明治維新の話は嘘の気がするけど、昭和の時代の太平洋戦争の後も明治生まれの人たちがいて日本の政治や日本社会を動かしてたみたいだし、俺たち日本人はだまされてたんだよ、たぶん。
青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。インターネットで調べると、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしい。上皇宮は宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年に上皇宮にしたらしい。他人のブログを見て書いてるんですが、いいんでしょうか?、これで。
南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡され、統一されたことになってるようだ。今の天皇は北朝で続いてるらしい。
明治維新の頃に宮家が増えたらしいけど、明治維新の頃に創設された宮家はすべて伏見宮家の系統らしく、他の宮家を継いだりして、太平洋戦争の終戦の後に皇籍離脱した旧皇族の人たちは、みんな伏見宮邦家親王の子孫らしい。本当か知らない。
伏見宮邦家親王の息子の伏見宮貞愛親王は陸軍の軍人で、軍人としての最高位の陸軍元帥大将に就き、各種業界団体の要職を務めたようだ。伏見宮貞愛親王の息子の伏見宮博恭王は海軍の軍人で、伏見宮博恭王は昭和7年(1932年)に海軍軍令の最高位の海軍軍令部長に就き、軍令部総長になったようだ。太平洋戦争の頃も伏見宮博恭王は海軍の最高権力者として大きな発言権を持っていたようだ。
伏見宮家は南北朝の北朝の3代目の天皇の祟光天皇の息子が創設した宮家らしい。伏見宮家の3代目の伏見宮貞成親王の息子が天皇を継いで後花園天皇として即位し、今の天皇は後花園天皇の子孫らしい。本当か知らない。
幸徳事件というみたいだけど、明治43年(1910年)に明治天皇の暗殺計画を企てた人たちが捕まって、そのことが発端になって、社会主義者や無政府主義者の人たちが明治天皇の暗殺計画とは関係無く、でっち上げ捜査で捕まって処刑されたらしい。
幸徳秋水という人は法廷で、今の天皇は南朝の天皇を暗殺して三種の神器を奪った北朝の天皇じゃないかみたいなことを言ったようだ。南北朝正閏論というみたいだけど、南北朝の南朝と北朝のどちらが正統かみたいな議論になって、国会でも取り上げられ、明治天皇によって南朝が正統ということになったらしい。
天皇ですか・・・。
火をつけるか。
青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。インターネットで調べると、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしい。上皇宮は宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年に上皇宮にしたらしい。他人のブログを見て書いてるんですが、いいんでしょうか?、これで。
南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡され、統一されたことになってるようだ。今の天皇は北朝で続いてるらしい。
明治維新の頃に宮家が増えたらしいけど、明治維新の頃に創設された宮家はすべて伏見宮家の系統らしく、他の宮家を継いだりして、太平洋戦争の終戦の後に皇籍離脱した旧皇族の人たちは、みんな伏見宮邦家親王の子孫らしい。本当か知らない。
伏見宮邦家親王の息子の伏見宮貞愛親王は陸軍の軍人で、軍人としての最高位の陸軍元帥大将に就き、各種業界団体の要職を務めたようだ。伏見宮貞愛親王の息子の伏見宮博恭王は海軍の軍人で、伏見宮博恭王は昭和7年(1932年)に海軍軍令の最高位の海軍軍令部長に就き、軍令部総長になったようだ。太平洋戦争の頃も伏見宮博恭王は海軍の最高権力者として大きな発言権を持っていたようだ。
伏見宮家は南北朝の北朝の3代目の天皇の祟光天皇の息子が創設した宮家らしい。伏見宮家の3代目の伏見宮貞成親王の息子が天皇を継いで後花園天皇として即位し、今の天皇は後花園天皇の子孫らしい。本当か知らない。
幸徳事件というみたいだけど、明治43年(1910年)に明治天皇の暗殺計画を企てた人たちが捕まって、そのことが発端になって、社会主義者や無政府主義者の人たちが明治天皇の暗殺計画とは関係無く、でっち上げ捜査で捕まって処刑されたらしい。
幸徳秋水という人は法廷で、今の天皇は南朝の天皇を暗殺して三種の神器を奪った北朝の天皇じゃないかみたいなことを言ったようだ。南北朝正閏論というみたいだけど、南北朝の南朝と北朝のどちらが正統かみたいな議論になって、国会でも取り上げられ、明治天皇によって南朝が正統ということになったらしい。
天皇ですか・・・。
火をつけるか。