Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

風呂に入る

2006-12-12 08:11:28 | つぶやき
 自宅に帰ってもっとも「ホッ」とするのは風呂に入ったときだろうか。赴任先の家では3年も住んでいるが、一度も風呂に湯を張ったことがない。常にシャワーのみである。赴任先でゆとりがない、といってしまえばそれまでだが、その一方で、赴任先はどんなにプライベートであろうと、自由度は低いと思っている。だから、仕事ではなくても仕事の一環の空間であると思っている。そんな思いを解消する術はあるのか、と単身で赴任しているあいだ、ずっと考えてきたが、いまだに回答は出ていない。自分の空間であるという証がなんなのか、そんなことを考える人はそうはいないかもしれない。まず自宅であることが第1である。たとえアパートだろうが、そこを自宅だと思えば、自分の空間だと認識できるのだろうが、望んできていない空間だから、まずそこから自分の空間であるという意識をもてないわけだ。だから、風呂を沸かさないのだ。かつてやはり単身赴任していた際の住家は、風呂は共同であった。隣人が風呂を沸かしてくれて、「○○さん空きましたよ」と言われるから入ったりした。その隣人も一年だけの隣人だったため、いなくなったら風呂へ入ることはなくなった。

 意識の問題なのだろうが、なにより面倒くさいことがきらいだ。加えて自らの空間であれば自ら動く決意ができる。ところが、仕事との割り切りができなくなると、いきなり自らの空間を意識できなくなるのだ。馬鹿なやつだと思うものの、必要性がないから無駄な行動辞めよう、なんていうことになってしまう。

 さて、自宅に帰り風呂に浸かると、癒され方が違う。いや、それは自宅であろうがそうでなかろうが同じなんだと、きっとどこかで気がついている。その証拠に温泉に行って浸かるときの癒され方は、また自宅の風呂とは違う。そう思うのなら赴任先の住家でも風呂を入れればよいのに、と思うのだが、頑なに自分の空間との割り切りとして認識しようとしている自分があるのだ。

 ところで、『松本市史 民俗編』では、「下着はどんなときに着替えたか」というアンケートをしている。予想どおり、「風呂に入ったときに着替える」とほとんどの人が答えたという。ところがかつては毎日風呂に入るなんていう人はいなかっただろうから、着替える回数が違ったり、風呂に入らない時はいつ着替えたのか、という点が興味深くなるわけだ。同書でも戦争前は2日、あるいは3日に一度というところが多く、なかには一週間に一度といった回答もあったと記述している。きれい好きになった日本人であるが、たとえば環境のことをいろいろ言うのなら、かつてのように風呂に入る回数を規制したりすれば、明らかに環境負荷は低下すると思うのだがどうだろう。今でも買い物をしていると「臭い」人がいたりして「勘弁してよ」と思う時があるが、それは風呂に入っていないから臭いとは言い切れない面もある。いずれにしても風呂がこれほど癒しの空間になったのは、いつからのことなのだろうか。
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