カキぴー

春が来た

「軽井沢」で聞いた 懐かしい「海と空の旅」

2011年06月30日 | 乗り物
今年から車で行く軽井沢が近くなった。 北関東道と東北道が繋がり、郡山南ICと碓氷・軽井沢ICとの間がすべて高速道で結ばれた結果、時速100kmで走り途中ランチタイムを入れても、我が家から軽井沢・追分にある友人の別荘まで4時間で着く。 それでも新幹線を利用し、駅まで迎えに来てもらったた方が時間的に早いし疲れないのだが、車で行く理由は唯一つ、2匹の犬を置いていきたくないから。 梅雨入りで雨を覚悟して出かけたが2日間は晴天に恵まれ、1度も降られることなく帰宅することができた今回の旅は、まさに幸運だった。 

追分の別荘で毎年かならず夕食を共にするのが、在日ドイツ人2世のT氏。 今年も3カップルが集い、メインの手巻き寿司を食した後、芝生に面したテラスで蝋燭を灯し、氏が持参した自家製のタルトを食べ、カルヴァドスを飲みながら聞く昔話は興味深く面白かった。 昭和13年(1938年)T氏は9歳でドイツから軽井沢に移住してきたが、そのとき乗船したのが日本郵船の「香取丸」だったことを聞かされ、思わず身を乗り出した。 僕が香取丸を記憶してたのは、横光利一の「旅愁」にこの船の名前が出てくるから。 1913年(大正2年)に竣工し、欧州航路で活躍した香取丸(10513トン)には、多くの著名人が足跡を記している。 

航路は横浜~神戸~スリランカ・コロンボ~エジプト・ポートサイド~マルセイユ~ロンドン~ベルギー・アントワープで、所要日数はおよそ50日だった。 しかし香取丸は第2次世界大戦で軍用船として徴用され、1941年(昭和16年)12月23日夜、ボルネオ島近海で雷撃を受け沈没。 この時の様子を日本郵船の事務員・武藤辰夫氏はこう記している。 「傾斜していく船のサロンにあったグランドピアノが、大きな不協和音を発しながら部屋の隅へと滑っていって、止まった」。 残念ながらT少年は当時のことをほとんど覚えていない、しかし両親とたぶん1等船室で過ごしただろうから、このピアノが奏でる曲をあるいは聞いていたかもしれない。

T氏の話しには、もう一つ船の名前が出てきた。 アメリカの大学を卒業した1954年(昭和29年)、彼がシアトルから横浜まで乗船したのが、日本郵船の「氷川丸」(11622トン)。 世界的に傑出した存在ではない中級クラスの貨客船だったが、アール・デコ洋式のインテリアやサーヴィスの良さが評判を呼び、チャーリー・チャップリンや秩父宮夫妻など太平洋を往来する著名人に愛用され、数多くの逸話を残した船だ。 話しも佳境に入ると僕の好きな飛行機へと移る。 1949年彼は高校入学のため日本からからスイス・チューリッヒまで、初めて空の旅を経験する。 乗ったのはアメリカ・ダグラス社が1942年に開発した大型レシプロ旅客機「DCー4」。 今やこの旅客機に乗った人を探すのは、かなり難しい。

航路はもちろん南廻りで、羽田~上海(1泊)~香港(1泊)~ニューデリー(2泊)~イラク・バスラ~ベルギー・ブリュッセル(1泊)、ここから尾輪式の「DC-3」に乗り換えてやっとチューリッヒ着。 当時飛行機で行くヨーロッパも遠かったのだ。 昼間しか飛ばず、天候が悪いと何日でもステイするからだ。 初めて宿泊した キャセイ・ホテル(上海)、ホテル・ペニンシュラー(香港)、グランド・ホテル(ニューデリー)など、思い出すと今も郷愁をかき立てられると語る。  古き良き時代の軽井沢を知り、こよなく軽井沢を愛する、数少ない外国人であるT氏だが、新幹線で駅に降り立ったとき、不動産屋の看板ばかりが目立つ駅前の風景、国際的な情緒が失われていく街の変貌などが、気になって仕方がない様子だった。






 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿