Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農のいとなみと労働

2009-02-09 19:50:07 | 民俗学
 石垣悟氏は「農のいとなみと労働」(『日本の民俗4 食と農』2009/1 吉川弘文館)の中で伝統と思われがちなものも、実は明治以降に行われ始めたものを対象に言われているものが多く、前近代という時代の中に伝統というかたちで一まとめにしてしまうことの危険性を説いている。例えば農という部分をとらえても、現在伝統的として取り上げられるものが、ほとんどが明治以降に形成されてきたものである。現代では稲作もほとんどが機械化されて、その作業形態はもちろん、結いと言われる共同慣行にしても大きな変化を遂げた。そしてそれ以前を捉えようとすれば、結局それ以前を伝統的として形作ってしまうが、それらもさまざまな変化を長いスパンではなく、そこそこの時間を経ながら変化を遂げてきている。したがって、現在の姿の以前を捉えれば、それが長い間続けられてきた姿というわけではないということになる。そうした前近代的な部分にだけ視点を置いてきた民俗学が、それを欠点として認識していることは幸いなことであるが、よりその現実の現場にいた地方の者たちは、その現実を正確に捉えてきたとは言いがたい。もっといえば、先ごろ安室氏の説いた「遊びの百姓」の可能性について、地方に、そして農業にかかわりながら暮らしているわたしには好意的には受け止めることはできなかった。それは農業の現実というよりは、農村の現実として、農と地域というものが納得できないところに存在しているからだ。「このままではますます乖離したものになる」というのが毎日非農家の多い耕作空間を歩いているわたしの持つ印象である。これは地方にあってその姿を垣間見ているからこそ感じるものであって、都会からやってきた訪れ人に対して見せる友好的な顔色とは違うはずである。その姿を見、そしてその裏も見、いかなる物言いにしてもどうにもならないという無力さを常に持っている。そうした現実の場で民俗学に携わっている専門の研究者がこれまでいたのだろうか。

 古家晴美、石垣悟、安室知といった各氏が「食と農」という今までにも民俗学の中で触れられてきたキーワードを取り上げ、その内容は今までにはない現代の農の現場や農政を従来の民俗学的まなざしで捉え、課題を見出している。しかし「今ごろ、それも好意的な農を捉えて何を見出そうとしている」と思うのは、わたしだけではないはずだ。もちろんそれは民俗学に携わる視点ではなく、農業現場にいるものとしての感想としてである。各論の終いには「農の実態をしっかりと見つめ、将来あるべき農の姿を具体的に提示していくことも、民俗学の使命なのではないたろうか」と石垣氏が述べるようなことをそれぞれが語る。前述したように従来の視点には欠点があった、だから今後はそういうことがないようにしなければならない、という戒めでもあるのだろう。こういう講義を聴くこれからの若者たちにとって農の現場の民俗学がどこへ向かうのか、その方向を間違えないで欲しいと、一層強く持つしだいである。

 ところで石垣氏が捉えている「官―先がけ層―民」という図式はかつての農村社会を映し出したものであるとともに、かつて自らも会社内で思い描いてきたものでもあった。それが崩れると、人々が作り上げている構図はどこかぎこちなくなるのである。石垣氏は現在機械植えになっても当たり前のように行われている正条植が、手植時代に一般に広まった背景には、先がけ層といわれる人々の使命感のようなものがあったからだという。官が正条植を普及させるのに躍起となっている中で、それに反する人々も多かった。それを納得できるかたちで広める方法として、そのメリットを開花させるべく道具の開発が必要だった。そして地域ごとにそうした道具を考え出した先駆者的な人たちが伝承さているものの、発明者は確定しているわけではない。「特許のような私的営利が追及されなかった結果、田植枠は各地に生みの親を誕生させ、東日本の代表的な正条植の用具・方法として普及したのである」と石垣氏は言う。かつての農村にはもちろん地主としての立場のものもいただろうが、少しばかり余裕のある者は、実践者としてそうした農法を広めていった人たちがいた。自らの営利を目的とするのではなく、自身も含め村落の農のために働いた人々がいたのである。そうした官と民を結ぶべき人々がいなくなることで、「寄生地主と小作に二極分化していく」と石垣氏は言う。はからずもそうした動きは現在の農政にも通じるものであるとともに、人間社会では二極化するところをつなぎとめる存在が必要不可欠とも言える。そういう立場の人たちがいなくなった社会は、どうしても個人の考えに走ってしまいがちである。我先にと進む時代にあって、人のために働いた人々はとても大きな存在であったといえるのだろう。
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