今朝、このブログのデータを確認したら、「安藤彦太郎」でアクセスしたものが、20件近くあったので驚いた。これは、私がこの人について書いたことがあるからだったが、いまだかってそんなに多くのアクセスはなかった。その結果、知ったのは安藤氏の訃報だった。
http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/14313c7d2a0c27d77a91de65684c827f
若い人はもはや知るよしもないだろうが、この安藤彦太郎(早大政経学部教授・中国語、中国経済論)という人は、60年代末から70年代前半にかけて、「文革礼賛派」の知識人として有名だった人だ。ネット上では、この人についての書き込みもほとんど無いので、完全に過去の人になっていた。
1970年代前半、私は、この人の授業を聴いたことがある。といっても、早大生である友人に教えてもらって、わざわざ聴きに行ったのだ。当時、中国文化大革命を現地で実際に見聞した人として、安藤氏はよく知られていた。「中国通信」(大安書店)という著書には、いかに中国の文革が正当か、現代マルクス主義の矛盾を克服する戦いであるか等々、今思えば見当違いで噴飯ものの内容が書かれていた。
同時期、早稲田の政経学部には、新島淳良という教授(中国語)がいて、この人は毛沢東を礼賛し、新左翼の理論家としても知られていた。
全国に学園紛争が蔓延するなかで早大政経学部は、突出した中国礼賛派(=日中友好運動派)の拠点だったのだ。
だが、実際に安藤氏の講義を聴いて、私はがっかりした。「中国経済論」と題した授業には、全く「経済」の話など出てこず、日中関係史のとりとめもない羅列という内容だった。自分の自慢話も多く、学生時代(早大政経学部)は「財政学」だけが「良」で、その他は「優」だったが、全優ではなかったので、「満鉄」に行かずに済んだと話していた。これは、「満鉄」に就職していれば、中国側からは白い目で見られてしまうので、文革期に中国へ招待されることはなかっただろうという意味だ。中国に招待され、日中友好運動の先頭にたっていることが自慢でならないのだろうとそのとき思った。
私のいた大学では、宇野重昭先生(現・島根県立大学学長)が兼任講師として「中国共産党史」という科目を教えていた。この授業は今でも記憶に残る素晴らしいものだったので、安藤氏の授業があまりにお粗末なのに驚愕した。
中国の言い伝えに「人の評価は棺を覆って決まる」という言葉があるそうだが、92歳で死去した安藤氏のニュースはどう採り上げられたのか。「朝日新聞」は次のように報道している。
早大名誉教授・近代日中関係史の安藤彦太郎さん死去
2009年10月27日23時19分 朝日新聞
安藤彦太郎さん
安藤 彦太郎さん(あんどう・ひこたろう=早稲田大学名誉教授・近代日中関係史、日中学院名誉学院長)が27日、膀胱(ぼうこう)がんで死去、92歳。葬儀は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻陽子さん。
60~70年代を中心に、中国や日中関係について発言。「毛沢東選集」日本語版の翻訳に協力したほか、戦後50年の95年に開設された日中歴史研究センターのセンター長を務めた。著書に「中国語と近代日本」「虹の墓標 私の日中関係史」など。
興味深いのは「60~70年代を中心に、中国や日中関係について発言。」と曖昧に書かれていることだ。さすが中国に甘い朝日新聞ならではの記事だ。だがこの時期の安藤は、「文革中国」を礼賛し、返す刀で自分の国である日本社会を批判した、と総括されるべきだろう。"返す刀で”というのは、自分が特権的に見聞した中国事情を武器にして…という意味である。当時の安藤は、文革中国という”神”を奉る”司祭”の役割に自己陶酔していたのかも知れない。
文革が”脱文革化”のかたちで収束すると、安藤は、自らの言説を自己批判することもなく、新中国指導部へのお追従を貫いた。新しい”神”は、またあちらからやってくる…。同僚・新島淳良が早稲田にいられなくなり、教授を辞し「ヤマギシ会」に走ったのとは対照的に、安藤は最後まで早稲田大学教授のポストに座り続けた。
早稲田大学は、その授業の質はともかくとして、学生数が多く、なかには優秀な学生もいるので、安藤のような教授でもその影響力は看過できない。特にマスコミに行った学生には、彼の影響を受けて、親中国的感情を今なお持ち続けている人も多いのではないか。
対照的に、慶應大学の故・石川忠雄氏(中国政治)は、文革を批判し、中国政治を冷徹に分析した。そのゼミからは、多くの中国研究者を輩出している。一方、安藤は、誰一人として著名な研究者を育てられなかった。これは、安藤自身が、何ら実証的な研究実績を残さなかったのだから、無理からぬことだ。
こういう安藤氏に対しては、ちょっと酷な言い方かも知れないが、古いタイプの活動家の死という表現が適切かも知れない。日本共産党の細胞活動、内部分裂した日中友好運動のなかでの抗争、こういう左翼、反体制運動が生き甲斐だったのだろうか。学問に生きた人というよりも、政治家、活動家の体質を強く感じさせる人物だった。中国人が古くからの友人だと称する「日中友好人士」とは、おおむねこのような人たちなのだろう。中国で一番有名な日本の大学が、東京大学ではなく、早稲田だというのも、もしかして安藤教授の”功績”のひとつなのかもしれない。
だが、現在の中華民族主義(=中華思想)の中国、反日の中国を育て上げた責任の一端は、安藤のような「日中友好人士」にあることをわれわれは忘れてはならないだろう。
こめやは、city-boyでなければ、つとまりません、
コメントありがとうございました。死者に鞭打つ気はないが、かつてこういう人が大学教授としてのさばっていたのです。戦後のどさくさで、サヨク全盛の流れの乗って教授となった人。それが学生を洗脳し、国家や大学組織にまるで他人事のようにイチャモンをつける。ちゃんと学問をやっていないから、学生を甘やかし、甘い点をつけて、人気教授となる。近親相姦のような人事で有名だった、さすがの早稲田も、この人に後継者は他大学から呼びました。私は他大学なので、この人のお粗末さを客観的に見ることができました。