Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

議員の質というが

2006-12-10 00:47:38 | ひとから学ぶ
 Governance Archives〝議員の質を評価する「議員評価」〟を見る限り、いかに自治体が雇っている数々の役職が、どれほど役割があるかということを疑うことになる。失礼、雇っているわけではないですね。自治体がどういう目的でさまざまな役職を住民に与えているのか、わたしにはわからない。だから、そのひとつである議員というものが、何を目的で何が求められて存在するかも、実のところはよく解っていないのである。いや、わたしばかりではないだろう。世の中の多くの人々は、議員を選択をすることはあっても、議員に課せられた役割や、その立場などをそう詳しくは知らないはずだ。にもかかわらず、議員選択の選挙があって、わたしたちが投票しているという事実に、違和感がないほうがおかしいわけだ。

 そんな違和感を、あらためてよく考えてみればもつわけだが、議員定数に対して示した議会の案の説明内容が、Governance Archivesで捉えているように、具体性のない説明であることは確かである。先にも触れたように、議員の役割とは何かというところに行き着くわけで、議員定数を議論する際に、数字だけ議論していても仕方ないわけだ。あらためて議員が何のためにいるのか、そして議員が何をするべきかというところも含めて、現実の働きとともに検討してゆく必要があるのだろう。「年間どれだけの活動日数(議会議員の公務として)があるのか、議員個人によってかなり異なる」というように、同じ議員であってもその役割に対しての構え方はかなり異なるようだ。このごろ教育委員会のあり方が話題になっているが、教育委員以上に報酬が多く、加えて権限を持っている議員は、さらに注目されるべき役職といえるだろう。

 議員定数がさまざまに論議される原点には、自治体の財政難があるかもしれないが、実はそんな視点で議論されることのほうが残念なことで、自治体のあり方を討議する中の一つの議論である、という方が正しいのではないだろうか。それはこと町会議員に限られたことではなく、県も国も同じはずである。ところが、長野県議会議員の定数においてもそうだが、合併による定数見直しにおいても、この町の議員説明同様に、的を得たものではなく、実に数字だけ、あるいは繕うだけの議論に終始していることは残念でならないわけだ。

 わざわざ議員の評価までする必要性はない、と思うのだが選択する側にそうした視点を持ち得ないとしたら、そういう方法もあるのだろう。しかし、そうした説明責任を果たさなくては世の中が回らなくなった、あるいは果たすことでいかにも〝やっているぞ〟みたいなスタイルをとることで、いったい人々は何を求め、何を信用して行くのだろう、とそんなことを思うわけだ。すべてがそうした形にとらわれてしまっていることに「そんな堅いことを言うなよ」とは無関係なわたしの言葉である。
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