疑問が残ります。このことは今は置いておきます。)
 つまり、「実在」はない、しかし「存在」はある。「実在はない」というのを「空」と言う。これが仏教の立場だということのようです。今来さまが引用された齋藤保高氏のサイト「チベット仏教ゲルク派 宗学研究室」の「輪廻転生はあり得るか」には、次のような説明があります。

 《中観派は、ローカーヤタと唯識派の双方を否定して止揚する形で(註)「心も物質も、他のものごと(原因や条件、部分、分別による名称の付与)に依存して成立(縁起)しているので、全て仮設(仮説)されたものである」と主張しています。》
 《「仮設されたもの」であれば、勝義という絶対的な次元に於て、何一つ成立しません。それが、「空」という意味です。しかしその一方、世俗という相対的な次元に於ては、「単なる存在」として成立しているのです。この「勝義無、世俗有」という存在感の設定を、心にも物質にも等しく適用する点が、中観派(特に帰謬論証派)の見解の特色です。これを、仏教用語で「外境内心有無平等」といいます。》
 《心にしろ物質にしろ、いかなる存在にも「実有」とか「諦成就」といった実体性を認めないこと。それが、中観派の見解を理解する第一のポイントです。そして第二のポイントは、「私たちの日常世界の全てが、そのような実体性を欠いた程度の存在感をもって成立している」という、この点を本当に納得し、その程度の存在感に満足すべきことです(ちなみに唯識派以下の学派では、心にしろ物質にしろ、鍵となる何らかの存在に実体性を付与しなければ、日常世界が成立していることを合理的に説明できない・・・と考えています)。》

 これは私が書いた「実在論議は人間には不可能」というのと重なるところがあるように思います(ただしスピリチュアリストは「実在はない」という断言はせず「人間には不可知」と言う方を好むでしょう)。
 一切は仮設的存在である。これは結構です。その通りでしょう。(ただしその中にも「実在に近い」存在があるか否か、つまり存在の段階制を認めるか否かという問題があります。そのことはここでは置いておきます。)
 しかし、「一切は仮設的存在である」を「一切皆空」とか「無」というのは、正直なところ、「え?」と思ってしまいます。これは仏教の正統的な考え方なのでしょうか。あるいは正しい中観派の「空」の捉え方なのでしょうか。そして、そうだとするなら、それは非常に誤解を与えやすい、少なくとも「西洋合理主義に影響された一般的な言語表現」においては「奇妙」な表現のように思えます。「空」や「無」は通常、「存在しない」を意味するように捉えられるからです。

 私が「空」や「無」を「存在しない」と捉えたのは、私が西洋哲学的な考え方に染まっていたからだと言えますが、しかし、こうした理解は、仏教学者や仏教哲学者の中にもあるのではないでしょうか(今具体的に例証できませんが)。いわく、「すべての現象は関係性によって成立しており『存在』はない。それを2000年以上も前に喝破したのが仏教である」「実在は突き詰めていけば消滅する。現代物理学が発見したこのことを仏教は見抜いていた」……

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 ここで、少し横道にそれます。
 「実在はない(一切皆空)」の論理を、近代仏教学は、霊魂や浄土や仏菩薩の「実在否定」の根拠として用いる傾向があるように思われます。いわく、「死後に存続する魂などを認めるのは実在論であり、仏教ではない」「浄土(死後世界)や仏菩薩の実在を認めるのは実在論であって仏教ではない」と。
 ところが、この論理を、現実の私たち、そこにある世界に対しては適用しません。実在ではないが、仮設として存在することは認めざるを得ない。
 宗教学者の津城寛文氏はこのことを取り上げて、ある場所で次のような主旨のことを述べています。
 「確かに究極的にはすべてが空かもしれない。しかし、霊魂も浄土も仏菩薩も、私たちや今そこにある机が存在しているのと“同程度”に、存在すると考えてもいいのではないか。霊魂や浄土や仏菩薩といった“他界的”なもののみに『空』を適用して否定するのは、偏った見方ではないか」と。
 このことは至極真っ当な指摘だと思います。「霊魂は存在するの?」「浄土や仏菩薩は存在するの?」という問いに対して、仏教者(の一部?)は、いささかムキになって(無記ではなくw)、「そんなものを認めるのは実在論であって仏教ではない」と否定します。変ですね。実在はどこにもない。それはいいです。しかし存在なら存在するのではありませんか。なぜ「私は一応存在する」は認めるのに「霊魂は存在する」を頑なに「実在否定」を持ち出して否定するのでしょう。

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 もう一つ言えば、この「実在はない(一切皆空)」の考え方と、現代の「反実在論」――現代物理学の素粒子論、あるいは構造主義の「一切は構造であり構造の外部は存在しない」「人間は多数の構造のぶつかる結節点であり、主体としての人間は存在しない」という考え方――は、どう違うのか、そのあたりを明確に説明した「空の哲学者」はいらっしゃるのでしょうか。もっと端的に言えば、唯物論的虚無主義と空・無我との違いを、もっとはっきりわからせてもらいたいものです。
 これは私の妄想的印象かもしれませんが、仏教の「すべては関係性によって成り立っている(依他起性)」を、量子論や構造主義と近似のものとして語ろうとする人が少なからずいるように思えます。そうして「唯物論にすり寄ろうとしている」のではないかと疑ってしまうのです。

 先に触れた齋藤保高氏は、科学(科学主義的唯物論)の「心は脳の所産である」とする説(インド哲学のローカーヤタ学派がそれに近いと言っています)と、唯識派の「すべては心の所産である」とする説を否定して、「仏教の説」をこう紹介しています。

 《これに対して、仏教自身の側では、心というものを次のように考えます。心は、脳に依存し、脳を利用していますが、脳そのものではありません。脳は物質的なものですから、物質的な原因(精子と卵子、遺伝子、細胞分裂など)によって生み出されます。しかし、心は精神的なものであり、物質(色蘊)としては存在しません。ですから、心の生じる近取因 (それ自体が変化して結果たる心になってゆくところの、主な原因) を、物質的なものの中に見いだすことは不可能です。心と身体は、相互に依存しつつも、主な因果関係としては別々の流れを辿る・・・と仏教では考えています。》

 あれ? これ、二元論ではありませんか。暫定的(非・実在論)であるにしろ。スピリチュアリズムが説いているところと、まったく同じです。心は脳とは別だよ、精神(霊魂)と物質は別だよ、と。
 仏教は二元論だったのでしょうか。私は「心身一如」とか「空一元論」とか言われたような記憶があるのですけれども……。

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 要するに、「実在はどこにもない」が、「仮設」としての存在はある。実体ではないが、「私」は「仮設」として存在する。
 これが仏教の正統的な考え方なのであれば、それに大きな異論はありません。スピリチュアリズムでも、「この現実世界は実在ではない」「あなたたちは独立・確固とした“私”があるように思っているが、そうではない」と言われています。
 しかし、「実在はどこにもない」ということを「一切皆空」と表現したり、「一切から独立した、永遠不変のものとしての“私”はない」ということを「無我」と表現するのは、やっぱり全然納得しません(笑い)。だって、通常の言語表現では、「空」や「無」は「存在しない」ということでしょう。「独立・不変ではない」ということを表現したいのであれば、別の言葉がふさわしいのではないでしょうか。
 「お前、阿呆か? 仏教用語ではそういうことは常識よ?」と言われるかもしれません(笑い)。だとしたら、仏教用語という業界内ジャーゴンではなく、公共の言語として、別の表現を用いて語ってもらいたいものです。いや、ひょっとして仏教者自身、そのあたりを間違って解釈したりしていませんか?(笑い)
 (というか、悪たれ口ですみませんが、「他から一切独立した存在はない」とか、「永遠不変の存在はない」というのは、別に今ではごく当たり前の考え方ではないでしょうか。それを「空だ無我だ、これが仏教だ」と言われても、正直、「で?」と言いたくなってしまいます。)

 たぶん、「空」や「無我」は、そういった存在論的な問題――記述的言語表現の問題――ではないのでしょう。
 (これは私が「上から」受け取ったことと関連するのですけれども、そのことは改めて述べることにします。)
 今来さまが、空や無我を「入我我入」の前提だと捉えるというのは、「私も本尊も存在しない」ということではなく、「私」や「本尊」を、独立・不変ではない、変容性や相互浸透性を持った、言ってみれば、「場」や「働き」として捉えるということなのではないでしょうか。(全然違いますか?)
 また齋藤保高氏はこう言います。
 《仏教思想を論議するとき、空や無我と関連づけて、諸存在が「有る」とか「無い」とか様々に語られます。そうした論議も、ここで述べてきた「空を覚る目的」から離れると、ほとんど無意味なものとなってしまいます。》
 つまり「覚る」ための方法論として「空」や「無我」があるということでしょう。「空性を覚る」ことが、無明断滅=輪廻超脱の方法だと主張しているのだと思います。
 このあたりのことを、次回で。

 (しかし、すっきりしない文章ですっきりしません。つくづく空・無我は面倒ですw)


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2 コメント

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レスできる範囲でレス (今来学人)
2011-08-17 21:11:17
二元論にまずは言及しておきます。
斉藤氏はゲルク派の宗学を学んでいると思いますので、彼の発言の典拠はおそらくインドで言えばダルマキールティ(600年ごろ)、シャーンタラクシタ(725-783)、カマラシーラ(740-797)、チベットで言えばツォンカパ(1357-1419)の論述かと思われます。生井智紹『輪廻の論証』では「後期仏教徒による<心身>の問題」が論じられており、そこでは「物質から精神作用が派生するという理論(bhuutacaitanyavaada)」を主張するものたちに対して仏教徒は身体とは独立した<心識の相続>を論証する必要があったようです。斉藤氏がLokaayataへ言及するところを見ると、この時期の議論を熟知している可能性が高いと思われます。斉藤氏の他の本を見るべきかもしれませんが持ってませんので不明です。「心身一如」とかは私には何か禅的(直感的)イメージがありますが、おそらくそういう文脈ではないと思います。ご存知のようにダルマキールティが登場して以降、インド哲学界全体を巻き込んで学僧たちによって色んな議論が重ねられてます。チベットもその議論を継承しているはずです。その一方で7~8世紀頃はインドでは密教も勃興しております(笑

空について
中村元『仏教語大辞典』には次のようにあります。
「空[省略]②もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ。縁起しているということ。;suunyaという語は、合成語の終わりの部分として、「~が欠如している」「~がない」という意に使われるが、単なる「無」(非存在)ではない。存在するものには、自体・実体・我などというものはないと考えること。(以下、省略)」

私は、あるもの(A)をAたらしめる固有性が無いという意味で「空」を理解しております。
ただし空は虚空とも等値されるため何か虚無的なものとして扱われがちですが、原語を見ると必ずしもそうではないと思います。また「空」と翻訳したのは確か鳩摩羅什だったように記憶しておりますが(間違ってるかもしれません)、当時の「空」がどのようにイメージされていたのか、という点も抑えるべきです。今の日本人が考えるような「空っぽ」ではないように思います。空を仮設と結びつけることはちゃんと調べなきゃだめですが、ひょっとしたら龍樹(2世紀ごろ)が言っているかもしれません。私はインドの唯識文献を専門としてましたが、仮設、仮有という語は良く見ました。ただしそれを空と結びつけてたかどうかは・・忘れました(笑。しかし空と仮有の関係はニュアンスとしてそう遠くはないという印象を持ちます。

「私」や「本尊」を「場」や「働き」と見ること
多分、そうだと思います。大師はそれを「六大」と仰いました。現時点の私はそれを「法界」と考えています。まだまだです。
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ダライ・ラマの科学観 (今来学人)
2011-08-18 10:25:13
『ダライ・ラマ 科学への旅』の序章でダライ・ラマは次のように言います:
「本書は、精神性の探求(私がいちばんよく知っている例を挙げれば仏教です)と科学とを統一する試みではありません。仏教と科学にどのような一致点や相違があり得るか、学問的に研究しようというものでもありません。それは専門の研究者たちにお任せします。そうではなくて、私たちの身のまわりの世界をより全体観的(ホーリスティック)に、統合的に理解する方法を見つけていくために、科学と仏教という人類の二つの重要な専門分野を検討する試みです。道理に裏打ちされた根拠を見出しながら、目に見える世界と見えない世界を深く追求しようというわけです。精神性の探求と科学は、真理を求めるという同じ偉大な目標に向かっているのだと私は確信しています。それぞれに異なっていながらも、相互に補完しあう二つの研究方法なのです。

こう述べた上で、彼は「しかし確実にいえることは、最近の科学的な見識に照らして見たとき、仏教思想の側は、旧来の宇宙論や未熟な物理学などいくつかの具体的な面で修正を迫られているということです」と大胆にも言い切ってしまいます。宇宙論とは例えば『倶舎論』で説かれるところの宇宙論、物理学とは仏教のアビダルマで論じられる原子論のことです。しかし『カーラ・チャクラ』に説かれる宇宙論までも捨て去っているわけではなく、科学の成果に基づいた肯定的評価を下しています。彼の場合、唯物論に擦り寄ろうとしているわけではないと思います。科学は経験主義的な学問とし、物理現象や生物の世界の本質を理解するためには非常に強力な手段としていますが、単純な要素に分解していく還元主義的な立場に対して(つまり唯物主義的)は科学的知識ではなく、ひとつの哲学的な立場を代弁するにすぎないと主張します。同じように精神性の探求という営みも、科学を無視してしまえば視野の狭いもの(原理主義)になってしまう。それゆえ彼は宗教者も科学の勉強をすべきとしています。

私の現時点の理解はこれを超えるものではありません。
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