Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

迷いを誘い自らも迷う

2009-02-13 12:32:16 | ひとから学ぶ
 完全主義的な視点は、人を必ずしも成長させない。とはいえ楽観的過ぎてもどうなのか、ということになる。子どもを育てるということはそのあたりのバランスということなのだろうが、なかなか上手いようにはいかない。子どものころ親に何を言われて育ったか、などと回想したところであまり記憶にもない。いや、あまり言われもしなかったのかもしれない。それは優等生だったからではない。けして誰もが高学歴など求める時代ではなかっただけに、農家のそれも分家のような小規模農家にとっては働くことが第一という印象があった。「みなが高校に行くから高校ぐらいは行った方が良い」程度の意識であって、「これからの世の中は学歴が必要だ」などという言葉は親から聞いたことはなかった。もちろん我が家でのことで、よその家のことは知らない。しかし、子どものような情報源の少ない者にとっては、高学歴を求める者がいなければ、皆と同じようなところで了解しているものだ。たまたまそんななかにも優秀なやつがいて、親に諭されなくとも十分高学歴を目指す者もいたが、専業から期間的労働併用、あるいは兼業への移行期にあっては、低層農家の意識はその程度であったとわたしは思う。ようは子どものでき次第というところなのだ。

 ところが現代においては幼少のころから将来を想定する教えを親がする。もちろんその教えとは、「勉強をしろ」という教えであって、別にそのような言葉はなくても良いものである。しかし、蓄積される子どもたちの意識はそこに歴然とした差を与えてゆく。それをまた確実に認識していく子どもたちは、すでに小さいころから自分の将来をどことなく想定するようにもなる。「おとなになったら何になりたい」などと聞いても、それは夢であったりするが、実はかなり現実に近いことを口にしたりする。自分のいるポジションを認識したりするのだが、実はその認識には大きな落とし穴があったりする。

 会社で使えないとレッテルを貼られた社員が、自ら身を引いていく。しかけたやつにとってみればそれは幸いなことなのだろうが、使えないと判断するのも、また使えないと判断される人を作ったのも会社であることに違いはない。ではその境界はどこにあるのかと問えば明確なものはないし、どれほど優秀であろうと、根本的な判断ができない人はどこかでほころびがでる。何をもって優秀なのか無能なのかという判断は、ある一定の人の趣味によるところが大きい。誰しも画一的な同じ人間ではない。使えないと判断せざるを得ない人を作った自らを責めるべきだろうし、その場に居なかった者も、社風がそうした雰囲気を醸し出したことは認識しなくてはならない。しかし、それを口に出して注意することはもともと少なかったが、今やわが社ではほとんどない。仕事の進め方についての留意点を指示することはあっても、具体的な行動部分を示して叱るということはほとんど見なくなった。何も指図されない以上、言われたとおりに実行していく部下であることは仕方のないこどである。すべてが周辺が招いた現実である。

 これは会社内のことであるが、世の中でも同じなのだろう。この世の中を哀れ見るのは、しいては自らのなしたもの、と言わざるを得ないが、個人ではどうしようもないことも事実。そういう観点では、広域化するほどにどうしようもなくなる。それが「交流」の欠点でもある。多様な情報は、個人の内に迷いを呼ぶ。しかし、必ずしも目指すところは多様ではない。一つの目標を据えていかなくてはならないのだが、それが見えないと人は迷いの中で結論を出そうとあがく。これを子どもたちに照らし合わせれば、あまり良い結果は見えてこない。情報過多が果たして幸福とは言えないのである。
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