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春が来た

「皇女アナスタシア」をめぐる、ミステリー伝説

2012年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
1904年~1905年にかけての日露戦争で敗北し、1914年に勃発した第一次世界大戦も3年目になったロシア帝国は、戦いに疲弊し国民の不満は極限に達していた。 そして1917年の早春、手に手に武器を持った民衆が冬宮殿になだれ込み、300年・18代続いたロマノフ王朝はその幕を閉じる。 3月革命で樹立された臨時政府によって監禁されたニコライ2世の一家は、最初ペトログラード郊外の宮殿に軟禁されてからソビエト各地を転々と幽閉され続け、最後の監禁場所はエカテリンべルクにある2階建ての大きな屋敷。 館は高い塀と鉄柵で覆われ、すべての窓は白ペンキで塗り潰され、一家は外部との接触を一切禁じらレて厳しく監視される生活だったが、互いに協力しあって生活した。

1918年7月17日の真夜中、寝ているところを叩き起こされた家族は反革命軍が迫っているという口実で地下室に集められ、処刑隊が皇帝一家7人・専従医・女中・料理人・従僕、など11名を殺害した。 皇帝ロマノフ一家が殺されたというニュースは世界を駆けめぐったが、その真相は謎とされ神秘のべールに包まれたままだったため、誰が言うこともなく銃撃を受けた四女のアナスタシア姫(当時17歳)は彼女に好意を持つ兵士に助けられ、ロシア国外で生きているという噂が取り沙汰されるようになる。 アナスタシア伝説は世界中に広まり、それと平行して自分こそがアナスタシアと名乗る女性が10年間で30人も現れたが、歴史上おそらく最も有名な王族偽装者が、ポーランド生まれのアメリカ人女性 「アンナ・アンダーソン」(1896年~1984年)。

1920年氷もまだ溶けきらぬベルリン、運河のほとりに一人の女性が流れ着く。 記憶喪失の自殺未遂者として精神病院に収容されたアンダーソンは、自分がロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアだと名乗り出る。 事実、彼女のロシア宮廷に関する知識は驚くべきもので、また耳の形や足の異常形態などアナスタシアと酷似する身体的特徴が認められた。 さらに旧皇室に関わった者しか知りえなかった子細な事柄についての知識があったことから、ロマノフ家に連なる貴族を含む多くの支持者を得た。 その後彼女はロシア王室遺産をめぐる訴訟を起こすことになるが、ロマノフ王朝の遺産はイングランド銀行の預金だけでも数百億円を下らぬ巨額なものだった。 しかし訴訟は最終的に真偽の確定が不可能として却下された。

ロマノフ家の遺産を手に入れる策略を立てたロシアの元将軍が、街で拾った記憶喪失の女性を存命伝説のアナスタシア皇女にすべく彼女を「本物」らしく仕立て、ついに「皇太后マリア・フョードロヴナ」との「涙のご対面」まで漕ぎつける。 しかしいつしか彼女への想いも「本物」になってしまうという戯曲を映画化したのが、1956年公開のアメリカ映画 「追想」で、主役のイングリッド・バーグマンが2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した。 デンマーク王の次女に生まれ、悲劇の皇帝ニコライ2世の母親となった皇太后マリアは、ロシア革命でクリミア半島のヤルタに幽閉される。 妹マリアの幽閉を知った知った姉のアレクサンドラは、マリアとその一家を救うべく奔走し、甥のジョージ5世も戦艦マールバラを差し向け、マリアと娘一家を救い出す。

マリアは姉とロンドンで再会した後、故国デンマークに亡命したが息子一家の死に衝撃を受け、一家の写真を手元において余生を過ごしたが、孫娘のアナスタシア皇女だと名乗る女性が現れても、彼女は会うことを生涯拒み続けている。 1991年ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、元皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことがことが確認され、さらに掘り起こされた遺骨が「DNA鑑定」という最新の法医学判定によって、謎に包まれた神秘のヴェールも払拭され、数十年の長きに及んだアナスタシア伝説の夢も幕を閉じた。 (鑑定資料の中には日本に保管されていた「大津事件」の血染めのハンカチも含まれている) しかし今日でもなお、アナスタシアが処刑を逃れ、天寿を全うしたと信じてるロシア人は多い。 ロマノフ王朝への哀悼と過去への懺悔なのかもしれない。 


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