Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

昔話の景色

2009-02-20 12:23:47 | 民俗学
 倉石忠彦氏は「昔話と家族」(『信濃』61-1)において、昔話に登場する人物の背景は「欠損家族」のケースが多いと述べている。簡単にいえば何らかの不幸を持ち合わせている環境といえ、子どもがいない、とか独り身であるといった具合にかつての家の継続を前提にして幸福感があった時代にあっては、かなり不幸な身分といえるかもしれない。しかしこのことについて倉石氏は次のようなことも言っている。「かつて筆者が生まれ育った村内の家々のあり方を思い返しても、こうした家(「おじいさん」「おばあさん」だけというような家族)が全くなかったわけではないが、ごく普通の家というものではなかった」と。ようは今のように核家族化したり、同居しないのが当たり前というような家庭事情の時代ならともかくとして、かつての時代にあって夫婦に子どもがいないというどちらかと言うと普通ではない家庭事情が話の舞台とし登場するのは何なのかということになるだろう。ようはみんなが語る昔話は、なぜか老夫婦だけというような舞台が当たり前のように設定されているのである。このことについて、倉石氏はさらに「もちろん昔話の「おじいさん」「おばあさん」が、なぜ二人だけで生活しているのかは不明である。したがってこれが祖父母を意味するのか、単に老人を意味しているのかも不明である。多分、老人を意味しているだけなのであろう。しかし、この老人も平均寿命が八〇歳前後にもなった現在とはかなり印象が異なる」と言う。果たして昔話に登場してくる「おじいさん」「おばあさん」の歳はいくつなのかということになる。けして現在捉えられるような年齢ではないことは言うまでもないだろう。なぜならば、例えば笠地蔵のように「地蔵のお陰で「お金がたあんとあって、それでもって、一生楽に暮ら」すことができた」と言うのだから、余生が短いというような超高齢者ではない。さらには「じいさんとあったそうな。二人に子がなくて、あとを見てくれるもんもないから、心細く暮らしていたっけが」と言うように、この場合のじいさんばあさんの対象は孫ではなく子である。ようは爺さん婆さんとは言うが、父さん母さんでもなんら設定的には問題はない。にも関わらず、なぜ爺さん婆さんということになるかが、昔話の舞台設定の奥深いところに意図的に存在すると言える。

 もともとイメージすることで話に親近感を感じるものであって、父さん母さんよりは爺さん婆さんの方が子どもたちを対象に話を展開するにはイメージし易いということもあるのだろう。それにしてもやはりこの親には子がいないのである。子どもを対象にする昔話なのに、子どもがいないという世界は、実は聞いている子どもにとっては、非現実的な世界ということが言える。にもかかわらず素直にその世界を受け入れるのだから、架空な作り話は、実はとても子どもたちにとっては身近な世界と言えるのかも見しれない。こうした構造を探ろうとしている食石氏の視点はとても楽しいものである。

 続く
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