アロマテラピー学習ブログ

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参照。

チャラカ・サンヒター

2009-01-02 11:50:07 | アロマテラピーの歴史
インドの伝承医学アーユルヴェーダでは、病気の最大の原因は、ドーシャと呼ばれる身体の生命エネルギーである「気」の増悪(増えすぎること)としている。

ドーシャには大きく分けて、
 ヴァータ(乾性・軽性の気)、
 ピッタ (熱性の気)
 カファ (粘性・重性の気)
の3種類がある。

 ドーシャによって起こる病気の名目がアーユルヴェーダーの古典書物『チャラカ・サンヒター』スートラスターナ第20章に説かれている。そこではヴァータ性の病気は80種、ピッタ性の病気は40種、カファ性の病気は20種が記載されている。

シャーリー・プライス

2008-03-13 22:21:21 | アロマテラピーの歴史
イギリスの著名な芳香療法家(アロマテラピスト)

世界的に著名なアロマテラピストの一人である。 エッセンシャルオイルの専門知識を駆使した数多くの著書や記事の執筆また英国で最大規模のアロマテラピー専門学校の創設者としても有名である。同校からは数多くのアロマテラピストが生まれている。 シャーリー・プライスは常に新しいアロマテラピーを試し、より良い品質のオイルを確保するために海外にまで出向く。そしてその植物が成長し、蒸留されてオイルになるまでの過程をチェックしている。シャーリープライスのエッセンシャルオイルが最高品質であるのは、このような厳しい基準の下で生産されているからである。

パラケルスス

2008-03-13 22:11:06 | アロマテラピーの歴史
(1493年か1494年 - 1541年9月24日)
中世の著名な錬金術師でもあり医師でもある。

「誇大妄想症」(ボンバスツス)という名詞を残したほど豪快で、奇跡的な治療を施してきた天才的な名医として有名。

特徴表示説(例えば、くるみという植物の実は、脳みその形に似ているので、脳の病気に効くと考える)を主張した。

アーユルヴェーダ (インド伝統医学)

2008-03-13 21:53:13 | アロマテラピーの歴史
チャラカとスシュルタの二人のリシ(神仙)の名のついた二つの
サンヒターは、インド医学書の二大権威である。

■ 「チャラカ・サンヒター」

1 総説篇(30)
2 病因篇(8)
3 病理篇(8)
4 身体篇(8)
5 感官篇(12)
6 治療篇(30)
7 毒物篇(12)
8 成就篇(12) 計120章

内容は医術のみならず倫理学、哲学にも関連し、原始ヴァイシェーシカ(勝論)や
ニヤーヤ(正理派)の哲学思想、論証形式が見出だされる。特徴的なユクティ思想
によって論理と科学との融合をはかっている。
チャラカ・サンヒターは紀元前8世紀、プナルヴァス・アートレーヤ医師の6人の
弟子、アグニヴェーシャ、ベーラ、ジャトゥーカルナ、パラーシャラ、ハーリータ、クシャーラパーニの著した各サンヒターのうち、最もよく出来ていた「アグニヴェーシャ・サンヒター」を、紀元100年ごろのアーユルヴェーダの名医チャラカが改定したことで「チャラカ・サンヒター」と呼ばれるようになった。チャラカの没後、9世紀になってドゥリダバラというアーユルヴェーダ医が補い、現在の形となった。

チャラカ・サンヒターが内科を中心とした古典であるのに対し、紀元前600年ごろ、外科を中心とした「スシュルタ・サンヒター」が書かれた。

■ 「スシュルタ・サンヒター」

1 総説篇(46)
2 病因篇(16)
3 身体篇(10)
4 治療篇(40)
5 毒物篇(8)
6 補遺篇(66) 計186章

「スシュルタ・サンヒター」が外科を中心にしているのには、成立当時の社会的
背景の相違が関連している。もともとインド伝統医学の基本はトリ・ドーシャ
のバランスをとり、うまく同調させ、動的な平衡状態(ホメオスタシス)におく
ことを目標としているので内科的といえる。
インド西北部で成立したアートレーヤ派の医学がバラモン的であるのに対して、
インド東部のべレナスで成立した「スシュルタ・サンヒター」はクシャトリア的
と言える。これは「外科」にあたる原語(salya)が元来「鏃」の意であり、
身体に入った異物のメスによる除去を意味するようになったことからも考えられる。
また、「スシュルタ・サンヒター」の総説篇第43章には従軍医に関する記述が
ある。戦場における外傷の外科的治療によって技術が発達し、後に応用されて
腫瘍などの切開などの方法が確立されたと思われる。
ダンヴァンタリ系のこうした外科的技術は、この時期の世界レベルでみると驚異的
で、中には現代医学の方法とさほど変わらないものもある。


チャラカ、スシュルタと並んでアーユルヴェーダの三聖医とされるヴァーグバタは、両サンヒターに基づいて「アシュタンガ・サングラハ」(八科集)と「アシュタンガ・フリダヤ・サンヒター」(八科精髄本集)いう医書を著している。この中にはアーユルヴェーダの8つの部門の知識がまとめられている。

「チャラカ・サンヒター」、「スシュルタ・サンヒター」、「アシュタンガ・
サングラハ」をブルハットライー(三大医書)と呼ぶ。また、10世紀の
マーダヴァの「マーダヴァ・ニダーナ」(病因論)は診断学の名著である。
12世紀の「シャーランガラ・サンヒター」は薬理学・製薬学・鉱物学の知識に
貢献し、16世紀の「バーヴァプラカーシャ」は薬物学を体系化したものである。

アーユルヴェーダは無数の研究者の貢献によってとどまることなく発展してきた
医学で、現在も、近代医学の発展と科学技術の進歩を背景に、さらに知識は増え、
人類の健康を高める役割を果たしている。


日本のアロマテラピー

2008-03-13 21:38:05 | アロマテラピーの歴史
イギリス人のロバート・ティスランド氏によって、1977年に著作された『The Art of Aromatherapy』が、日本で1985年に、高山林太郎氏によってその翻訳本『芳香療法』が紹介されたのがアロマセラピーの始まりである。この頃から日本でアロマテラピーへの関心が徐々に高まり、1986年に日本アロマテラピー協会が設立された。(日本アロマ環境協会の前身)

ロバート・ティスランド

2008-03-13 21:07:06 | アロマテラピーの歴史
 ロバート・ティスランドは、イギリスにアロマセラピーをもたらした先駆者として大変良く知られている。彼は、1969年にアロマセラピーの仕事を始め、その後『「芳香療法」の理論と実際』 等、数々の書籍を著し、1970年代にアロマテラピーを体系的にまとめあげた。
 また、【The International Journal of Aromatherapy】の編集者であり上質のアロマセラピーの教育を行うために、1987年に建てられた【The Tisserad Institute】の創設者でもある。
 教育の分野でも世界各地で専門的なセミナーなどを催し、一流のアロマセラピストに注目され、医学の分野でも貢献し世界的に認められている。
   
 <品質へのこだわり>
 ロバートティスランド製品は動物実験を一切行わず、植物性成分のみを使用している。
 本当のアロマセラピーのために、ロバート・ティスランドは、オイルの原料の探求、買い付け、選び抜かれた精油の評価に長い歳月を費やし、また直接、責任をもって当社の品質を管理している。
 


ウィリアム・ターナー

2008-03-13 21:05:26 | アロマテラピーの歴史
中国の陰陽の概念に似た考えを唱えた。
イギリスの植物学の父として有名なウィリアム・ターナーは、16世紀の薬草専門家。ターナーは薬用植物を熱性・冷性・乾性・湿性それぞれの度合いによって分類した。熱・乾性は陽の力、冷・湿性は陰の力にそれぞれ対応するものである。熱性の度合いには四度あるので、例えば熱性一度という薬用植物は熱性二度の植物ほど暖める作用が強くない。冷性にも四度の段階がある。もっとも、こうしたものは陰陽とぴったり厳密には対応していないため、同じ一つの薬用植物が熱・湿性、あるいは反対の冷・乾性に分類されることもあった。

黄帝内経

2008-03-13 21:01:41 | アロマテラピーの歴史
『黄帝内経 (こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい、こうていないきょう)紀元前2~1世紀』は、『神農本草経』、『傷寒雑病論』とともに中国医学における三大古典の1つといわれているが、『漢書』芸文誌にその名前が登場するのみで現存はしていない。『素問(そもん)』『霊枢(れいすう)』を合わせたものが『黄帝内経』であるとの説は晋代の皇甫謐に始まる。『素問』『霊枢』の両書は、戦国時代以来の医学論文を綴り合わせたものであり、1人の作者によるものではなく、編集者や編集年も明らかではない。このうち『素問』は、唐代中期に王冰 (おうひょう)が再編・注解したものを元に、宋代に林億らが校正を加えたものが現在伝わっている。黄帝 が岐伯 (ぎはく)を始め6人の名医に基本的な病気の考え方に対する疑問を問うたところから素問と呼ばれ、問答形式で記述されている。生理、衛生、病理などの基礎理論と摂生・養生法について論じられている。一方、『霊枢』は古くは『九巻』や『鍼経』と呼ばれ、長い間、散逸したままであったが、宋代に入り発見、出版され、現在は明代に校訂されたものが伝わる。診断、治療、針灸術などの臨床医学を中心に実践的、技術的に記述されている。『素問』『霊枢』に一貫して流れる理論基盤は、陰陽五行説という中国独自の哲学思想である。(

キフィ

2008-03-13 21:00:06 | アロマテラピーの歴史
聖なる煙の意味。
古代エジプトでは、儀式の際など、
重要な行事に香りを焚いたりした。
キフィは象形文字で16種の処方成分が記され、
ジュニパーベリー、ミルラ、シナモン、ペパーミントなどが中心になっている。
それまでにはなかったオリエンタルな香りがしたといわれる。

現代のアロマテラピー

2008-01-12 12:57:49 | アロマテラピーの歴史
イギリスで起こったホリスティック・アロマテラピー
 1950年代から1960年代にフランスで活躍した生化学者マルグリット・モーリーは、精油を使った心身の美容と健康法として新しい考え方を示した。彼女はインド、中国、チベットの伝統的な医学や哲学を研究し、精油を植物油に希釈して、マッサージするという方法を示した。この方法は、フランスの内服中心、薬理作用重視のアロマテラピーとは対照的に、精神と肉体のアンバランスに対しての個人的な処方によって、そのバランスを正常化するという方法論を提示している。彼女はこの研究成果を著した”ル・キャピトル…ジュネス”「最も大切なもの…若さ ”the Secret of Life and Youth”」を1961年に出版し、美容の国際的な賞である「シデスコ賞」を受賞している。この著作は後に英訳され、イギリスのアロマテラピーに大きな影響を与えた。多くのアロマテラピストが彼女の研究成果を、実践的に展開する方法に向かったのである。これが後にイギリスにおけるホリスティックアロマテラピーと呼ばれるようになった。
※ホリスティック
「全体的」「包括的」などと訳される。ここでは身体に起こったトラブルをその部分だけの問題と捉えず、心を含めた全身的(体質)、全人格的なものとしてアプローチすることを言う。

イギリスにおける大衆化
 イギリス人たちは、持ち前の自然を愛する心で、このアロマテラピーを歓迎した。1960年代から1980年代にかけて、シャーリー・プライス、ロバート・ティスランドたちは、アロマテラピースクールを開設し、多くの専門家たちを育てた。またそれらを卒業したアロマテラピストたちは美容サロン、医療現場、そして福祉の施設、カウンセリングの手法として、多彩な展開と大衆化を実現していく。

アロマテラピーの学術的研究
 イタリアの医師ガッティーが1920年代に、同じくイタリアのカヨラが1930年代に、それぞれ精油の心理的作用と、スキンケアへの応用といった幅広い分野にわたって研究している。1970年代に入って、香りが神経症やうつ病に効果があることが知られるようになった。ミラノの植物誘導体研究所長のパオロ・ロベスティは、イタリアにあるオレンジ、ベルガモット、レモンなどの柑橘類の精油とその加工品を、このような症状に対して用いると非常に有効であることを発見した。この研究は香りの精神科の臨床例としては、世界最初のものといわれている。
 香りの心理効果についての研究として有名なものに、日本の東邦大学名誉教授、鳥居鎮夫博士((社)日本アロマ環境協会名誉会長・2005年現在)のものがある。鳥居博士は、随伴性陰性変動(CNV波)と呼ばれる特殊な脳波を用いて、香りの刺激作用や鎮静作用を研究した。このときに使われた香りは、ラベンダーやレモンだった。彼はイギリスのアロマテラピストたちとの交流もあり、アロマテラピーの学術研究の先駆者として高い評価を得ている。

日本におけるアロマテラピーの紹介と普及
 日本におけるアロマテラピーの紹介は、書籍の翻訳がその先駆けとなった。アロマテラピーに関する情報は、当初イギリスを中心に活動するアロマテラピストの著作の翻訳本に頼らざるを得なかったが、やがて、国内にも本格的なアロマテラピースクールが都市部を中心に活動を始めるようになった。
 
日本アロマテラピー協会の設立
 1995年年初に阪神淡路大震災があり、日本中が「癒し」に対して関心を高めた中、アロマテラピーが急速にマスコミで紹介され始めた。この年も暮れにかかる頃、今も法人会員として活動する6人のメンバーらが発起人となり、日本アロマテラピー協会の設立の準備が進められ、1996年4月、日本アロマテラピー協会が設立された。日本アロマテラピー協会はアロマテラピーの愛好家や各分野の専門家が結集した中立の非営利団体として、2005年3月現在約23,500人の個人会員と163社の法人会員を擁する日本最大のアロマテラピー団体である。また、海外のアロマテラピー関連団体との交流を図っており、国際的にも最も大きなアロマテラピー団体の一つとして知られている。(2005年4月1日より(社)日本アロマ環境協会に昇格)

現代生活とアロマテラピー
 工業の発達は、私たちに便利な生活をもたらした。しかしその反面、自然と一体化した生活から離れてしまったこともまた事実である。急速なライフスタイルの変化は、私たちの心と身体にさまざまなストレスを与えるようになっている。アロマテラピーは、ストレスの多い現代の生活に潤いと安らぎをもたらす「癒し」として関心を集めている。またアロマテラピーを学ぶことで、身の回りの自然環境や住環境、体内環境にも目を向けることができる。香りを取り入れる身近な生活文化の中に、日々の「癒し」を見つけることができるに違いない。

アロマテラピーの登場

2008-01-12 11:43:52 | アロマテラピーの歴史
ガットフォセによる「アロマテラピー」の命名とフランスにおけるアロマテラピー
ガットフォセによる研究
 フランス人科学者、ルネ・モーリス・ガットフォセが、化学実験中の事故で火傷を負い、とっさに目の前にあったラベンダー精油をかけたところ、みるみる回復し彼自身を驚かせたというエピソードがある。彼はこの経験の中から、香りのある精油の治療的な効果に目覚め、この研究に没頭することになった。今使われている「アロマテラピー」という用語は1931年頃、ガットフォセが造語したものである。

ジョン・バルネによる実践
 アロマテラピーは当初、精油の薬理作用の研究(製油のもつ殺菌、消炎などの作用の応用)として始まった。フランスの軍医で、第二次世界大戦およびインドシナ戦争(第二次世界大戦後、旧フランス領インドシナ《ベトナム、ラオス、カンボジア》に起こった対フランス戦争を第一次インドシナ戦争《1946~54》と呼び、対アメリカ戦争を第二次インドシナ戦争《1960~75》と呼ぶ。第二次はベトナム戦争とも呼ぶ。)に従軍したジャン・バルネ博士は、抗生物質の使用に疑問を感じ、軍籍を離れた1964年”aromatherapie”(邦訳「ジャン・バルネ博士の植物=芳香療法」を著した。

 バルネは1920年、フランスのフランシュ=コンテ地方に生まれ、ラ・フレーシュ陸軍幼年学校を終えた後、陸軍衛生学校とリヨン大学医学部で医学を修めた。
 1942年、第二次世界大戦中のドイツ戦線に軍医として従軍し、その後、インドシナ戦争の1950年から53年にトンキンに滞在して、前線から送られてくる負傷者たちに芳香薬剤(精油から作ったもの)を用いて手当てを行い、目をみはる成績をあげた。彼は「役に立つこと」「科学的領域にとどまること」に重点を置き、同業の医師や薬剤師たちに同意を求めるためのアロマテラピー啓蒙に力を尽くしたのである。このように、フランスでは主として精油を薬として用いる方法が研究され、フランスのアロマテラピーの特徴となって今に至っている。

香料・植物療法の発達

2008-01-11 18:03:31 | アロマテラピーの歴史
地中海世界、ヨーロッパ、アラビアにおける技術的発展
 古代以来、香りは、薫香や浸剤の形で利用されてきた→精油蒸留法の発明
 精油の蒸留は、錬金術と呼ばれる技術の中で、完成されたものである。
 錬金術の歴史は、古代ギリシャ、ヘレニズム文化→ヨーロッパおよびアラビア世界で発展。キリスト教世界では錬金術を黒魔術的なものとして否定される傾向にあったが、イスラム世界アラビアでは、肯定的に受け入れられ大きな発展をみた。

イブン・シーナ(アビセンナ、アビケンナ、アウィケンナ)
 医学に傾倒した哲学者。980年頃ブハラ近郊に生まれ、1037年ハマダーンで没したとされる。幼少の頃より天才性を発揮し、18歳の頃アリストテレス哲学を習得、独自の哲学を展開した。とりわけ哲学者として「現存する物はすべて必然的である」という存在論を展開している。医学者としての名声も高く、精油の蒸留法を確立し、治療に応用し、その医学書「医学典範(カノン)」は17世紀頃まで西欧の医科大学の教科書に使われたほどの古典である。彼が確立したといわれる精油の製造法と医学への応用は、アロマテラピーの原型といっても過言ではない。

中世僧院医学とサレルノ医科大学
 中世ヨーロッパでは教会や修道院を中心に僧院医学と呼ばれる薬草中心の医学が行われていた。しかし、そのような自給自足の生活も中世半ばを過ぎる頃には、都市が現れ始めたため、次第に職業としての医師が必要とされるようになった。イタリアのナポリから60kmほど南の港町サレルノは、ヒポクラテスの町と呼ばれるほど、医学で有名だった。文化的にはギリシャ、ローマ、アラビア、ユダヤの4つの文化が認められ、より多くの文化圏からその知識を吸収することができたのである。10世紀末には、医学を教える施設が創られており、4文化圏出身の教師たちによってそれぞれの進んだ考え方が教えられた。「サレルノ養生訓」などの著作は、ヨーロッパ全土にもたらされ、サレルノ医科大学のカリキュラムは中世の多くの大学が範とするほどであった。また1140年にこの地の領主、シチリア王によって、医師の国家免許とも言える制度が始められた。「医療を行う者は、試験を受けて合格することを要する」という意味の布告がなされ、医師開業に制限が加えられるようになったのである。

十字軍の遠征と東西文化の交流
 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、この3宗教共通の聖地といえばエルサレムである。1070年、このエルサレムが、イスラム教徒によって占領され、さらにイスラム教徒によるビザンチン帝国の侵犯があり東方正教会防衛の必要が訴えられた。これに対し、ローマ教皇はエルサレムの聖墳墓(キリストの埋葬された墓)の奪還を最終目標として、十字軍を派遣した。1095年の十字軍宣言から1291年のアッカー陥落までが十字軍遠征の期間とされている。十字軍は最終的には占領地をことごとく失い、歴史的には悪評の方が多いのだが、この間に多くの人々が地中海世界の東西と行き交い、西欧キリスト教徒たちにグローバルな視野の拡大をもたらしたことも事実である。このように、十字軍はその軍事的な意味合いよりも、地中海世界の文化交流を促したことにその意義が認められるだろう。その中で東西のハーブや薬草、アラビアの医学や精油蒸留法などがヨーロッパに伝えられた。
 
僧院医学からハーブ医学へ
ハンガリー王妃の水
 中世のヨーロッパの僧院医学において、ハーブや精油、アルコールなどが用いられ始めた頃のエピソードに「ハンガリー王妃の水(ハンガリアンウォーター)」がある。ハンガリーの王妃エリザベート1世は、若くして夫を亡くし、ハンガリーの君主として、長きに渡り善政をしいていた。ところが、彼女が晩年近くなったとき、手足が痛む病気にかかり、政治もままならなくなってきた。これを気の毒に思った修道院の僧が彼女のために、ローズマリーなどを主体として作った痛み止め薬を献上したところ、彼女の状態はみるみるよくなり、70歳を超えた彼女に隣国ポーランドの王子が求婚したといわれる。この痛み止め薬は、後に「若返りの水」の評判が立ち、今に伝えられている。

16世紀ごろからのハーバリストたちの活躍
 1500年代に入ると、歴史に名を残すハーバリストたちの活躍があった。ディオスコリデスやイブン・シーナたちの著した古典的な書物を元に、植物学、本草学、医学の更なる発展の機運が高まってきた。

ジョン・ジェラード、パーキンソン、カルペッパー
 ジョン・ジェラード:ロンドンのホルボーンに薬草園を開き、それは当時のヨーロッパでは非常に有名だった。薬草園にある植物を注意深く目録にまとめ、1597年、「本草あるいは一般の植物誌」を著した。
 ジョン・パーキンソン:チャールズ1世に仕えたハーバリストで「広範囲の本草学書」が大西洋を渡った書として有名。
 ニコラス・カルペッパー:新大陸への移住者が好んで携えていた”the English Physicians”を著した。当時の医者を批判し、自らの健康は自らが守ることを主張した。薬草、ハーブのみならず占星術の知識も含まれていた。

ケルンの水
 17世紀末、イタリア人で理髪師であったフェミニスは外国で一旗上げようと、ドイツの町ケルンに移り住み「オーアドミラブル=素晴らしい水」を売り出して好評を博した。オーアドミラブルは最古の香水であり「ケルンの水」のニックネームで呼ばれるようになった。同名のフランス語の読み替えは、1742年に登録商標となった「オーデコロン」としても知られている。ケルンの水やハンガリー王妃の水に用いられたアルコールは、酒として有史以前より人類に親しまれてきた物だが、酒酔いの原因になる成分として発見されたのは15世紀頃といわれている。

近代科学の発展(近世ヨーロッパ)
 十字軍の遠征(10~13世紀)の後、ローマ教皇の影響力が衰え始めると、ヨーロッパでは国王を中心とした大きな国が現れ始めた。大きな力をもったスペインなどの国々は、新しい領土の発見のために大きな船を造り世界に送り出した。大航海時代の幕開けである。彼らの一番の関心事は、香料や香辛料だった。肉を保存し、古い肉を美味しくさせるコショウなどの香辛料が、商人達を命がけの航海へと駆り立てた。いつの時代も、植物や香りは、黄金と同じく効果で貴重だったのだろう。もちろん現在では、これらの香辛料からも多くの精油が製造され使用されている。

貴族たちの贅沢と香水
 ヨーロッパの王侯貴族たちの贅沢な暮らしぶりは、香水や香料の需要を生み出した。16世紀から17世紀にかけて、イタリアやフランスのプロバンス地方で柑橘系の植物から香料が作られ始めた。中でもフランス南部プロバンス地方のグラースは、現在も香水の街として知られ、香水生産では世界一を誇っている。グラースの香水産業は、ルイ14世時代の産業の育成政策としてして行われ、イタリアから香料生産に優れた皮手袋職人の家族をグラースに住まわせたことが始まりである。この時代の香水は今のような液体ではなく、においつきの皮手袋として貴族の間で流行するが、その後、液体の香水だけが用いられるようになった。香水は当初、金や銀、宝石で装飾を施した高価な香水瓶に入れられていたが、安価で、美しいガラス製の香水瓶が使われることが多くなってから、フランス国民に広く愛されるようになった。この頃香水は花やハーブの精油が原料となっており、現在のように合成香料が使われ始めたのは、19世紀の終わり頃からである。

近代的な化学工業がはじまる
 17世紀末、フェミニスが発売した「オーアドミラブル」は香水としてだけでなく医薬(胃薬)としての役割もあった。この頃のハーブや薬草を原料にした製品は、まだ医薬品、化粧品、食品の区別が明確でなかった。例えば、カクテルで用いるリキュールも傷や痛みにつけるチンキ剤も、よく似たもので、しばしば医薬品と食品の両方に用いられていた。
 19世紀にはいると薬用の植物から次々と有効成分が分離精製されるようになった。やがて、同じ成分を石油や石炭などの鉱物原料から合成できるようにもなった。近代的な化学工業の技術により、植物からではなく、化学工業的に色々な作用や効果のある薬が作り出されるようになったのである。

アロマテラピーの源流

2008-01-11 08:34:08 | アロマテラピーの歴史
植物を使い始めた人類(先史時代から古代エジプト)
 化石人類で知られるネアンデルタール人の埋葬された墓には、タチアオイと言う草花の花粉の跡があった。古い人類も、死者を花で飾る心があり、花の美しさを愛でていたということなのだろう。
 古代文明が起こったエジプトでは、死後の世界と魂のよみがえりを信じていて、魂が帰ってきたときの入れ物としてミイラを作った。ミイラ作りには乳香や没薬などの防腐効果のある植物が用いられ、神々を祭る神殿では煙で香りをくゆらせる薫香が用いられた。この頃の植物の利用は、薫香(お香のようなもの)と湯やオリーブ油などに漬け込んで作る浸剤(ハーブオイルやハーブティなど)が主流だった。

新約聖書の逸話
 新約聖書のイエス・キリストの誕生物語の中に、東方の三賢人(博士)が、イエス誕生の馬屋で、黄金、乳香、没薬をささげたと言うくだりがある。黄金は現世の王を象徴し、乳香と没薬は「神の薬」を意味すると言われ、まさに、この世に降り立った救世主にささげる品物としてふさわしいものだった。乳香はフランキンセンス、没薬はミルラとして、今日もアロマテラピーで広く利用されている。

医学を創始した人々
 古代地中海世界、すなわちギリシャ・ローマを中心とした国々で、西洋医学は産声をあげた。ヒポクラテス、テオフラストス、ディオスコリデス、プリニウス、ガレノスたちが、それぞれ医学や薬学、植物学、本草学の礎を築いたのである。
 ・ヒポクラテス
  医学の祖と呼ばれ、それまでの呪術的な手法を退け、病気を科学的に捉え現代にも通じる医学の基礎を築いた。「ヒポクラテス全集」を著した。
 ・テオフラストス(紀元前373~287)
  古代ギリシャの哲学者で、アリストテレスの弟子、植物学の祖といわれている。各方面で活躍したが、「植物誌」を著し、植物の分類や系統だった研究を行った。
 ・ディオスコリデス
  ローマ時代の医師で、50~70年頃活躍した人物。ネロ皇帝統治下のローマ帝国内で軍医として働いた。広く旅して薬物を実地研究し、「マテリア・メディカ(薬物誌)」を著した。薬物を植物・動物・鉱物万般を収れん・利尿・下剤など、薬理・機能上から分類し、収載されている植物は600種、薬物全体で1,000項目にも及んだ。「マテリア・メディカ」は中世・近代ヨーロッパ、アラビア世界において千数百年もの間、広く利用された古典である。現存する複写本としては512年に写本され、ビザンチン帝国の皇女に献上されたといわれる壮麗な「ウィーン写本」が有名で、400近い植物彩画を含む491枚にのぼる羊紙から成っている。
 ・プリニウス
  大自然すべての生態に興味を抱き、77年「博物誌」全37巻を著した。他の誰もがなしえなかった大規模な自然誌で、植物に寄せる彼の愛情や、質実剛健な古きよき農業国ローマの伝統が賛美される大作である。今なお、この作品は読み続けられており、彼の業績の偉大さをはかり知ることができる。
 ・ガレノス(129~199)
  古代においてヒポクラテスに次ぐもっとも著名な医学者として知られる。コールドクリーム(植物油などの油性成分と水を混合し作ったクリームで、使用したときに、水分が蒸発し冷たく感じるのでコールドクリームと呼ばれるようになった)などの製剤法の創始者として知られる。古代の医学を集大成し、以後17世紀に至るまで西欧における医学の権威として崇められ、アラビア医学にも絶大な影響を与えた。ヒポクラテスを医学の神として高く評価し、ヒポクラテス医学を基礎として、自らの解剖学的知見と哲学的理論によって、体系的な学問としての医学を築きあげた。動物の解剖を行い、脳神経系、筋肉、眼、骨などについて優れた成果をあげたが、人体の解剖は行わなかった。生理学・病理学においては、肝臓・心臓・脳を生命活動の中枢であるとするなど、輝かしい業績を残した。

古代ローマとヘレニズム文化
ローマ皇帝ネロとローマの公衆大浴場
 皇帝ネロ(37~68、在位54~68)の時代から、ローマは都市政策の一環として、火災を防ぐために、数階建ての集合住宅の浴室設置を禁じ、その代わりに公共の浴場の建設が進められた。風呂を持たない一般市民はこのような公衆浴場を利用していた。216年に完成するカラカラの浴場では、浴場内で香油を塗っていたといわれている。
 皇帝ネロのバラ好きは有名で、バラの香油を体に塗らせたり、部屋をバラの香りで満たしたと言われている。このように、ローマ時代の人々は、皇帝から一般市民にいたるまで、公衆衛生と楽しみをかねて、香りを贅沢に使っていたのである。

アレキサンダー大王時代の東西ハーブの交流
 アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)は、紀元前336~323年に在位した、マケドニア王国の王である。13歳の頃から3年間、哲学者アリストテレスのもとに学び、紀元前336年に19歳で即位した。2年後、東方遠征を始め、アケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼして中央アジア、インド北西部にいたる広大な世界帝国を実現したが、その志半ばに、32歳でバビロンで病死した。彼の東征と大帝国の建設を契機として、東西に活発な文物交流の場が開かれ、ヘレニズム文化と呼ばれる豊かな世界文化の時代を迎えることになった。この頃東西のハーブやスパイスが交易品として盛んに取引されるようになった。

東洋における伝承医学の発展
インドにおけるアーユルベーダ医学の成立
 アロマテラピーに大きな影響を与えたと見られるアーユルベーダ医学は、紀元前1200年~1000年頃、インドに成立した最古の神々への賛歌集「リグ・ベーダ」にその源流が見られる。アーユルベーダ医学は医学のみならず、宇宙観、自然観を含む哲学であり、一方では具体的な生活方法をも含んでいる。アーユルベーダは本来、伝承的に伝えられ、書物として成立したのは、思想の成立よりずっと後になってのことで、歴史的には約3,000年以上の歴史をもつものと推察される。

中国における本草学
 西洋のディオスコリデスの「マテリア・メディカ」と並んで有名な東洋の薬草学書といえば「神農本草経」である。中国では、薬物について書かれた本を、本草書といい、最古のものは2~3世紀の漢の時代にまとめられている。「神農本草経」は、後に5世紀末の陶弘景によって再編纂されて、730種の薬石が記された「神農本草経集注」という形で今日に伝えられている。神農とは、中国の神話にある農業神だったが、漢の時代に中国太古の伝説上の皇帝、炎帝とされるようになった。今日、中医学、あるいは漢方として知られる医学はこのようにして成り立ってきたのである。
 

地球と生命の誕生

2008-01-11 08:24:16 | アロマテラピーの歴史
植物が生命を育んだ
 46億年前、星間ガスが集まって太陽系ができ始め、その後、わずか1000万年~1億年の間に惑星が誕生したと考えられている。地球の年齢は45.5億歳で、大気と海水は40億年前に、大陸は38年前にできた。最初の生命は、原始の海に生息した植物プランクトンで、4億年前には水中の緑藻類から進化した陸上植物が生まれた。植物の光合成は、大気中の酸素を増やし、酸素が上空で紫外線と反応してできたオゾン層は、生命に有害な紫外線を防ぐサングラスになった。葉緑素をもつ植物は、太陽光線のエネルギーによって二酸化炭素と水からブドウ糖を合成する。動物は植物のように、自ら作り出せないので、食べ物から摂る必要がある。植物も動物に与えるだけの存在から、やがて動物をうまく使って、共存共栄するようになった。人類は、植物の中から多くの薬効成分を見つけた。

身の回りにある植物と香り
 お餅を植物の葉で包むのは、食べ物が腐りにくくなるからである。
 風邪薬として知られている葛根湯は、ツル性の植物、クズの根を主剤として、さまざまな植物の薬用成分を含んでいる。これは、現代の風邪薬にも含まれている。