赤報隊事件は、1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こしたテロ事件で「朝日新聞阪神支局襲撃事件」とも呼ばれる。
警察庁広域重要指定番号から「広域重要指定116号事件」とも呼ばれた。
記者が政治的テロによって殺害された日本国内唯一の事例とされる[1]。
2003年(平成15年)に全ての事件が公訴時効を迎え、2023年時点に至るまで犯人の特定がされていない未解決事件となっている(#時効を参照)[2][注釈 1]。
概要
「赤報隊」による事件
ここでいう「赤報隊事件」とは、1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こした以下の事件を指す。
1987年(昭和62年)
1月24日(土曜日) - 朝日新聞東京本社銃撃事件
5月3日(日曜日) - 朝日新聞阪神支局襲撃事件
9月24日(木曜日) - 朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
1988年(昭和63年)
3月11日(金曜日) - 朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
3月11日(金曜日)消印 - 中曽根康弘・竹下登両元首相脅迫事件
8月10日(水曜日) - 江副浩正リクルート会長宅銃撃事件
1990年(平成2年)
5月17日(木曜日) - 愛知韓国人会館放火事件
特に朝日新聞阪神支局襲撃事件では執務中だった記者2人が殺傷され、言論弾圧事件として大きな注目を集めた。
これら7つの事件のうち、警察庁は散弾銃による襲撃事件4件と時限爆弾による未遂事件1件の計5件を広域重要指定116号事件に指定した[3]。同庁は地下鉄サリン事件や警察庁長官狙撃事件と同じく、「市民社会に深刻な脅威をもたらすテロ」と位置づけた[4]。精力的な捜査が行われたにもかかわらず、2003年までにすべての事件が公訴時効を迎え[注釈 2]、事件は未解決のままとなっている。なお、中曽根・竹下両元首相脅迫事件は116号事件の「参考事件」、愛知韓国人会館放火事件は「類似事件」と位置付けられた。2つの事件とも「同一人物・グループによる一連の事件」と断定した[5]。
日本放送協会(NHK)は、未解決事件を検証するテレビ番組『未解決事件』で、朝日新聞阪神支局襲撃事件をリストに取り上げ[6]、『赤報隊事件』として放送した(2018年1月27日・28日放送分)。目撃情報などの事件の情報提供を求めている。情報をもとに取材する事もあるとしている[7]。
「日本民族独立義勇軍」による事件
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「赤報隊」は当初「日本民族独立義勇軍 別働赤報隊」と名乗っていたが、赤報隊事件より前に「日本民族独立義勇軍」を名乗る犯人による事件が発生している[8]。警察庁広域重要指定事件の対象とはなっていない。いずれも未解決事件になっている[9]。
1981年(昭和56年)
12月8日(火曜日) - 神戸米国領事館放火事件
1982年(昭和57年)
5月6日(木曜日) - 横浜元米軍住宅放火事件
1983年(昭和58年)
5月27日(金曜日) - 大阪ソ連領事館火炎瓶襲撃事件
8月13日(土曜日) - 朝日新聞東京・名古屋両本社放火事件
事件の経過
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犯人が送りつけた犯行声明文(朝日新聞東京本社銃撃事件)
朝日新聞東京本社銃撃事件
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1987年1月24日(土曜日)午後8時過ぎ、朝日新聞東京本社で発生した事件である[10][注釈 3][12]。当初は、事件発生の痕跡が見つからなかったため報道されなかった。朝日新聞阪神支局襲撃事件後になって、実際に事件が発生していたことが確認された。
後になって行われた実況見分(1987年10月1日実施)や朝日新聞社の社員の証言によると、1987年1月24日の午後8時過ぎに、東京本社1階の植え込みから建物の2階に向けて散弾銃を2発発射したものと見られる。実況見分により、植え込み付近で未燃焼の火薬がみつかったことから、銃身を短く切った散弾銃が使われたことが確認されている[11][10]。
事件当時、広告局で仕事をしていた社員数人が、窓ガラスに何かが当たったような音を2度聞いたので、窓の外のテラスに出てしばらく外の様子を見ていたが特におかしなこともなかったので、そのまま部屋に戻った[13]。
一方犯人は「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗って、時事通信社と共同通信社に犯行声明を送り付けた[14]。文面はどちらも同じもので、ワードプロセッサーによって書かれたものである[15]。時事通信社に送られた声明書は、1月26日の午前9時から10時頃に届き、総務部員経由で社会部に回された[14]。社会部は、声明書の実物をオートバイ便で警視庁クラブに送り、同クラブの公安担当記者がそのコピーを警視庁に提出した[14]。犯行声明書の入っていた封筒の方は、社会部周辺で捨てられてしまったので残っていない[14]。一方、共同通信社に送られた方は、犯行声明の入っていた封筒も声明文も捨てられてしまい、どのように処理されたのかの記録もとられていなかったため、どうなったのかは確認しようがなかった[14]。
朝日新聞社は犯行声明について、時事通信社の公安担当経由で知った[14]。そこで1月28日午後に東京本社の警備センターに問い合わせて確認を行ったが、その時には東京本社だけでなく、大阪、名古屋、西部(福岡)本社でも散弾銃発射の形跡を発見できなかったので、新聞報道をしなかった[16]。また、時事通信、共同通信も同様に報道しなかった。そのような事情を知らない犯人は、自分たちがこれらの報道機関に無視されたと思い込み、それが次の朝日新聞阪神支局襲撃事件の凶行に及ぶ原因になったとみられる(実際に、朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯行声明文にそのことが書かれている)。
犯行声明の中で、犯人は自分たちを「日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊」とし、さらに「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない」「一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である」「特に朝日は悪質である」と朝日新聞に激しい敵意、恨みを示し、マスコミを標的としたテロの継続を示唆する内容だった[17]
朝日新聞阪神支局襲撃事件
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記者の体内から摘出された散弾粒
1987年5月3日夜に発生した事件で、朝日新聞の小尻知博記者(享年29)が殺害され、犬飼兵衛記者(当時42歳[注釈 4])が重傷を負った[19]。現場にいたもう1人・高山顕治記者(当時25歳)に対しては、犯人が発砲しなかったため無事だった。
事件発生の直前、4月後半から5月初めにかけて、阪神支局には夜になると無言電話が頻繁にかかって来ていた[20][注釈 5]。
5月3日(日曜日)は3連休の初日で、当日の当番勤務は犬飼、小尻、高山の3人で、他にデスク役の大島支局長が出勤していた。襲撃事件が起きたのは午後8時15分頃のことである[21]。支局長は3人の書いた原稿を本社に送ったあと、支局近くの寿司店での会合に出席しており不在だったが、3人は午後7時ころから支局2階の編集室で夕食にビールを飲みながらすき焼きを食べていた。夕食をほぼ食べ終えていた8時15分頃に、黒っぽいフレームの眼鏡をかけ、黒っぽい目出し帽をかぶった全身黒装束の男が散弾銃を構えて編集室に押し入り、ソファーに座って雑談していた犬飼記者の左胸めがけていきなり発砲した[22]。
撃ち方は腰だめではなく、むしろ射撃の撃ち方に近いものだったという。ただ、犬飼記者は、銃床を肩に当ててはいなかったように思うと証言している。「銃声はクリスマスの時などに使うクラッカーの音を大きくしたような音」がしたという[23]。犬飼記者は腹部、右手、左ひじなどに約80発の散弾粒が食い込み内出血を起こしていたが、左胸のポケットに入れていた鰻皮製の札入れとボールペンのおかげで、心臓から約2ミリメートルまでの際どいところで散弾粒が心臓に達することはなく、一命を取り留めた。小指が吹き飛び、薬指は皮1枚でつながっているだけでほぼ切断された状態、中指は半分ちぎれかけていた[24]。
うたたねをしていた小尻記者は発砲音で目が覚め、ソファーから起き上がろうとした。これに驚いた犯人は、小尻記者の脇腹めがけて2発目を発砲した。発砲は至近距離から行われており、銃口が接するほどだったため、プラスチック製のカップワッズ(直径約2センチメートル、長さ約5.8センチメートル)がそのまま体内に入り、胃の後ろ側で散弾粒が飛散した。カップワッズには約400個の散弾が詰まっており、内約200個がカップ内に残り、残りが飛散した[25][注釈 6]。
高山記者は、銃声を聞いてソファーの後ろに隠れたが、犯人は一瞬高山記者に銃口を向けた[21]。しかし、犯人は発砲せず、体を反転させ、銃を抱えたまま立ち去った[21][27]。銃身を短く切った2連式の散弾銃が犯行に使われたと推定されており、この時には残りの銃弾がなかったため発砲しなかったのだろうと推測されている[21]。高山記者は数秒間呆然としてソファーに座っていたが、すぐに110番に電話し通報、犬飼記者の止血などをしている内に、警官2名が到着、支局長も戻り、小尻記者も担架で救急車に運ばれていった[28]。
犯行時間は1分足らずの短時間で行われ、犯人は終始無言だった[21]。顔が見えなかったので犯人の年齢はよくわからないが、犬飼記者は、身のこなしの柔らかさから割と若いのではないかと証言している[29]。高山記者は、体つきや動作から、20歳から30歳くらいの若さではないかと証言している[23]。
小尻記者は、関西労災病院で5月3日午後8時40分から翌4日午前1時10分まで治療を受け、手術により輸血、左腎臓摘出、脾臓摘出、心臓マッサージなどが行われたが手術中に心停止を起こし、回復しなかった[26]。同記者は翌5月4日に死亡[30](殉職により記者のまま次長待遇昇格)、犬飼記者も右手の小指と薬指を失った[注釈 7]。勤務中の記者が襲われて死亡するのは、日本の言論史上初めてであった[31]。
5月6日には、時事通信社と共同通信社の両社に「赤報隊一同」の名で犯行声明が届いた。1月の朝日新聞東京本社銃撃も明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」と殺意をむき出しにした犯行声明であった[32][33]。
→「小尻知博」および「en:Tomohiro Kojiri」も参照
朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
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1987年9月24日午後6時45分ごろ、名古屋市東区新出来にある朝日新聞名古屋本社の単身寮が銃撃された[34]。無人の居間兼食堂と西隣のマンション外壁に1発ずつ発砲した[35]。その後、「反日朝日は五十年前にかえれ」と戦前回帰、戦後民主主義の全否定[36][37]、戦後の朝日新聞への敵意を示す犯行声明文が送りつけられた[38]。
朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
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1988年3月11日、静岡市(現:静岡市葵区)追手町の朝日新聞静岡支局(現:静岡総局)の駐車場に、何者かが時限発火装置付きのピース缶爆弾を仕掛けた。翌日、紙袋に入った爆弾が発見され、この事件は未遂に終わった[39][40]。犯行声明では、「日本を愛する同志は 朝日 毎日 東京などの反日マスコミをできる方法で処罰していこう」と朝日新聞社だけでなく毎日新聞社や中日新聞東京本社(東京新聞)も標的にする旨が記されていた[41]。しかし、実際に毎日・中日の2社を対象とした事件はなかった。
中曾根・竹下両元首相脅迫事件
静岡支局事件と同じく1988年3月11日の消印(静岡市内で投函)で、群馬県の中曽根康弘前首相の事務所と、島根県の竹下登首相の実家に脅迫状が郵送された[42][43]。中曾根には「靖国参拝や教科書問題で日本民族を裏切った。英霊はみんな貴殿をのろっている」「今日また朝日を処罰した。つぎは貴殿のばんだ」と脅迫[44]、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と靖国神社参拝を要求する内容だった[45]。
江副元リクルート会長宅銃撃事件
1988年8月10日午後7時20分頃、リクルート事件で世間を騒がせていた江副浩正リクルート元会長宅に向けて散弾銃1発が発砲された[42][46]。犯行声明は、その動機を「赤い朝日に何度も広告をだして金をわたした」からだとしている。また、「反日朝日や毎日に広告をだす企業があれば 反日企業として処罰する」と企業を標的にした内容も犯行声明には記されていた[47]。ただし、リクルート社が他紙に比べ、朝日に多く広告を出していたわけではなかった[48]。
愛知韓国人会館放火事件
1990年5月17日午後7時25分頃、名古屋の愛知韓国人会館(民団系)が放火される事件が発生した[42][49]。犯行声明では、当時の韓国・盧泰愚大統領を「ロタイグ」と日本語読みした上でその来日に反対し、「くれば反日的な在日韓国人を さいごの一人まで処刑」と脅した[50]。