澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「田中克彦 自伝」を読む

2017年04月07日 12時36分00秒 | 

 「田中克彦 自伝~あの時代、あの人びと」(田中克彦著 平凡社 2016年12月)を読む。
 著者・田中克彦(1934.6.3~ )は、著名な言語学者で一橋大学名誉教授。モンゴル学者でもあり、言語や歴史など幅広い分野で大きな足跡を残してきた。
 
 3年前、私は東京外国語大学で「モンゴル近現代史」(二木博史教授)の授業を聴講した。受講生(学生)が15名程度、教授の手作りのレジュメ、資料で進められる、極めて密度の高い講義だった。そのとき、かつてこの大学のモンゴル語学科卒業生であり、一時期、同学科の専任講師を務めたことのある著者・田中克彦の名前は、授業の中にもたびたび表われた。このモンゴル語学科は、1911年、大陸進出という国家目標を念頭に設置された。(当時は東京外国語学校蒙古語科)だが、戦後、東西冷戦が先鋭化して、モンゴル人民共和国が「鉄のカーテン」の向こう側にいってしまった関係で、モンゴル語の有用性が問われる時期が長く続いた。それでも、東京と大阪の外国語大学に設置されたモンゴル語学科は廃止されることはなく、研究、教育活動は地道に続けられてきた。都立戸山高校に在籍していた著者が東京外国語大学モンゴル語学科を受験すると決めたとき、高校の教諭は「どうしてそんな言語を選ぶのか」「本校始まって以来だ」と言ったという。



 当時の国立大学には一期校、二期校の区別があり、旧帝国大学、旧制大学に由来する大学は一期校(3月3日から入試)、旧制の高等専門学校に由来する大学は二期校(3月23日)とされた。東京外国語大学はその出自からして二期校であったが、問題だったのは、二期校が一期校に落ちた人が初心貫徹できずやむを得ず入る大学という位置づけだった点にあった。田中克彦は本書の中で「一期校は東大に願書を出し落ちた」と書いてあるのだが、対照的に故・中嶋嶺雄(前国際教養大学学長、元東京外国語大学学長)は、自分が一期校のどこを受験したのか一言も触れていない。あたかも、東京外大中国語学科を第一希望に入学したかのように、その著書には書かれている。中嶋嶺雄が一期校である東大や一橋大を受験せずに、東京外語大だけを受けたなどとは、だれ一人思わないだろうにもかかわらず…。

 田中克彦はモンゴル語学科を選んだ理由を次のように書いている。

「ぼくがモンゴル語科を選んだ理由は、他の語科の案内に比べて最も学問への道を強調していることだった。就職に有利だとか、そんなハシタナイことは書いていなかった。書こうにも書けなかったからであろう。…モンゴル語とは対照的に、もうかる商業言語であることを強調して目立っていたのはスペイン語である。…スペイン語科というところは、モンゴル語科というところに比べて何という下品なところだろうと思った。」(本書、p.130-1)

 モンゴル語の需要はゼロという時代が続き、著者が入った年は学生が四人。それが教授、助教授、助手、外国人講師に教わったのだから、なんというぜいたくであろうか、と著者は言う。この状況を、坂本是忠(元東京外語大学長 モンゴル学)は、「一期校を落とされた学生たちは、親に金があれば、早稲田か慶応にいくはずだ。金もなく、力もないやつが来るのが外語なんだよ」と言っていたという。(p.133)

 著者はモンゴル語学科を卒業した後、一橋大学大学院社会学研究科に進学する。当時の二期校には、大学院が整備されていなかった。研究者を志すとすれば、一期校の大学院に行くしかなかったが、一橋大社会学研究科は二期校の優秀な学生の入学を受け入れていた。二木博史、佐藤公彦教授(現在は名誉教授)も同じような足跡をたどったようだ。もっとも最近、一橋大はSEALDsの奥田某を明学大から入学させたりしているが。

 このように、ユニークなコースをたどった著者のエッセイ(本著)は、文句なしに面白い。大学紛争については、次のように書く。

「1968年から69年にかけて発生した大学紛争は、東京外語にも、かなり激しい形をとって及んだ。……ぼくが最も失望したのは、たとえばインドネシア語学科では、それまで教えられてきた、オランダ語の授業をやめろという要求である。なぜなら、オランダ語はインドネシアを支配してきた植民地権力の言語だからというのである。この要求の理由は、学生が単にラクをして、外国語を学ぶ時間をなるべく減らしてもらいたいというのが動機である。考えてみれば、東京外語の学生のかなりの部分が、一期校に入れず、こころならずも、外国語学習を主な目的とする大学に入らざるを得なかったという、みずからの不満を訴えていることになるのだから、つまり、大学のあり方と、彼らの要求との間にずれがあるのだから、彼らが東京外語にいることじたいが間違っていることになる。…そのばあい学生がやるべきことは、みずからすすんで大学を去るか、その誤った存在である東京外語を解体して廃校にすべきだということになる。」(p.236-7)

 著者の立場は、学生に十分に同情的だったと思われる。大学紛争のしこりがのこったためだろう、その後著者は岡山大学に移るが、そこでのモンゴル関係プロジェクトは、東京外語の学長、日本モンゴル学会会長だった坂本是忠に潰されてしまう。そのとき、「東京外語のH君に参加させるという提案をのみ、そこでHを通訳として付けた」(p.255)と書かれているH君とは、二木博史先生のことかもしれないと思った。

 他にも面白いエピソードがたくさんある。
 著者は、西ドイツに留学中、ボンで篠原一(故人 東大名誉教授 ヨーロッパ政治史)とアパートの部屋を引き継いだ。留学を伸ばしたいと相談したら、篠原は「二年なら大丈夫だよ、もっとも東大法学部なら三年だっていられるんだがね。ただし東大でも、ほかじゃだめだよ。法学部じゃないとね」と言ったとある。これは好意的に書かれている一文なのだが…。篠原一の授業は、(兼任講師として来ていた某私大で)聴いたことがあるので、いい先生だったと付け加えたい。

 また、モンゴル史の大家・岡田英弘とボン大学で会った時の話だが、「岡田さんは、ぼくがソ連に行こうとしているのを知って、ぼくを車に乗せて、ソビエト大使館に連れていってくれた。岡田さんがぼくを自分の車に乗せてくれたのは、これが最初にして最後であった。…かれには当時若い奥さんがいた。その奥さんはぼくを一目見て毛嫌いしてしまったらしく、あんな下品な人を、あなたは乗せるべきではないと言ったらしい。家柄のいい女だとかで、岡田さんはその若い妻のいいなりだった。その後、岡田さんはずいぶん長い年月をかけて、離婚を達成し、今の宮脇淳子との結婚をとげたのである。」(p.192-3) 

 東京外語出身者のホープだったのかも知れない中嶋嶺雄については、「東京外語の紛争中に、中嶋嶺雄が勤務評定法を考え出した。教員の評価は、管理、教育、研究と三つの領域に分け、それぞれ三分の一とし、研究には極めて低い評価しか与えなかった。こういう人は、根っから、学長になるために大学に勤めているような人である」(p.257)と一刀両断にしている。

 様々なエピソードからは、著者の反権力的な自由人たる人物像が浮かび上がってくる。

 


 

 

 

 



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