澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「日本人の文革認識」(福岡愛子著)を読む

2014年02月26日 20時24分56秒 | 
 「日本人の文革認識~歴史的転換をめぐる”翻身”」(福岡愛子著 新曜社 2014年1月)を読む。



 本書は著者が東京大学に提出した博士論文に基づく。その要旨については、「論文の内容の要旨」に詳しく掲載されている。
 本書の構成は、次のとおり。

序章 歴史の転換点に伴う問題的状況にどう迫るか
Ⅰ 「翻身」をキーワードとする分析枠組み
Ⅱ 戦前世代の青年期における根源的・個人的変化
Ⅲ 日中復交をめざす政治としての文革認識
Ⅳ メディアにおける政治としての文革認識
Ⅴ 革命理論・思想としての文革認識
Ⅵ 運動としての文革認識
Ⅶ 「六〇年代」の学生運動と文革認識
終章 文革認識の語り方と「翻身」の意味


 団塊の世代の一年下である著者は、1970年前後の学生運動に多大な影響を受けた世代である。当時の学生に影響を与えた中国の「文革」(プロレタリア文化大革命)を通して、同時代に関わった関係者への聞き取りを交えて、本論を展開する。
 
 本書のタイトルにある「翻身」は、1972年、日本語訳が出版されたウィリアム・ヒントン著「翻身」(ファンシェン)に由来する。著者ヒントンが中国の農村に入り込み、文革が「人間を生まれ変わらせた」現実の記録として、全共闘世代にもてはやされた。

 だが、当時の「文革中国」が自由な取材を許可していたはずはない。農民への聞き取りと称するものも、実は当局が選定した農民を当局が派遣した中国人幹部の英語通訳者を通してまとめたものだった。本多勝一「中国の旅」(朝日新聞社)も全く同じパターンの「ルポルタージュ」だった。エドガー・スノーアグネス・スメドレーの流れを汲むこのような「中国感動物語」には、中国のプラス・イメージを宣伝しようとする中共(=中国共産党)当局の意図が働いているわけで、今やそのまま鵜呑みにする人はいない。何故、著者がこの「翻身」という手垢にまみれた言葉を論文執筆のキーワードとして使ったのか、私には理解できない。

 「中華帝国」の再興を目指し、その不安定な内政を「反日」ではぐらかそうとする現在の中国を見れば、文革期の中国など「可愛げな」存在にさえ思えるだろう。そう、時は移ろい、「文革」は遠い彼方の、忌まわしい昔話となってしまった。

 
 本書の中で私が興味を持ったのは、新島淳良のケースだ。新島は、旧制一高中退という学歴ながら、早稲田大学政経学部教授(中国語)を勤め、「毛沢東思想」を高く評価する人物として有名だった。この本の中で本人が述懐しているのは、「文革」「毛沢東思想」を宣伝するためには、あえて「文革」の負の部分(武力抗争、紅衛兵の残虐行為など)には目をつむったという事実である。「中国」専門家を自称しながら、実は、当時の中国共産党の「宣伝係」だったと、ここで「担白」(=告白)しているのだ。
 「文革」が収束に向かう過程で、新島は中国の非公式資料を使って「毛沢東最高指示」を出版したが、このことが中国当局の怒りを買い、「日中友好運動」から破門される。


 『…「毛沢東最高指示」出版後については、「親中国派」からの猛烈な非難を受けたこと、その理由は中国が禁じている資料を公表し、また「台湾から出ているいかがわしい資料を使っている」ためだったっことが回想されている。中国ユートピアをともにする「戦友」ともいうべき「A教授」からも、かつて全世界の知識人とプロレタリアートが革命直後のソ連を擁護したように中国を擁護すべき時だ、と言われ、自己批判するよう忠告された。それらの反応は予想してはいたが、しかし日中関連の運動からことごとく排除されて、「親中国」陣営内で四面楚歌状態になると、新島は中国について書く気が全くなくなったという。』(本書p.186-7)


 ここに書かれているA教授とは、新島の同僚だった早大政経学部教授・安藤彦太郎のこと。安藤は、新島とは異なり、中国当局との太いパイプを誇示しつつ、定年まで早大教授の座に留まった。この件で新島は、早大教授を辞し、「ヤマギシ」に入って、コミューン幻想をさらに追い求める。「ヤマギシ会にも小毛沢東がたくさんいた」という迷言を残して、一旦はヤマギシ会を去る新島だが、その後、同会に舞い戻って、不遇な最期を遂げた。
 同じ「反日共」「親中国」の左翼学者でありながら、この二人の身の処し方は、あまりに対照的だったが、自らを「前衛」と自惚れ、狭量な党派意識、独善的世界観で凝り固まった「日中友好屋」という点では「同じ穴のムジナ」だったと言えよう。

 本書には、このように「文革」に取り憑かれた人々が、ケーススタディの対象として何人も登場する。例えば、朝日新聞北京特派員であった秋岡家栄西園寺公一の長男である西園寺一晃などだ。
 あの時代を知らない若い世代が本書を読んだ場合、日本中の多くが「日中友好」「文革」に熱中していたと勘違いしかねないが、実際はそんなことはなかった。真のエリート(東大法学部を頂点とする)は「中国」にさして関心を示さず、将来性の確かな本道を選んでいた。一方、「中国」に憑かれた人々は、現実の社会に対する不安や不満を、中国を「ユートピア」に見立てることで解消しようとしていたと言えるのだろう。それは、大学を卒業しても、少数のエリート校を除いては、さしたる社会的な地位を得られなくなったという現実とまさにリンクしていた。

 「文革」に憑かれた人々のみに着目する著者が全く言及していないことだが、「中国研究」という小世界でも、「文革」や中国の現実を冷徹に分析した研究者がいた。石川忠雄(故人・元慶應義塾長 中国政治)や中嶋嶺雄(故人 前国際教養大学学長 国際関係論)、柴田穂(故人 産経新聞北京特派員)などは、新島のような「中国に憑かれた人々」とは正反対の立場にいた。そのどちらが正しかったかは、今や明らかである。

 
 「翻身」をキーワードに日本人のごく一部に過ぎない親中国派の「分析」をおこなった本書は、個人的にはデジャブ感いっぱいの「昔話」に過ぎなかったのだが、若い世代はまた異なった「物語」をそこに読み取るのかも知れない。