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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第99話「毛利商店の転機」(昭和23年~27年)

2007-01-02 | 昔の思い出話
 毛利商店の商売は順調のようであった。五十軒筋から直角に30メートル程入った細い路地の奧で、とても商売など出来ないと思われるような場所で商売を営んでいた。
 そんな狭い場所にも、運送会社から木箱に詰めた商品の玩具が頻繁に届けられるようになった。木箱の回りには縄が巻かれていて結び目がある。その結び目をお百姓さんの使う鎌で切り落として、まず縄をほどく。ほどいた縄は再び使えるように、縺れないようにして丸い輪に束ねる。箱の上下を荷姿や荷札の位置で確かめた後、金ヅチと釘抜きで釘を一本ずつ抜いていく。商売も初めの頃は金槌で釘抜きの背を叩いて釘を抜いていたが、いつの頃からか専用の釘抜きが現れて、大変能率よく釘が抜けるようになった。専用の釘抜き機は鋳物製で長さが約40センチほど。釘の頭にハサミの部分をあてがい反対側にある衝撃旱を2、3回強く上下させると、ハサミの部分が木箱にめり込んで釘の頭を挟むので、桿を上下させた勢いで釘抜き機を横に倒すと自動的に釘が抜けるという構造になっていた。 
 釘を抜き終わり箱の蓋を除くと、中から紙箱に入った商品が現れる。次にこれを12個づつ束ねて紙紐でくくりつけて端から積んでいく。紙紐を切るにはハサミを使わない。少々のコツは要るが、紙紐のねじりの方向にさらに数回ねじって勢いよく引っ張ると割合容易に紐が切れる。今でもこの技術はハサミが見あたらないときに役に立つことがある。
 12個は1ダースとも言い、卸売りの1単位である。12個を単位とすることはあまり一般的ではないが、自分は早くからダースと言う言葉には慣れ親しんできた。小学校の教室で先生が「ダースとは何か知っていますか?」と質問をしたときには、一番先に手を挙げて正解を述べたものである。
 そして一つの木箱の中身の整理が済むとつぎの箱に移り、次から次へと手際よく梱包を解き品物の山を作っていく。最後にそれらを家の中に運び込んで天井まで積み上げて一連の作業は終わるのであった。
 子供にとって、家業の手伝いは殊の外やりがいがあった。特に親から命じられなくても、どれほど多くの手伝いをやったことか。親は子供が家業を手伝うのを当たり前と思っているので、誉めも感謝もされることは全くないが、子供は子供なりに生き甲斐を感じて居た。おかげで金槌と釘抜きと荒縄と木箱と紙紐を操ることについては、自分はいつのまにか玄人に近い腕前となった。紙紐で商品を束ねて結わえる作業は今でも自分固有の得意技の一つである。
 運送の手段として自動車の使用は未だポピュラーではなく、小売商への配達はもっぱら自転車を使っていた。特に大量の商品を運ぶときにはリヤカーが使われていた。狭い路地ではリヤカーは道幅一杯となるため、使わないときはいつも路地の片側に寄せて立てかけていた。リヤカーを立てかけると、丁度動物の檻のような空間が出来る。その中は子供一人が入るには十分に広い空間であった。中に入るとその空間は自分の屋敷のようであった。リヤカーの両側の車輪は、手で回すと勢いよく回るので、工場の機械を操作しているような気分にもなった。自分ひとりの世界が出現するリヤカーの中は、想像上の一際楽しい奥座敷であった。
 毛利商店は、北桃谷の営業拠点が段々と手狭になって来たことから、昭和26年、玩具問屋の集積地になりつつあった松屋町筋に適地を見つけ、そこへ進出することになった。路地の奧で如何ほどの商売が出来て、如何ほどの資本の集積が図れたか、自分には分からないが、両親や兄の刻苦勉励によって、やっとのこと、松屋町筋の一等地に近い場所に店舗を出すことが出来る程までに成長したのだ。勿論、店舗は借地、借家であった。
 毛利商店の進出先は東区住吉町であった。玩具や菓子屋街のど真ん中とは言えなかったが、堂々と松屋町筋の表通りに面していた。その家を初めて見に行ったときには、まだ「近江屋」と言う看板が掛かっていた。元の住人は菓子屋であったらしく、甘い砂糖の匂いが漂い、土間には溶けた飴の塊りが散乱していて、歩くと足の裏にくっついて気持ちが悪かった。建物は間口が狭く、深い奥行きで、薄暗くて、飴の匂いが染み着いており、とても玩具問屋になりそうもない感じであった。
 毛利商店は平屋であった建物を二階建てに改造し、正面に「玩具問屋毛利商店」の看板を掲げ、本格的な卸問屋としてスタートを切った。とりあえず、商売に直接関係する家族がそこに住み込んだ。最初に住み込んだのは、丁度、結婚したばかりの従兄「良さん」ご夫婦であった。
 このような時期に、取引先として松阪屋百貨店に入り込むことが出来たことが、毛利商店発展の最初の取っ掛かりとなったようだ。当時、大阪の松阪屋は堺筋日本橋に立地しており、百貨店としては老舗ではあったものの、大丸や高島屋には及ばず、二番手の位置にあった。しかし、一零細個人商店が名の通った大百貨店に新規の取引口座を開設していただくということは、実に大変なことであった。これは、ひとえに商店主であった父の人柄や真面目さなどが評価された結果であった。
 毛利商店は松阪屋に続いて近鉄百貨店をも取引先として開拓することに成功した。これも父の功績である。母がよく父の力を過小評価して愚痴ることがあったが、くそ真面目なくらいの人格者であった父が毛利商店の店主であったからこその成果である。
 商売は営業あってのものである。また、同時に顧客あってのものである。商品を大量に購入してくれる顧客なくしては、卸問屋というものは存立し得ない。特に、顧客として小さな小売店を狙わずに、大量購入・大量販売の百貨店をターゲットとした戦略はまことに正鵠を得たものであった。当時は未だ流通革命の走りの時代であり、玩具と言う商品のアウトレットが町の小さな小売店から百貨店のような大型小売店に転換しつつあったのだ。この時期、わずか二つの百貨店に過ぎなかったが、このような大量販売の百貨店と言う顧客を確保することが出来たと言うことで、毛利商店の将来の発展の足場が築かれたとも言えるのだ。
 当時、父が「電波管理局長」だの「判事さん」などといかめしい方々の名前を口にして、毎夜遅くまで話し込んでいるのを、家族の一員として聞いていたが、多分百貨店との取引をスタートさせるに当たって、有力者とのコネ作りに執心していたためではないかと思われる。特に「判事さん」と言うお名前を再々耳にしたので、てっきり裁判所の判事さんかと思っていたが、後でちゃんとした本名であることが分かり、子供同士で笑い転げたこともあった。


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