カキぴー

春が来た

避暑地で聞いた 興味深い話し

2010年09月05日 | 旅行記

先週軽井沢で静養中の友人を見舞ってきた。 大病を克服し退院して一ヶ月の彼は、高原の自然環境の中で順調に回復しており、ひと安心。 涼しい風が吹き始めた夕方、毎年夏にはここの別荘で会う、在日ドイツ人2世のT氏夫妻が来られて、3カップルでの夕食が始まった。 T氏は81歳とは思えないほど若く、頭もクリアー、古き良き軽井沢にまつわる興味深い話が、次々と飛び出す。

日本人で国際特許弁理士の父と、ドイツ人の母との間に生まれたT氏は、米国アイオワ大学で国際関係論を専攻、カナダ系出版社ハーレクイーンエンタープライズの初代社長など、数多くの外資系企業の役員を歴任し、現在も経営コンサルタントとして国内外で活躍中。 最初に彼が軽井沢を訪れたのは1938年、9歳のときだった。 

別荘の両隣にナチス・ドイツの駐日大使と、駐日イタリア大使の別荘があり、「ハイル・ヒトラー」という声も聞こえてきたという。 その頃は「日独伊三国軍事同盟」があり、彼の父が日本人だから、1年間だけ軽井沢で3つの同盟国が並んでいた時期があったと、彼は笑う。 また旧ソ連軍のスパイ、リヒャルト・ゾルゲがドイツ大使の処にに出入りするのを、何度か目撃している。 「背が高く、ハンサムだった」 らしい。

「戦時中ヴィッテンブルクというユダヤ系のドイツ人が、軽井沢サナトリュウムの主任外科医を務めていました。 当時ドイツにて迫害されてたユダヤ人が、世界に冠たると称していたアーリア人種のドイツ人を手術する、そんなことが軽井沢ではありましたよ。」   T氏の趣味はテニスで、1988年の東京ローンテニスクラブのトーナメントでは、当時の皇太子殿下と対戦し、勝利を収めた経験を持つ。

「戦中であっても国際色豊かな軽井沢には言い表せない活気があった。 しかし現在街を歩く外国人の姿は少ない、国際的保養地の歴史や価値を見直さないと、軽井沢の良さは失われてしまう。 もっと国際感覚を身につけた人をアドヴァイザーとして軽井沢に迎え入れ、避暑地、保養地としての在り方を探るべきです。」 誰よりも軽井沢を愛するT氏の話は、夜が更けるまで尽きなかった。

 


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