東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

チベット

2023-04-12 23:57:21 | 日記
 日本のチベットですか・・・。
 
 明治時代に河口慧海という僧は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。河口慧海は明治30年(1897年)に日本を出発してチベットに行って、明治36年(1903年)に帰国したらしい。帰国した次の年の明治37年(1904年)に「西蔵旅行記」を出版し、また日本を出発してチベットに行って、大正4年(1915年)に帰国したらしい。大正10年(1921年)には僧籍返還し、大正15年(1926年)には「在家仏教」という本を出版したらしい。河口慧海はチベットにいって、たくさんの仏教関連のものを持ち帰ってきたらしい。
 
 多田等観という人は岩手県花巻市に疎開してたらしいけど、多田等観は浄土真宗本願寺派の法主だった大谷光瑞の援助を受けてチベットにいたようだ。多田等観はダライ・ラマ13世とも懇意にしてたらしい。浄土真宗本願寺派はチベットと交換留学もしていたようだ。
 
 ウィキペディアで調べると、ダライ・ラマは1642年にチベット政府の長になって、1959年までチベット政府の長だったようだ。チベットのラサというところにポタラ宮という宮殿があるらしい。今のダライ・ラマは14世のようだ。
 
 ポタラ宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

臨済宗

2023-04-12 23:54:41 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、結局、権力を握ったほうが正義ってことなんだろうか?。怖いなあ。
 
 ウィキペディアを見ると、釈宗演という臨済宗の僧と土宜法龍という真言宗の僧は福沢諭吉の慶應義塾に入学して慶應義塾精神界の二大明星といわれてたらしい。2人とも明治26年(1893年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として行ってきたらしい。釈宗演は万国宗教会議で演説もしてきたらしい。
 
 釈宗演は福井県の高浜町の出身ということになってるようだけど、本当か知らない。釈宗演は出家して日本各地の寺で修行して、慶応義塾に入学した後にスリランカに行って仏教を学んできたらしい。釈宗演は円覚寺派の管長や建長寺派の管長を務めたようだ。
 
 釈宗演と一緒に学んだ僧で竹田黙雷という僧がいて、建仁寺派の管長に就任したようだ。ウィキペディアを見ると、大正2年(1913年)に開山栄西禅師七百年遠諱を行い、大正3年(1914年)には比叡山で栄西の遺跡を見付けて碑を建てたらしい。京都にある臨済宗の寺の建仁寺は栄西の開山ということになってるらしく、建仁寺の開山堂は栄西の墓所らしい。
 
 建仁寺ですか・・・、
 
 
 火をつけるか

御室

2023-04-12 23:53:46 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、明治時代の密教の僧で一番著名な僧は土宜法龍という僧のようだけど、どうなんだろうなあ?。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山のようだけど、仁和寺は皇族の人が出家して住職を務めていた門跡寺院ということになってるらしい。明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。
 
 釈雲照という僧は高野山で学び、戒律の仏教を提唱したようだ。釈雲照は十善会という会を発足したらしい。次の仁和寺の門跡の泉智等という僧も高野山で学び、真言宗の布教のために日本各地を巡り、仁和寺の門跡や江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、高野派の管長や金剛峰寺の座主や真言宗連合総裁に就いたようだ。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は釈雲照を補佐し、十善会には久邇宮朝彦親王や小松宮彰仁親王が教えを受けに行ったようだ。土宜法龍は明治26年(1893年)にシカゴで開かれた万国宗教会議に日本の代表として行ってきたらしい。土宜法龍は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は仁和寺の門跡や高野派の管長や真言宗連合総裁を務めたようだ。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

南方

2023-04-12 23:51:08 | 日記
 ほら吹き部ですか・・・。
 
 南方熊楠という人は和歌山市の出身らしく、和歌山県海南市にある藤白神社から熊楠の字を授かったらしい。藤白神社のHPを見ると、子守楠神社があって、藤と熊と楠の付く名前を付けると長生きして出世すると言い伝えられてるらしい。藤白神社では物部氏の祖のニギハヤヒを祀っているらしい。
 
 南方熊楠は南方弥右衛門という人の息子らしいけど、南方弥右衛門という人は南方家に養子に入って南方弥兵衛と名乗ったようだ。家督を譲って南方弥右衛門と名乗ったようだけど、南方酒造という酒造会社を設立して、南方熊楠の弟が継いだようだ。大隈重信が酒名を世界一統と名付けて、昭和46年に社名を世界一統としたらしい。
 
 ウィキペディアで調べると、南方熊楠は粘菌の研究者で、生物学者や植物学者で、民俗学者でもあったようだ。優れた記憶力があったり、複数の言語を話す語学力があったようだけど、その一方で奇行が多く、異常な癇癪持ちだったようだ。南方熊楠は土宜法龍という真言宗の僧と往復の書簡を続けていたようだ。
 
 南方熊楠の脳は大阪大学医学部にあるらしいけど、この人は自分の頭脳なのか知識なのか、そういうものに異常な執着心でもあるんだろうか?。頭がズキズキするような強烈な頭痛がしてくるんだけどさあ。
 
 南方熊楠ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

桜井

2023-04-12 23:49:13 | 日記
 能ですか・・・。
 
 江戸時代の後期から大正時代の人で吉田東伍という人がいて、大日本地名辞書の編纂者らしいけど、吉田東伍という人は歴史地理学だけじゃなく、日本音楽史や能楽の研究者でもあったらしく、吉田東伍が学会で発表するまで風姿花伝の存在は世の中にほとんど知られてなかったようだ。吉田東伍という人は世阿弥十六部集の校注をし、それが近代能楽研究の出発点となったようだ。よくわからないが、ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 能の三輪という演目に「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事。いわくらや。」というセリフがあるらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。いわくらや?。
 
 奈良県桜井市にある大神神社の祭神は大物主らしい。大神神社には本殿が無く、拝殿から三輪山を拝むようになってるらしく、三輪山の山頂付近には高宮神社があって、大神神社の祭神の大物主ではなく、日向御子神が祀られてるらしい。
 
 三輪山には摂社の狭井神社から登っていくらしいけど、狭井神社は正式には狭井坐大神荒魂神社というらしい。大神神社では大物主を祀っていて、大神神社の摂社の狭井神社では大物主の荒魂を祀ってるってことでいいんだろうか?。
 
 神坐日向神社の祭神が三輪山に封じ込められてるんだろうか?、狭井神社の祭神が三輪山に封じ込められてるんだろうか?、それとも違う祭神が三輪山に封じ込められてるんだろうか?。
 
 令和になって天皇が代わって、新天皇の即位で大嘗祭も行われたみたいだけど、その時も感じたけど、三輪山に誰かを封じ込めて、その人と天皇が入れ替わってる気がしたけど、自信が無いなあ。
 
 大神神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか