障害を通して人間の身体のあり方を研究する、科学技術創成研究院 未来の人類研究センター長の伊藤亜紗准教授。現在進めている研究やこれまでの経験を通して見えてきた、伊藤准教授が考える“本当の多様性”とは。
すべては昆虫好きから始まった
伊藤亜紗准教授
昆虫は人間に比べてずっと小さく、暖かい血液も流れていないし、脳もない。きっと、自分とは違う世界を生きているんだろう。昆虫が見ている世界を自分でも見てみたい。そんな思いを小さい頃に抱いて、大学2年次までは、生物学者を目指し理系にいました。
生物学者を目指したそもそものきっかけは、東工大名誉教授の本川達雄先生の著書『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』を中学生時代に読んで感動したからです。生物によってそれぞれ異なる時間感覚をもっていると。「やっぱりそうなんだ。生物ごとに異なる世界があるんだ」と。ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 本川達雄 著
ゾウの時間 ネズミの時間
―サイズの生物学
本川達雄 著ところが、大学に入ってみると、理系の学問分野は非常に細分化されていて、違和感を覚えました。私が知りたいのは、「それぞれの生物は、世界をどのように感じながら生きているのか」といった総合的で巨視的な視点だったからです。
同じ人間でも身体はすべて違っており、違う世界を生きている
大学3年次に文系に転向し、文学部で美学を選択しました。美学とは、芸術作品を見たときの感情など簡単には言葉にできない曖昧な部分について深く考える分野です。美学を通して、生物の身体の違いから人間の身体の違いに興味が移っていきました。同じ人間でも、私たちの身体はすべて違っており、違う世界を生きていることに気付いたのです。
自分は視覚に縛られている。そういった束縛から解放されてみたいといった興味もあり、視覚障害者にお話しを伺うことにしました。実際、視覚障害者の方に伺うと、声の反響で今いる部屋の大きさや人の数が大体わかるなど、視覚とは異なる方法で世界を認知していることがわかりました。さらに、吃音者や認知症の方、癌や事故で身体の一部を失った方など色々な方々に話を聞き、それぞれ世界の認識のしかたや身体の使い方が異なることを知りました。
柔道の動きを“手ぬぐい”で翻訳
伊藤亜紗准教授
最新の研究では、NTTの研究所と共同で、視覚障害者にスポーツを楽しんでもらうという取り組みを行っています。
視覚障害者の主要なスポーツ観戦の方法は、言葉による実況中継を聞くことです。しかし、視覚障害者にお話を聞くと、「ライブ感がない」「他の観戦者との一体感がない」といった意見が返ってきました。そこで、このような実況中継ではカバーできない部分をカバーする方法はないかと考えたときに思いついたのが、触覚や振動を使うということでした。
最初に試したのは、タオルや手ぬぐいを使って柔道を“翻訳”するということでした。なぜ、タオルや手ぬぐいを使ったかというと、視覚障害者が伴走者である健常者と一緒に走る方法をヒントにしたのです。お互いの動作をシンクロさせるため、輪になったロープを一緒に持ちながら走るのです。
ロープを使った感情の伝達
たかがロープと思われるかも知れませんが、そこには、ものすごい情報伝達力があります。たとえば、走っていて、目の前に坂が現れると、健常者は、「うわっ!坂だ」と思います。それが、ロープを通じて視覚障害者にも「うわっ、坂だ!」と、伝わるのです。ここには、言語化する前の瞬間的な感情がロープを通してダイレクトに伝わるという面白みがあります。本人もコントロールできないレベルで、日常生活とは異なるコミュニケーションが行われるというわけです。
これを、柔道に取り入れることにしたのです。手ぬぐいの両端を2人の柔道の選手がもち、真ん中を視覚障害者がもつというものです。それにより、2人の選手同士のせめぎ合いや駆け引きが手ぬぐいを通して臨場感を持って視覚障害者に伝わります。
柔道の動きを“手ぬぐい”で翻訳
視覚でのスポーツ観戦はもはや時代遅れ?!
一方で、健常者も単に目で見てスポーツを観戦しているだけであることに気付きました。果たしてそれで良いのでしょうか。実際、スポーツ選手自身も常に視覚を使っているわけではありません。たとえば、サッカー選手の場合、上手になればなるほどボールを見ずにドリブルしたりします。
そのため、目を使って観戦するスポーツと実際のスポーツとの間には相当なずれがあると思い、新たに、視覚に頼らずにスポーツを表現する「見えないスポーツ図鑑outer」の作成を始めました。現在は10種目に及んでいます。
これは、色々な種目のトップ選手に、その種目を実際にやっている時の感覚を聞き出し、その感覚を身近な道具を使って翻訳するというものです。
10種目のうち、「フェンシング」と「野球」を紹介します。
―フェンシング
フェンシングは、剣を人差し指と親指で軽く持ちます。剣は非常に柔らかいので、相手の剣の動きに自分の剣をうまく沿わせ、外して突くといった感じで、手首の動きが重要です。それを、「C」と「H」の形をした木片のブロックを組み合わせることで翻訳しました。
お互い目をつぶり、一人は、組み合わさったブロックを外そうとする、もう一人は、外さないようにして、対戦します。
―野球
お互い目をつぶり、ピッチャー役の人が長い紐を手前に引きます。バッター役の人は、ピッチャー役の人の肩に手を触れて動きを読みながら、その紐を抑えます。
バッターが赤い部分を抑えたらホームラン、白い部分を抑えたら空振り、その周辺だったらヒットと判定。
野球とは、バッターがピッチャーの動きをどう読むかという心理戦であることを紐を使って翻訳しました。
スポーツというものは、すごく努力をしてその技を極めないと、選手が味わっている醍醐味はわからないと考えられがちですが、スキルがなくても種目の本質や質感を味わえたらいいなと思ったのです。そこが少しでもわかると、スポーツの見え方が変わってきます。トップ選手への取材を基にその本質を翻訳することによって、今後もスポーツ観戦というものをより膨らませていきたいと思っています。
“多様性”という言葉の氾濫に警鐘を鳴らす
私が進めている研究やこれまでの経験を通して、「本当の多様性とは何か」を考えています。個人的には、現在使われている「多様性」という言葉の氾濫には警戒しています。
私は半年間、アメリカに住んだ経験がありますが、ダイバーシティ(=多様性)という言葉はほとんど耳にしませんでした。なぜなら、多様性は当たり前のことであり、多様性を前提に「ではどのような社会を構築していくか」が課題だからです。
一方、日本では昨今あらゆる場面で「多様性」や「共生」といった言葉がうたわれています。私は、それが、逆効果になっているように感じています。
「みんなちがってみんないい」と言いながら、結局、お互い干渉しないようなバラバラな現状を肯定する言葉になっているのではないか。例えば、「〇〇人」だとか、障害に関していえば、「視覚障害者」という風に安直にラベリングすることに繋がっているように思います。
そうではなく、重要なのはむしろ、一人の人間の中にある多様性です。視覚障害者であっても、家庭ではお父さんかもしれない、仕事上では先生かもしれません。「視覚障害者」という側面は、その人を構成する要素のひとつにすぎません。多様な面があると思えば、関わり方の選択肢も増えるし、自分には見えていない面があるということで、相手を尊重できるようになります。
伊藤亜紗准教授
一人の人間の中に存在する多様な側面=“多様性”
では、どうすれば、今の状況を変えることができるか。まず、障害者という言葉を聞くと、「配慮」「サポート」「介助」といった発想につながりがちです。時として必要な場合もありますが、そればかりでは押し付けの正義になってしまいます。このような一方的な関係性を崩すことから始めるとよいと思います。
たとえば、先ほど紹介した視覚に頼らないブロックを使ったフェンシングは、視覚障害者と本気で遊ぶことができます。また、やってみると、視覚障害だからこそ得意な部分があることもわかってきます。それにより、障害者というラベルを外した、その人自身の真の姿が見えてきます。
また、多様であるとは、雑然としたカオスが容認されているということです。日本人は、カオスに対する耐性が低いからか、「空気」というもので場を支配しようとしがちです。「この場では、こうふるまうべきだ」といった暗黙のルールを共有し、カオスを許さないのです。
たとえば、「この場では、ありがとうございましたと言うべきだ」というように、日本ではすべてが儀式的です。それが、言語や文化の違う外国人や、発達障害の当事者など、その場の空気を読むことが難しい人たちにとって生きづらい社会を作っています。“空気を読まない”とは、勝手なことをするということではなく、儀式性抜きに相手のことをきちんと思いやるということです。
障害に限らず、人種や性別、文化や宗教など、それぞれの違いが人々の心の障壁になるのではなく、「一人の人の中にある生きた多様な側面=多様性」が当たり前に受け入れられる社会の在り方について、今後も考えていきたいと思っています。
理工系大学発の人文社会系の研究組織「未来の人類研究センター」が始動!
2020年2月に「未来の人類研究センター」が設立。センター長に任命された伊藤准教授に設立の目的と狙いを聞いた。
「私たちの生活に大きな変化をもたらしてきた科学技術は、ロボットや人工知能の台頭により、今、人間の定義そのものを揺さぶりつつあります。科学技術のよりよい可能性を引き出すためには、数十年先、数百年先の人類を見据えた現実的かつ本質的な問いを設定する必要があります。
このような課題に応えるため、未来の人類研究センターは設立されました。理工系大学発の人文社会系の研究組織で、ここにリベラルアーツ研究教育院の多様な研究者が集結しました。
最初の5年間は、『利他』をテーマに掲げ、活動していく予定です。排他主義がはびこり、分断が加速する殺伐とした時代の中でよりよい社会の在り方を考えていきます。その際に手がかりになるのが、『利他』という視点です。自分のためでないもののために行動する。
この一見、不合理と思えるような行動の中に、人類について、社会について、科学技術について、まったく新しい方法で考え直すヒントがあるのではないかと思っています。能力主義とも、功利主義とも、数値による評価とも異なる人間の人間らしい側面を『利他』の光で深く照らし出すことが、私たちの考える『利他学』です。
政治、経済、宗教、人工知能、環境、宇宙など研究領域は多岐に及びますが、さまざまな分野の研究者や専門家との共同研究や交流を通し、東工大ならではのアプローチで、『利他学』を開拓していく予定です。
どうぞ、未来の人類研究センターの『利他プロジェクト』にご期待ください」
リベラルアーツ研究教育院の多様な研究者が集結
未来の人類研究センターouter
伊藤亜紗
東京工業大学 科学技術創成研究院
未来の人類研究センター センター長
リベラルアーツ研究教育院 准教授
生物学者を目指していたが、大学3年次に文系に転向。
2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得のうえ、退学。
同年、同大学にて博士号を取得(文学)。
日本学術振興会特別研究員を経て、2013年に東京工業大学 リベラルアーツセンター 准教授に着任。2016年4月より現職。
2019年の3月から8月まで、マサチューセッツ工科大学客員研究員。
2020年2月より東京工業大学 科学技術創成研究院 未来の人類研究センター センター長。
お掃除ロボットが周囲の壁にぶつかり人の手を借りながら作業を進めていき、私たちがその姿になぜか健気さを感じるように、人間は単独で存在する「閉じたシステム」ではなく、周囲との関わりのなかから在り方を見い出す「オープンなシステム」であるということが、繰り返し強調される。人との関わりのなかでしか存在できないロボットたちの開発やロボットに対する人々の反応を通して導かれる、「弱さを隠さず、ためらうことなく開示しておくこと」、「とりあえずやってみて、周りの反応を見て次の動きを決める」ことが本来の人間らしい在り方だという見解には、人との関わり方について改めて考えさせられる。また、お互いを参照しながら自らの動きを決定するコンピュータープログラム「目玉ジャクシ」の例から、それぞれが自然とコミュニティのなかでニッチを獲得して棲み分けが進んでいく例からは、個性や自己というものが社会における関係性あってのものだと思い知らされる。
書籍としては、全体としてしっかり構成されているというより、個々の事例に対する考察の積み重ねをまとめて一冊にした形となっている。そのため重複や散漫になる部分も少なくはないが、結果的に人間が何であるかに対する主張は明確に打ち出されている。一風変わった研究をはじめた著者自身の動機が「何となく」だったということも、本書のテーマとのつながりもあって面白い。