澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「知られざる台湾 台湾独立運動家の叫び」(林景明著)を読む

2010年06月12日 20時27分30秒 | 

 「知られざる台湾 台湾独立運動家の叫び」(林景明著 三省堂新書 1970年 現在絶版)を読む。

 
(「知られざる台湾 台湾独立運動家の叫び」林景明著 三省堂新書 1970年)

 著者・林景明氏は、1929年生まれの台湾人、健在ならば81歳になる台湾の日本語世代だ。ネット上で調べてみても、林氏の最近の消息は見あたらない。台湾独立運動の闘士で、蒋介石の中国国民党独裁時代には、「白色テロ」※の対象とされた人だ。

※  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 1980年代末、李登輝総統が登場して、台湾が民主化されるまでは、台湾には言論の自由がなかった。日本のTV局が、台湾の国会で議員が乱闘しているのを面白おかしく報道しているが、台湾人が自由選挙で自らの代表者を選び、国政を議論するようになったのは、このわずか20年あまりだと考えるとき、受け狙いの映像ばかりを追いかける日本のマスメディアのバカさ加減に暗澹たる思いになる。

 その昔、私自身、この林景明氏の著作を知ってはいたが、読もうとはしなかった。それにはふたつ理由があった。まず、当時、私たちの観念には、二つの中国が存在した。「中華人民共和国」と「中華民国」だ。前者は「社会主義中国」「新中国」であり「毛沢東の中国」で「歴史の進歩」を具現化したかのような存在だった。後者は、「蒋介石の中国」であり「反動の旧中国」でもあった。いまから考えれば、何と単純な二元論。海外旅行も稀で、TVの衛星中継さえなかった時代だから、限られた情報の中で、それぞれの世界観を勝手に構築していた。構築と言うよりも、ある意味では「妄想」と呼ぶべきだったかも知れない。
 もうひとつは、関寛治という人(故人。当時、東京大学教授・国際政治学)から「台湾独立運動は米国CIAの陰謀である」という話を聞いたことがあり、それを半ば信じてしまったことだ。
 この関寛治は「進歩的文化人」のひとりで、中国・北朝鮮を支持してきたが、晩年、「主体思想」の考案者である黄書記が韓国に亡命したとき、ラジオのインタビューで嬉々として「黄書記と私は非常に親しく、私の娘が司法試験に受かったとき、黄氏からお祝いしてもらった仲だ」と語り、そのピントはずれの発言に驚愕した。こんな人の妄言を鵜呑みにしたのかと思うと、腹立たしい思いがした。

 こうした経緯があったので、私は、台湾と台湾人について、真剣に考えることは長らくなかった。そのきっかけとなったのは台湾映画「海角七号」との出会いと、それを見てから台湾に数週間滞在して、自分の目でこれまでの疑問を確かめた。なかでも「二二八紀念館」で蕭錦文(しょう きんぶん)さんとお会いしたのが、私が台湾に開眼する大きなきっかけとなった。
 関寛治の例で分かるように、私の世代は、政治的なイデオロギーでものごとを判断する世代だった。今から思えば、噴飯ものの「日中友好運動」「プロレタリア文革賛美論」がまかり通っていた時代でもあった。そういう時代環境では、「中華民国」に住む台湾人の苦悩に思い至ることはなかったのだ。

 林景明氏は次のように記す。
 「…”異国の丘”にこめられた日本人の、同胞愛にあふれる熱き涙が、なぜに同じく同胞と呼んでいた台湾人の上にはそそがれないのか、それどころか逆に台湾人の涙をしぼるような冷酷なことをなぜするのだろうか、と考えずにいられず、しかもソ連の日本人拘留は交戦国の捕虜と解されるが、日本政府の台湾人収容はいったいどう解釈すればいいのか。シベリヤ収容所の人たちには、どれほど苦しかろうと、帰るべき祖国がある。しかし私には国がない。あるのは外国の軍隊に占領された、しかも再びは帰れない土地があるだけだ。そして少年の私が一途に信じこんでいた祖国日本は、今現に私を監禁しているのだ。」(同書 p.183)

 蒋介石に占拠された台湾を、著者は「島獄」と呼んだ。さまざまな妨害工作を乗り越えて、日本に留学したものの、台湾独立運動を企てているとの容疑で国民党特務に追われる。「祖国日本は、…私を監禁」というのは、大村収容所に入れられた事実を指す。
 1970年代、著者を支援した日本人は、当時、「右翼」「保守派」と目された人達だった。著者が留学した拓殖大学の国際法の教授は、著者の救援に大きな役割を果たす。「岩波文化人」でも「進歩的文化人」でもない人が、台湾人の人権を守る活動に奔走していたという事実は、もっと語られるべきだろう。私たちの世界を見る眼を曇らせてきたのは、台湾人の思いを黙殺してきたのと同じ「進歩的文化人」だったのだから…。

 それにしても、著者である林景明氏は、その後どうなったのか。李登輝時代まで生き抜き、祖国・台湾に暖かく迎えられたのならば、私は何も言うことはない。私には、林氏と蕭錦文さんがどうしてもダブって見えてくる。

台湾独立建国聯盟日本本部50周年記念会2 柳文郷青年強制送還のNHK番組