goo blog サービス終了のお知らせ 

ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

ISOマネジメントシステム、一度、原点に帰って考えてみては?(2008.9.1)

2008-09-01 | 社長のサプリ
 過激な物言いであるが、一度、3年ほど制度としての審査登録制度を休止してはどうかと思うことがある。頭を冷やすためである。審査機関はあまりにも規格適合性にこだわりすぎるし、審査機関の審査などなくても、本来マネジメントシステムは自己責任に属するものであり、自己宣言で十分だと思われるからである。また、品質が拙ければ製品が売れないだけであり、環境に良くない仕方で製品やサービスを提供する企業は、当然、自然淘汰されていくものと思われるからである。
 品質にしても環境にしても、規格というものは、顧客満足や利害関係者の関心のみを集約したものであり、組織や企業の経営全体を見据えたものではない。経営全体から見れば、必要な必須の骨組すら欠落しているほどのスカスカのものである。また、規格はあくまでも管理の枠組みを要求するものであり、管理の中身についてまで規定するものではない。況んや、組織の活動の結果であるパフォーマンスの質までは問わないことになっている。
 従って、100%審査機関の満足するシステムを構築していても、経営には何の役にも立たないシステムを構築することが十分に可能なのである。このようなことから、最近、審査機関においても、システムの有効性について少し強く関心を持ち始めてはいるが、この有効性とて、審査機関の能力の制約から、経営のごく一部に過ぎぬ規格の要求事項視点の有効性だけに限定するならば、ほとんど意味がなく、ISOが経営の役に立てないことに変わりはない。
 恐れているのは、認証登録を漫然と維持することで、経営の機会損失を招いているかもしれないことにある。自社の形骸化したISOに寄り掛かって、忙しく何かをやっているうちに、時間も資金も枯渇してしまい、実際に行わなければならないことの時間や資金を失わないかと言うことにある。
 もちろん、歴史的にはISOにはそれなりの意味はあった。ISOのお陰で、組織は色々と経営の基本的な事項を学習してきた。しかし、5年も10年も同じ適合性の追求ばかりでよいのか、また、規格の要求する管理面だけでなく、もっと大事な固有技術の充実に力を割くべきではないか、さらに、新たな商品やサービスの開発など、ISOの要求していないことにもっと力を入れるべきではないか、と言うようなことを考えるべきではないか。
 審査登録制度は、いたずらに組織をして管理面のみに注目させ、適合性ばかりを強要してきた。このあたりで、一度、頭を冷やす冷却期間を設けて、組織自身に組織の一番重要なことを考えさせ、資金や時間をそこに振り向けさせる時間が必要である。毎年繰り返されるマンネリと化したサーベイランス(定期審査)を見ていると、半ば強制的な審査登録制度のために、組織からそのような貴重な時間や資金を喪失させているように思えてならない。
 ISO規格は、ある意味では文書化によって現状維持を強制する。生産現場の管理だけを多く求めている。健全な組織の経営に歪みを与えている可能性がある。組織独自の個別化、差別化に逆行し、均一化をもたらせている。諸外国に対するわが国の産業の競争力を削いでいる弊害もあるのではないか。
 過去からの歴史もあり、国際的なルールであることから、全組織一斉に休止できないのであれば、個別組織において、審査登録の休止を検討してみてはどうか。他社との本当の差別化とは何か、わが社の資金を何処に多く投入すべきか、など独自の戦略を考えて欲しい。ISOに過剰な期待を抱いた末、ISOの金縛りになっていないか。ISOは大変役に立ったが、現状はISOが足枷となり、いつまでも同じレベルに安定化させる固定化装置としてしか機能していないのではないか。そのようなデメリットを感ずるならば、個別の組織としてはISOを卒業することも選択肢の一つではないか。ISOを止めろとは主張しているのではない。これまでに獲得したISOの経営管理のノウハウを基盤にして、さらに発展してほしいと言っているのである。
 すべての組織のISOを止めろと言っているわけでもない。ISOが上手く機能している会社もある。ISOのお陰で経営者のリーダーシップが確立できた、システムやプロセスの理解が出来た、文書や情報をもとに仕事をすることの大切さが分った、内部監査も役に立っているし、日常的な是正処置や予防処置による継続的改善が行えているなどの、賞賛や感謝の声も聞こえてくる。
 ISOをうまく使いこなせている組織は幸いである。しかし、さらに経営のレベルを上げたい会社、また、違和感があって上手く行かない会社、逆効果ばかり目立つ会社までもが、いつまでもISOの審査登録制度にしがみついている必要はない。そのような会社は、今一度、原点に帰って、経営と言う目で自社のマネジメントシステムを見直す必要はないであろうか。


環境ISOの現状にもの申す(2008.8.1)

2008-08-01 | 社長のサプリ
 ISO9000では、システムやプロセスの有効性とは、「計画した活動が実行され、計画した結果が達成された程度」と定義されている。どうも分りにくい定義であるが、要するに、有効性とは、システムやプロセスの活動の結果がちゃんと出ているかどうかを見なさいと言うことである。品質マネジメントシステムの場合は顧客の目が光っているので、マネジメントシステムの結果についても、それなりに、それを目指して、各組織が力を入れて活動しているように見える。
 ところが、環境マネジメントシステムの有効性を考える時には、まことにお寒いばかりである。マネジメントシステムのパフォーマンス(結果)は審査の対象にならないことを良いことにして、環境マネジメントシステムをどんどん形骸化させている。マネジメントシステムという容器を形式的に整備して、中身が何もないマネジメントシステムになってきている。
 環境ISOの場合、品質ISOと比べてプロセスアプローチの概念が希薄なので、プロセスのアウトプットの出来具合にあまり注視することがない。内部監査においても、システムが適切に運用されているかどうかだけを見ていて、システムが有効に機能しているかどうかについてはあまり顧みられない。
 環境ISOの方こそ、システムのアウトプットが重視されなければいけないのに、それを監視する品質の顧客に相当する利害関係者の発言力が現場に存在しないので、いい加減に放置されやすいのだ。本来は審査機関が社会(=利害関係者)になり代わって、組織の真面目度をきちんと監視する役回りが期待されているはずであるが、パフォーマンスは審査しないとか、コンサルをしてはいけないとかと言うような理由で、組織の怠慢を厳しく咎める者は誰もいない現状となっている。審査機関は百年一日のように手順適合性の審査ばかりやっていて、環境マネジメントシステムの結果が出ていても、出てなくても何も言わないのが現実である。
 元々、ISO規格や審査登録制度そのものの構築が議論されたときには、法律で一律に規制するよりもISOのような柔構造のシステムで組織の自主性に任せた方が、社会全体としての環境影響の緩和効果は高くなると言われてきたが、今となってはそのような甘い期待はできないようだ。大抵の会社は、紙、ゴミ、電気からスタートして、3年経っても、6年経っても、まだ、紙、ゴミ、電気をやっている。みんな、やることがなくなって来て、マンネリになりつつある。新しく経営に直結した環境課題に取り組むところはそんなに多くなく、最小限のISOを維持するだけで、何かやっている振りをしているだけである。
 このような環境ISOは百害あって一利なしと言ってもよい。元々、目的も利害関係者も異なる品質ISOと環境ISOの整合性を考えたこと自体が誤っていたのかもしれない。品質なら許されてもよいことが、環境の方にも大手を振って許されることから、環境ISOの本来の意図が骨抜きになっている。品質ISOは顧客満足が錦の御旗であり、組織と顧客との間には厳しい2者関係がある。しかし、環境の方は組織の相手は社会全体であり、抽象的な地球環境そのものである。現在のISOのような仕組みでは、利益指向の強い企業や組織にブレーキがかかりにくいのである。環境ISOと品質ISOの統合や整合性に配慮することは環境ISOには甘い方向に作用する。組織の側に意図的な悪意や怠慢があっても、目立った法律違反さえなければ許される。ISOのために全体として低いレベルのマネジメントシステムが蔓延するくらいなら、振出しに戻して、ISOを廃止して、法律で強制するようなことをしないと、地球環境の悪化、特に焦眉の急である地球温暖化は抑止出来そうにない。
 ここでさらに暴論を激化させるなら、組織から著しい環境側面を任意に選択できる自由を剥奪して、社会や地域から見て著しいと考えられる環境側面(例えばCO2の排出や化石燃料の消費など)は、国や地域の共通の著しい環境側面として特定するように、組織に強制するべきである。そして、これらの基本的な環境側面の環境影響が改善できないような組織にはペナルティー(税金や罰金など)を課するくらいのシステムにしないと実質的な効果が出てこない。
 少し過激な話になってしまったが、ISOを認めるなら、環境ISOこそ、結果、即ち、有効性を重視するべきである。活動の総合的な結果であるパフォーマンスの推移をしっかりと監視するようにするべきである。また、組織の経営者は良心を持って、結果を管理すること。そして経営や本業に関連する環境目的・目標を真摯に追求するように方向付けすること。組織の環境目的・目標を達成することは、即ち、資源の浪費や経営のムダを省き、結果的に、経営の合理化、生産性の向上、コストダウンになるのである。経営者としても決して損になる話ではない。
 現状の環境ISOのようなぬるま湯に浸かって、「温暖化みんなで渡れば怖くない」とばかりに宇宙船地球号がぶっ壊れるのを傍観していて、本当にこれでよいのだろうかと思う。


社長さん!原因究明と責任追及を分けて考えていますか?(2008.7.1)

2008-07-01 | 社長のサプリ
 ISOでは仕事や製品の不具合がある場合、これを不適合として是正処置を取ることを要求しています。しかし、日本的経営の色濃い組織では、この是正処置の効果を上げることが容易にできません。今日はその理由を探りたいと思います。
 是正処置とは、仕事のシステムや製品品質などの不具合の原因となっている根本原因を探り当て、その原因を除去することによって再発防止を図るものです。簡単に再発防止と言っても、単なる「臭いものにフタ」では同じことが再発します。根本にある原因を取り除かない限り、「もぐら叩き」になって終わります。
 病気のことを考えれば一番分りやすいと思います。何か原因があって病気になったときに、その原因を除去せずに対症療法だけをやっていては、絶対に病気は治りません。例えば、身体の何処かがガン細胞に冒されているに係らず、痛む、熱があると言って、痛み止めや熱さましの投与ばかりやっていては、今日の痛みや熱は取れても、患部にガン細胞という根本原因が残っている限り絶対に治りません。
 ことが会社と言う組織になると、なぜか患部の病巣には容易に辿り着くことが出来ません。一番の原因は、組織が人間で構成されていることと基本的なものの考え方が確立していないからです。人々の間で再発防止のためには根本原因を取り除かなければならないと言う基本認識があまり強くありません。何かのミスがあれば責任者を呼んで小言を言って終わりにすることが多いのです。仕事のやり方を変えたり、設計を変えたりして、不具合の根本原因を除かない限り、再発を避けることが出来ないのに当座の処置で済ましてしまうのです。
 日本の文化ではなぜかシステムの根本原因に触れることを嫌います。「触らぬ神に祟りなし」とか、「君子危うきに近づかず」とか言って、「臭いものにフタをする」ことだけで済んでしまいます。うっかりシステムや設計に言及して、誰かの「顔に泥を塗る」のが怖いのです。うっかりシステムの不備や構造上の不具合を見つけ出して、「知らぬが仏」でリラックスしている上司を怒らせて「トラの尻尾を踏む」よりも、現場の責任者や担当者を叱っておけば、それで済むと「安きに流れて」行くのです。
 今、社会保険庁の年金のインプットミスなどが騒がれていますが、誰がその根本原因を追究しようとしているのでしょうか。1億の国民が全員で社会保険庁の役人を責めていますが、一体これらのミスがどのように起こったか、その根本原因を誰が議論しているのでしょうか?現在のままでは、社会保険庁を解体して、異なった名前のお役人に担当させて、結局、同じことを繰り返します。「前車のわだちを踏んで」も、そのときは人が変っていますから誰も責任を取らなくて済みます。
 根本原因の分析に際して、人の責任をいくら追及しても改善されるところは何もありません。もっと根本的な原因、基本的な原因を追求しなければなりません。責任の追及は根本原因が分った後にしないと、人間の責任だけ追及して、責任者を退職させて、結局、何が悪かったのか、誰にも何も分からないまま終結させてしまいます。万一お役人の怠慢が最初の原因であっても、先ず第一に、さらに奥に潜む根本原因、すなわち怠慢によってミスを生じさせた制度や構造上の欠陥を見つけ出さなければなりません。
 昨年、一昨年の建築物偽装事件にしても裁判で法的な責任を追及するだけで終わりました。JR西日本の大事故においても、結局根本原因が何であったか、我々には一向に伝わってきません。従って、我々一般の国民の不安は未だに解消されていません。「人のうわさも75日」で終わっています。
 会社の仕事でも同じことです。いつまで経っても、不良品続出で、生産性が上がらず、利益の出ない会社のことを嘆いている社長さん。ミスや不良の根本原因をきちんと究明していますか。本当の再発防止を講じていますか。人の責任だけ追及して、仕事をしている気持ちになっていませんか。原因究明と責任追及を厳密に分けて考えないと失敗します。ちゃんとやる方法も決めずに、「ちゃんとやらんかぁ!」と怒っているだけでは、改善が進みません。自社の不振の根本原因が経営者の基本認識の不足にあったと言うことでは笑い話で済みません。


軒先貸して母屋をISOに取られていませんか?(2008.6.1)

2008-06-01 | 社長のサプリ
 最近、組織の経営システムとISOマネジメントシステムとがうまく噛みあっていないような気がすることがよくある。大企業であれば、一部門だけでISOが成り立つこともある。しかし、中小企業では登録された製品やサービスだけで会社全体がカバーされている。このようなところで、規格の狭い範囲の品質や環境に関する要求事項だけを取り出して、汲々として優先的にマネジメントシステムを運用することに大変な窮屈さを感ずる。
 元々、経営者のISOの認証取得の目的が明確でないケースが多い。ISOを介して、経営を継続的に改善しようとする意図が明白でない。経営目的に即した活動を実行することによって、売上や利益を増加させようとする本来の目的が見えないのである。ISOの運用にも遠慮がちで、少しでも茶碗に盛るご飯の量を少なくしようとしている。経営目的よりも、少しでも審査を無難に通過することばかりに注意を向けているような感じがする。組織は審査員の目を気にし過ぎている。審査員から何か言われることをウルサイと思っている。しかし、会社は審査のための組織でないから、もっと自信を持って、ISOを総合的なマネジメントシステムに転換して運用すべきである。
 マネジメントシステムにISOの規格要求事項以外のことを含めないことによる組織の損失は甚大である。また規格要求事項であっても、最小限に限定して運用することで多くのマイナスが発生している。本来は一元的に管理すべき経営の重要事項がISOマネジメントシステムとISOに関係しないその他の経営管理の事項とに分断されている。更に良くないことに、その他の経営管理事項はISOのために弱体化している。 組織は、財務管理、原価管理、生産管理、労務管理、人事管理、販売管理、マーケティング管理などの多くの品質以外の重要事項を除外して、マネジメントシステムを構築したつもりになっている。利益が出ない原因、コストが下がらない原因、生産性が上がらない原因、従業員のやる気が出ない原因、売れる製品やサービスが開発されない原因などは、適合性だけを求めるISOと歩調を合わせるのが難しい。しかし、組織はこれらをISOの内部監査の対象にしたり、ISOの中で是正処置を実施したり、マネジメントレビューの対象にしなければならないのである。そうしなければ二元管理となってしまう。ISOだけを別枠にして、二重管理になるような手順を強制されては組織は困るのである。しかしながら、組織は認証登録の継続に汲々とするあまり、ISOマネジメントシステムから、経営の重要事項の大半を除外して審査を受けて、すべてが終わったような気になっている。
 ISOによく似た項目があるために、僅かなことをやってやった気になっている事例を一つ上げる。例えば、従業員の教育・訓練である。品質ISOでは品質に影響を与える可能性のある要員の品質上の力量確保を要求している。しかし、教育・訓練というものは一騎当千の人材を養成する経営上の最重要事項であり、人事、採用、福利・厚生などとも密接につながっている。しかるに、ISOがあるがために、教育・訓練を品質ISOの世界に矮小化して、いやいや、気休め程度の集合教育をやって、すべてが終わったような気になっている。こんな教育・訓練を実施しただけで、会社が必要とする有能な人材が育つなんてことは、とても期待することができない。
 もう一つ悪しき例を上げる。ISOで記録ばかり求めること。さらに形式に走った是正処置を求めること。これは3現主義の意欲を減退させる。そのときに現物を見れば、その場で解決する問題を先送りさせる。データを取っている間に時間が過ぎてしまう。
 会社に一つしかマネジメントシステムがないとすれば、ISOマネジメントシステムの中に経営の重要事項をもっと遠慮なく取り込んでいく必要がある。ISO要求事項の見落としさえなければ、余分の事項がいくらISOマネジメントシステムの中に入って来ても構わない。そのような総合的な形で堂々とISOの審査を受ければ良いのである。万一、僭越な審査員が要求事項以外のことに口を挟むことがあっても、それは審査の対象外であるとして、堂々と審査を拒絶すればよいのである。 
 経営全体の一部に過ぎないISOのために、経営の母屋を乗っ取られて、経営者の重要な時間や審議の場所が奪われている。生産性や採算性のことなどISOから見て余分な方が、経営目的達成のために重要なのに、審査に遠慮して、重要でない事項の優先度を上げている。これを称して本末転倒という。どうしてもISOと折り合いが付かなければ、要求事項の適合性ばかりにこだわるISOの方をやめるべきではないか。


環境ISOマネジメントシステムの意味を問う(2008.5.1)

2008-05-01 | 社長のサプリ
 品質マネジメントシステムが世に出て20年以上が経った。環境マネジメントシステムも10年を越えた。品質マネジメントシステムと環境マネジメントシステムは、組織の経営から見れば、いずれも同じ経営の別の側面を見ているとも解釈できるので、両システム規格のコンパティビリティー(相溶性;馴染み)について、長年にわたって議論がされてきた。そのこと自体について、とやかく言うつもりはないが、両システムには本質的に違う側面があることを認識しておかないと、とんだ誤りをする可能性があることを此処で述べてみたい。
 品質マネジメントシステムの場合は、利害関係者が極めてはっきりしている。概ね、製品を購入する顧客が主たる利害関係者である。組織の怠慢に際しては、その製品を購買しないと言うことで自然に制裁が掛かる仕組みになっており、システムとしての制御が可能である。審査機関も不特定多数の顧客の代理そしているという観点から、期待された権限の執行が可能である。
 一方、環境マネジメントシステムの場合の利害関係者は複雑である。環境マネジメントの不備で不利益を蒙る者は特定できない。それは地球であり、社会全体であり、人類や動植物全体となる。また、審査機関は、品質マネジメントシステムと同様、アウトプット自体の有効性については審査しないことになっている。能力的にもそのようなこと審査できる力量のある審査員はいない。審査員は、環境の管理システムがあるかどうか、それが実行されているかどうかを見るだけであり、環境への貢献度の審査はしない。
 たとえば、CO2の排出量がさらに削減できる余地があっても、審査機関は中身に立ち入るわけではない。従って、組織として何の効果もないことをだらだらと怠慢にやっていても誰も咎めることができない。最小限、法律さえ守っておれば、何をやっていても許されるし、何もしなくても許される。そこには、顧客に相当する利害関係者の厳しい目は存在しない。環境について、努力をしていないからと言う理由で、取引を止めたり、購買しないという利害関係者はありえない。顧客が組織の中に立ち入るわけではないので、中身まで分らない。審査機関が不特定多数の利害関係者の代わりに、組織に入り込んで審査をやっているわけではない。審査員は、組織が計画や手順を守っていないことの指摘は出来ても、計画が生ぬるいとか、為すべきことが為されていないとかの不作為自体についての指摘は何も出来ない。もし、正義感の強い審査員が居て、そのようなことを組織に発言しようものなら、品質の審査と横並びで、コンサルに相当するとか色々な理屈をつけて、審査機関の上部構造であるJABから注意を受けたり、排除されたりすることになっている。審査員には、マルサのGメンのような権限は一切ないのである。
 一般の人たちはISOに騙されている可能性がある。ISOの認証登録組織は、最大限の努力をしていても、ほとんど何の努力をしなくても、その間には何の差も付けられない。環境への怠惰を認証取得と言う行為で免罪符として活用している組織も存在する。そのような組織に対しても、手順があり、形式的に規格の要求事項さえ充足しておれば、認証登録を拒否することは出来ない。規格の要求事項は、あくまでも管理の手順に関するものであり、組織の行っている環境影響の軽減を要求するのではない。
 地球が悲鳴を上げ始めているこの時勢で、環境ISOが存在するお陰で、ISOが意味のない安心感を与えるマイナスの存在となり始めているかもしれない。環境ISOこそ、品質ISOよりも厳しい目でそのマネジメントの有効性や組織が取り上げる計画の妥当性を追及する必要がある。しかし、残念ながら品質と環境のコンパティビリティーを求めれば求めるほど、本来あるべき環境マネジメントシステムの成果が骨抜きになっていく。
 環境マネジメントシステムが品質マネジメントシステムと同じ仕組みの審査制度で、同じ審査機関により審査されることに無理があるのではないか。地球を代表する能力やそのような資格のある審査員が環境マネジメントシステムの効果そのものを審査しないと意味がないのではないか。現状の環境ISOは、見掛け倒しの、意味のない、自己宣伝のための、免罪符のための制度になってはいないか。何の効果もない、要らぬ審査をして、要らぬ費用をかけているだけではないか。
 最近は、当初、流行っていた、紙・ゴミ・電気を削減する課題は、何処の組織も一巡し一段落した。しかし、多数の会社が相も変わらず、ほとんど余地のなくなった紙・ゴミ・電気の削減を一年一日のように繰り返している。何処の組織もマンネリ化の気配が濃厚なのである。最も環境に良い方策はISOの認証登録を止めて、少しでもムダを減ずることであると言いたくなるほどだ。
 今は各組織とも地球温暖化に対する対策を懸命になって強化すべき時なのだ。本業でそれをやることが大切なのだ。本業の中で、省エネルギーの環境課題を探索して真剣に取り組まなければならない時なのだ。このような時に、ISOの認証登録のお陰で、本来、為すべき努力をせずに済ませているとか、ISOを無益に維持するだけの環境に有害な行為を懸命にやっているとすれば、それは誠に噴飯ものである。
 ISOの有効性とは、計画した結果が達成された程度のこととされている。計画の質は問われない。品質の場合は、顧客の目が光るのでそれでもよいだろう。しかし、環境の場合は手抜きの計画であっても、その計画を達成する姿勢さえあればOKとなる。手抜きの計画とは最悪本当に何もしないという計画もありうる。品質と環境が同じシステムであることが環境の場合の手抜きの手段となってしまうのである。


ISOマネジメントシステムは結果(有効性)がすべてです(2008.4.1)

2008-04-01 | 社長のサプリ
 「ISOは取ったけど何の役にも立っておらん!」「クレームも不良率も全然減らん!」「売り上げも伸びない!」などと仰っている社長さん。言っているだけではダメですよ。何か手を打っていますか。その原因を真剣に考えていますか。ISOなんて言うのは所詮ただの手段に過ぎません。目的や意思のないところでは何の役にも立ちません。
 「役に立っていない」と言うことを、専門用語では「有効性がない」と言います。「有効性がない」とは、結果が出ていないと言うことです。わざわざ「有効性」と言う言葉を使わなくても、結果の出ない道具は役に立たない道具であることは自明ですね。
 社長さん。御社のISOマネジメントシステムが有効であるかないか何かで確認していますか。おっと、不良率が減らないとか、売上げが伸びないこと自体が有効性の尺度ですから、十分に認識されていることと思います。ただ、そこには、それなりの手抜きがあることを気付いていますか。
 元々、ISOがスタート時点から、認証機関を含めて少し運用の誤りがありました。あまりにも規格要求事項の枝葉末節にこだわって、規格要求事項への適合性ばかりを追及させられてきました。重箱の隅を突くようなことばかり指摘されました。目的が経営への貢献ではなくて、目的が手順への適合性だけになってしまったのです。また、規格の根本思想は、顧客から見て品質保証への信頼感を確実にすることが目的ですから、組織の経営成績がそれでよくなるかどうかについての関心はほとんどありません。
 その結果どうなったでしょうか。組織は、当然、少しでも無駄な手間をかけまいと思っていますから、審査に当たっての審査機関からの指摘が最小になるように、組織の取決め事項を最小化します。時に、過剰に防衛に走って、手順適合性を立証するためだけの過大なシステムを構築します。多くの場合、其処には経営に貢献するための「有効性」の視点が欠如していました。
 経営者が真に求めているものは経営への貢献ですが、ISOの常識が変な方向に進んでいきました。そのことが組織の経営者に十分に認識されないまま、ことが今日に及んでしまったのです。仕方がありませんが、今となってはこれからの最善を期すしかありません。
 ほとんどの組織はISOマネジメントシステムの再構築(リストラ)が必要です。「有効性」の視点からの再構築です。例えば、現在行っている組織の内部監査は、全くISOの有効性を見ていません。手順適合性だけで終わっています。
 内部監査では、もっとプロセスのアウトプットを見て、適切な活動が行われているかどうかを見なければなりません。アウトプットを全然見ずに、記録と首っ引きで手順を守っているかどうかだけを見ていては意味がありません。コストが目的なら、現在のコストと言うアウトプットを見て、コストダウンができない原因を監査しなければなりません。
 なぜかコストなんてISOと関係ないと思っている会社も多いのです。それはISOの要求事項にコストや効率性のことが含まれていないからです。現実には、会社ですからコストのことはやっています。しかし、それは別のところでやっているのです。実際、コストと品質を切り離して、別々にやっていけるものでしょうか。要らぬことを審査機関から言われるのがイヤだからと、別のところでやっているようでは総合的な経営判断などできるはずがありませんね。
 経営の継続的改善の中心となる是正処置の実施も極めて不完全な運用で済まされています。規格の要求をイヤイヤ表面的になぞっているだけです。手順さえ守っておれば意味があろうとなかろうと、審査では不適合の指摘になりません。お互いに、少しでも安く上げて、審査を無難に通過しようと考えているだけにしか見えません。
 ところで、経営にとって非常に大事なものに、社員の力量があります。ISO規格には、経営全体のことは無視して、一応、教育・訓練について規定されているものですから、組織はこれに従い、表面だけ実施して良しとしています。拙いことに経営者はISOで決めてあるからとそれで安心してしまうのです。これは経営に必要な社員の教育・訓練のごく一部に過ぎません。また、おざなりの教室の講義で済むものではありません。仕事を通じて管理者が誠心誠意訓練すべきものです。製品品質に影響のある社員だけに限定して、最小限の教育をして、それですべて良しとできるものではありません。
 経営目的を忘れたマネジメントシステムを惰性的に継続することで、登録証を社長室に掲示することは継続できますが、意味のない安心感を社長に与えるだけで終わります。ISOマネジメントシステムを経営の有効性の視点から確認していますか。有効性をチェックできるような形でシステムを構築していますか。システムの有効性を阻害するものがあればその原因を見極めていますか。その原因に対してきちんと処置させていますか。中途半端なISOが手前勝手な自己満足でマンネリに流れていると会社は動脈硬化になります。副作用だけのそんなISOなら即刻返上する方が賢明です。


トップが知らん顔しているとISOはうまく行きません(2008.3.1)

2008-03-01 | 社長のサプリ
 所詮、会社は社長の器以上にはならないものだ。その一例として、ISOマネジメントシステムを構築して良くなる会社もあれば、逆に拙くなる会社もあることを此処で述べてみたい。
 他の人から聞いた話であるが、50人くらいの中小規模の会社で、常務さんを中心に、そこそこ順調に回っていた会社があったそうだ。あるとき取引先の大会社から、ISO9001品質マネジメントシステムの認証登録を強く勧められたものだから、顧客満足第一とばかり、社長の号令一過、社員一同、猛然と頑張って、品質マネジメントシステムを構築して、その運用を始めたとのことだ。ところが、この会社は社長さんが少し不勉強であった。社長さんはISOマネジメントシステムと言うものを理解していなかった。
 当然のことであるが、ISOマネジメントシステムを構築したことから、この会社では、情報が社長に集まり始めたのであった。顧客クレームなどの情報もイの一番に社長の耳に入った。社長が出席する品質会議や営業会議も日常的に開かれるようになった。ISOマネジメントシステムが見事に計画どおりの機能を発揮し始めた。これで会社が良くなると、皆が思った矢先、会社が何となく、おかしくなり始めたのであった。次年度には売上げが急降下したそうだ。
 何と言うことか。実は、社長さん、少々優柔不断な人であったらしい。折角、構築したマネジメントシステムが1回転した頃から、徐々にうまく機能しなくなってきたという。下から情報やデーターが上がって来ても、社長から何の指示も出てこない。みんなで色々と意見を出して論議をするのだが、社長さんからの方向付けが、大変、弱かったということだ。
 社長にすべての情報を集めて、その決裁を仰ぐという欧米的なトップダウンのシステムがこの会社に馴染まなかった。こうなってしまうと、ISOを使って売上げの維持を図ろうとしたことが、大変な逆効果になった。実のところ、経営者自身がISOを負担に思って、「ISOは役に立たない」と言い始めては、もう何をか言わんやである。
 ISOは、やれば必ず黄金の効果の出てくる打出の小槌ではない。トップにリーダシップがあって初めて動き出すシステムである。単なる枠組みに過ぎないマネジメントシステムには、トップがエネルギーを注入し続けなければならない。トップが本心から業績に対する熱意を社員に見せ続けなければならないのである。
 ISOの仕組みを作ったから、「後は良きに計らえ」では前進しない。トップが何かを発信しない限り仕事は進まない。トップの役割は、ISOを構築しようとしまいと、本来、変るものではないが、ISOを下手に構築してしまったがために、これまで実質的に会社を支えてきた常務さん以下の縁の下の力持ちの居場所すら奪ってしまった。ISOを導入して初めて、そのことに気がついたのだが、時は既に遅かった。
 以上のように、ISOをきちんと機能させるには、トップの強い方向付けが必要である。トップはこのことをしっかり認識して、先頭に立って、自らの意思を社員に示して行かななければならない。それを継続することも必要である。トップの、この意識が強固であれば、ISOは必ず、経営の中心軸として効果を発揮していくはずである。


ISOマネジメントシステム審査制度についての所感(2008.2.1)

2008-02-01 | 社長のサプリ
 最近はISOマネジメントシステムの審査制度の問題点ばかり目について困っている。自身ISOでメシを食っているのに、一方では組織のISOの構築や維持に注力する傍ら、他方では審査機関の審査に協力しつつ、果たして現状の審査制度がこのままで良いのかと思うことも多い。このようなことで自身の精神状態が多少分裂気味となり大変苦しい。ここで、若干、頭の整理が必要と考える。
 ISOマネジメントシステムとそれに伴う審査制度とは一体何であろうか。先ずISOマネジメントシステムの審査登録においては、評価されるものは品質や環境のパフォーマンスではなく、それらを生み出す管理システムである。しかし、良い品質の製品や環境を作るためには、先ずその製品や製造システムに固有の技術が必要である。この核となる固有技術が十分でなく形ばかりの状態で、果たして管理システムだけがいくら頑張っても、如何ほどの優秀なパフォーマンスが創出来るものかと思われる。組織の経営者のISOが役に立たない、不良率が一向に減らないなどと言う嘆きはともかく、先ず未熟なレベルの固有技術に目を向けて、その充実・改善を図るべきである。所詮、管理システムのレベルは組織の固有技術のレベル以上には到達しないものだ。しかも、審査機関の審査員が分かったような顔をしてプロセスの不良率改善にISOの管理面からいくら叱咤激励しようとも如何ともしがたい。そのような努力はお門違いと言うものだ。
 次の問題は、審査は第三者の審査機関が行うと言う点にある。このことは、審査機関をして事前の明確な基準に照らして客観的な証拠と対比してその適合性を審査しなければならないと言う手順を強制する。このことによる問題の第一点は、組織の固有の事情や利害関係者の個別の関心事には、ほとんど配慮が払われないと言うことを強いる。いきおい、審査機関の審査は形式的・皮相的となり、審査を受ける組織にとって何の有り難味もない平凡な評価を頂戴することになる。システム構築後数年の初歩の頃なら、組織内に外圧を利用して管理システムの定着を加速させると言うようなメリットもありうるが、10年、20年の長期にわたって同じことが繰り返されると、個別の組織にとって審査とは一体どのような意味があるのかという不信感が生じてくるのも止むを得ない。第三者の審査機関が行う適合性審査の第二の問題点は、組織の成熟度への配慮がほとんど出来ないということである。審査の評価項目はISO規格の要求事項だけに限定されるので、幼稚園レベルの組織も大学レベルの組織も同じ問題で試験を受けるようなものとなる。適合性審査の第三の問題点は適合性審査そのものにある。評価は公平で客観的でなければならないという本質的な制約から、組織は明確な証拠のあるものしか指摘されることがない。つまるところ、手順があるとか、手順がないとか、手順どおり実施しているとか、実施していないとか、いわゆる組織の経営から遠く隔たった、どうでも良いような末端の指摘に終始せざるを得ない。以上、要約すると、いくら頑張っても、審査機関は、組織にふさわしいシステムが構築されているかどうかの評価をすることが出来ないということになる。
 さらに、次の問題は、ISO規格はあらゆる業種業態に普遍的に適用されるという本質を持つことにある。規格制定者の意図に反して、世の中の実体はもっと複雑であり、そんなに簡単なものではない。例えば、品質マネジメントシステムには、いわゆる設計・開発に研究開発が含まれていない。製品の企画・設計よりは、製品を設計どおりに実現し、設計どおりに製造したかどうかを検証することが重視される。技術が完全に成熟したような業界であればそれでも良い。しかし、企業間の競争は製品やサービスの差別化が焦眉の急であり、ただひたすらに決められた製品を製造するだけで経営が成り立つものではない。如何にISO9001規格が顧客満足や経営品質の品質保証を目的としていると言っても、その中身はやはり狭いものとしてしか運用できない。さらに、元々、ISO規格は英国を発祥とする規格であって、管理の考え方そのものが欧米的な発想となっている。自分で計画し、自分で製造し、自分で検証するのではなく、エライ管理者や専門の技術者があらかじめ計画だけを行い、普通の人は実施だけをして、エライ人に結果を報告し、承認を得るような、システムの構造そのものがわが国の文化に馴染まない。どちらが良いとかの問題ではない。大きい会社も小さな会社も、また、製造業もサービス業も、さらに国を越えて一つの規格ですべてに適用しようとすること自体が、組織が自身の身の丈に併せてシステムの有効性を追及したり、最適システムを構築して、さらなる飛躍を目指そうとする場合に理不尽な制約を課すことになる。
 ここでISOが役に立たないと言っているのではない。事実、組織によってISOは大変役に立ってきた。しかし、組織の最適の管理のスタイルは一度決めると未来永劫不変の物であると言うわけには行かない。マネジメントシステムは、組織の個性、特殊性、文化、時間の経過などを十分に配慮してフレキシブルに運用していく必要がある。また、同時に、どの組織にも均質な審査制度が時代遅れになって来つつあるのではないかと思われる。組織の成熟度や経営へのニーズが様々に異なる中で、現在の審査登録制度が組織にとって、軽すぎたり、重すぎたりして、ぴったりとフィットする組織が少なくなってきている。
 組織として、いつまでも同じ審査機関の、同じ審査を受け続けるのではなく、自身の成長や成熟度に合わせて変化させていくことが必要である。審査機関に義理を立てる必要はない。思い切って時代に合わない形式一点張りのお役所的な審査機関を突き放す。選別する。そのことがISO審査制度の発展に役に立つ。力ある組織はISO審査制度の限界を突き破って、自らの力で変化し、成長していくことを目指すべきである。


今年は経営の原点に立ち返りましょう!(2008.1.1)

2008-01-01 | 社長のサプリ
 正月だから少しは基本に立ち返って考えたい。去年は偽装の年だったとか。過去の歴史を考えると、これは当然の帰結であったという気がする。何故か? 特に最近は、徹底的に人間が無視されて来たからである。偽装は、消費者や国民を騙すものであり、尊敬されるべき人間を人間として認めていない心根から発している。政治も、ビジネスも、学校も、家庭も人間無視が横行した年だった。
 政治の世界は言うまでもなかろう。年金の話も、C型肝炎の話も徹底的に国民と言う人間を欺いた結果である。行政に関る人たちは国民一人ひとりの生活や窮状を本当に考えていただろうか。表面的な屁理屈を盾にして不作為を貫く。そして偽装の上に偽装を重ねた。
 ビジネスの上でも人間無視が横行した。パートや派遣社員ばかりの職場。会社の経済合理性を貫くこと自体は批難できないが、それによる副作用に目が届かない。給料が安くて劣悪な労働条件の下で、誰が献身的に会社や顧客満足のために仕事をするものか。コスト、コストでいけば、確かにコストは一時的に切り詰めることが出来ても、企業としての長期的な使命がそれで果たせるか? このままでは会社の10年後が危ない。
 学校と言えばここにも色々な問題がある。あまり話題にならないが、最近の大学の独立行政法人化の長期の将来的な影響についてもしっかり考えておかなければならぬ。独立採算を強制される国公立の大学で、果たして長期的な展望の下で行うべき国家的な研究が正当に評価されるであろうか? 研究者一人ひとりのやる気を鼓舞すると言う点で今後どうなっていくか? 人間としての研究者が、落ち着いてじっくり研究に取り組むことが出来るであろうか?
 家庭でも親と子供の殺し合いがこんなに増えるとは! 信じられない。親も子も相手を人間として見ない風潮が蔓延している。
 この小文は経営者向けに書いているつもりだから、会社経営のあり方について、少しスペースを割きたい。
 経営者の皆様。今年は従業員を尊重して、従業員の待遇や処遇を出来る限り改善する方向で努力して欲しい。それは誰のためか? もちろん、会社のためであり、経営者のためである。
 経営者の皆様。心理学を勉強して欲しい。顧客満足なんていうものは、従業員に口先だけ強制してできるものではない。経済合理性のみを追求して品質保証が出来るものではない。すべて血の通った人間である従業員一人ひとりの血の滲むような努力と汗の下で、組織としての改善が蓄積されることで可能となるものである。自社の利益の源泉となる他社との差別化が何処から出てくるのか。
 経営者の皆様。パートや派遣をどんどん減らして正規従業員を増やすこと。会社に貢献したい、其処で昇進したいと願って会社と心中する覚悟のないような人々から何が期待できるか。よく考えて欲しい。現在の経営は、そのような会社に忠実な人々を減少させるだけでなく、駆逐する方向に動いている。世相が変わって人心が荒廃して来たからではなく、組織の中における経営者の不作為がそれを助長している。不作為は役人の専売特許ではない。経営者も不作為の主役である場面が少なくない。
 経営者の皆様。従業員を一騎当千の人材にして欲しい。体系的な教育訓練をするのである。自発的にも勉強させるのである。能力を持たせ、やる気にさせるのである。従業員を人間として扱い、自信を持たせるのである。一人ずつ、個性のある人間として信頼するのである。信頼できない人材を信頼できる人材にするのである。ハッパをかけたり脅かしたりするよりも、従業員の能力を高め、実質的な企業繁栄の根拠を作るのである。
 経営者の皆様。今年ほど世直し的にみなが力を合わせて努力すべき年はない。ここで経営における経済合理性を無視せよと主張しているのではない。経済合理性に一方的に偏って経営ができるのであれば誰も苦労しない。世直しの目線をもっと人間尊重や人間への信頼に置いて、経営の再構築を図って欲しいと言っているのだ。戦後の高度経済成長を支えた日本的経営の長所は何と言っても人間尊重にあった。そのお陰で、ここまで躍進できたのに、短期の利益に目が眩んで長期の成長の芽を摘んでしまってはならない。(子年元旦)


ISOとTQMの使い分けと融合を考えていますか?(2007.12.1)

2007-12-01 | 社長のサプリ
 わが国が製造技術をベースとして営々と築いてきたTQMがISO9001に乗っ取られたのか、はたまたTQMが歴史的な基盤としてISO9001規格の構築に役立ったのか、あるいは行き詰まったISO9001の次の手としてTQMに進化していくのか、これからは組織の歴史や特色に基づいて色々な考え方が出て来るものと思われる。
 TQMとISO9001の優劣をここに論ずるつもりはないが、TQMにはない特徴をISO9001は持っているし、またISO9001にはない特徴をTQMが持っていることも事実である。経営者の責任について言えば、ISO9001においてもTQMにおいても、トップがリーダーシップをもって強く関与していくべきであることは論を待たない。しかし、トップに要求される責任には両システムで微妙な違いがあるようにも思われる。
 トップが関与する重要な機能として、ISO9001においてはマネジメントレビューがあり、TQMでは方針管理のトップ診断がある。両者は良く似ているようでいて、実はかなり違うようにも思われる。出来れば、両方の長所を合わせたような運用が望まれる。トップの理解が得られないまま、いずれのシステムにおいてもトップの責任が十分に果たされていないように感ずることも多い。
 先ず、ISO9001品質マネジメントシステムでは、品質方針からスタートするが、品質方針の運用にはあまり芳しくないことが多い。規格が要求するからということで、最小限のスローガンのような品質方針が作られる。矮小化された、取ってつけたような品質方針からは、小さな成果しか出てこないことに気がつかない。品質方針の前提となる経営方針や経営戦略がないのに、無理して品質方針の御託を並べて形だけ整えても意味がない。残念ながら、ISO9001では大きな組織にも小さな組織にも同じ規格を適用するために、経営戦略ではなく品質方針からスタートするが、本来は経営全体の大きな枠組があって、その中に品質マネジメントシステムを位置づける必要があるのだ。
 次に、ISO9001規格のマネジメントレビューの運用には、TQMのトップ診断で見られるような診断的要素がほとんど含まれていない。規格はハウツーを要求しないので、それらは組織の自由に任されている。また、ISO規格では、トップが現場訪問することまで要求していないので、社長の居る本社か、工場の会議室で書類による報告でマネジメントレビューが終わってしまう。さらにISO規格では、マネジメントレビューで報告すべき要件が規定されているので、それさえやっておればすべてOKと言う感覚に落ち込んでしまう。新しいサービスの企画や新製品開発など、ISO9001には馴染まない重要案件が遠慮して次第に小さくなっていく。現在のISOマネジメントシステムでは、マネジメントシステムと言うトータルマネジメントの表現でありながら、生産を行う現場が中心であり、製品開発や情報技術などの機能が継子になっていく。
 一方、TQMにおけるトップ診断ではどうか。TQMでは文書や記録の管理をあまり厳しく言わないので、毎年のトップ診断に備えて現場が慌てて資料を作って、自部門の手柄話だけをしてそれで終わってしまう。部門長の話は成功談に時間が割かれ、社長に聞かれたくない話は時間が極端に短くなる。年度末になれば、また慌てて手作り資料を作ってそれで終わる。システムとしての組織全体の整合性や情報の一貫性が維持されない。また、継続的な記録やデーターの蓄積が行われない。この辺りはISOの得意とするところであり、TQMではおざなりの運用になり勝ちである。また、TQMのトップ診断の診断と言う用語にはトップの責任と言う重みが伴う。トップが主体にならなければならないという響きがある。トップは単に報告を聞くだけではなく、現場で結果や経過を見て、診断しなければならぬと言う責任を意識させる。
 ISO9001ではマネジメントレビューと言う言葉を使うのでトップの主体性が希薄となる。レビューを見直しと言い換えても同じだ。大きな会社ではトップがすべてを見ることが出来ないので、品質管理責任者を設けてトップの権限を委譲する意味は確かにある。しかし、中小の組織で、規格が要求するからと言って管理責任者を設けてトップが逃げてしまう現状を見るにつけ、ISOのお陰で日本中の中小企業が経営の有効性を喪失しつつあるのではないかとあらぬ危惧まで生じてくる。組織の大小に関わらず、ISO9001と言う一つの規格を適用することに功罪がある。小さな会社が経営者の責任を放棄する言い訳にISO規格を使うとすれば、それは由々しき事態である。そのような組織は、なるべく早くISOを止めて、身の丈に応じたTQMを構築する方が良い。
 ISOにもTQMにも長短があり、その特徴を適切に組み合わせて自社に最もふさわしいシステムを構築するのが良いのである。ネコも杓子もISOの認証登録をすることが必ずしも最善ではない。今後、ISOがマンネリになって、行き詰まる会社が増加しそうな予感がする。その時には昔取った杵柄であるTQMに帰って、ISO品質マネジメントシステムの改革を図ることも視野に入れて考えておくべきである。


御社のISOマネジメントシステムは経営に貢献していますか?(2007.11.1)

2007-11-01 | 社長のサプリ
 信じがたいことであるが、ISOの品質マネジメントシステムや環境マネジメントシステムの規格要求を忠実に実行しても自動的に会社の業績が向上したり、環境パフォーマンスがよくなる保障は何処にもない。世間では、ISOの認証を取得したときに、会社を上げてお祝いしたり、営業PRにこれ努めたりと大忙しであるが、認証を取得しただけでは、実際の成果には直結しないのである。このことが世間でほとんど理解されていない。
 ISOの認証は、審査機関が組織のマネジメントシステムにおいて、規格の要求事項を守る手順が確立され、実行されているかどうかを確認して付与するものである。審査機関の審査では主として手順の適合性(規格の趣旨に沿っているか、それが実施されているか)を見て、その有効性をほとんど確認しないし、しようと思っても実際のところなかなか難しい。また、最終の成果であるパフォーマンスについては、審査機関は審査をしないのである。審査機関は組織のマネジメントシステムが管理の手順として維持されているかどうかだけを見ているのである。品質や環境上の成果がほとんど出ていなくても、手順さえきちんと守っておれば、3年でも6年でも、認証登録が継続される仕組みとなっている。
 よく経営者が「うちはISOを取ったのに、一向に成果が出ない」と、ぼやいておられるが、それは言う相手を間違っているのである。成果が出ない真の理由は、自分自身が成果を目的として行動していないからだ。誰に文句を言うべきかと言えば、それは自分自身に言うべきものである。規格には、「目標を作って、継続的に改善せよ」とは書いてある。しかし、「何をせよ、どれだけせよ」とは何処にも書いてない。書いてないことは審査機関と言えども審査できないのである。審査機関は規格の要求事項に沿って、組織が「目標を作って、継続的に改善しているかどうか」に関する管理の手順とその実施だけを見ている。それを勘違いして、審査機関に対して少しでも値切ってやろう、少しでも手を抜いて効率的に進めてやろう、と考えていては笑止千万だ。手を抜けば、その分の成果しか出て来ないのは当たり前のことだ。成果が少なくて困るのは自分自身であり、審査機関ではない。また、組織で実行すべき内容は組織自身が考えないと誰も教えてくれない。それを考えるのが組織の実力であり、売上げなどで組織間に差が生ずる根源なのだ。
 言うなれば、ISOマネジメントシステムと言うものは缶詰の容器に過ぎない。缶詰の中に何を詰めるかは組織が決めなければならない。もし、組織自身に主体性がなく、何をやっていいのか分からぬまま、なるべく手を抜いて認証を継続しているとすれば、お金だけ払って中身のない缶詰を抱かえて、食事しているつもりになっているようなものだ。
 基本的に重要なことは経営者の目的意識である。経営者がISOの本質を理解して、何を何処までやるか自身が決めなければならない。何でもかんでも、従業員に丸投げして、楽をしている経営者の下に居る従業員は、仕事が楽になったと喜んでいるだけである。トップの責任は重大なのだ。
 ISOの登録を開始して3年経ち、更新審査を迎えた時点で、一度、わが社のマネジメントシステムの有効性やパフォーマンスがどのようになっているかを確認して、反省してみる必要がある。下手なISOは社内に官僚主義を蔓延させ、何よりも大事な創造性や改善の活動を阻害する副作用もある。形式的にISOをやっているため、何かやっているような気になって、安心感だけが生じて、実質的には何もやっていない。そのような構図に落ち込むのが最も恐ろしい。ISOがうまくいっていない組織の経営者はそのことに気が付いていない。
 何の成果もなく、副作用があるだけのシステムに膨大なコストをかけて大切に維持しているとすれば、それはお笑いものだ。継続して審査機関のお墨付きがもらえたと安心するためだけでは意味がない。最初は良くても、時間の経過とともに実体がなくなっている可能性だってある。ISOは意識して目的的にうまく使いこなせば大いに経営の役に立つが、経営者に主体的な目的意識がないと、何の役にも立たない竹光の剣になるかもしれないのである。


予防処置の出方でISOマネジメントシステムの成熟度が評価できます(2007.10.1)

2007-10-01 | 社長のサプリ
 品質や環境マネジメントシステムで非常に重要な要素であるにかかわらず、現在、ほとんど活かされていない項目がある。それは「予防処置」である。審査員として組織にお邪魔して、「予防処置は、この1年で何件ありましたか?」と質問すると、大抵の組織では、小さな声で「ゼロ件です」と答えられる。1年くらいの短期間なら、まあ、そのようなこともあろうかと思う。しかし、3年毎の更新審査に臨んで「この3年間に予防処置は何件ありましたか?」と質問すると、やはり「ゼロ件です」と返ってくることが多い。
 「それでは、規格の要求する予防処置の機能は全く働いていないのではありませんか?一要素の完全な欠落や機能不全は重大な不適合ですよ?」と言いたくなる。が、このことの真の原因はもっと本質的なところにありそうだ。このように多くの企業で予防処置を発動することへの意識や関心が大いに希薄化しているが、品質(環境)管理部門やその他一部門の問題ではなく、組織全体、特に経営者にその責任の一端があるようにも思われる。
 予防処置とは、問題が顕在化する前に不適合の発生原因を除去する処置である。これには、先ず日常の現場の情報やデーターの監視が前提となる。そして情報やデーターから意識的にその傾向や問題を抽出・把握することが必要だ。現場の情報としては第一線で作業している担当者の直勘や改善提案なども重要である。しかし、何にも増して重要なのは、すべての情報が集まるマネジメントレビューの場である。ここで経営者が無関心・無意識でいると、何も気付かれず、何も始まることがなく、すべてが終わってしまう。
 予防処置のニーズを発見する機会としては、内部監査で顕在化した不適合の水平展開、日常的に発生する不適合の総合評価、変化する周囲の状況や法改正の動向、近隣や取引先からの要請や苦情、社員からの改善提案や管理責任者の気付きなど色々ある。マネジメントレビューの場では、これらを改善の機会の評価と呼んでいる。マネジメントレビューへのインプット情報として、これらの事項が「特記なし」「異常なし」「問題点なし」だけで済まされていることもよくあるが、経営者自身が「面倒くさい」と思っているなら、この状況でも仕方がない。しかし、折角の膨大なシステム運用コストと時間を、そのままゴミ箱に捨てているようで誠にもったいない。もちろん何から何まで予防処置を講じろと言っているわけではなく、費用対効果が大前提である。しかし、経営者・管理者の熱意や意欲がなければ、目の前で折角の機会に遭遇していても、何も見えないまま機会が失われていく。
 いずれにせよ、予防的な処置の場合、重大な失敗を人知れず現場で予防している担当者には報われることが少ない。この世は、現に目に見えていて大きな損失が明らかな問題を派手に解決してこそ評価される世界だ。特に、経営者に予防処置の重要性の認識や価値観がないと、誰もこのような地味なことをやりたがらない。逆に担当者が熱意と善意でやったことについて、時間や金のムダ使いとしか見られないようでは折角の努力も浮かぶ瀬がない。また、組織と言う階層構造の中では、費用の発生する予防処置を決断できる人間は高い地位にある経営者や管理者しか存在しないのだ。
 ISO9001規格でも、マネジメントレビューでは、予防処置は是正処置よりも先に議論されるべき位置づけで規定されている。トップが組織を有効で効率的な組織に改善していこうと欲するならば、もっともっと予防処置への取り組みを真剣に考え、促進していってもらいたい。マネジメントレビューが終われば、アウトプットとして予防処置につながる命令がトップからいくつも出てきている。そんなマネジメントレビューになって欲しい。
 ついでながら、ISO9001には「製品の監視測定」と「プロセスの監視測定」の二つの要求事項がある。ここでも、「製品の監視測定」は直接目に見ることができ、且つ即座に品質やコストに影響するので非常によく実行されている。しかしながら、その価値を間接的にしか評価できない「プロセスの監視測定」については、これを満足水準で行っている組織は大変少ない。プロセスの監視測定、中でも、製品不良の原因を事前に検知するための「製造プロセスの監視測定」をしっかりやっておれば、製品不良を未然に防止することができる。この行き着くところが、いわゆる特殊工程であり、長期に無検査であっても、製品の品質を保証できる仕組みとなるのだ。このように目に見えにくい地道な活動を奨励し、組織のコアコンピタンスとして蓄積していくと言うような考え方を持っておれば、本来、予防処置というものはもっともっと出て来てよいものだ。


ISOマネジメントシステムの有効性を内部監査で確認していますか?(2007.9.1)

2007-09-01 | 社長のサプリ
 ISOマネジメントシステムの審査やコンサルをさせていただいて残念に思う場面がよくある。特に経営者のご関心が非常に低い場合である。一体この会社は何のためにISOマネジメントシステムを導入されたのか理解に苦しむことがある。
 特にISOマネジメントシステムを構成する重要な要素である「内部監査」について、経営者ご自身の無関心が度を過ぎていることがある。内部監査の依頼者が経営者ご自身であり、その結果報告を受けて、どのように舵を取るか、その判断の当事者がご自分であることを全く認識しておられない。まるで他人事のように考えておられる。
 これまで、内部監査が「適合性の監査」に偏って実施されていることも問題である。ISOマネジメントシステムを導入して3年も5年も経ち、システムが定着すれば、当然、「適合性の問題」など影が薄くなってくる。「適合性の問題」というのは、システムが手順どおりに実施されているかどうかというだけのことであり、手順どおり実施されないことによるマイナスを防ぐ意味しかない。
 一方、内部監査の目的にはもっと大事な「有効性の監査」というものがある。マネジメントシステムが有効に機能して、ちゃんと成果が出ているかどうかを確認することを言う。これは「改善目的の監査」とも言われている。内部監査で大事なのは、当然、こちらの方である。組織の目的・目標が達成されているか、達成されていない理由は何か、何処を改善すれば成果が出るのか、などを目的にして監査するのである。
 定期審査や更新審査などをパスするだけの目的で、おざなりの形式的な内部監査をやって、実質的な成果を何も生まないような内部監査であるならば、そのような監査は時間の無駄である。経営者が内部監査員に対して、その時々の経営課題を持ち掛けて、「現場における問題点や課題を見つけて来い」と命ずるのが、内部監査の依頼者である経営者の責務である。そのためには、経営者自身も何らかの目的と問題意識を持たなければ、そのような指示ができない。経営者の当事者意識が大前提となっているのである。
 ISOが何の役にも立たないと言う前に、経営者自身が責任を果たしていないか反省してみて欲しい。大抵の場合、内部監査が成果を生むようにきちんと行われない責任の大半は、指示も期待も示さない経営者自身にある。本来、経営者の「重大な不適合」として経営者を責めなければならないのに、誰もそれを指摘することが出来ない。
 また、経営者に関心がなく、有効性の乏しくなっているISOマネジメントシステムは、それ自体が経営上のマイナスとなっている可能性が高い。経営者の皆さんは、ISOマネジメントシステムが「ネコに小判」や、ただの「装飾品」や、逆に「手枷せ・足枷せ」になっていないか、有効性の監査を中心とした内部監査を行うことによって、検討してみて欲しい。
 一歩進んで、「有効性の監査」を行おうとすれば、内部監査員の力量やレベルの重要性に気付く。一介の担当者では有効性の監査などできないのだ。そのときにこそ、ラインに責任を持つ能力の高い部課長達の出番となる。そうして始めて、意味のあるISOマネジメントシステムへの改善の第一歩が始まるのである。


自分という商品の営業マンは自分

2007-08-24 | 社長のサプリ
上司とは仕事を注文してくれる大事なお客様
同僚とは同じ業界で利害を共有する同業者様
部下とは仕事をしてくださる下請協力会社様
自分とは自分という商品を売り込む営業マン
自分以外はすべて大切なお客様・お取引先様
ゆめこれらの方に失礼があってはなりませぬ
じっとしていても注文は飛び込んで来ませぬ
営業が黙っていてはその価値が分かりませぬ
わが身が商品である営業部の商売繁盛の秘訣 
それはすべての関係者様に満足を与えること


失敗は隠してはいけません

2007-08-23 | 社長のサプリ
社長さん
幹部の皆さん
失敗は成功の母です
失敗を隠してはいけません
失敗するから進歩があります
失敗するから前進するのです
隠せば失敗の意味がありません
隠せば失敗から誰も何も学びません
失敗は失敗の原因を知ることが大事です
失敗をオープンにした人を賞賛しましょう
失敗を社会や組織の進歩発展に役立てましょう
失敗を社会や組織の財産であると認識しましょう
皆さん失敗をしたら胸を張って堂々と発表しましょう
失敗の本質的原因を共有すればみんなが賢くなります
失敗した人には社会・組織功労賞を授与しましょう
失敗はあってはならぬことだと考えていませんか
失敗はけしからんことだと考えていませんか
だからみんな失敗の準備を怠るのです
そして同じ失敗を繰り返すのです
日本国の大臣、議員の皆さん
社保庁、農水省、役所の皆さん
雪印乳業、ミートホープ、白い恋人の社長さん
口先だけの再発防止を唱えても何も始りませんよ
トップは普段から失敗の見せ方の研究をしていますか
再発防止とは真の原因を究明しそれを除去することですよ
失敗を隠していては真の原因まで一緒に隠してしまっています