Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

味噌汁のこと

2006-12-04 06:38:11 | 民俗学
 けして年老いてもいないが、若くもない。だから中途半端に昔の食事のイメージを持ち、また今の食事のイメージも持っている。三度の飯が三度ともご飯だったら、三度とも味噌汁が欲しいタイプである。減塩が叫ばれるようになって久しいが、身体をろくに動かしもせず、汗もかかないのに味噌汁を三度もとったら塩分の取りすぎだ、と妻は言うだろう。しかし、単身赴任しているから、そんな小言をいうやつはいない。好き勝手にできる。それがいけないから、外食ばかりしていると塩分過剰となってしまう。そんな意味では、自ら弁当を作っていっているから、それほど塩分の高いものを食べているとは思わない。時に外食などをすると、確かに味が濃く、多量な香辛料が入っていることもなんとなくではあるがわかる。気を使っているわけではないが、三度の食事に三度のご飯を食べていないから、味噌汁を三度とることもない。

 しかしである。自宅にいるとご飯が三度食卓に並ぶことは当然のごとくある。すると、どうしても味噌汁を欲しくなる。「味噌汁ないの・・・」と口にすることは絶えずある。「ないからお茶にしな」と言われ、お茶を入れて汁物代わりとなる。息子を見ていても思うが、今の若い世代は、必ずしも味噌汁を必要としない。だから自然と味噌汁の登場は少なくなる。赴任先でも、ご飯はなくとも野菜を煮て食べられるということもあって、自ら味噌汁を作って食べることが頻繁にある。今は帰宅が遅いからそんなこともしていないが、仕事に余裕ができて赴任先の住宅で夕飯を食べるとなれば、炭水化物であるご飯は抜いてでも、野菜を入れた味噌汁を食べることにしている。
 
 とまあ、それほど味噌汁は好きな方である。が、結局ご飯を汁物なしで食べられないという、性格的なものである。さて、味噌汁がないとなれば、簡単にできるととろ昆布の汁をつくったりする。お椀にとろろ昆布を入れて、鰹節を混ぜてお湯をかけるだけだから、即席汁である。しかし、そんな汁物は、昔からあった。少なくとも自分の子どものころにもそんな汁を作ったことがある。しかし、そんな汁物の話は、民俗資料から垣間見ることはまずない。そう考えてみると、民俗における味噌汁そのものの記述はあまり見たことがない。もちろん調製としての醸造品として味噌は登場し、味噌の作り方とか、味噌の利用という点は記述されるが、ふだんの食生活に登場する味噌のことはあまり詳細はわからないのである。

 ここに『長野県史 民俗編 南信地方 日々の生活』という資料編の食生活の部分を開いてみる。項目を並べてみると、①食料(主食料・救荒食料・野生の植物・魚介類の利用・肉類及び特色ある食べ物)、②貯蔵(穀類の貯蔵・越冬野菜の保存・保存の方法)、③調製(炊事・醸造品と豆腐・調味料)、④食品(粉食・間食・煮物・改まった折の食品)、⑤食制(夏期の食事の回数・冬期の食事の回数・食事をする回数・食事の作法・改まったときの食事・供物と俗信膳卓類と蒸し器)となる。冒頭で、「下伊那郡大鹿村下青木では、昭和十年代まで各々がハコゼンを使って食事をしていた。ハコゼンの中には飯を盛るゴハンジャワン、みそ汁を入れるシルワン、オテショという副食を載せる小皿、そしてはしが個人用の食器として入っていた」と始まるのだが、これ以降、みそ汁の具のことは最後まで登場しない。項目別の質問にそうしたものが入っていなかったからそうなるのだろうが、具体的な食事風景は浮かばないのである。食料、あるいは材料といった食べるものをぱらばらに扱っていて、献立のこととか、どういう献立をどういうように組み合わせていたかという点については、まったく記述がないのである。したがって一般人が、かつての食事風景を探そうと開いても、あるいは季節によってどう変化していたのかと開いても、そこから様子をうかがうことはなかなかできないわけである。

 とまあ、自ら民俗の調査をしてきたにもかかわらず食生活とは名ばかりで、「生活」部分が欠落していることを認識したしだいである。かつてのみそ汁の中身に何が入っていたか、なんていう疑問をするまでもなく、今とさほど変わらない野菜が入っていたと想像できるわけで、そんなこと記述するまでもないのか、なんて思ったりするが、わたしはそこが知りたかったわけである。
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