Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

談合事件から将来をみる

2006-12-09 12:30:34 | 歴史から学ぶ
 官製談合事件は短い期間に3人もの知事の逮捕を招いた。官と民の癒着と言うものはあたりまえといえば当たり前のことだろう。とくに指名競争入札という制度は、入札に入れる人を限定することになる。そうした制度の問題が出ても、その制度がなくならなかったのも、理由があることなのだろう。とくに建設業は官とは発注者と請負者という関係で成り立っている。そこにはどんなに対等とはいえ、発注者側の権限があるし、請負側は発注者に惑わされる。いかによい仕事を得るかは、自らの生活に関わるのだから、仕事を得るためにさまざまな手法があって当然だろう。とくにそれが公共事業という世界に顕著に現れていて、その世界だけがクローズアップされるが、発注者と請負者という関係がある以上、建設の世界だけのものではない。民間同士であっても、そうしたかけ引きがあるもので、官の世界のように見えないだけなのだろう。

 知事に限らず、自治体の首長を選択する際の選挙。そこに利権が関わるのは常のことで、だからこそ人は人を選択するわけだ。自分に不利になるような人を選択しようとはしない。ごく当たり前な流れである。田中康夫が長野県知事から消えた裏にも、結局は人と人という関係からみた際に、利点がなければ選択しようがなくなる。とくにそうした変化が顕著であれば、人は戸惑うのはごく普通の流れである。都会のように、住環境が整い、さほど公の力に頼る必要もなくなった空間では、期待する目標は変化してくる。道路特定財源の見直しが閣議決定されたが、これもまた、「ある一定の整備がされた」という認識に基づくものだろう。都市空間が広がれば広がるほどに、人々の認識は変化してゆく。加えて地方の人口が減少し、地方の発言が力を失えば、地方の空間意識は反映されなくなる。そうした変化から、地方はいつしか絶えられなくなってきた。自立とはいうものの、財源あっての自立であって、財源のない自立を叫んでも住民はついてゆけないわけだ。そういう面では田中康夫の視点はけして間違いではなかっただろうが、地方の、地域の姿をまだ認識してなかっただけのことである。むしろ都市での政策であれば彼の意思を受け入れてくれる人は多かっただろう。あるいはもっと地方がひどい状態で、何もできない状態に陥ったあとであれば、これもまた一つの光明であったかもしれない。その時の流れを把握できなかったための消滅劇、またそんな現実的な物語を演出した、5年ほどの長野県物語だったといえるだろう。長野県にとっては、この「物語」を無形文化財と指定してもよいほどである。

 都市は、空間整備に期待がなくなればさらなる生活の安定のための施策が求められる。そうした施策の一つに福祉政策もあるだろう。そして、地方は財源が乏しく、空間整備に期待できなければ、そうでない福祉といったものに目指すところは変わる。本来、地方も都市も福祉目的に変化するのは自然な流れなのかもしれないが、実は生活基盤が同等でないのに、同じ目的へ流れようとしていることじたいに問題があるはずだ。しかし、時代は、談合事件を期にますます地方の公共事業が厳しくなることを予感させる。とはいえ、すでに厳しい状態(入札制度の変化や入札率の低下といった変化)を受け入れてきた長野県には、それほど影響のあることではないだろう。しかし、いずれにしても首長の選択という場面に、利権が絡むことがなくなれば、では、首長の選択肢としての目標は「何なの」ということになるだろう。選択する目標がなくなれば、投票率が下がるだろうし、「そんなものどうでもよい」という意識になる。選挙権をあたかも民主主義の原点のように美化されても、人はそこに何も得るものがなくなってしまっては、民主主義もへったくれもないわけだ。若い人たちの行動は、まさにこの先の世の中を暗示している。そうみると、これからどうなるか、・・・想像のとおりである。
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