東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

韓国

2024-07-07 19:54:05 | 日記
 テレビで韓国の話題が出てくると、イライライライラしてくるもんなあ。日本のテレビ局のメディア戦略みたいなのが垣間見えてくるみたいでさあ。日本のテレビ局って、日本国内の世論誘導のための情報工作機関じゃないの?。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、椎名悦三郎という人は岸信介と一緒に満州国の運営に関り、太平洋戦争の後は政治家になって、岸内閣では内閣官房長官に就き、池田内閣では通商産業大臣と外務大臣に就き、佐藤内閣でも通商産業大臣と外務大臣に就いたようだ。田中角栄と三木武夫が総理大臣だった時は自民党の副総裁だったようだ。椎名悦三郎は明治31年(1898年)の生まれで、昭和54年(1979年)に亡くなったらしい。
 
 日韓基本条約は佐藤栄作が総理大臣の時の昭和40年(1965年)に結ばれたようだけど、椎名悦三郎は日韓基本条約の時の韓国との交渉に関わったようだ。椎名悦三郎は韓国の空港に降りた時に、日本の過去を「深く反省する」みたいに言ったらしい。「深く反省する」とはどういう意味か?と日本の野党の人に質問され、しみじみと反省しているという意味だみたいに答えたらしい。
 
 椎名悦三郎は後藤家の出身で、椎名悦三郎の父の後藤広という人は婿養子で後藤家に入ったらしい。ウィキペディアの注釈のところを見ると、後藤広の後妻との息子が椎名悦三郎らしい。なので、後藤新平は血縁の無い叔父らしい。椎名悦三郎は後藤新平の姉の嫁ぎ先の椎名家に養子に入って椎名悦三郎と名乗ったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平は第二次桂内閣で逓信大臣と初代鉄道院総裁、第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣で内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣で内務大臣に就いたようだ。後藤新平は東京市長にも就任したようだ。後藤新平は関東大震災の後に帝都復興院総裁に就き、東京の復興計画を立案したらしい。後藤新平は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。後藤新平はフリーメイソンらしい。
 
 日清戦争は明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にあって、日清戦争の後に台湾は日本の統治になって、台湾総督府が置かれたらしい。児玉源太郎という人は台湾総督に就き、後藤新平を台湾総督府の民政長官に任命したようだ。児玉源太郎は明治31年(1898年)から明治39年(1906年)まで台湾総督に就いていて、後藤新平も、だいたい同じぐらい台湾にいたようだ。
 
 後藤新平はアヘンの撲滅を行おうとしたらしいけど、杉山茂丸という人とアヘン利権にも関わってたらしい。ウィキペディアに、そんなかんじで載ってる。
 
 日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあって、児玉源太郎は日露戦争では満州軍の総参謀長を務めたようだ。日露戦争の時の日本の陸軍は満州軍というらしい。日露戦争の後に南満州鉄道が日本に譲渡され、後藤新平は明治39年(1906年)に南満州鉄道の初代総裁に就いたようだ。
 
 児玉源太郎は長州藩の支藩の徳山藩の出身ということになってるらしい。児玉源太郎は桂太郎の次の陸軍大臣で、第四次伊藤内閣と第一次桂内閣で陸軍大臣に就き、第一次桂内閣では内務大臣と文部大臣を一時兼任したようだ。児玉源太郎は明治39年(1906年)に亡くなったらしい。
 
 杉山茂丸という人は日露戦争では児玉源太郎の裏で動いていたようだ。ウィキペディアに、そんなかんじで載ってる。杉山茂丸という人は日韓併合にも関わったようだ。杉山茂丸という人は昭和10年(1935年)に亡くなったらしい。
 
 日清戦争は明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にあって、日清戦争の後に李氏朝鮮は清から独立して、1897年に李氏朝鮮が大韓帝国になったらしい。明治43年(1910年)に大韓帝国は日本に併合され、昭和20年(1945年)まで日韓併合が続いたらしい。
 
 1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言されたようだけど、1950年に朝鮮戦争が勃発し、1953年に停戦になって現在まで続いてるらしい。朝鮮戦争の頃の日本では朝鮮総連や在日朝鮮人や共産党員のテロ事件が多発したようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。朝鮮半島からの密入国者も多数いたようだ。
 
 韓国ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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