土建国家っていうの?、そういうのって今も続いてるんでしょ?。
東京の三社祭には浅草高橋組という暴力団が参加してるらしいけど、ウィキペディアで調べると、明治42年(1909年)に河合徳三郎という人の身内の高橋金次郎という人が浅草で土建請負業の高橋組の看板を掲げて一家を形成したのが浅草高橋組の始まりらしい。浅草高橋組は住吉会の二次団体らしい。
河合徳三郎という人は実業家で映画プロデューサーだったらしく、土建請負業で財をなし、河合映画製作社や大都映画の社長になって多くの映画製作に関わったらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
大正8年(1919年)に河合徳三郎という人をはじめとする数人が中心となって、当時の原内閣の内務大臣だった床次竹二郎を世話役に、玄洋社の頭山満を顧問に、大日本国粋会という任侠団体が結成されたらしい。大日本国粋会は土建業の人たちを含む全国的な博徒の結集団体で、全国規模の右翼団体で、皇室中心主義や大アジア主義などを信条としていたようだ。総裁には原内閣の司法大臣だった大木遠吉という人が就いて、会長には立憲政友会の幹事長だった村野常右衛門という人が就いたようだ。
大正9年(1920年)には大日本国粋会の大阪本部ができて、大阪の住吉大社で結血式が行われ、住吉大社の宮司の津守国栄という人が会長に就いたらしい。副会長には代議士の人と陸軍大佐の人が就き、顧問には大阪府知事や大阪市長や警察部長や大阪医科大学の学長や弁護士の人などが就いて、1万人近く会員が集まったらしい。
大正10年(1921年)に河合徳三郎という人は立憲政友会の介入に反発して大日本国粋会を脱会して、民政党を後ろ盾にして後藤新平を顧問にして大和民労会を結成したらしい。後藤新平は大正9年(1920年)から大正12年(1923年)まで東京市長を務めてるようだ。大和民労会の結成式は浅草伝法院で行われ、約5000人集まったらしい。その後は大和民労会と大日本国粋会の抗争事件も勃発したようだ。
大日本国粋会ですか・・・。
火をつけるか。
東京の三社祭には浅草高橋組という暴力団が参加してるらしいけど、ウィキペディアで調べると、明治42年(1909年)に河合徳三郎という人の身内の高橋金次郎という人が浅草で土建請負業の高橋組の看板を掲げて一家を形成したのが浅草高橋組の始まりらしい。浅草高橋組は住吉会の二次団体らしい。
河合徳三郎という人は実業家で映画プロデューサーだったらしく、土建請負業で財をなし、河合映画製作社や大都映画の社長になって多くの映画製作に関わったらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
大正8年(1919年)に河合徳三郎という人をはじめとする数人が中心となって、当時の原内閣の内務大臣だった床次竹二郎を世話役に、玄洋社の頭山満を顧問に、大日本国粋会という任侠団体が結成されたらしい。大日本国粋会は土建業の人たちを含む全国的な博徒の結集団体で、全国規模の右翼団体で、皇室中心主義や大アジア主義などを信条としていたようだ。総裁には原内閣の司法大臣だった大木遠吉という人が就いて、会長には立憲政友会の幹事長だった村野常右衛門という人が就いたようだ。
大正9年(1920年)には大日本国粋会の大阪本部ができて、大阪の住吉大社で結血式が行われ、住吉大社の宮司の津守国栄という人が会長に就いたらしい。副会長には代議士の人と陸軍大佐の人が就き、顧問には大阪府知事や大阪市長や警察部長や大阪医科大学の学長や弁護士の人などが就いて、1万人近く会員が集まったらしい。
大正10年(1921年)に河合徳三郎という人は立憲政友会の介入に反発して大日本国粋会を脱会して、民政党を後ろ盾にして後藤新平を顧問にして大和民労会を結成したらしい。後藤新平は大正9年(1920年)から大正12年(1923年)まで東京市長を務めてるようだ。大和民労会の結成式は浅草伝法院で行われ、約5000人集まったらしい。その後は大和民労会と大日本国粋会の抗争事件も勃発したようだ。
大日本国粋会ですか・・・。
火をつけるか。