Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

昔話を聞いた側のイメージ

2009-02-23 19:40:49 | 民俗学
■「昔話の景色」より

 昔話に疑問を持ち始めると、それはいくらでもある。なせ子沢山な時代だったのに「子のいない」家庭が一般的なのか、なぜこれほど似たような話が、今のような情報化時代でもないのに伝わったのか、そしてその話に細かな相違点はあっても大きな改変があまりなされていないのか、など不思議なことは多い。そしてその話を聞いた子どもたちにしても、疑問を投げかけても不思議ではないのに、「そういえば」というほどに自ら疑問を投げかけた記憶はない。果たして昔話たるものをわたしの場合は誰に聞いたのか、ということになる。年寄りから聞いたものではなく、学校とか本、あるいはテレビといったものから聞いたに違いない。だからもともとわたしの場合は、ごく日常に語られる標準タイプのものしか聞いていないことになる。にもかかわらず「それほど違わない」というのは、書物などにまとめられたものからも伺える。

 かつて昔話と伝説は何が違うのか、ということを疑問に思ったものであるが、伝説はその地域特有のもの、昔話は広域的に広まっているもの、程度に受け止めていた。しかし、昔話にも地名が現れるものもあるし、その地名が単純に変えられているだという場合もある。どちらも伝承だとすればそれほど差異がないのではないか、というのがわたしの捉え方である。語る側もそれを意識して語るわけではないだろう。

 倉石忠彦氏は、かつて父親に聞いた「ズイテン坊」のことを「昔話と家族」(『信濃』61-1)の中で述べている。「狸が山寺のズイテン坊を呼び出し、一晩中寝かせない話」と言う。父親は長野市西部のいわゆる西山と言われる地域に生まれたという。そこに何度も連れて行ってもらったというが、父親の言う「山寺」を具体的に認識はしていなかった。どこの寺とも解らないが、その舞台を情景として思う描くとしても、具体的に話している語り手のイメージはつかめないのである。そのとき倉石氏は「村内にある(この場合の村内とは暮らしている空間なのか、連れて行かれていた西山のことなのか定かではないが)檀那寺をイメージして聞いていたらしい」と言う。きっと思い描いてみても、子ども心に聞いていた舞台を今になってどういうふうに描いていたかは明確ではないのだろう。さらに倉石氏は「狸が雨戸に腹を打ちつける場面では、自分の家の雨戸をイメージしていたようである」と言い、さらに「自分の家の雨戸は、朝晩開け閉めをするのが子供の役目であったからよく知っていたのである」と言う。このように子どもにとって経験している場面に置き換えてイメージしているわけで、誰でも少なからず知らない話に対しては同じことをするのではないだろうか。山寺といっても聞く側の経験で変わるし、話の場面も変わるはずである。にも関わらず、同じように伝承されていくとしたら、それぞれがイメージできる余裕のようなものがあるからではないだろうか。もし具体的な話だとしたら、イメージは固定化される。ところが余裕があるから、同じ話でもイメージされるものはまったく異なるということにもなる。ごく短い話であっても、奥はとてつもなく深い話に、聞く側が仕上げることがではきるのである。そしてその記憶が今となってはあまり定かではないというあたりも、言葉少ない話を変わることなく伝達することができるのであろう。

 こうみてくると疑問はたくさんあっても自分なりに想像できる、あるいは聞くことのできる年齢というものがあって、昔話は受け入れられているように思う。疑問と捉えて質問するようでは昔話を聞く側ではないということである。「昔むかし…」と始まった途端に「昔っていつなの」などと言ってはつまらないことになるのである。
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