1900年、中国で起こった反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。清朝(西太后)は当初鎮圧を図ったが、北京を占領されるにおよんで支持に転じ、列強に宣戦布告した。しかし英米仏露日など8ヵ国連合軍が北京を奪回し、列強の帝国主義的中国分割が進んだ。
8カ国連合軍は1900年8月14日に北京に侵攻、西太后ら清朝首脳は北京を脱出、9月には義和団弾圧を命じ、列国との講和に応じた。その結果、1901年9月7日、清朝政府は8カ国との北京議定書(心中条約)を締結し、賠償金支払いとともに北京と天津への外国軍隊の駐留権を認めた。
その結果、帝国主義列強による中国分割がさらに進んだ。
義和団「戦争」 このできごとは、単なる民衆蜂起とその鎮圧ととらえられ、「義和団事件」といわれたり、日本政府は戦争という呼称を避けて「北清事変」と称したりであったが、列強と清国政府間の戦い、つまり「戦争」ととらえるのが正しく、最近の歴史総合の教科書などでも「義和団戦争」とされるようになった。
19世紀末、中国分割の危機
日清戦争の敗北をうけて、清朝内部で始まった康有為等の戊戌の変法はあくまで体制の上からの改革であり、一般民衆にはほとんど理解されていなかった。民衆はむしろ、帝国主義列強による侵略に対して本能的に反発し、西洋文明を拒否する動きを示した。そのような中で、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起こり、それを機にドイツは山東省一帯に進出し、さらに翌1898年、膠州湾を租借し、列強による中国分割に先鞭をつけた。このような民衆の排外的・反キリスト教感情を煽動したのが、義和団といわれる一種の宗教秘密結社であった。この運動は華北一帯に広まり、各地でキリスト教の教会や信者を襲い、暴動を起こし、西欧列強と鋭く対峙するようになった。
義和団とは
義和団は、かつての白蓮教の流れをくみ、義和拳という拳法によって刀や槍にも傷つけられない神力を得ることができると説き、民衆や遊侠の人々に広がった。山東地方で外国人やキリスト教宣教師を襲撃しながら次第に大きな集団となり、ついに1900年には北京に集結して蜂起し、義和団戦争となった。義和団戦争の勃発
1899年10月、山東で蜂起した義和団は、1900年4月には北京を占領、日本とドイツの外交官を殺害し、教会を襲撃した。清朝政府で実権をふるっていた西太后は義和団を鎮圧しようとしたが、それが出来ないと見ると方向を転換し、義和団を支持し列国に宣戦布告した。8ヶ国連合軍の北京出兵
義和団戦争で出兵した8カ国連合軍
左から、イギリス、アメリカ、ロシア、インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の兵士。9人いるのは、イギリス植民地のインド兵が動員されたため。
北京議定書の調印
北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年9月に北京議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。北京議定書では、4億5千万両(テール)という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款(こうしばいかん)と言われ、清朝にとって日清戦争での2億両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。
その後の中国とアジア情勢
西太后は西安から戻った後、急速に西洋風の文物を取り入れるようになり、清朝最後の改革といわれる光緒新政を打ち出したが、もはや清朝の権威の衰微を覆い隠すことができなっていった。1894年に興中会を組織した孫文は、清朝内の改革派官僚に期待して、義和団事変にあわせて挙兵(恵州蜂起)したが、やはり鎮圧されてしまった。その後に誕生した光復会や華興会などの反清団体を結集し、1905年に孫文を総裁とする中国同盟会が組織され、これが辛亥革命による中華民国の成立を実現させ、そして袁世凱による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。
アジアの国際関係は緊迫の度合いを増した。それは義和団事変後もロシアが満洲などから撤兵しなかったことにより、ロシアの東アジア侵出を恐れた日本とイギリスが1902年に日英同盟を締結したことに現れている。
清国内の分割
1894年(明治27年)、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)の支配権を巡って「日清戦争」が勃発。清は当時、他国から東アジア地域の強国でいざとなれば牙を剥く「眠れる獅子」だと考えられており、欧米諸国は日本に負けるとは思っていませんでした。
ところが、実際には一方的な展開で日本が勝利を収め、清は領土の割譲、多額の賠償金の支払いを課せられるなど苦境に立たされます。これによって欧米諸国は清の潜在的な力に対する恐れを払拭し、賠償金の貸与などに付け込んで清国内の領土、利権の奪い合いを開始しました。
ロシア帝国はドイツ、フランスとともに日本に対して「三国干渉」を行って遼東半島を清へ返還させ、さらに賠償金を清に貸与し、貸与の見返りとしてシベリア鉄道が北満州(まんしゅう:中国の北東部)を通過する権益を得ようとします。
1897年(明治30年)、ロシア帝国艦隊は遼東半島(りょうとうはんとう)の先端にある、旅順(りょじゅん)へ入港。そのまま居座った末、旅順と大連(だいれん)の長期租借(そしゃく:領土を借り受けること)を要請しました。
ロシア帝国が極東アジアで勢力を伸ばすことをよく思わないイギリスは、対抗して山東半島(さんとうはんとう:遼東半島と向かい合う中国大陸最大の半島)の威海衛(いかいえい:現在の威海)と九龍半島(くうろんはんとう:現在の香港地区)を強制的に租借。
また、フランスはベトナムを植民地化していたため、すぐ北側の広州湾を租借します。さらに、ドイツは1897年(明治30年)に、山東省(さんとうしょう:山東半島を中心とした地域)でドイツ人宣教師が殺害される事件をきっかけとして、膠州湾(こうしゅうわん:山東半島南側の湾)を租借しました。
こうした欧米諸国の動きに対して、日本は清が分割されていく様子を、ただ指を咥えて見ているしかなく、当時の外務省の記録には「無力の沈黙」と記されています。
清国内で高まる不満
変法運動
1898年(明治31年)、清では思想家で学者の「康有為」(こうゆうい)が11代清皇帝「光緒帝」(こうしょてい)に上奏(じょうそう:皇帝に対し意見を述べること)し、専制君主制(君主が全権を持ち国を統治する体制)を廃して、日本のように立憲君主制(君主の権利が憲法によって制限されている体制)に改める以外に清を救う道はないと主張。
康有為はこの政治改革を「変法」(へんぽう)と呼び、叔母「西太后」(せいたいごう)に政権を握られて不満を抱いていた光緒帝は、変法運動の採用を決意しました。
しかし変法運動は西太后の知るところとなり、わずか103日で保守派によって光緒帝は幽閉。封建的な体制のまま腐敗していく清国内では、生活に困窮した農民達の流亡、散発的な暴動が絶えませんでした。
キリスト教に対する不満
もうひとつ、清国内で不満の種となっていたのがキリスト教の布教です。1856年(安政3年)に清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった「アロー戦争」の結果、「天津条約」が結ばれました。この天津条約により、清国内でのキリスト教布教の自由、外国人の旅行の自由などが定められ、積極的なキリスト教の布教が展開されます。
ところが、キリスト教は欧米諸国に守られた特権的な存在で、清人の信者もキリスト教会の庇護下に置かれたため、従来の儒教(じゅきょう:中国古来の思想、学問)的な秩序を脅かすと捉えた非キリスト教徒達からの反感が高まりました。
義和団事件の勃発
急速に西洋文明が、清へ流入するようになると、清の民衆はこれに反感を抱くようになります。そのなかで義和団(ぎわだん)の活動が、山東省を中心に活発化。
義和団とは、義和拳と呼ぶ拳法を修練し、呪文を念じれば刀剣にも傷つけられない神力が得られると説く宗教的秘密結社です。かつて清政府に禁圧され、各地で反乱を起こした「白蓮教」(びゃくれんきょう:13~20世紀初頭まで続いた中国宗教のひとつ)の流れをくみ、清政府に反発する傾向が強い組織でした。
一方で、地方役人は義和団の排外運動に利用しようと、ひそかに支援していたことから、やがて義和団は「扶清仇教」(ふしんきゅうきょう:清を助け、キリスト教を排斥する)というスローガンを掲げて活動するようになっていきます。
山東省に進出していたドイツは、義和団によるキリスト教会の破壊、宣教師の殺害事件に対して清政府へ抗議。これを受けて1899年(明治32年)に、清政府は「袁世凱」(えんせいがい)に義和団の鎮圧を命じました。
しかし、清政府内にも欧米諸国による支配を快く思っていない者は多く、義和団を山東省から清の首都・北京がある直隷省(ちょくれいしょう)へ追放するにとどまります。このことが、むしろ義和団の活動を拡大させ、北京・天津を含む華北と満州にまで広まっていくことに。
こうして義和団のスローガンは、広がっていく過程で「扶清仇教」から「扶清滅洋」(ふしんめつよう:清を助け、西洋を壊滅する)へと変化。義和団にとって、もはやキリスト教だけが問題ではなく、清への侵略者である欧米諸国そのものを排除しなければならないとしたのです。
北清事変
清政府の宣戦布告
1900年(明治33年)3月になると、北京・天津の市中で義和団が横行するようになりました。5月末には欧米諸国は、自国民の保護のため天津に駐留する軍艦から陸戦隊を上陸させます。
続く6月には、欧米諸国による連合軍を編成して北京へ進軍。しかし北京の手前で義和団軍の妨害によって進軍が遮断されたため、北京・天津の海の玄関口にあたる「大沽砲台」(たーくーほうだい)の引渡しを求めますが、清政府はこれを拒否します。
業を煮やした連合軍の軍艦が大沽砲台を砲撃して占領すると、清政府は態度を硬化。ついに清政府は、義和団と連携して欧米諸国の連合軍と戦うことを決意し、宣戦布告にいたったのです。
日本の出兵
欧米諸国は、日本に負けた清がイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、ロシア帝国、日本の8ヵ国を相手に宣戦布告するとは予想していませんでした。
急遽、援軍を送る必要がありましたが、ヨーロッパ・アメリカからでは時間がかかりすぎて間に合いません。
急激な援軍要請に応じられるのは、位置関係的に日本とロシア帝国だけでしたが、日本政府は華北を平定することでかえって欧米諸国に野心を疑われ、国際的に孤立することを憂慮します。しかし、イギリス政府からの積極的な要請があり、他の欧米諸国の賛成も得られたため7月中旬にようやく出兵。
日本の援軍を得た連合軍は体制を整え、8月には北京の奪還に成功し、清政府の西太后と清皇帝・光緒帝は、遠く西安(せいあん:中国大陸中央部の古都、かつての長安)へ落ち延びました。
北京議定書と日本の立場
義和団事件の事後処理として、8ヵ国連合軍と清との間で結ばれたのが「北京議定書」。この議定書によって清には責任者の処分と4億5千万テール(現在の約2兆円相当)の賠償が定められ、年間予算が1億テール足らずだった清にとっては莫大な代償を払うことになったのです。
また日本は北清事変で先頭に立って戦ったことで、講和会議では欧米諸国と同等に扱われ、世界の舞台へ登場することとなりました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます