先ほど、鳩山邦夫氏の死去が伝えられた。鳩山邦夫は1948年9月生まれの「団塊の世代」で、舛添要一とも同学年。ともに東京大学法学部でトップを争った「天下の秀才」だった。
6月20日、舛添要一は無言のまま憎悪に満ちた表情で、記者団の前を通り過ぎていった。「この愚民どもめが…」と言いたげな舛添の表情に、「団塊の世代」の末路を見る思いがする。
最近話題になった「団塊の世代」には、元航空幕僚長の田母神俊雄がいる。こちらも、「大言壮語」の顔とは裏腹に、セコイ選挙資金問題で失脚してしまった。
「団塊の世代」(1947-49年生まれの世代)は、戦後ベビーブームの申し子で、630万人を数える。その最大の特徴は、粗製濫造の教育を受けてきたことにあるのではないか。
それはもちろん「日教組」による「反日教育」のことではない。そもそも貧しい時代であったので、教育環境が極めて劣悪だったためだ。小中学校は、児童生徒の増加に施設が追い付かず、午前と午後に分けての二部授業が行われた。一クラスは56名前後、まさに満杯の教室での授業だった。
この世代の高校進学率は七割弱、大学進学率は四分の一程度だった。団塊の親の世代には、高等教育への憧憬が根強く残っていたから、「せめて子供たちは大学へ」という意識が強かった。
当時の国立大学は、一期校、二期校に区分されていた。これは「大日本帝国」時代の教育体系を継承したもので、旧帝国大学、旧単科系国立大学(一橋、東工、東京教育大など)旧制高校のナンバースクールは一期校(3月3日から数日が試験日)、旧制の高等専門学校(東京外国語学校など)は二期校(3月23日から試験)とされた。例えば、一期校で一橋大学、二期校に横浜国大経済学部を出願する学生が、一橋に合格したあと、さらに横浜国大を受けるケースは皆無だった。二期校は、完全に「滑り止め」扱いだったのだ。
かといって、現在のように私立大学が評価されることはなかった。一期校の東工大を第一希望、二期校の東京農工大を第二希望として、滑り止めに早慶の理工学部を受けるのが普通だった。当時の学費格差は、私立大学の学費は国立のほぼ十倍だったので、二期校でも十分に優秀な学生が集まった。そもそも、旧制の高等教育制度においても、私立大学は大学を名乗ってはいるものの、「帝国大学」と比べるべくもない存在で、旧制高等専門学校(例えば、小樽高商、大阪外語など)の方が私立大学よりは優秀だとみなされていた。
1968年前後に全国を揺るがした「大学闘争」「学園紛争」は、依然として旧帝国大学の頂点たる東京大学で「帝国主義大学」の特権が糾弾される一方、「日大全共闘」は名ばかりの大学教育、営利追求ばかりの大学経営を徹底的に批判した。1969年春には、東大、東京教育大(現・筑波大)の入試が中止となり、東京外国語大学においても変則入試(一科目が30分で内申重視)が行われた。そしてこのとき、東大安田講堂は、全共闘と機動隊の衝突によって廃墟と化した。
舛添と鳩山は、現役で文一合格を果たした「天下の秀才」だったが、「東大闘争」とはどうかかわったのか。奨学金で勉強していた舛添は、全共闘の主張には一切耳を貸さず、ひたすら「栄利栄達」の道を選んだ。あの騒然たる時代に、自己(エゴ)を貫いた舛添が、今ここに至ってみると、ドストエフスキーの小説の主人公のように見えてくる。
天下のお坊ちゃま秀才・鳩山邦夫が病死。舛添は、知事職を途中放棄。田母神は検察によって取り調べ中。
「団塊の世代」の政治家は一人も首相になれなかった。せいぜい獲得した都知事の地位もこのありさま。「量」は多くても、「質」が伴わなかったというのが、この世代の歴史的評価になるのだろうか。