Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

心のおきどころ

2009-02-03 12:23:24 | つぶやき
 最近顔色もよくなく、疲れた表情を浮かべる妻に「どこか旅行にでも行こうか」と珍しい言葉を発してしまった。当然のように「珍しいことを言うね」と会話がつながったが、それまでである。そういうことを口にしても妻にはそういう余裕はない。生家の父母はだいぶ歳を重ね、それぞれが身障者ということもあってなかなか思うように身体が利かなくなった。そして兄弟も病に倒れ、入院中である。その状況下でそんな余裕はないのは解っている。にもかかわらず思わずそんな言葉が出るにはいろいろな理由がある。もちろんそれだけ精神的にまいっているということになるのだが、精神的な疲れはまるで病のように妻の背にのしかかっている。わたしのようないいかげんな人間ではないだけに、その重みにさらにのめっていってしまう。目の前にある問題から目を背けるタイプではないのである。

 人間は時に危険な状況で目を背けることも必要なんだと妻を見ていると思う。誰かが虐められている、あるいは困っているという状況下で、「助けるのが人間として当然」などという言い方は、事後の結果論であると思う。もちろんわたしのようにいい加減で、強気に出るタイプは咄嗟に何かの行動をとるかもしれないが、必ずとるとは限らない。時と場合ということがあるのはごく自然なことなのである。

 わたしのように生家を離れ、自らの生計の場として家を持てば、すでに父母からは独立した存在となる。そしてその父母を面倒を見ていてくれる兄、そして兄嫁がいるからこうした平穏な暮らしを営んでいるが、年老いた父母が身近にいればそうはたやすくない日常が現れる。とくにこれから先、父母の面倒を見ていかなくてはならない時期にきている。そうした中で職を失うとか、身内に病に伏せる者がいれば、ますますその疲労は蓄積することになる。格差社会とは言うが、もともと家庭事情によってすでに人の日常は大きな格差があるはず。それをみな同じようにしなくてはならないと視る会社社会は平穏な暮らしなど当たり前だと思っていいるのだろうか。盛んに口にされる非正規雇用にしても、そうした環境にある人たちには受け入れざるを得ないものである。どれほど家庭事情が悪化しても、人並みの暮らしを営めるのは、限られた人たちだけではないか、と少子化と個人主義者会を見ていると思う。そして鬱積のたまった顔色には、すでに人生の先の輝きなど見えはしない。なぜそんなに暗くなっているのか、問われれば口にもできない裏話は山とあるに違いない。

 そんな思いを別社会である会社は忘れさせてくれる。身内のことなど放っておいて、まるで暗い表情など不似合いだ。こうした表裏があるからわたしは心の葛藤を維持しているのかもしれない。
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