創作 福子の愛と別離 13)

2024年07月29日 10時51分30秒 | 創作欄

それは、その年の6月の出来事だった。

文芸部の機関誌「青い空」の謄写版印刷が刷り上がり、野々村ゆかりが作業場から出て来た時だった。
晃は偶然、その場に通りかかったのだ。

ゆかりは中学2年生の時から6月19日に開かれる桜桃忌に一人で行っていた。
「先生、今年の桜桃忌には、わしと二人で行ってください」
そんな彼女が突然、教師の晃を誘ってのである。
その意図は、文芸部の顧問としてではなく、愛し始めた男性としてだった。
「そうは、いかないですね」晃は当然、教師の立場から断った。
「先生、お願い。先生に断られたら、私は死んでしまうかもしれない」長い髪を揺らして、懇願するのである。
「死んでしまうなんて、冗談でも言ってダメです」晃はその場から急いで立ち去りたい心情となる。
とことが、ゆかりは、あろうことか「先生、お願い」と言うと晃に身を寄せてきたのである。
学校の現場のことであり、晃は人目を意識する他なく「分かりました。考えおきます」と言いなが立ち去るほかなかった。

 

参考

太宰治の遺体が発見された6月19日は「桜桃忌」と名づけられ、墓所のある禅林寺(三鷹市下連雀)にはいまも毎年多くの太宰ファンが参拝に訪れています。

その鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持ちを酌んでここに葬ったのである。第一回の桜桃忌が禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。

6月19日に太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者の中には、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫などがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。

その間に、桜桃忌は全国から十代、二十代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。

太宰治の死から、50年を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。
(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』)

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