植物を使い始めた人類(先史時代から古代エジプト)
化石人類で知られるネアンデルタール人の埋葬された墓には、タチアオイと言う草花の花粉の跡があった。古い人類も、死者を花で飾る心があり、花の美しさを愛でていたということなのだろう。
古代文明が起こったエジプトでは、死後の世界と魂のよみがえりを信じていて、魂が帰ってきたときの入れ物としてミイラを作った。ミイラ作りには乳香や没薬などの防腐効果のある植物が用いられ、神々を祭る神殿では煙で香りをくゆらせる薫香が用いられた。この頃の植物の利用は、薫香(お香のようなもの)と湯やオリーブ油などに漬け込んで作る浸剤(ハーブオイルやハーブティなど)が主流だった。
新約聖書の逸話
新約聖書のイエス・キリストの誕生物語の中に、東方の三賢人(博士)が、イエス誕生の馬屋で、黄金、乳香、没薬をささげたと言うくだりがある。黄金は現世の王を象徴し、乳香と没薬は「神の薬」を意味すると言われ、まさに、この世に降り立った救世主にささげる品物としてふさわしいものだった。乳香はフランキンセンス、没薬はミルラとして、今日もアロマテラピーで広く利用されている。
医学を創始した人々
古代地中海世界、すなわちギリシャ・ローマを中心とした国々で、西洋医学は産声をあげた。ヒポクラテス、テオフラストス、ディオスコリデス、プリニウス、ガレノスたちが、それぞれ医学や薬学、植物学、本草学の礎を築いたのである。
・ヒポクラテス
医学の祖と呼ばれ、それまでの呪術的な手法を退け、病気を科学的に捉え現代にも通じる医学の基礎を築いた。「ヒポクラテス全集」を著した。
・テオフラストス(紀元前373~287)
古代ギリシャの哲学者で、アリストテレスの弟子、植物学の祖といわれている。各方面で活躍したが、「植物誌」を著し、植物の分類や系統だった研究を行った。
・ディオスコリデス
ローマ時代の医師で、50~70年頃活躍した人物。ネロ皇帝統治下のローマ帝国内で軍医として働いた。広く旅して薬物を実地研究し、「マテリア・メディカ(薬物誌)」を著した。薬物を植物・動物・鉱物万般を収れん・利尿・下剤など、薬理・機能上から分類し、収載されている植物は600種、薬物全体で1,000項目にも及んだ。「マテリア・メディカ」は中世・近代ヨーロッパ、アラビア世界において千数百年もの間、広く利用された古典である。現存する複写本としては512年に写本され、ビザンチン帝国の皇女に献上されたといわれる壮麗な「ウィーン写本」が有名で、400近い植物彩画を含む491枚にのぼる羊紙から成っている。
・プリニウス
大自然すべての生態に興味を抱き、77年「博物誌」全37巻を著した。他の誰もがなしえなかった大規模な自然誌で、植物に寄せる彼の愛情や、質実剛健な古きよき農業国ローマの伝統が賛美される大作である。今なお、この作品は読み続けられており、彼の業績の偉大さをはかり知ることができる。
・ガレノス(129~199)
古代においてヒポクラテスに次ぐもっとも著名な医学者として知られる。コールドクリーム(植物油などの油性成分と水を混合し作ったクリームで、使用したときに、水分が蒸発し冷たく感じるのでコールドクリームと呼ばれるようになった)などの製剤法の創始者として知られる。古代の医学を集大成し、以後17世紀に至るまで西欧における医学の権威として崇められ、アラビア医学にも絶大な影響を与えた。ヒポクラテスを医学の神として高く評価し、ヒポクラテス医学を基礎として、自らの解剖学的知見と哲学的理論によって、体系的な学問としての医学を築きあげた。動物の解剖を行い、脳神経系、筋肉、眼、骨などについて優れた成果をあげたが、人体の解剖は行わなかった。生理学・病理学においては、肝臓・心臓・脳を生命活動の中枢であるとするなど、輝かしい業績を残した。
古代ローマとヘレニズム文化
ローマ皇帝ネロとローマの公衆大浴場
皇帝ネロ(37~68、在位54~68)の時代から、ローマは都市政策の一環として、火災を防ぐために、数階建ての集合住宅の浴室設置を禁じ、その代わりに公共の浴場の建設が進められた。風呂を持たない一般市民はこのような公衆浴場を利用していた。216年に完成するカラカラの浴場では、浴場内で香油を塗っていたといわれている。
皇帝ネロのバラ好きは有名で、バラの香油を体に塗らせたり、部屋をバラの香りで満たしたと言われている。このように、ローマ時代の人々は、皇帝から一般市民にいたるまで、公衆衛生と楽しみをかねて、香りを贅沢に使っていたのである。
アレキサンダー大王時代の東西ハーブの交流
アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)は、紀元前336~323年に在位した、マケドニア王国の王である。13歳の頃から3年間、哲学者アリストテレスのもとに学び、紀元前336年に19歳で即位した。2年後、東方遠征を始め、アケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼして中央アジア、インド北西部にいたる広大な世界帝国を実現したが、その志半ばに、32歳でバビロンで病死した。彼の東征と大帝国の建設を契機として、東西に活発な文物交流の場が開かれ、ヘレニズム文化と呼ばれる豊かな世界文化の時代を迎えることになった。この頃東西のハーブやスパイスが交易品として盛んに取引されるようになった。
東洋における伝承医学の発展
インドにおけるアーユルベーダ医学の成立
アロマテラピーに大きな影響を与えたと見られるアーユルベーダ医学は、紀元前1200年~1000年頃、インドに成立した最古の神々への賛歌集「リグ・ベーダ」にその源流が見られる。アーユルベーダ医学は医学のみならず、宇宙観、自然観を含む哲学であり、一方では具体的な生活方法をも含んでいる。アーユルベーダは本来、伝承的に伝えられ、書物として成立したのは、思想の成立よりずっと後になってのことで、歴史的には約3,000年以上の歴史をもつものと推察される。
中国における本草学
西洋のディオスコリデスの「マテリア・メディカ」と並んで有名な東洋の薬草学書といえば「神農本草経」である。中国では、薬物について書かれた本を、本草書といい、最古のものは2~3世紀の漢の時代にまとめられている。「神農本草経」は、後に5世紀末の陶弘景によって再編纂されて、730種の薬石が記された「神農本草経集注」という形で今日に伝えられている。神農とは、中国の神話にある農業神だったが、漢の時代に中国太古の伝説上の皇帝、炎帝とされるようになった。今日、中医学、あるいは漢方として知られる医学はこのようにして成り立ってきたのである。
化石人類で知られるネアンデルタール人の埋葬された墓には、タチアオイと言う草花の花粉の跡があった。古い人類も、死者を花で飾る心があり、花の美しさを愛でていたということなのだろう。
古代文明が起こったエジプトでは、死後の世界と魂のよみがえりを信じていて、魂が帰ってきたときの入れ物としてミイラを作った。ミイラ作りには乳香や没薬などの防腐効果のある植物が用いられ、神々を祭る神殿では煙で香りをくゆらせる薫香が用いられた。この頃の植物の利用は、薫香(お香のようなもの)と湯やオリーブ油などに漬け込んで作る浸剤(ハーブオイルやハーブティなど)が主流だった。
新約聖書の逸話
新約聖書のイエス・キリストの誕生物語の中に、東方の三賢人(博士)が、イエス誕生の馬屋で、黄金、乳香、没薬をささげたと言うくだりがある。黄金は現世の王を象徴し、乳香と没薬は「神の薬」を意味すると言われ、まさに、この世に降り立った救世主にささげる品物としてふさわしいものだった。乳香はフランキンセンス、没薬はミルラとして、今日もアロマテラピーで広く利用されている。
医学を創始した人々
古代地中海世界、すなわちギリシャ・ローマを中心とした国々で、西洋医学は産声をあげた。ヒポクラテス、テオフラストス、ディオスコリデス、プリニウス、ガレノスたちが、それぞれ医学や薬学、植物学、本草学の礎を築いたのである。
・ヒポクラテス
医学の祖と呼ばれ、それまでの呪術的な手法を退け、病気を科学的に捉え現代にも通じる医学の基礎を築いた。「ヒポクラテス全集」を著した。
・テオフラストス(紀元前373~287)
古代ギリシャの哲学者で、アリストテレスの弟子、植物学の祖といわれている。各方面で活躍したが、「植物誌」を著し、植物の分類や系統だった研究を行った。
・ディオスコリデス
ローマ時代の医師で、50~70年頃活躍した人物。ネロ皇帝統治下のローマ帝国内で軍医として働いた。広く旅して薬物を実地研究し、「マテリア・メディカ(薬物誌)」を著した。薬物を植物・動物・鉱物万般を収れん・利尿・下剤など、薬理・機能上から分類し、収載されている植物は600種、薬物全体で1,000項目にも及んだ。「マテリア・メディカ」は中世・近代ヨーロッパ、アラビア世界において千数百年もの間、広く利用された古典である。現存する複写本としては512年に写本され、ビザンチン帝国の皇女に献上されたといわれる壮麗な「ウィーン写本」が有名で、400近い植物彩画を含む491枚にのぼる羊紙から成っている。
・プリニウス
大自然すべての生態に興味を抱き、77年「博物誌」全37巻を著した。他の誰もがなしえなかった大規模な自然誌で、植物に寄せる彼の愛情や、質実剛健な古きよき農業国ローマの伝統が賛美される大作である。今なお、この作品は読み続けられており、彼の業績の偉大さをはかり知ることができる。
・ガレノス(129~199)
古代においてヒポクラテスに次ぐもっとも著名な医学者として知られる。コールドクリーム(植物油などの油性成分と水を混合し作ったクリームで、使用したときに、水分が蒸発し冷たく感じるのでコールドクリームと呼ばれるようになった)などの製剤法の創始者として知られる。古代の医学を集大成し、以後17世紀に至るまで西欧における医学の権威として崇められ、アラビア医学にも絶大な影響を与えた。ヒポクラテスを医学の神として高く評価し、ヒポクラテス医学を基礎として、自らの解剖学的知見と哲学的理論によって、体系的な学問としての医学を築きあげた。動物の解剖を行い、脳神経系、筋肉、眼、骨などについて優れた成果をあげたが、人体の解剖は行わなかった。生理学・病理学においては、肝臓・心臓・脳を生命活動の中枢であるとするなど、輝かしい業績を残した。
古代ローマとヘレニズム文化
ローマ皇帝ネロとローマの公衆大浴場
皇帝ネロ(37~68、在位54~68)の時代から、ローマは都市政策の一環として、火災を防ぐために、数階建ての集合住宅の浴室設置を禁じ、その代わりに公共の浴場の建設が進められた。風呂を持たない一般市民はこのような公衆浴場を利用していた。216年に完成するカラカラの浴場では、浴場内で香油を塗っていたといわれている。
皇帝ネロのバラ好きは有名で、バラの香油を体に塗らせたり、部屋をバラの香りで満たしたと言われている。このように、ローマ時代の人々は、皇帝から一般市民にいたるまで、公衆衛生と楽しみをかねて、香りを贅沢に使っていたのである。
アレキサンダー大王時代の東西ハーブの交流
アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)は、紀元前336~323年に在位した、マケドニア王国の王である。13歳の頃から3年間、哲学者アリストテレスのもとに学び、紀元前336年に19歳で即位した。2年後、東方遠征を始め、アケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼして中央アジア、インド北西部にいたる広大な世界帝国を実現したが、その志半ばに、32歳でバビロンで病死した。彼の東征と大帝国の建設を契機として、東西に活発な文物交流の場が開かれ、ヘレニズム文化と呼ばれる豊かな世界文化の時代を迎えることになった。この頃東西のハーブやスパイスが交易品として盛んに取引されるようになった。
東洋における伝承医学の発展
インドにおけるアーユルベーダ医学の成立
アロマテラピーに大きな影響を与えたと見られるアーユルベーダ医学は、紀元前1200年~1000年頃、インドに成立した最古の神々への賛歌集「リグ・ベーダ」にその源流が見られる。アーユルベーダ医学は医学のみならず、宇宙観、自然観を含む哲学であり、一方では具体的な生活方法をも含んでいる。アーユルベーダは本来、伝承的に伝えられ、書物として成立したのは、思想の成立よりずっと後になってのことで、歴史的には約3,000年以上の歴史をもつものと推察される。
中国における本草学
西洋のディオスコリデスの「マテリア・メディカ」と並んで有名な東洋の薬草学書といえば「神農本草経」である。中国では、薬物について書かれた本を、本草書といい、最古のものは2~3世紀の漢の時代にまとめられている。「神農本草経」は、後に5世紀末の陶弘景によって再編纂されて、730種の薬石が記された「神農本草経集注」という形で今日に伝えられている。神農とは、中国の神話にある農業神だったが、漢の時代に中国太古の伝説上の皇帝、炎帝とされるようになった。今日、中医学、あるいは漢方として知られる医学はこのようにして成り立ってきたのである。