空堀通りは、現在は広い谷町筋に分断されているが昔は上町筋から松屋町筋まで一体感のある一つの商店街であった。上町筋から桃谷小学校の辺りまでは商店の数は比較的少なくあまり賑やかではなかったが、五十軒筋との交点の辺りから西側は庶民の生活の匂いをふんぷんと漂わせた活力溢れる商店街であった。
漬け物屋、乾物屋、八百屋、果物屋、魚屋、豆腐屋、寿司屋、菓子屋、呉服屋、洋服屋、本屋、薬屋、電気屋、時計屋、道具屋、煙草屋、文具屋、玩具屋、食堂、喫茶店、理髪店、パチンコ屋、歯医者等、映画館以外はほぼ何でもあった。商店街の両側が殆ど何かの店屋で果物屋といっても一軒だけと言うわけでなく何軒もあった。谷町筋を挟んで桃園小学校の校区と桃谷小学校の校区とに区切られていて人のつき合いはそこで一応境界となっていたが、通行人の店の利用は全く隔てなく、自由に行き来があった。我々桃谷地区居住者でもより遠い西地区の桃園側で買い物をすることの方が多かった。
今で言う大型店舗などはなく小さな店が寄り集まって一つの大きな市場を形成していた。通りは人と自転車の雑踏状態、店の商品も道の方に遠慮無くはみ出して置かれており時々大きなリヤカーや荷車も通る。一日中沢山の人が行き来していて絶えることがなかった。
店の中を覗くとそこは生活の場そのものであった。豆腐屋の土間には「おから」や豆の滓で埋もれており、またどの店も取り扱っている商品の匂いで満ちていた。味噌屋は仕込み立ての味噌の匂いが、てんぷら屋は香ばしい揚げ物の匂いが充満していた。しかし、蝿が驚くほどたくさん居て、陳列してある商品の上を自由に歩き回っていた。店番のおじさんはハエ叩きを手にしてハエを追うのが仕事の重要な一部になっていた。追っても追っても飛んでくる蝿に手を焼いて、どの店も天井から幅広のテープのような蝿取り器を何本も吊っていた。そのテープには真っ黒になるほど蝿がくっ付いている。テープの両面に粘着性の茶色の「とりもち」のようなものが塗ってあり、蝿がとまると足が取られて二度と逃げられない仕組みになっていた。たった今不運にもつかまったばかりの蝿はまだ生きていて、テープの表面で身もだえてじたばたしている。その有り様を飽きずに眺めていて、可哀想に思ったのも遠い記憶だ。ただ吊っておくだけでは能率が悪いのか電気式のモーターで数本の粘着テープを扇風機のように回して、飛んでいる蝿まで捕まえてしまう器械もフル回転していた。
空堀通りは何も用事がなくても、ぶらぶら歩いているだけで何か仕事をしているような気分になる通りであった。店のおじさんやおばさんはかいがいしく働いているし、外を歩く買い物客に向かって威勢良く、
「おばちゃん、安いで、ほれ、買いなはれ、買いなはれ」と声をかけたものだ。
桃谷小学校の近くの少し西に、いち早く「パチンコ」屋が出来た。学校帰りに小学生が中へ入ると叱られるので、遠巻きにして内部を覗いた。その店の経営者は企業家精神が旺盛で、よく店内の改装や事業転換をやった。「スマートボール」に変えたり、「ゼットゲーム」に変えたりしたが、結局、最終的に「パチンコ」屋に落ち着いた。学校からの帰りに覗いていると、中から
「南の海はやしの島、やしの木陰のハワイ島、ハワイ帰りは白い船、白い玉は18番」とか言う声が拡声器にのって聞こえてくる。「ゼットボール」と言うゲームをやっている若い女性の声である。玉は少し大きなテニスボールくらいの大きさで、赤や青い色に塗られ、番号が打ってある。その玉をローマ字の大文字のゼット字型をした通路の上部から女性が落とす。玉が通路をくねくねと転げ落ちる間に、雰囲気よろしく女性が「何だかんだ」とセリフを述べるのである。客は玉の落ち方によって決まる数字の組み合わせで景品を貰う仕組みになっているらしく、パチンコよりは少し高級なゲーム感覚を楽しむ事が出来るようであった。今で言うビンゴゲームであったのかもしれない。しかしバクチには変わりがなく、気の短い日本人にはスピード感がなかったのか、あまり人気が出ず、程なく廃れてしまった。
その向かいに小さな本屋があった。学校の帰りには、毎日その本屋に立ち寄って少年雑誌の表紙を見て溜息を付いて帰ることを繰り返した。雑誌には漫画やお話が沢山載っていて面白そうではあったが、買って欲しいと親にねだろうものならたちどころに「馬鹿者」と怒鳴られるのが落ちであった。仕方なく表紙を見て中をちらっと見るだけ。
その本屋さんのご主人は本を長く見ていると、はたきを持って胡散臭そうな顔をして近くに寄ってきて、用もないのに本をはたいたりして、何か文句を言いたそうな感じであった。雑誌は大抵付録が付いていて分厚く表紙に付録のタイトルが書いてあり興味をそそった。雑誌の中身よりも付録の方が豪華のことがよくあったので、本の内容よりも付録につられて買う子供も多くいたのではないか。自分は雑誌を買って貰ったことなどは滅多になかったが、買わない本でも次号の付録の中身はいつもよく知っていて楽しみにしていた。
その2、3軒隣りに「桃園パーラー」と言う名の洋食の料理屋があった。コーヒーやケーキのような喫茶店モノから洋食まで広くメニューがあった。ここで豚カツを食べることが夢であったが、結局一度も食べた記憶はない。ただ一度だけ親父にケーキを食べに連れて貰ったような気がするが定かではない。毎日学校からの帰りに中を覗いて帰ったので大体の雰囲気はわかった。割合ハイカラな感じのする店であった。このような店は子供が立ち入ってはならない場所の雰囲気があったので、ただ見える範囲を覗き込むだけであった。
いつの頃からか、空堀商店街と谷町筋との交点、北西角の一角にマーケットと称するものが出来た。その一角のみ、空堀通りから路地に入り込む形になっており、八百屋や魚屋の集まりで内容は特に新味がなかったが、マーケットという名前が新しかったし、値段も少しはサービスをしていたように思われた。
また、空堀通りの西側の端、松屋町筋のすぐ近くに「賑町公設市場」という市場が古くからあった。二階建ての大きな建物の中に沢山の店が入っていたが、全体が空堀商店街の延長のような雰囲気で特に商店街と競争をしているわけではなく、お互いに融けあっていた。
公設市場の二階に玩具屋が一軒あった。親にねだって、木製のベビースクーターを買って貰った覚えがある。名前はスクーターであるが、今時は珍しい木製の手押しのスケートである。お金持ちの子供は三輪車などを買ってもらう事が出来たが、自分は三輪車と比べると値段が十分の一ほどの手押しのスケートで我慢した。
三輪車には一つ思い出がある。小杉君(兄弟のうち弟の方)という近くの腕白小僧とよく遊んだが、彼の三輪車を借りて遊んでいたときのことである。当時材料の鉄が不足して居たので、現代では想像もできないが、三輪車の車輪以外がすべて鋳物製であった。真ん中の胴体の部分に鋳物の巣があったらしく、勢いよく足で地面をけって走っていると、突然、胴体の真ん中からぽきんと折れてしまった。ビックリしたのは当方である。高級で高価なお金持ちしか触れることの出来ない貴重品をこわしてしまったのであった。持ち主は子供ながら、居丈高に、即座に「弁償してくれ」と言った。幼時のことなので言葉の意味を正確に理解して言ったわけでは無いが、この時も全く当てもなく途方に暮れながら「弁償する」と言ってしまった。
結局、すがるところは親しか居ない。家に帰って、ことの顛末を打ち明けると
「裏の谷町に溶接屋があるから行ってみたら直してくれるかもワカラン」と言うことになった。
その三輪車を持っておそるおそる溶接屋へ行くと、目の前で元通りに修繕してくれた。溶接部分に「こぶ」が出来て少し不格好ではあったが、遊ぶにはなんら困らないところまで修理はできた。一件落着してほっとしたが、溶接屋の店先で固い鉄が糊のように融けてくっ付く様をこの目で見てびっくりした。溶接するときのアセチレンの眩しい光とガスの異様な匂いに辟易したが、世の中は「何でも出きるもんや」と技術の偉大さに驚いた。
その溶接屋は桃園小学校の直ぐ側にあった。我が母校、桃谷小学校はその昔、桃園第二小学校と言っていたことがあるらしく、創立の年代や歴史から見て桃園の方が兄貴格の風格があったが、お互いに競争意識があって、学校同士はあまり交流はしていなかった。しかし、桃園小学校にはプールがあったし、運動場も桃谷小学校より広かったので、個人的にはよく出入りした。夏休みには、有料のそのプールへよく泳ぎにいったし、夏の夕方は、納涼をかねた運動場での野外映画鑑賞会などにもよく行った。
その桃園小学校に、桃谷の生徒が数人そろって遊びに行くようなことがあると、ガラの悪い桃谷の生徒は大きな声で次のような言葉を合唱しながら歩いた。
桃園学校、ぼろ学校
机の下でシラミ取り
先生、一匹取れました
取れた人から帰りなさい
連れ立って歩いている友達が桃園小学校の校内で、大合唱をし始めると自分は恥ずかしくて何処か穴があれば入りたいような気がした。ただ、後で桃園小学校の卒業生から聞くところによると、桃園では「桃谷学校、ぼろ学校...」と全く同じことを言っていたらしい。
桃谷小学校は桃園小学校よりも創立が新しくて、設備的には少し劣っていた。地域の外の人達も桃園小学校は知っているが、桃谷小学校まで知っている人は少なかった。そんなわけで、桃谷小学校の生徒には、桃園小学校に対して潜在的な劣等感をもっており、機先を制して桃谷の方から「桃園学校、ぼろ学校」と言い始めたような気がする。


漬け物屋、乾物屋、八百屋、果物屋、魚屋、豆腐屋、寿司屋、菓子屋、呉服屋、洋服屋、本屋、薬屋、電気屋、時計屋、道具屋、煙草屋、文具屋、玩具屋、食堂、喫茶店、理髪店、パチンコ屋、歯医者等、映画館以外はほぼ何でもあった。商店街の両側が殆ど何かの店屋で果物屋といっても一軒だけと言うわけでなく何軒もあった。谷町筋を挟んで桃園小学校の校区と桃谷小学校の校区とに区切られていて人のつき合いはそこで一応境界となっていたが、通行人の店の利用は全く隔てなく、自由に行き来があった。我々桃谷地区居住者でもより遠い西地区の桃園側で買い物をすることの方が多かった。
今で言う大型店舗などはなく小さな店が寄り集まって一つの大きな市場を形成していた。通りは人と自転車の雑踏状態、店の商品も道の方に遠慮無くはみ出して置かれており時々大きなリヤカーや荷車も通る。一日中沢山の人が行き来していて絶えることがなかった。
店の中を覗くとそこは生活の場そのものであった。豆腐屋の土間には「おから」や豆の滓で埋もれており、またどの店も取り扱っている商品の匂いで満ちていた。味噌屋は仕込み立ての味噌の匂いが、てんぷら屋は香ばしい揚げ物の匂いが充満していた。しかし、蝿が驚くほどたくさん居て、陳列してある商品の上を自由に歩き回っていた。店番のおじさんはハエ叩きを手にしてハエを追うのが仕事の重要な一部になっていた。追っても追っても飛んでくる蝿に手を焼いて、どの店も天井から幅広のテープのような蝿取り器を何本も吊っていた。そのテープには真っ黒になるほど蝿がくっ付いている。テープの両面に粘着性の茶色の「とりもち」のようなものが塗ってあり、蝿がとまると足が取られて二度と逃げられない仕組みになっていた。たった今不運にもつかまったばかりの蝿はまだ生きていて、テープの表面で身もだえてじたばたしている。その有り様を飽きずに眺めていて、可哀想に思ったのも遠い記憶だ。ただ吊っておくだけでは能率が悪いのか電気式のモーターで数本の粘着テープを扇風機のように回して、飛んでいる蝿まで捕まえてしまう器械もフル回転していた。
空堀通りは何も用事がなくても、ぶらぶら歩いているだけで何か仕事をしているような気分になる通りであった。店のおじさんやおばさんはかいがいしく働いているし、外を歩く買い物客に向かって威勢良く、
「おばちゃん、安いで、ほれ、買いなはれ、買いなはれ」と声をかけたものだ。
桃谷小学校の近くの少し西に、いち早く「パチンコ」屋が出来た。学校帰りに小学生が中へ入ると叱られるので、遠巻きにして内部を覗いた。その店の経営者は企業家精神が旺盛で、よく店内の改装や事業転換をやった。「スマートボール」に変えたり、「ゼットゲーム」に変えたりしたが、結局、最終的に「パチンコ」屋に落ち着いた。学校からの帰りに覗いていると、中から
「南の海はやしの島、やしの木陰のハワイ島、ハワイ帰りは白い船、白い玉は18番」とか言う声が拡声器にのって聞こえてくる。「ゼットボール」と言うゲームをやっている若い女性の声である。玉は少し大きなテニスボールくらいの大きさで、赤や青い色に塗られ、番号が打ってある。その玉をローマ字の大文字のゼット字型をした通路の上部から女性が落とす。玉が通路をくねくねと転げ落ちる間に、雰囲気よろしく女性が「何だかんだ」とセリフを述べるのである。客は玉の落ち方によって決まる数字の組み合わせで景品を貰う仕組みになっているらしく、パチンコよりは少し高級なゲーム感覚を楽しむ事が出来るようであった。今で言うビンゴゲームであったのかもしれない。しかしバクチには変わりがなく、気の短い日本人にはスピード感がなかったのか、あまり人気が出ず、程なく廃れてしまった。
その向かいに小さな本屋があった。学校の帰りには、毎日その本屋に立ち寄って少年雑誌の表紙を見て溜息を付いて帰ることを繰り返した。雑誌には漫画やお話が沢山載っていて面白そうではあったが、買って欲しいと親にねだろうものならたちどころに「馬鹿者」と怒鳴られるのが落ちであった。仕方なく表紙を見て中をちらっと見るだけ。
その本屋さんのご主人は本を長く見ていると、はたきを持って胡散臭そうな顔をして近くに寄ってきて、用もないのに本をはたいたりして、何か文句を言いたそうな感じであった。雑誌は大抵付録が付いていて分厚く表紙に付録のタイトルが書いてあり興味をそそった。雑誌の中身よりも付録の方が豪華のことがよくあったので、本の内容よりも付録につられて買う子供も多くいたのではないか。自分は雑誌を買って貰ったことなどは滅多になかったが、買わない本でも次号の付録の中身はいつもよく知っていて楽しみにしていた。
その2、3軒隣りに「桃園パーラー」と言う名の洋食の料理屋があった。コーヒーやケーキのような喫茶店モノから洋食まで広くメニューがあった。ここで豚カツを食べることが夢であったが、結局一度も食べた記憶はない。ただ一度だけ親父にケーキを食べに連れて貰ったような気がするが定かではない。毎日学校からの帰りに中を覗いて帰ったので大体の雰囲気はわかった。割合ハイカラな感じのする店であった。このような店は子供が立ち入ってはならない場所の雰囲気があったので、ただ見える範囲を覗き込むだけであった。
いつの頃からか、空堀商店街と谷町筋との交点、北西角の一角にマーケットと称するものが出来た。その一角のみ、空堀通りから路地に入り込む形になっており、八百屋や魚屋の集まりで内容は特に新味がなかったが、マーケットという名前が新しかったし、値段も少しはサービスをしていたように思われた。
また、空堀通りの西側の端、松屋町筋のすぐ近くに「賑町公設市場」という市場が古くからあった。二階建ての大きな建物の中に沢山の店が入っていたが、全体が空堀商店街の延長のような雰囲気で特に商店街と競争をしているわけではなく、お互いに融けあっていた。
公設市場の二階に玩具屋が一軒あった。親にねだって、木製のベビースクーターを買って貰った覚えがある。名前はスクーターであるが、今時は珍しい木製の手押しのスケートである。お金持ちの子供は三輪車などを買ってもらう事が出来たが、自分は三輪車と比べると値段が十分の一ほどの手押しのスケートで我慢した。
三輪車には一つ思い出がある。小杉君(兄弟のうち弟の方)という近くの腕白小僧とよく遊んだが、彼の三輪車を借りて遊んでいたときのことである。当時材料の鉄が不足して居たので、現代では想像もできないが、三輪車の車輪以外がすべて鋳物製であった。真ん中の胴体の部分に鋳物の巣があったらしく、勢いよく足で地面をけって走っていると、突然、胴体の真ん中からぽきんと折れてしまった。ビックリしたのは当方である。高級で高価なお金持ちしか触れることの出来ない貴重品をこわしてしまったのであった。持ち主は子供ながら、居丈高に、即座に「弁償してくれ」と言った。幼時のことなので言葉の意味を正確に理解して言ったわけでは無いが、この時も全く当てもなく途方に暮れながら「弁償する」と言ってしまった。
結局、すがるところは親しか居ない。家に帰って、ことの顛末を打ち明けると
「裏の谷町に溶接屋があるから行ってみたら直してくれるかもワカラン」と言うことになった。
その三輪車を持っておそるおそる溶接屋へ行くと、目の前で元通りに修繕してくれた。溶接部分に「こぶ」が出来て少し不格好ではあったが、遊ぶにはなんら困らないところまで修理はできた。一件落着してほっとしたが、溶接屋の店先で固い鉄が糊のように融けてくっ付く様をこの目で見てびっくりした。溶接するときのアセチレンの眩しい光とガスの異様な匂いに辟易したが、世の中は「何でも出きるもんや」と技術の偉大さに驚いた。
その溶接屋は桃園小学校の直ぐ側にあった。我が母校、桃谷小学校はその昔、桃園第二小学校と言っていたことがあるらしく、創立の年代や歴史から見て桃園の方が兄貴格の風格があったが、お互いに競争意識があって、学校同士はあまり交流はしていなかった。しかし、桃園小学校にはプールがあったし、運動場も桃谷小学校より広かったので、個人的にはよく出入りした。夏休みには、有料のそのプールへよく泳ぎにいったし、夏の夕方は、納涼をかねた運動場での野外映画鑑賞会などにもよく行った。
その桃園小学校に、桃谷の生徒が数人そろって遊びに行くようなことがあると、ガラの悪い桃谷の生徒は大きな声で次のような言葉を合唱しながら歩いた。
桃園学校、ぼろ学校
机の下でシラミ取り
先生、一匹取れました
取れた人から帰りなさい
連れ立って歩いている友達が桃園小学校の校内で、大合唱をし始めると自分は恥ずかしくて何処か穴があれば入りたいような気がした。ただ、後で桃園小学校の卒業生から聞くところによると、桃園では「桃谷学校、ぼろ学校...」と全く同じことを言っていたらしい。
桃谷小学校は桃園小学校よりも創立が新しくて、設備的には少し劣っていた。地域の外の人達も桃園小学校は知っているが、桃谷小学校まで知っている人は少なかった。そんなわけで、桃谷小学校の生徒には、桃園小学校に対して潜在的な劣等感をもっており、機先を制して桃谷の方から「桃園学校、ぼろ学校」と言い始めたような気がする。


