Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「分水工を探る」其の11

2010-06-06 23:24:31 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の10より

大出7号 9号分水

 「分水工を探る」其の7において大出7号について触れた。箕輪町北部の深沢川の北側一帯に用水を供給している円筒分水工であって、3方向に分水している分水工は、造成時には1号分水工と呼ばれていた。北東南という3方向のうち、東へ分水した用水路は、400メートルほど行くとさらに3方向に分水する水槽がある。造成時にはこの分水工を2号分水工と呼んでいたようで、現在は更新されて三角形の水槽になっているが、元は円筒分水工であったようである。この2号分水工のすぐ北に角型の古い分水工が現存しているが、これは造成時のままの分水工である。更新、あるいは取り壊されて小型の水槽に直された分水も多いが、このように造成時のままの姿を見せる分水工も少なくない。



 大出7号支線水路には11号まで分水工があったようで、1号と2号以外はすべて角型の分水工であった。現存する1号分水工から南に分水して200メートルほど行ったところに角型の分水工が今も現存している。ここで紹介する分水工はその角型の分水工である。今までも少し触れてきたが、西天竜にある分水工は、角型のものも水槽内に隔壁を設けて簡易的なサイホン式で分水しているものがほとんどだった。その一つの事例として、角型のものをここで捉えてみたい。図に示したものはその9号分水工にあたる。右側に分水したものは道路を横断しているためにこのような長い図になっているが、分水工そのものは図の左側で網羅している。注目したいのは、左から流入した水が、分水槽に入る前に隔壁にぶつかって下に潜っていることである。設計の意図としては、隔壁は流れを止めて堰幅に応じた量を分水しようとしたものなのだろうが、実は東に流下している分水とは異なり、南北に分水された水路は勾配がとても緩い。したがってその流速を押さえるまでもなく、流れはゆっくりなのだ。そのため、この窪んだ部分はあまり意図をなさず、おそらく砂が溜まってしまったはず。証拠に今もこの部分は砂が溜まっているのだが、それでは水が流れなくなってしまうため、結局隔壁は取り壊されて現在ない。そもそも勾配が緩く、かつ幅にして50センチ弱という窪みでは流れている水量がわずかで、なかなか意図通りにはいかないもの。初めてこの水槽を見た時は、この窪みにまったく気がつかなかった。造成時の古い図面を見てサイホン式だと初めて解ったのである。まさかと思ってあらためて現地で水槽の底をつついてみると、見事に窪みに棒が沈んだのである。水槽の出入り口にそれぞれ止水壁が施されているわけであるが、おそらく造成当初はこの先はいずれも土水路だったと思われる。

 さて、右側に分水された水路が道路をくぐるわけであるが、この暗渠の長さは15尺6寸ある。暗渠の出入り口はいずれもウイングが施されていて、まるで車を想定して暗渠いっぱいに道幅が取れるようになっている。作られた年代は正確には解らないが、いずれにしても昭和一桁時代のこと。今のような車社会とはほど遠い時代のことである。にもかかわらず、その幅は4.5メートルを数えるわけで、現代の農道となんら変わらない。完成後70年以上も経っているというのに、その歴史の長さと変わらぬ水田の様子をずっと眺めてきたであろうこの水路に、驚かされるばかりである。


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