映画「トロッコ」を見に行く。
週日の午後なので、上映館はまるで高齢者の集会か。といっても、あまり人のことは言えないのだが…。
(子供たちは父の故郷・花蓮を訪れる)
芥川龍之介の「トロッコ」を映画化した作品だが、川口浩文監督がトロッコのある撮影地を探した結果、最もイメージに合う場所が台湾の花蓮だったため、物語の舞台も台湾に移してしまったという。
花蓮は、台湾の太平洋側(東台湾)にあり、原住民が多く住む辺鄙な街だった。そこを開発(近代化)したのは日本統治時代の日本人で、花蓮では今なお日本人街などの史跡がきちんと保全されている。中華世界的な雰囲気が強い台湾海峡側(西台湾)より、日本人が親近感を覚えるのは、そのためでもある。私自身も2回訪れたが、海岸線まで迫る中央山脈の威容と親切な人たちが印象に残っている。
映画の冒頭には、矢野夕美子という女性が携帯電話をかけて、8歳と6歳の息子がTVゲームに熱中する場面がある。日本で新聞記者をしていた台湾人の夫が亡くなり、これから3人でその遺骨を生まれ故郷の花蓮に届けようとするのだ。
やがて、場面は亜熱帯の緑がまばゆい花連へ。誰もいない「南平」という駅を降りると、3人は車で祖父の住む村へ。そこには、年老いた白髭の老人が待っている。遺骨を見た老人は、台湾のしきたりどおり、先に逝ってしまった息子の”親不孝”を嘆き、杖で遺骨を叩く。
(三人が降り立った台東線の「南平」駅。最近まで、日本統治時代の駅名である「林田」駅という名称が使われていた。)
(二人はトロッコに乗せてもらうが…)
やがて、分かってくるのは、祖父は、戦前、2年間日本兵として戦地に行ったが、日本政府の恩給は「外国人であるから」という理由で拒否される。祖父は、「金が欲しいのではない。…日本と向き合っていたいのだ」と慟哭する。このあたりは、ドキュメンタリー映画「台湾人生」(酒井充子監督)に登場する蕭錦文(しょう きんぶん)氏の境遇と重ね合わせているようだ。だが、「向き合う」などというふやけた言葉を日本語世代が使うはずもない。この一言は興ざめだった。
子供たちがトロッコに乗って山奥に行くと、日本語世代の老人が日本語で挨拶する。「私の日本名は中村光夫です」と。これは、小野田寛郎さんのように、戦後何十年も経って発見された元日本兵(台湾原住民)と似た名前ではなかっただろうか。
台湾事情に疎い観客のためだろうか、あるいは川口監督自身が若く台湾の歴史を知らなかったためか、台湾には日本統治時代があり、その当時の世代(日本語世代)は、今でも日本に愛着を持っているのだということが、日本語の台詞や家の中の富士山の写真などで何度も強調される。このことに異論を唱えたりはしないが、ちょっと待てよと思ったことがある。ひとつは、年代設定があまりに不自然だということ。携帯電話やTVゲームが出てくるのだから、映画の時代設定は現代だ。日本兵として2年従軍した老人は、どう考えても81~2歳以上の年齢だ。その長男が日本人女性と結婚して、8歳と6歳の息子がいる。嫁はどうみても40歳前後である。そうなると、長男は何歳だったのかなどと気になってしまった。
それともうひとつ、老人の日本語があまりにたどたどしい。蕭錦文さんには、台北でお会いしたことがあるが、日本語はペラペラで、私に情熱的に日本の台湾統治について話し続けた。日本語世代は小学校(公学校)から日本語教育を受け、そもそも当時は日本人として教育されたのだから、概ね日本語がペラペラなのだ。このたどたどしい日本語を喋る俳優の存在自体が、もはや映画に出演できるような日本語世代はいなくなったことを示している。花蓮の老人の家は、日本統治時代の家だといい、古く貧しいたたずまいだ。家の中には、日本の地図があり、富士山の写真が飾ってある。だが、映画「台湾人生」でも花蓮の老人が紹介されているが、実際の生活はもう少し豊かであるに違いない。いくら国民党独裁時代が悲惨だったとはいえ、経済的にはかなりの発展があったはずだから。
先日、酒井充子監督の講演会にでかけて、映画「台湾人生」の観客動員数は1万人であると伺った。台湾で映画史上最大のヒット作となった「海角七号」の観客動員数は、なんと260万人。もちろん、娯楽映画とドキュメンタリー映画の違いはあると言っても、彼我の差異は絶望的なほど大きい。台湾人は10人にひとりが「海角七号」を見たのだが、日本人は1万人にひとりが「台湾人生」を見たに過ぎない。
それ故、「トロッコ」の監督は、かなりの台詞を日台関係の歴史叙述に費やさざるを得なかった。これが映画の趣を薄めてしまったように感じるのだが、どうなのだろうか。
亜熱帯の急峻な山地の美しさ、川井郁子のバイオリン、いずれも少年の心が成長していく模様を描くこの映画の最上のオードブルとなった。
映画『トロッコ』予告編