東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

天台宗

2023-10-30 22:44:20 | 日記
 天台宗の開祖の最澄の庇護者は桓武天皇ということになってるけど、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北の征夷を行った人も桓武天皇ということになってる。
 
 天台宗では明治維新の後に天台座主はいなくなり、明治17年(1885年)に復活したらしい。本当か知らない。明治以降の天台座主も名前だけはウィキペディアに載ってる。明治時代や大正時代に特に天台座主で特筆すべき僧はいなかったみたいなんだよなあ。
 
 明治以降の天台座主で一番著名な僧は山田恵諦という僧のようだけど、昭和49年(1974年)から平成6年(1994年)まで20年間も天台座主を務め、「一隅を照らす運動」の総裁を務めたようだ。
 
 山田恵諦という僧の前の天台座主の菅原栄海という僧は岩手県奥州市の江刺の出身らしい。岩手県の寺の本に、そう載ってる。江刺にある勝軍寺という寺の息子らしいけど、行ってみたら、寺が無かった。勝軍寺の山号は愛宕山だそうだ。中尊寺の貫首をしていた千田孝信という僧は菅原栄海の親戚らしい。
 
 天台宗は天台法華宗ともいうらしく、法華経を根本経典にしていて、天台宗の発祥の地は中国にある天台山らしい。日本の天台宗の総本山の滋賀県大津市にある比叡山延暦寺では、密教や禅や念仏もあって、総合仏教といってるらしい。
 
 延暦寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

真言宗

2023-10-30 22:42:23 | 日記
 桂園時代って時代が怪しいんだけど、どうなんだろうね?。
 
 真言宗は大きく分けて古義真言宗と新義真言宗があって、その中にもいろんな宗派があるけど、政府からの通達で明治12年(1879年)に真言宗として統一されたらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。明治28年(1895年)に真言律宗の独立が認められ、明治33年(1900年)に真言宗の他の宗派も相次いで独立が認められたようだ。日中戦争の頃の昭和16年(1941年)に政府の宗教政策で真言宗は合同して大真言宗が成立したらしいけど、戦後に大真言宗から独立して今のような真言宗の宗派になったようだ。
 
 新義真言宗では興教大師といわれる覚鑁を中興の祖としているらしい。真言宗智山派と真言宗豊山派は新義真言宗、新義真言宗の中に新義真言宗という宗派があって、和歌山県岩出市にある根来寺は新義真言宗の総本山で、根来寺には覚鑁の御廟があるらしい。
 
 覚鑁は佐賀県鹿島市の出身ということになってるらしく、鹿島市に誕生院という寺があって、覚鑁の生誕地に創建された寺らしい。誕生院は大正2年(1913年)に鹿島藩の最後の藩主の鍋島直彬が再興したらしい。鹿島藩の鍋島氏は鍋島直彬の次は鍋島直大の息子の鍋島直縄が継いだようだ。
 
 和歌山県伊都郡高野町に金剛峰寺があって、金剛峰寺は高野山真言宗の総本山のようだ。高野山の奥の院は真言宗の開祖の空海の御廟のようだ。空海は佐伯氏の出身で、幼名は佐伯真魚というらしい。
 
 空海が高野山の奥の院で生きているという信仰を入定信仰というらしい。高野山の奥の院には、毎日、空海のために食事と服が運ばれてるらしい。詳しいことは知らないけど・・・。
 
 金剛峰寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

醍醐

2023-10-30 22:38:29 | 日記
 ほら貝ですか・・・。
 
 江戸時代の修験道は統制されていたらしいけど、真言系の修験道の当山派の総本山は京都にある醍醐寺の三宝院というところだったらしい。本当か知らない。醍醐寺は平安時代に醍醐天皇の勅願で聖宝という僧が創建したことになっていて、聖宝は当山派の開祖とされていたらしい。醍醐寺は今は真言宗醍醐派の総本山らしい。
 
 醍醐寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

平群

2023-10-30 22:33:55 | 日記
 物部守屋が聖徳太子に討たれたという話は嘘の気がするけど、ここが怖いんだよなあ。
 
 奈良県生駒郡平群町にある信貴山朝護孫子寺は信貴山真言宗の総本山で、毘沙門天王の総本山といってるらしい。朝護孫子寺の由緒は聖徳太子の物部守屋討伐の話と関係あるらしく、朝護孫子寺の奥の院には汗かき毘沙門天が祀られてるらしく、聖徳太子が物部守屋と戦った時に毘沙門天が現れて物部守屋と戦ったことになってるらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 信貴山縁起絵巻という絵巻物があって国宝になってるらしいけど、命蓮という僧が托鉢に使う鉢を飛ばして、その鉢に倉を乗せて朝護孫子寺まで運んできたらしい。命蓮が醍醐天皇の病気平癒の祈祷をしたらしく、朝護孫子寺の寺号を賜ったことになってるようだ。信貴山縁起絵巻に命蓮の醍醐天皇の病気平癒の話も描いてあるらしい。
 
 朝護孫子寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

御室

2023-10-30 22:31:24 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、仁和寺の僧が関わってるんだろうか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるみたいだけど、昭和天皇は太平洋戦争の後に出家して仁和寺の門跡に入る話もあったようだ。
 
 明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。泉智等という僧は高野山で学び、明治33年(1900年)から明治39年(1906年)まで仁和寺の門跡を務めていたようだ。泉智等は明治41年(1908年)に江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、大正12年(1923年)に高野派の管長と金剛峰寺の座主に就き、大正13年(1924年)に真言宗連合総裁に就いたようだ。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は明治26年(1893年)にシカゴで開かれた万国宗教会議に日本の代表として行ってきたらしい。土宜法龍は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めていたようだ。土宜法龍も金剛峰寺の座主を務めたようだけど、土宜法龍の次の次の金剛峰寺の座主が泉智等らしい。土宜法龍も真言宗連合総裁を務めたようだ。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか