佐々木信子と国木田独歩

2019年02月19日 11時02分35秒 | 社会・文化・政治・経済

医師・伊東友賢(のち佐々城本支)と星艶(のち佐々城豊寿)の間の私生児として生まれる。

相馬黒光は従妹。青山女学校に学ぶ。
1895年(明治28年)、日本キリスト教婦人矯風会の主力メンバーであった母親が自宅で日清戦争の従軍記者を招いた晩餐会を開催したのをきっかけに、『国民新聞』紙上での従軍記『愛弟通信』で少し知られた国木田独歩に恋されて駆落ち同然に結ばれるが、独歩の貧困に耐えかねて、結婚後わずか5か月で出奔。
離婚後の1897年(明治30年)、独歩の子・浦子を出産、父の娘として入籍された浦子は生後3週間で里子に出す。
1901年(明治34年)父・本支が急死すると、農務省の農業練習生として米国留学中だった森広との結婚のため鎌倉丸に乗るが、船の事務長で妻子もある武井勘三郎と恋に落ち、シアトルへ到着後、そのまま同船で帰国。
事件は「鎌倉丸の艶聞」として「東京日日新聞」に連載され、独歩はこれによって、信子が自分の子を産んでいたことを初めて知る。
有島武郎『或る女』のモデル。
帰国後は武井と佐世保で旅館を経営し、そののち東京に戻って一女をもうける。
1921年(大正10年)に武井が亡くなったあとは、妹の看病のために栃木県真岡市に移り、第二次世界大戦中も日曜学校を開き、71歳で亡くなるまで静かに暮らした。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 武蔵野をよむ | トップ | 或る女 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会・文化・政治・経済」カテゴリの最新記事