この記事は、2019年2月3日に放送した「NHKスペシャル 朝鮮戦争 秘録 ~知られざる権力者の攻防~」をもとに制作し、2019年3月1日に公開したものを再公開しました。

不信と恐怖はなぜ生まれたのか?

69年前に勃発し、いまだ終わらない戦争がある。アメリカを主体とする国連軍と、北朝鮮軍とそれを支援する中国軍が3年にわたり激しい攻防を繰り広げた朝鮮戦争だ。今も休戦状態にある戦争は、なぜ始まったのか。今回、NHKは4,000点もの外交資料を入手。見えてきたのは、朝鮮半島の武力統一を目論む北朝鮮と、その背後にいたソビエトや中国のしたたかな思惑だった。300万人以上が犠牲になり、北東アジアに不信と恐怖を植え付けた戦争の真相に迫る。

開戦前夜 権力者たちの駆け引き

北京郊外にある高級住宅地に、朝鮮戦争を主導した権力者たちの貴重な資料が保管されている。中国の著名な現代史研究家である華東師範大学の沈志華教授が、中国やロシアの政府機関から30年以上にわたって集めてきた朝鮮戦争に関する外交資料だ。

そこには、朝鮮戦争の開戦前から3人の指導者たちが密かに交わしていた4,000点もの電報や直筆の書簡がある。その3人とは、当時30代だった北朝鮮の指導者キム・イルソン、中国共産党の毛沢東、そして共産主義陣営の絶対的指導者だったソビエトのヨシフ・スターリン書記長だ。

沈教授はこれらの資料を分析し、朝鮮戦争の全貌に迫ろうとしている。

「そもそもなぜ戦争が始まったのか。いまだ多くの謎が残され、学界でもさまざまな議論があります。これらの秘録を公開し、戦争の真実に迫りたいと思っています。真実を知らなければ、現在も未来も見えてこないからです。」(沈教授)

朝鮮戦争はなぜ、どのように始まったのか?

当時世界では、アメリカが率いる資本主義陣営と、ソビエトが率いる共産主義陣営との間で冷戦が深刻化していた。ヨーロッパは「鉄のカーテン」で東西に分断。一方、アジアの対立の最前線は、日本の植民地支配から解放されたばかりの朝鮮半島だった。

朝鮮半島の南には、アメリカの支援を受けたイ・スンマンを大統領とする大韓民国が1948年8月に建国。北には、ソビエトを後ろ盾とするキム・イルソン率いる朝鮮民主主義人民共和国が1948年9月に建国された。

アメリカとソビエトという二大陣営が冷戦下で初めて戦火を交えたのが朝鮮戦争だった。ところが、今回入手した資料からは、より複雑な構図が見えてきた。共産主義陣営の権力者たちの間で、熾烈なせめぎ合いが繰り広げられていたのだ。

大量の兵器を提供し始めたソビエト

1949年3月、開戦の前年にスターリンの元をキム・イルソンが訪問。2人の会談記録からは、韓国への侵攻をはやるキム・イルソンに対し、スターリンは慎重な姿勢を見せていたことが分かる。

「南朝鮮には今もアメリカ軍がいます。ソビエトの援助が必要です。」(キム・イルソン)

「援助はできる。だが今は、用心する必要がある。」(スターリン)

スターリンは、当時唯一の核保有国だったアメリカとの全面戦争を恐れていた。しかし、諦めきれないキム・イルソンは、その後もソビエト側に繰り返し支援を要請。その様子はモスクワに送り続けた電報からも明らかになった。

「もし今、攻撃を行わなければ、私は朝鮮人民の信頼と支持を失うばかりか、祖国統一のチャンスまで逃してしまいます。我が軍は2週間、長くても2か月以内に朝鮮全土を制圧することができます。」(キム・イルソンの電報)

キム・イルソンの要求に応じなかったスターリンだが、会談の1年後に態度が豹変する。キム・イルソンに送った電報には、1年前とは打って変わり戦争に前のめりになるスターリンの姿があった。

「このような大事業には、大がかりな準備が必要だ。助ける用意はできている。」(スターリンの電報)

こうして、ソビエトは北朝鮮に大量の兵器を密かに提供し始める。なぜスターリンは北朝鮮への軍事支援に踏み切ったのか?

その謎を読み解く鍵は、ソビエトが1949年8月に行った原爆実験にある。このとき、ソビエトは悲願の原子爆弾の開発に成功し、アメリカに次ぐ核保有国となっていた。スターリンは核を保有したことで、アメリカに対抗する自信を深めていた。

明らかになったスターリンの謀略

ソビエトが北朝鮮に軍事支援を行ったもうひとつの要因には中国の存在がある。スターリンは中国に対して策略を巡らしていた。

中国東北部にある東洋屈指の軍港、旅順。ソビエトは第二次世界大戦直後にこの港を日本に代わって支配し、太平洋につながる戦略上の要衝(ようしょう)としていた。

毛沢東は中国の建国後、旅順港の返還をソビエトに要求。ソビエトに示した軍事協定の草案に、「ソビエト軍は、旅順区域から早急に撤退する」と記した。

スターリンがバツ印を書き込んだとされる軍事協定の草案

<スターリンがバツ印を書き込んだとされる軍事協定の草案>

しかし、スターリンはこの案に強く抵抗し、旅順を手放さないための口実を考えた。そして、最終的にまとまった中ソの軍事協定には次の条項が加えられるのである。

「両国が戦争に巻き込まれそうになった場合、ソビエトは引き続き、旅順港を使用できる。」

沈教授は、中ソ軍事協定が、朝鮮半島に緊張をもたらした一因と考えている。

「この協定によって、極東地域で緊張が高まればソビエトは引き続き旅順を支配できるようになりました。スターリンは北朝鮮に戦争をけしかけることで、自らの野望を実現しようとしたのです。」(沈教授)

突如始まった北朝鮮の総攻撃

1950年6月25日、突如として10万の北朝鮮軍が38度線を突破し、総攻撃をしかける。200台を超えるソビエト製の戦車や大砲で装備された北朝鮮軍は韓国軍を次々と撃破。3日で首都ソウルを制圧し、さらに南へと侵攻を続けた。

当時、韓国軍の兵士として38度線で監視にあたっていたキム・ウンジュン氏は、北朝鮮軍の突然の襲来に韓国軍は総崩れになったと証言する。

「初めて本物の戦車を見てびっくりしました。韓国軍には戦車なんてなかったですから。穴を掘って身を隠すしかありませんでした。反撃しようにも、私は小さな銃ひとつしか持っていなかったんです。」(キムさん)

この頃、スターリンはピョンヤンに電報を送り、進撃を促していた。

「攻撃を続けよ。南朝鮮が早く解放されれば、外国は介入できなくなる。」(スターリンの電報)

キム・イルソンが率いる北朝鮮軍は、開戦から2か月で南部のプサン近くまで侵攻。

誰もが勝利を確信していたと、当時、北朝鮮軍の兵士として最前線で戦っていたヤン・ウォンジン氏は振り返る。

「プサンの攻略まであと一歩のところに来ていました。ここまで進軍したのだから、まもなく、戦争が終わると信じていました。」(ヤンさん)

アメリカの反撃と知られざる日本の関与

こうした朝鮮半島の状況に危機感を強めたのがアメリカだ。トルーマン大統領はアメリカを中心に16か国からなる国連軍を結成し、共産主義陣営との戦争に踏み切った。

総司令官に抜擢されたのは、太平洋戦争で日本を破り、占領政策を指揮していたGHQのマッカーサー元帥。マッカーサーは形勢を逆転させるため、ある大胆な奇襲作戦を立案した。

ソウルから西におよそ40km、干満の差が激しく上陸が極めて難しいとされたインチョン。日本に駐留していた部隊を中心に7万人をここに上陸させ、北朝鮮軍を南北から挟み撃ちにするというものだった。

1950年9月15日、国連軍は上陸作戦を決行。2週間足らずでソウルを奪還し、38度線を超えて攻め込んだ。

実は、この作戦に日本人が深く関わっていたことが明らかになった。

マッカーサーが指揮した上陸作戦の内部資料には、朝鮮半島の地形を熟知する日本人が運航するLST(戦車揚陸艦)が、作戦に大きく貢献したと記されている。海軍の記録を調べると、上陸作戦で使用されたLSTの実に6割が日本人によって運航され、約2,000人が乗船していたことが分かった。

GHQはアメリカ海軍を通じて日本の商船や船員を管理していた。インチョン上陸作戦に参加した元海兵隊員のロバート・ワイソン氏は、LSTの運航を担った日本人の存在なしには、作戦の成功は難しかったという。

「日本人は朝鮮半島には何度も行っているから、海岸の地形について非常に詳しかったです。彼らは敵から攻撃を受けながら、ゲートを開き、荷下ろしを必死で担いました。我々は協力し合い、作戦を成功させたのです。」(ワイソンさん)

中国軍の参戦で新たな局面を迎える

アメリカの奇襲作戦で一気に形勢を逆転された北朝鮮軍は、中国との国境付近まで追い詰められていく。このとき、戦争は新たな局面を迎えた。

1950年10月、中朝国境を流れる鴨緑江におびただしい数の中国兵が集結していた。

毛沢東は正規軍に加え、中国各地から人員を集めて大部隊を仕立てようとしていたのだ。当時、鴨緑江に向かった元中国軍の秦さんは、役場の掲示板にあった「食事付の仕事」の募集を見て参加したという。

「そもそもどこに行くのかも、戦争に行くことも、まったく聞いていなかったんだ。急に兵士にされたけど、軍事訓練さえなかったよ。」(秦さん)

国連軍が中朝国境まであと一歩に迫ったとき、突如、越境してきた26万の中国軍。その数に国連軍は圧倒された。

元韓国軍の朴さんが当時の様子を語る。

「鳥の群れのような大軍が押し寄せて来たのです。最初に向かってくるのが、ラッパを吹いて攻撃開始の合図をする部隊。次に工具を使って、鉄条網を破壊する部隊が続きます。さらに酒を飲んで勢い付いた部隊が手榴弾を投げてきました。手榴弾がなくなると、そのまま突っ込んできました。」

中国軍が参戦した真相

戦況を大きく変えた中国の参戦。資料を紐解くと、そこに至る過程で権力者たちが腹を探り合い、駆け引きを繰り広げていたことが分かってきた。

国連軍の反撃に遭ったキム・イルソンは当初、ソビエトに援軍を求めた。しかし、スターリンは矢面に立つことを避けていたことが、残された手紙から分かる。

「勝利には少しばかりの挫折や敗北は伴うものだ。北朝鮮は、アジアにおける帝国主義に対抗する解放運動の旗手だ。キム・イルソン同士よ、忘れないで欲しい。あなたは孤立していない。」(スターリンの手紙)

苦境に陥ったキム・イルソンは、毛沢東に援軍を求めた。

「敬愛する毛沢東同志! 我々の力だけでは、この危機を乗り越えることは困難です。中国人民解放軍を出動させ、敵と戦って下さい。」(キムイルソンの書簡)

しかし、毛沢東はキム・イルソンを相手にせず、参戦は難しいとスターリンに弁明していた。

「慎重に検討した結果、軍事行動は厳しい結果を招くという結論に達しました。我が軍の装備は貧弱で、アメリカ軍に勝つ自信はありません。さらに中国が参戦すれば、アメリカとの全面戦争に突入する危険があります。」(毛沢東の電報)

ところが、スターリンは毛沢東をとがめ、参戦をけしかけた。いずれ戦火は中国に及び、日本の軍国主義が復活すると揺さぶりをかけたのである。

「戦争に巻き込まれることを恐れるべきではない。戦争が不可避なら、むしろ今起こせばいいのだ。さもなければ、数年後には、日本がアメリカの同盟国として再び軍事力を持ち、中国大陸への足場を築くだろう。」(スターリンの電報)

スターリンとのやりとりのあと、毛沢東は決断を下して現地の部隊にこう命じた。

「明日の夜、鴨緑江を渡れ!」(毛沢東の指令)

こうして中国軍が朝鮮戦争に本格参戦したのだ。

泥沼化していく朝鮮戦争

北朝鮮と中国を焚きつけ、戦争を長期化させたスターリン。その狙いはどこにあったのか? この頃、スターリンはモスクワに東ヨーロッパの指導者を集め、こう呼びかけている。

「無敵と言われていたアメリカは北朝鮮にさえ勝てない。これでアメリカは今後2~3年、アジアで足止めされるだろう。これは我々にとって好都合だ。ヨーロッパにおける軍事基盤を固めるため、このチャンスを有効に活かすべきだ。」(スターリン)

スターリンはアメリカをアジアに釘付けにし、ヨーロッパでの覇権争いを有利に進めようとしていたのだ。そして思惑通り、朝鮮戦争は中国軍の人海戦術によって泥沼化していく。

戦争をさらに凄惨にしたのが、アメリカによる無差別ともいえる空爆だった。

アメリカ空軍のパイロットだったロバート・ヴィージー氏は、72回の出撃で数百発の爆弾を投下。爆撃で民間人が巻き込まれることに対して、当時の思いをこう語る。

「(民間人の犠牲は)常に頭の片隅にありました。しかし、これが正しいことだと信じていたのです。我々は韓国、そして世界の民主主義を守っているのだ、と。」(ヴィージーさん)

アメリカや韓国の軍の記録から明らかになった空爆の全体像。朝鮮半島には太平洋戦争で日本に投下された爆弾の実に4倍、66万9千トンが投下されていたことが分かった。

爆撃作戦に部隊を送り込んだカーチス・ルメイ司令官は、かつて東京大空襲など日本本土への爆撃を指揮した人物だ。共産主義陣営を封じ込めるためには、激しい空爆も正当化されたという。

「我々は3年にわたり、朝鮮半島の全ての都市を焼き尽くし、人口の2割を犠牲にした。それが許されたのだ。」(ルメイ司令の口述記録)

北朝鮮に植えつけられた恐怖と不信

朝鮮半島全土を一気に制圧するとして戦争をしかけたキム・イルソンだが、開戦の1年後には苛烈な空爆で焦土と化した国土と、おびただしい市民の犠牲が眼前にあった。それは、まったく想像もしていなかった現実である。

さらにアメリカは、朝鮮戦争で原子爆弾の使用まで検討していた。

マッカーサーがまとめた原爆投下の計画案では、ウラジオストク、北京、大連など、共産主義陣営の26箇所を原爆投下の目標に挙げていた。

しかし、トルーマン大統領は原爆の使用を思いとどまる。核保有国となったソビエトとの全面戦争を恐れ、最終的にマッカーサーを解任した。

こうして膠着状態に陥った戦況のなか、アメリカの呼びかけで休戦に向けた交渉が始まる。ところが、ここでも共産主義陣営の駆け引きが続いた。

アメリカの空爆と核の脅威にさらされたキム・イルソンは休戦を望んだ。しかし、毛沢東は自らのメンツを重んじて一切譲歩しようとしない。

「キム・イルソン同志よ! 休戦は敗戦につながる一歩だ。我々は、戦争のおかげで鍛えられ、アメリカ帝国主義と戦う貴重な経験を得ているではないか。」(毛沢東の電報)

キム・イルソンはスターリンにも直談判を試みたが、取り合われることはなかった。

「我々は中国の代表団とこの問題を討議し、休戦には応じないという結論に達した。以上だ。」(スターリン)

権力者たちが駆け引きを続けるなか、犠牲者は増えていく。朝鮮戦争を通じてアメリカ軍3万3千人、中国軍は少なくとも11万6千人が戦死。一方、韓国と北朝鮮では合わせて66万人の兵士と、200万人の民間人が命を落とした。

アメリカ軍の作戦に従事していた日本人にも死者が出ている。GHQと外務省との間で交わされた通信記録などの資料から分かった日本人の死者は少なくとも57人。朝鮮戦争への日本人の関わりの全体像はいまなお見えないままだ。

終わらない戦争

朝鮮戦争の開戦から3年目の1953年3月5日、共産主義陣営を主導してきたスターリンが死去。残された毛沢東は、ようやく戦火を収めることに同意する。

しかし、東西冷戦の下で和平協定が結ばれることはなく、7月27日に調印されたのは暫定的な「休戦協定」に留まった。

休戦協定に調印するキムイルソン

<休戦協定に調印するキムイルソン>

南北は38度線で分断されたまま、対立は66年に及んでいる。現在、核兵器の保有を宣言した北朝鮮は、北東アジア情勢の不安定要因となっている。

その路線を敷いたキム・イルソンは、朝鮮戦争を通じてアメリカへの敵意だけでなく、後ろ盾だった中国やソビエトへの不信も募らせた。休戦から5年後には、自ら核開発に乗り出したとされている。その執念は、息子、そして孫へと受け継がれていった。

「キム・イルソン主席とキム・ジョンイル総書記の悲願だった、強力な宝剣を手中におさめた!」(キム・ジョンウンの演説)

一方のアメリカは、冷戦後も日本と韓国の基地を維持し、北朝鮮と対峙してきた。

そして今、70年近く続いてきた対立に動きが出始めている。

2月末に行われた米朝首脳会談では、北朝鮮の非核化と朝鮮戦争の終戦宣言が焦点となった。この戦争終結に向けた動きは、北東アジアに真の平和と安定をもたらすものなのか、それとも、新たな駆け引きの始まりなのだろうか。