Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑭

2006-12-25 12:07:47 | 歴史から学ぶ
 現在の飯田市の大枠ができたのは、昭和31年9月のことである。のちに川路村や龍江村・千代村・上久堅村が編入されてきたが、その間も旧飯田町に隣接していた上郷村や鼎村への合併申し入れがされていた。そうこうしているうちに鼎村は昭和29年に町制施行、上郷村は昭和45年に町制施行し、どちらの町も周囲を飯田市に囲まれながらも、長い間独自の行政を行なってきた。囲まれているから合併してもなんら問題があるようには知らない人は思うのだが、背景にはさまざまなものもあったのだろう。山間を持たずに集落域しか目につかなかった鼎町は、とくに囲まれているという印象は強かった。よそものにはどこが飯田市との境なのかまったくわからないほどであった。

 その鼎町がいよいよ合併にこぎつけたのが昭和59年の9月である。当時は合併による市町村の動きがあまりなかった時代だけに、印象に残っているが、前にも述べたように、合併してもさほど関係がないくらいに溶け込んでいただけに、よそものには当たり前の合併劇のようにも写ったものである。長野県内でも人口密度がもっとも高かった行政区域が消えたときであった。合併後に始まった国道153号線のバイパス工事により、旧鼎町の名古熊から上殿岡地域は郊外型の大型店が出店して、いわゆる飯田町の繁華街であった「丘の上」が廃れていく要因となっていった。今では飯田の中心的な商業地域となっている鼎町である。

 古いパンフレットを持ってはいるが、さすがにこの鼎町のものはなかった。たまたま合併後しばらくたってからのものがあった。写真はそのパンフレットであるが、飯田市鼎商工会が発行したもので、1991年のものである。この表紙にも解説されているが、「信州の南部、飯田市の中心地、海抜450m前後の東西に縦長い三段丘の地形からなっている。飯田ICから伸びる国道153号バイパスが開削されつつあって、運動公園通りと共に、新しい商店街の胎動が聞こえ・・・」と続く。位置的にも中心にあるこの地を中心に、新しい飯田の街がここに作られていったわけである。

 パンフレットはB5版の6ページのものである。石碑・道標と神社や仏閣、そして獅子舞の頭を紹介している。

 この「鼎」という字はなかなか読むことはできない。「かなえ」と読むわけだが、漢字の姿からもわかるように支えあうというような意味があるのだろうか。広辞苑によれば、食物を煮るのに用いた金属製の容器で、普通は三足、とある。町の形が三角形に近いことも名称の原点にあるのだろうか。いずれにしても平成の合併劇で、すでに鼎町が飯田市ではなかった時代を語る人は少ない。

 消えた村をもう一度⑬
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****