東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

八幡

2023-10-09 23:56:01 | 日記
 呪われた人生だったなあ、俺の人生は。
 
 岩手県の金ヶ崎町に鳥海柵跡があって、安倍貞任の兄弟の安倍宗任がいたことになってる。安倍宗任は鳥海三郎というらしい。安倍貞任は盛岡にあった厨川柵にいて厨川次郎というらしい。
 
 金ヶ崎町の隣の奥州市の江刺に豊田館跡があって藤原経清の居館跡だそうだ。奥州藤原氏の初代の藤原清衡は藤原経清と安倍貞任の妹の息子ということになってるらしい。藤原清衡は江刺で生まれたことになってるらしい。藤原経清は宮城県の亘理郡の辺りにいた人で、亘理権太夫といわれるらしい。豊田館跡の近くに藤原経清の墓所の五位塚がある。
 
 前九年の役の後に後三年の役があって、その後に奥州藤原氏は今のほぼ東北六県を治めたことになってて、奥州藤原氏の初代が藤原清衡で、2代目が藤原基衡で、3代目が藤原秀衡で、4代目の藤原泰衡の時に源頼朝に攻められて奥州藤原氏は滅亡したことになってる。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは前九年の役で源頼義と源義家に討たれたことになっていて、藤原経清も安倍氏の人たちと一緒に戦って首を刎ねられたことになってる。源義家は京都府八幡市にある石清水八幡宮で元服したので八幡太郎といわれるらしい。日本の歴史は嘘の気がするけど、カルト神道の呪いは強烈だなあ。
 
 石清水八幡宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

平泉

2023-10-09 23:39:01 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするし、日本の歴史は嘘の気がするけど、井上成美って人は、そのことを知ってたのかなあ?。
 
 井上成美という人について詳しく知らないけど、海軍の軍人で、最後に海軍大将になった人らしい。井上成美は仙台の生まれらしいけど、井上成美の父は旧幕臣で、母は角田石川家の人で石川義光という人の娘らしい。
 
 宮城県角田市には石川氏がいて、伊達藩の家臣団の序列の一番上の一門の首席だったようだ。本当か知らないけど・・・。伊達藩では仙台と白石に城があって、他は城といっても要害というらしい。
 
 江戸時代の最後の石川家の石川邦光という人は石川義光の息子らしい。石川邦光は明治維新の後に北海道の室蘭郡の開拓で移住する予定だったらしいけど、詐欺にあって移住費用をだまし取られてしまい、石川邦光と家臣の人たちの室蘭郡への移住は取りやめになったようだ。明治10年(1877年)には石川邦光は家臣団を率いて西南戦争に行って西郷軍とも戦ったようだ。石川邦光は明治22年(1889年)に角田町の初代町長に就任したようだけど、その次の年には町長を辞職して移住計画を始めて、明治26年(1893年)に北海道の南幌町に移住したようだけど、ここでもトラブルがあって角田に戻ってきたらしい。石川邦光は明治29年(1896年)に家督を譲って隠居したらしい。よくわからないが、ウィキペディアで調べて書いてます。
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は坂上田村麻呂の子孫ということになってる。戊辰戦争の頃の田村氏の田村邦栄という人は角田石川家から来た人らしく、石川義光の息子らしい。戊辰戦争の後に弟の田村崇顕に家督を譲ったみたいだけど、再び家督を継いだようだ。田村崇顕という人も角田石川家から来た人で、石川義光の息子らしい。次の田村氏の田村丕顕は田村邦栄の息子で、海軍の軍人だったようだ。詳しく知らないので、ウィキペディアで調べて書いてます。
 
 坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、坂上田村麻呂の敵の蝦夷には安倍高丸や悪事の高丸や大嶽丸という人が登場するようだ。東北だけじゃなく、日本各地に坂上田村麻呂伝説があるみたいだけど、字は違っても高丸という人が登場することが多いようだ。三重県の鈴鹿地方にも坂上田村麻呂伝説があるらしく、鈴鹿御前の話があるらしい。
 
 一関市の隣の平泉町に達谷窟毘沙門堂があって、坂上田村麻呂が悪路王を倒したという伝説がある。達谷窟毘沙門堂には達谷西光寺という別当寺があって、達谷西光寺は天台宗の寺だ。
 
 達谷窟毘沙門堂ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

天台宗

2023-10-09 23:28:56 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするし、日本の歴史は嘘の気がするけど、だまされるほうがバカってことなんだろうか?。
 
 明治以降の天台座主で一番著名な僧は山田恵諦という僧のようだけど、昭和49年(1974年)から平成6年(1994年)まで20年間も天台座主を務め、「一隅を照らす運動」の総裁を務めたようだ。
 
 山田恵諦という僧の前の天台座主の菅原栄海という僧は岩手県奥州市の江刺の出身らしい。岩手県の寺の本に、そう載ってる。江刺にある勝軍寺という寺の息子らしいけど、行ってみたら、寺が無かった。勝軍寺の山号は愛宕山だそうだ。中尊寺の貫首をしていた千田孝信という僧は菅原栄海の親戚らしい。
 
 明治維新の後に天台座主はいなくなり、明治17年(1885年)に復活したらしい。本当か知らない。明治以降の天台座主も名前だけはウィキペディアに載ってる。
 
 天台宗は天台法華宗ともいうらしく、法華経を根本経典にしていて、天台宗の発祥の地は中国にある天台山らしい。日本の天台宗の総本山の滋賀県大津市にある比叡山延暦寺では、密教や禅や念仏もあって、総合仏教といってるらしい。
 
 延暦寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

御室

2023-10-09 23:24:40 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、仁和寺の僧が関わってるんだろうか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるみたいだけど、昭和天皇は太平洋戦争の後に出家して仁和寺の門跡に入る話もあったようだ。
 
 明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。泉智等という僧は高野山で学び、明治33年(1900年)から明治39年(1906年)まで仁和寺の門跡を務めていたようだ。泉智等は明治41年(1908年)に江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、大正12年(1923年)に高野派の管長と金剛峰寺の座主に就き、大正13年(1924年)に真言宗連合総裁に就いたようだ。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は明治26年(1893年)にシカゴで開かれた万国宗教会議に日本の代表として行ってきたらしい。土宜法龍は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めていたようだ。土宜法龍も金剛峰寺の座主を務めたようだけど、土宜法龍の次の次の金剛峰寺の座主が泉智等らしい。土宜法龍も真言宗連合総裁を務めたようだ。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

真言宗

2023-10-09 23:14:25 | 日記
 まさか、明治維新の話は嘘とか日本の歴史は嘘なんて、前は思ってもなかったもんなあ。それで、1人で呪い苦しんでさ。
 
 真言宗は大きく分けて古義真言宗と新義真言宗があって、その中にもいろんな宗派があるけど、政府からの通達で明治12年(1879年)に真言宗として統一されたらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。明治28年(1895年)に真言律宗の独立が認められ、明治33年(1900年)には真言宗の他の宗派も相次いで独立が認められたようだ。日中戦争の頃の昭和16年(1941年)に政府の宗教政策で真言宗は合同して大真言宗が成立したらしいけど、戦後に大真言宗から独立して今のような真言宗の宗派になったようだ。
 
 新義真言宗では興教大師といわれる覚鑁を中興の祖としているらしい。真言宗智山派と真言宗豊山派は新義真言宗、新義真言宗の中に新義真言宗という宗派があって、和歌山県岩出市にある根来寺は新義真言宗の総本山で、根来寺には覚鑁の御廟があるらしい。
 
 覚鑁は佐賀県鹿島市の出身ということになってるらしく、鹿島市に誕生院という寺があって、覚鑁の生誕地に創建された寺らしい。誕生院は大正2年(1913年)に鹿島藩の最後の藩主の鍋島直彬が再興したらしい。鹿島藩の鍋島氏は鍋島直彬の次は鍋島直大の息子の鍋島直縄が継いだようだ。
 
 和歌山県伊都郡高野町に金剛峰寺があって、金剛峰寺は高野山真言宗の総本山のようだ。高野山の奥の院は真言宗の開祖の空海の御廟のようだ。空海は佐伯氏の出身で、幼名は佐伯真魚というらしい。
 
 空海が高野山の奥の院で生きているという信仰を入定信仰というらしい。高野山の奥の院には、毎日、空海のために食事と服が運ばれてるらしい。詳しいことは知らないけど・・・。
 
 金剛峰寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか