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〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション

2021年01月24日 13時44分24秒 | 事件・事故

〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション

岡田美智男著

ひとりでは何もできないロボットとともに、コミュニケーションについて考えてみた――。人とロボットの持ちつ持たれつの関係とは? 自分ではゴミを拾えない〈ゴミ箱ロボット〉。

人の目を気にしながらたどたどしく話す〈トーキング・アリー〉、一緒に手をつないで歩くだけの〈マコのて〉……。 〈弱いロボット〉の研究で知られる著者が、自己、他者、関係について、行きつ戻りつしながら思索した軌跡。

著者について

岡田 美智男
一九六〇年福島県生まれ。一九八七年、東北大学大学院工学研究科博士後期課程修了。工学博士。NTT基礎研究所情報科学研究部、国際電気通信基礎技術研究所などを経て、二〇〇六年より豊橋技術科学大学情報・知能工学系教授。専門は、コミュニケーションの認知科学、社会的ロボティクス、ヒューマン・ロボットインタラクション、生態心理学など。主な著書に『弱いロボット』(医学書院)、『ロボットの悲しみ コミュニケーションをめぐる人とロボットの生態学』(共編著、新曜社)など。〈弱いロボット〉の提唱により、平成二十九年度科学技術分野の文部科学大臣表彰科学技術賞(科学技術振興部門)などを受賞。
 
▽「こうあらねばあらない」という画一的な正解はない。
自分自身の生命をありのままの姿で生きていくことだ。
縁する人たちと調和の社会生活を織り成していく生き方が求められている。
▽「弱さ」が結果的に「強さ」になる、という視点。
人の体を外から見ると自己完結しているように見えるが、本当は不完結なのだ。
不完結だからこそ、コミュニケーションを取って補完し合う。
また、「弱さ」を他の人にみせようとせず、強がってしまう傾向がある。
▽人が「弱さ」を少し開示してくれると<私と同じだ>と思えて距離が縮まり、共感が生まれる。
反対に、互いに強がってばかりいては、なかなか協力関係が生まれないと思う。
社会を見ても、弱さは隠されることがほとんどだ。
▽「弱さ」から「強い関係性」を生む。
はじめから全部備わっているのではなく、ほんのちょっと隙間や余地があることが、周囲が手を加えるきっかけとなる。
不完全であったり、弱さがあったりするからこそ、そうした面を介して人とつながり、一緒に価値をつくり出していけるのだと思う。
自分の弱いところを繕わずに伝えることができれば、次の展開がどのどん見えてくるものと感じている。
そうしたことができるのは、相手を信頼しているからこそだ。
そして、相手もまた弱さをさらけ出してくれることで、信頼関係はさらに強くなるだろう。
▽不完全さという意味での「弱さ」を互いに共有することで、距離が縮まり、強いつながりが生まれる
▽「依存先の分散としての自立」という概念を提唱する東京大学の熊谷晋一郎准教授
自立とは「誰の手を借りずに、一人で行えること」ではない。
「依存先を増やし、分散させておくことである」と指摘している。
▽レジリエンス(困難を乗り越える力)を「個人の能力や資質」と見るのではなく、「頼れる依存先を豊かにしていくこと」と見る考え方だ。
不完全さの共有の中で、「個人の力」の足し算を超えた、組織としての強さが生まれてくるのだと思う。

書名にある「弱いロボット」とは「他者の手助けを引きだしながら、結果として目的を達成してしまう……関係論的なロボット(p.210)」であり、つまり「ひとりでできるもん!」ではなく「ひとりでできないもん!」と人に助けてもらうロボットである。
 本書は、そのような「人とのコミュニケーションにすこしなりとも苦労を重ねているロボットたちと一緒に(pp.250-251)」、副題にある「わたし・身体・コミュニケーション」について考えていく書。「二十年近く考えてきたこと」を「試行錯誤の顛末をそのまま(p.251)」に書いたとある。
 十分に理解できない個所もあるけれど面白い。
 例えば、我々は自分の顔を(鏡とかを使わなければ)ほぼ見ることができないという当然のことに気づかされたり、我々は「確固とした自分」というものがあるとか、言葉を発するということは私のみによる行為だと考えがちだが、本書を読むとそう一筋縄ではいかぬのだなと思ったり。
 「わたしたちの言葉はいつも誰かに向けられており、『宛名』をともなう(p.109)」「他者との相互行為にはいつも賭けをともなう(p.138)」「個々の発話が担っている機能や意味が明確なほど、どういうわけか硬い会話になってしまう(p.158)」等、引用も含めコミュニケーションを考える手掛かりに富んでいる。昨今、会議がZoomなどを介したものに切り替わっているが、その時に感じる微妙な違和感のようなものの正体も、本書を手掛かりに考えることができそうである。
 
 
ロボットのメカ的な内容よりもコミュニケーションの実現方法といった内容が、人間同士の接し方にもつながっていて面白かったです。
 
 
ただ一緒に並んで歩く「マコのて」、発話に反応するだけの「む~」、自分ではゴミを拾えなくて周りの人に手伝ってもらう「ゴミ箱ロボット」。次々と妙なロボットを作り続ける著者が、研究から市販のお掃除ロボットも含めた、ロボット開発側の視点や知見から、人間らしさやコミュニケーションとは何かを考察する。

お掃除ロボットが周囲の壁にぶつかり人の手を借りながら作業を進めていき、私たちがその姿になぜか健気さを感じるように、人間は単独で存在する「閉じたシステム」ではなく、周囲との関わりのなかから在り方を見い出す「オープンなシステム」であるということが、繰り返し強調される。人との関わりのなかでしか存在できないロボットたちの開発やロボットに対する人々の反応を通して導かれる、「弱さを隠さず、ためらうことなく開示しておくこと」、「とりあえずやってみて、周りの反応を見て次の動きを決める」ことが本来の人間らしい在り方だという見解には、人との関わり方について改めて考えさせられる。また、お互いを参照しながら自らの動きを決定するコンピュータープログラム「目玉ジャクシ」の例から、それぞれが自然とコミュニティのなかでニッチを獲得して棲み分けが進んでいく例からは、個性や自己というものが社会における関係性あってのものだと思い知らされる。

書籍としては、全体としてしっかり構成されているというより、個々の事例に対する考察の積み重ねをまとめて一冊にした形となっている。そのため重複や散漫になる部分も少なくはないが、結果的に人間が何であるかに対する主張は明確に打ち出されている。一風変わった研究をはじめた著者自身の動機が「何となく」だったということも、本書のテーマとのつながりもあって面白い。
 
 
 
 
 

一念を定め努力することだ

2021年01月24日 13時40分54秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽勇気は、希望を呼び、力を湧かせる。
勇気こそ、自分の殻を破り、生命力を高めてゆく原動力である。
▽失敗の原因は、いろいろあるだろう、その本質は<慢心>。
慢心とは、いい気になること、おごり高ぶることである。
▽生命の尊厳、平和主義は、人間の生存の本質から発するものである。
宗教、人種、民族、イデオロギーを超えて、人類が渇望する普遍の理念である。
その実現を目指すものが<人間主義>であり、すべての出発点である。
▽自分の壁を破るには、腹を決めること、断じて成し遂げてみせる、一念を定め努力することだ。
果敢に行動する。
走り出せば加速度がつき、勢いが増す。


伊藤亜紗t東京工業大学准教授が考える“本当の多様性”とは

2021年01月24日 11時29分33秒 | 社会・文化・政治・経済

障害を通して人間の身体のあり方を研究する、科学技術創成研究院 未来の人類研究センター長の伊藤亜紗准教授。現在進めている研究やこれまでの経験を通して見えてきた、伊藤准教授が考える“本当の多様性”とは。

すべては昆虫好きから始まった

伊藤亜紗准教授

昆虫は人間に比べてずっと小さく、暖かい血液も流れていないし、脳もない。きっと、自分とは違う世界を生きているんだろう。昆虫が見ている世界を自分でも見てみたい。そんな思いを小さい頃に抱いて、大学2年次までは、生物学者を目指し理系にいました。

生物学者を目指したそもそものきっかけは、東工大名誉教授の本川達雄先生の著書『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』を中学生時代に読んで感動したからです。生物によってそれぞれ異なる時間感覚をもっていると。「やっぱりそうなんだ。生物ごとに異なる世界があるんだ」と。ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 本川達雄 著
ゾウの時間 ネズミの時間

―サイズの生物学
本川達雄 著ところが、大学に入ってみると、理系の学問分野は非常に細分化されていて、違和感を覚えました。私が知りたいのは、「それぞれの生物は、世界をどのように感じながら生きているのか」といった総合的で巨視的な視点だったからです。
同じ人間でも身体はすべて違っており、違う世界を生きている

大学3年次に文系に転向し、文学部で美学を選択しました。美学とは、芸術作品を見たときの感情など簡単には言葉にできない曖昧な部分について深く考える分野です。美学を通して、生物の身体の違いから人間の身体の違いに興味が移っていきました。同じ人間でも、私たちの身体はすべて違っており、違う世界を生きていることに気付いたのです。

自分は視覚に縛られている。そういった束縛から解放されてみたいといった興味もあり、視覚障害者にお話しを伺うことにしました。実際、視覚障害者の方に伺うと、声の反響で今いる部屋の大きさや人の数が大体わかるなど、視覚とは異なる方法で世界を認知していることがわかりました。さらに、吃音者や認知症の方、癌や事故で身体の一部を失った方など色々な方々に話を聞き、それぞれ世界の認識のしかたや身体の使い方が異なることを知りました。

柔道の動きを“手ぬぐい”で翻訳

伊藤亜紗准教授

最新の研究では、NTTの研究所と共同で、視覚障害者にスポーツを楽しんでもらうという取り組みを行っています。

視覚障害者の主要なスポーツ観戦の方法は、言葉による実況中継を聞くことです。しかし、視覚障害者にお話を聞くと、「ライブ感がない」「他の観戦者との一体感がない」といった意見が返ってきました。そこで、このような実況中継ではカバーできない部分をカバーする方法はないかと考えたときに思いついたのが、触覚や振動を使うということでした。

最初に試したのは、タオルや手ぬぐいを使って柔道を“翻訳”するということでした。なぜ、タオルや手ぬぐいを使ったかというと、視覚障害者が伴走者である健常者と一緒に走る方法をヒントにしたのです。お互いの動作をシンクロさせるため、輪になったロープを一緒に持ちながら走るのです。

ロープを使った感情の伝達

たかがロープと思われるかも知れませんが、そこには、ものすごい情報伝達力があります。たとえば、走っていて、目の前に坂が現れると、健常者は、「うわっ!坂だ」と思います。それが、ロープを通じて視覚障害者にも「うわっ、坂だ!」と、伝わるのです。ここには、言語化する前の瞬間的な感情がロープを通してダイレクトに伝わるという面白みがあります。本人もコントロールできないレベルで、日常生活とは異なるコミュニケーションが行われるというわけです。

これを、柔道に取り入れることにしたのです。手ぬぐいの両端を2人の柔道の選手がもち、真ん中を視覚障害者がもつというものです。それにより、2人の選手同士のせめぎ合いや駆け引きが手ぬぐいを通して臨場感を持って視覚障害者に伝わります。

柔道の動きを“手ぬぐい”で翻訳

視覚でのスポーツ観戦はもはや時代遅れ?!

一方で、健常者も単に目で見てスポーツを観戦しているだけであることに気付きました。果たしてそれで良いのでしょうか。実際、スポーツ選手自身も常に視覚を使っているわけではありません。たとえば、サッカー選手の場合、上手になればなるほどボールを見ずにドリブルしたりします。

そのため、目を使って観戦するスポーツと実際のスポーツとの間には相当なずれがあると思い、新たに、視覚に頼らずにスポーツを表現する「見えないスポーツ図鑑outer」の作成を始めました。現在は10種目に及んでいます。

これは、色々な種目のトップ選手に、その種目を実際にやっている時の感覚を聞き出し、その感覚を身近な道具を使って翻訳するというものです。

10種目のうち、「フェンシング」と「野球」を紹介します。

―フェンシング

フェンシングは、剣を人差し指と親指で軽く持ちます。剣は非常に柔らかいので、相手の剣の動きに自分の剣をうまく沿わせ、外して突くといった感じで、手首の動きが重要です。それを、「C」と「H」の形をした木片のブロックを組み合わせることで翻訳しました。
お互い目をつぶり、一人は、組み合わさったブロックを外そうとする、もう一人は、外さないようにして、対戦します。

―野球

お互い目をつぶり、ピッチャー役の人が長い紐を手前に引きます。バッター役の人は、ピッチャー役の人の肩に手を触れて動きを読みながら、その紐を抑えます。
バッターが赤い部分を抑えたらホームラン、白い部分を抑えたら空振り、その周辺だったらヒットと判定。
野球とは、バッターがピッチャーの動きをどう読むかという心理戦であることを紐を使って翻訳しました。

スポーツというものは、すごく努力をしてその技を極めないと、選手が味わっている醍醐味はわからないと考えられがちですが、スキルがなくても種目の本質や質感を味わえたらいいなと思ったのです。そこが少しでもわかると、スポーツの見え方が変わってきます。トップ選手への取材を基にその本質を翻訳することによって、今後もスポーツ観戦というものをより膨らませていきたいと思っています。

“多様性”という言葉の氾濫に警鐘を鳴らす

私が進めている研究やこれまでの経験を通して、「本当の多様性とは何か」を考えています。個人的には、現在使われている「多様性」という言葉の氾濫には警戒しています。

私は半年間、アメリカに住んだ経験がありますが、ダイバーシティ(=多様性)という言葉はほとんど耳にしませんでした。なぜなら、多様性は当たり前のことであり、多様性を前提に「ではどのような社会を構築していくか」が課題だからです。

一方、日本では昨今あらゆる場面で「多様性」や「共生」といった言葉がうたわれています。私は、それが、逆効果になっているように感じています。

「みんなちがってみんないい」と言いながら、結局、お互い干渉しないようなバラバラな現状を肯定する言葉になっているのではないか。例えば、「〇〇人」だとか、障害に関していえば、「視覚障害者」という風に安直にラベリングすることに繋がっているように思います。

そうではなく、重要なのはむしろ、一人の人間の中にある多様性です。視覚障害者であっても、家庭ではお父さんかもしれない、仕事上では先生かもしれません。「視覚障害者」という側面は、その人を構成する要素のひとつにすぎません。多様な面があると思えば、関わり方の選択肢も増えるし、自分には見えていない面があるということで、相手を尊重できるようになります。

伊藤亜紗准教授

一人の人間の中に存在する多様な側面=“多様性”

では、どうすれば、今の状況を変えることができるか。まず、障害者という言葉を聞くと、「配慮」「サポート」「介助」といった発想につながりがちです。時として必要な場合もありますが、そればかりでは押し付けの正義になってしまいます。このような一方的な関係性を崩すことから始めるとよいと思います。

たとえば、先ほど紹介した視覚に頼らないブロックを使ったフェンシングは、視覚障害者と本気で遊ぶことができます。また、やってみると、視覚障害だからこそ得意な部分があることもわかってきます。それにより、障害者というラベルを外した、その人自身の真の姿が見えてきます。

また、多様であるとは、雑然としたカオスが容認されているということです。日本人は、カオスに対する耐性が低いからか、「空気」というもので場を支配しようとしがちです。「この場では、こうふるまうべきだ」といった暗黙のルールを共有し、カオスを許さないのです。

たとえば、「この場では、ありがとうございましたと言うべきだ」というように、日本ではすべてが儀式的です。それが、言語や文化の違う外国人や、発達障害の当事者など、その場の空気を読むことが難しい人たちにとって生きづらい社会を作っています。“空気を読まない”とは、勝手なことをするということではなく、儀式性抜きに相手のことをきちんと思いやるということです。

障害に限らず、人種や性別、文化や宗教など、それぞれの違いが人々の心の障壁になるのではなく、「一人の人の中にある生きた多様な側面=多様性」が当たり前に受け入れられる社会の在り方について、今後も考えていきたいと思っています。

理工系大学発の人文社会系の研究組織「未来の人類研究センター」が始動!

2020年2月に「未来の人類研究センター」が設立。センター長に任命された伊藤准教授に設立の目的と狙いを聞いた。

「私たちの生活に大きな変化をもたらしてきた科学技術は、ロボットや人工知能の台頭により、今、人間の定義そのものを揺さぶりつつあります。科学技術のよりよい可能性を引き出すためには、数十年先、数百年先の人類を見据えた現実的かつ本質的な問いを設定する必要があります。

このような課題に応えるため、未来の人類研究センターは設立されました。理工系大学発の人文社会系の研究組織で、ここにリベラルアーツ研究教育院の多様な研究者が集結しました。

最初の5年間は、『利他』をテーマに掲げ、活動していく予定です。排他主義がはびこり、分断が加速する殺伐とした時代の中でよりよい社会の在り方を考えていきます。その際に手がかりになるのが、『利他』という視点です。自分のためでないもののために行動する。

この一見、不合理と思えるような行動の中に、人類について、社会について、科学技術について、まったく新しい方法で考え直すヒントがあるのではないかと思っています。能力主義とも、功利主義とも、数値による評価とも異なる人間の人間らしい側面を『利他』の光で深く照らし出すことが、私たちの考える『利他学』です。

政治、経済、宗教、人工知能、環境、宇宙など研究領域は多岐に及びますが、さまざまな分野の研究者や専門家との共同研究や交流を通し、東工大ならではのアプローチで、『利他学』を開拓していく予定です。

どうぞ、未来の人類研究センターの『利他プロジェクト』にご期待ください」

リベラルアーツ研究教育院の多様な研究者が集結

未来の人類研究センターouter

伊藤亜紗
東京工業大学 科学技術創成研究院
未来の人類研究センター センター長
リベラルアーツ研究教育院 准教授
生物学者を目指していたが、大学3年次に文系に転向。
2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得のうえ、退学。
同年、同大学にて博士号を取得(文学)。
日本学術振興会特別研究員を経て、2013年に東京工業大学 リベラルアーツセンター 准教授に着任。2016年4月より現職。
2019年の3月から8月まで、マサチューセッツ工科大学客員研究員。
2020年2月より東京工業大学 科学技術創成研究院 未来の人類研究センター センター長。


感情史の始まり

2021年01月24日 11時29分33秒 | 社会・文化・政治・経済

 

感情史の始まり

 

 
最近目にすることの多い「感情史」。そのすべてを論じた最も定評ある基本書である。感情は生命科学で言われるように普遍的なものか、それとも人類学者たちが示してきたように、時代と地域と文化でそれぞれ異なるものなのか。
著者はその二つの見方を架橋しながら、感情のグランドセオリーを展開し、歴史学における感情の扱い方の手法と重要性を説く。分野を超えて新しい人文学の可能性を開く書。
 

著者について

ヤン・プランパー(Jan Plamper)
1970年生まれのドイツの歴史家。ギムナジウム卒業後に渡米し、1992年にブラ
ンダイス大学卒業、2001年にカリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得。
その後ドイツに戻り、テュービンゲン大学やベルリンのマックス・プランク人間
形成研究所で教育や研究に従事。2012年からロンドン大学ゴールドスミス・カ
レッジの歴史学教授、2018年からはケンブリッジ大学出版会の初歩叢書(エレメ
ンツ・シリーズ)「感情と感覚の歴史」の編集主幹も務める。単著には、博士論
文をもとにした英語の『スターリン崇拝─―権力の魔力についての考察』(2012)、
ドイツ語の新著『新しい私たち─―なぜ移民はその一部なのか ドイツ人のもう
一つの歴史』(2019)、編著書には、英語による『恐怖─―学問分野を超えて』
(2012)ほか、ドイツ語、ロシア語によるものなど。既存の邦訳に「恐怖─―
20世紀初頭のロシア軍事心理学における兵士と感情」(西山暁義訳『思想』1132
号、2018年)。

森田直子(もりた・なおこ)
1971年岡山県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学、
ドイツ・ビーレフェルト大学歴史・哲学・神学部で博士号取得。立正大学文学部
准教授。専門はドイツ近代史。著書にWie wurde man Burger? Geschichte des
Stadtburgerrechts in Preuβen im 19. Jahrhundert (Frankfurt am Main et. al: Peter
Lang, 2008)、論文に「メディアにみる近代ドイツの決闘試合」(『立正大学文学部
論叢』142号、2019年)「感情史の現在」(『思想』1132号、2018年)「感情史を
考える」(『史学雑誌』第125編第3号、2016)ほか。訳書にヨアヒム・ラートカ
ウ『自然と権力─―環境の世界史』『ドイツ反原発運動小史─―原子力産業・核エ
ネルギー・公共性』(ともに海老根剛との共訳、みすず書房、2012)など。
 
 
感染症への不安とその反動としてのコロナ疲れ、著名人を死においやるネット上の中傷、陰謀論の拡散、米国連邦議会議事堂の襲撃・・・。

私たちは今、感情の暴走を日々目撃する時代に生きている。
「ウイルスより怖い」そんなふうに感じる人も多いのではないか。
SNSが土壌となり、コロナ禍が火をつける。
分断が加速し、疑心暗鬼になる世界の中で、私たちは感情をどう扱えばよいか、持て余しているよいに思える。
本書は、そんな時代の道標となる。
感情が、人間の中にもともと備わるものではなく、社会的に作られるものである、ということだ。
私たちが「感情」「認知」「意識」と呼び分けてきたものは、実際には相互に切り離せないものなのである。
さらに、脳は可塑性があるということ、つまり神経細胞の形成と細胞間の接続が、いったん出来上がってからも変化しうるという知見も重要である。
脳が純粋な自然ではなく、社会的文化的な影響によって後天的に作られるものであることを示す。
政治、経済、芸術など、人間の活動のあらゆる領域にまたがるこのこの問題について、本腰を据えて考えるべき時が来ているように思う。伊藤亜紗 東京工業大学准教授・美学

 
みすず書房の新刊邦訳書。
「感情」が気になって手に取るも、やはり、原語はemotion(s)。
もっとも、この本の原書は、ドイツ語で、Gefühl が感情を表わしているが、英訳本ではやはりemotion(s)。

14頁。感情のルビは、エモーション。情感は、affection。
50頁に「愛情 sentiments」とある。
28頁に、道徳感情のルビ、モラル・センチメント。
30頁と362頁で、感傷主義のルビで、センチメンタリズム。
同じ362頁では、フランス語で、「感情 émotion」「感性 sentiment」。
242頁では、英語で「感情emotion」「情念 passion」「魂の情感 affection of the soul」「感傷 sentiment」。

何と、115頁には、「感情」にセンチメントのルビがついている個所が3つもある。
ラドクリフ=ブラウンの1922年の本の訳。
こうした「感情」の例は、ここだけ!
「やはり、sentiment は、い・な・い。」に等しい。

訳者あとがきの430頁。
一般的には、Emotion/emotion を感情、Affekt/affect を情動と訳し、心理学や神経科学では、Emotion/emotion を情動、Affekt/affect を感情と訳す、とある。

ごちゃごちゃしているようだが、一貫して 感情の意の sentiment は登場せず。

やはり、どの本をみても、「感情」と訳されるような sentiment は、ほったらかし。
そういうこと、です。
 
 
 
 

加重収賄で石岡市課長再逮捕 落札業者から10万円受領疑い―茨城県警

2021年01月24日 10時45分01秒 | 事件・事故

2020年11月04日16時41分 時事ドットコム

 茨城県石岡市発注の事業をめぐる官製談合事件で、県警は4日、入札情報を漏らす見返りに業者から現金10万円を受け取ったとして、加重収賄容疑で同市スポーツ振興課長大久保英明容疑者(57)=官製談合防止法違反罪などで起訴=を再逮捕した。県警は認否を明らかにしていない。
石岡市課長ら逮捕 清掃業務入札で官製談合疑い

 県警は贈賄容疑で、落札したビル管理会社「アンテック」元役員の矢吹泰俊容疑者(64)=公契約関係競売入札妨害罪で起訴=を再逮捕した。2人の逮捕は3回目。
 大久保容疑者の再逮捕容疑は2018年5月、市発注のプールの管理業務委託の指名競争入札で、入札に参加する業者名などを漏らす見返りに、矢吹容疑者から現金10万円を受け取った疑い。
 県警は10月2日、体育館の清掃業務委託に関する指名競争入札で業者名を漏らしたとして、官製談合防止法違反容疑で2人を逮捕。プールの入札でも情報を漏らしたとして、同23日に再逮捕するとともに、金銭の授受についても捜査していた。

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コメント=人生の計算(損得勘定)ができなかったようだ。

わずか10万円のために、全てを失った典型的な<愚かな事件>。

実に<もったいない!>。

市の課長の年収は? 依願退職であろうか?退職金は出るのかどうか?

<収賄は割に合わない>と想ってみる。

沼田利根

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参考:

 最後に、公務員が職務執行に関連して犯罪行為を行うことは、退職金の支給等の経済的見地からしても全く割に合わないものであり、公務員となった以上、公務員としての自覚を持つことが必要不可欠であることを申し添えます。
※ プロフィール
松崎 勝 氏
東京大学法学部卒業。元判事補。全国市長会顧問。総務省自治大学校講師。
消防庁消防大学校講師。本市顧問弁護士 ほか 

 

 


新聞は<知の巨人>たちとの出会い場

2021年01月24日 10時45分01秒 | 沼田利根の言いたい放題

新聞は<情報の宝庫>である、と日々に実感している。
見識、視点、気付き、考えるヒントなど、脳トレの機会ともなる。
<受け止める力>を常に刺激されるのだ。
自分が如何に<情報不足>であったこともしばしば気付かされる。
新聞は<知の巨人>たちとの出会い場でもあり、リアルタイムに見識や視点の広がりを実感できることもある。
結果的に、ネットを有効に活用する導火線や源泉となっている。
新聞は歴史の中に埋没していた情報をも引き出す機会ともなる。
コレラやスペイン風邪の流行などの過去の感染症と同様に、「いつも時代も政治や社会の成熟のほどを映し出す感染症の流行だ」との指摘に納得したり、考えるヒントになる。
「トランプ前大統領と科学の関係は尋常でなかった」という指摘に、「そうであったのか」と考えさせられた。
米国民の多くが未だに支持している前大統領は、4年後復活するのか?
否、復活を米国民は許すのか、どうかである。
バイデン大統領は、パリ協定に復帰、WHOの脱退を撤回、新型コロナ対策の新戦略策定など、改善に乗り出している。
「翻って、日本の首相と科学の関係に課題は多い」もっともの指摘である。