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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第42話「空堀通り」(昭和20年~23年)

2006-10-31 | 昔の思い出話
 空堀通りは、現在は広い谷町筋に分断されているが昔は上町筋から松屋町筋まで一体感のある一つの商店街であった。上町筋から桃谷小学校の辺りまでは商店の数は比較的少なくあまり賑やかではなかったが、五十軒筋との交点の辺りから西側は庶民の生活の匂いをふんぷんと漂わせた活力溢れる商店街であった。
 漬け物屋、乾物屋、八百屋、果物屋、魚屋、豆腐屋、寿司屋、菓子屋、呉服屋、洋服屋、本屋、薬屋、電気屋、時計屋、道具屋、煙草屋、文具屋、玩具屋、食堂、喫茶店、理髪店、パチンコ屋、歯医者等、映画館以外はほぼ何でもあった。商店街の両側が殆ど何かの店屋で果物屋といっても一軒だけと言うわけでなく何軒もあった。谷町筋を挟んで桃園小学校の校区と桃谷小学校の校区とに区切られていて人のつき合いはそこで一応境界となっていたが、通行人の店の利用は全く隔てなく、自由に行き来があった。我々桃谷地区居住者でもより遠い西地区の桃園側で買い物をすることの方が多かった。
 今で言う大型店舗などはなく小さな店が寄り集まって一つの大きな市場を形成していた。通りは人と自転車の雑踏状態、店の商品も道の方に遠慮無くはみ出して置かれており時々大きなリヤカーや荷車も通る。一日中沢山の人が行き来していて絶えることがなかった。
 店の中を覗くとそこは生活の場そのものであった。豆腐屋の土間には「おから」や豆の滓で埋もれており、またどの店も取り扱っている商品の匂いで満ちていた。味噌屋は仕込み立ての味噌の匂いが、てんぷら屋は香ばしい揚げ物の匂いが充満していた。しかし、蝿が驚くほどたくさん居て、陳列してある商品の上を自由に歩き回っていた。店番のおじさんはハエ叩きを手にしてハエを追うのが仕事の重要な一部になっていた。追っても追っても飛んでくる蝿に手を焼いて、どの店も天井から幅広のテープのような蝿取り器を何本も吊っていた。そのテープには真っ黒になるほど蝿がくっ付いている。テープの両面に粘着性の茶色の「とりもち」のようなものが塗ってあり、蝿がとまると足が取られて二度と逃げられない仕組みになっていた。たった今不運にもつかまったばかりの蝿はまだ生きていて、テープの表面で身もだえてじたばたしている。その有り様を飽きずに眺めていて、可哀想に思ったのも遠い記憶だ。ただ吊っておくだけでは能率が悪いのか電気式のモーターで数本の粘着テープを扇風機のように回して、飛んでいる蝿まで捕まえてしまう器械もフル回転していた。
 空堀通りは何も用事がなくても、ぶらぶら歩いているだけで何か仕事をしているような気分になる通りであった。店のおじさんやおばさんはかいがいしく働いているし、外を歩く買い物客に向かって威勢良く、
  「おばちゃん、安いで、ほれ、買いなはれ、買いなはれ」と声をかけたものだ。
 桃谷小学校の近くの少し西に、いち早く「パチンコ」屋が出来た。学校帰りに小学生が中へ入ると叱られるので、遠巻きにして内部を覗いた。その店の経営者は企業家精神が旺盛で、よく店内の改装や事業転換をやった。「スマートボール」に変えたり、「ゼットゲーム」に変えたりしたが、結局、最終的に「パチンコ」屋に落ち着いた。学校からの帰りに覗いていると、中から
  「南の海はやしの島、やしの木陰のハワイ島、ハワイ帰りは白い船、白い玉は18番」とか言う声が拡声器にのって聞こえてくる。「ゼットボール」と言うゲームをやっている若い女性の声である。玉は少し大きなテニスボールくらいの大きさで、赤や青い色に塗られ、番号が打ってある。その玉をローマ字の大文字のゼット字型をした通路の上部から女性が落とす。玉が通路をくねくねと転げ落ちる間に、雰囲気よろしく女性が「何だかんだ」とセリフを述べるのである。客は玉の落ち方によって決まる数字の組み合わせで景品を貰う仕組みになっているらしく、パチンコよりは少し高級なゲーム感覚を楽しむ事が出来るようであった。今で言うビンゴゲームであったのかもしれない。しかしバクチには変わりがなく、気の短い日本人にはスピード感がなかったのか、あまり人気が出ず、程なく廃れてしまった。
 その向かいに小さな本屋があった。学校の帰りには、毎日その本屋に立ち寄って少年雑誌の表紙を見て溜息を付いて帰ることを繰り返した。雑誌には漫画やお話が沢山載っていて面白そうではあったが、買って欲しいと親にねだろうものならたちどころに「馬鹿者」と怒鳴られるのが落ちであった。仕方なく表紙を見て中をちらっと見るだけ。
 その本屋さんのご主人は本を長く見ていると、はたきを持って胡散臭そうな顔をして近くに寄ってきて、用もないのに本をはたいたりして、何か文句を言いたそうな感じであった。雑誌は大抵付録が付いていて分厚く表紙に付録のタイトルが書いてあり興味をそそった。雑誌の中身よりも付録の方が豪華のことがよくあったので、本の内容よりも付録につられて買う子供も多くいたのではないか。自分は雑誌を買って貰ったことなどは滅多になかったが、買わない本でも次号の付録の中身はいつもよく知っていて楽しみにしていた。
 その2、3軒隣りに「桃園パーラー」と言う名の洋食の料理屋があった。コーヒーやケーキのような喫茶店モノから洋食まで広くメニューがあった。ここで豚カツを食べることが夢であったが、結局一度も食べた記憶はない。ただ一度だけ親父にケーキを食べに連れて貰ったような気がするが定かではない。毎日学校からの帰りに中を覗いて帰ったので大体の雰囲気はわかった。割合ハイカラな感じのする店であった。このような店は子供が立ち入ってはならない場所の雰囲気があったので、ただ見える範囲を覗き込むだけであった。
 いつの頃からか、空堀商店街と谷町筋との交点、北西角の一角にマーケットと称するものが出来た。その一角のみ、空堀通りから路地に入り込む形になっており、八百屋や魚屋の集まりで内容は特に新味がなかったが、マーケットという名前が新しかったし、値段も少しはサービスをしていたように思われた。
 また、空堀通りの西側の端、松屋町筋のすぐ近くに「賑町公設市場」という市場が古くからあった。二階建ての大きな建物の中に沢山の店が入っていたが、全体が空堀商店街の延長のような雰囲気で特に商店街と競争をしているわけではなく、お互いに融けあっていた。
 公設市場の二階に玩具屋が一軒あった。親にねだって、木製のベビースクーターを買って貰った覚えがある。名前はスクーターであるが、今時は珍しい木製の手押しのスケートである。お金持ちの子供は三輪車などを買ってもらう事が出来たが、自分は三輪車と比べると値段が十分の一ほどの手押しのスケートで我慢した。
 三輪車には一つ思い出がある。小杉君(兄弟のうち弟の方)という近くの腕白小僧とよく遊んだが、彼の三輪車を借りて遊んでいたときのことである。当時材料の鉄が不足して居たので、現代では想像もできないが、三輪車の車輪以外がすべて鋳物製であった。真ん中の胴体の部分に鋳物の巣があったらしく、勢いよく足で地面をけって走っていると、突然、胴体の真ん中からぽきんと折れてしまった。ビックリしたのは当方である。高級で高価なお金持ちしか触れることの出来ない貴重品をこわしてしまったのであった。持ち主は子供ながら、居丈高に、即座に「弁償してくれ」と言った。幼時のことなので言葉の意味を正確に理解して言ったわけでは無いが、この時も全く当てもなく途方に暮れながら「弁償する」と言ってしまった。
 結局、すがるところは親しか居ない。家に帰って、ことの顛末を打ち明けると
  「裏の谷町に溶接屋があるから行ってみたら直してくれるかもワカラン」と言うことになった。
 その三輪車を持っておそるおそる溶接屋へ行くと、目の前で元通りに修繕してくれた。溶接部分に「こぶ」が出来て少し不格好ではあったが、遊ぶにはなんら困らないところまで修理はできた。一件落着してほっとしたが、溶接屋の店先で固い鉄が糊のように融けてくっ付く様をこの目で見てびっくりした。溶接するときのアセチレンの眩しい光とガスの異様な匂いに辟易したが、世の中は「何でも出きるもんや」と技術の偉大さに驚いた。
 その溶接屋は桃園小学校の直ぐ側にあった。我が母校、桃谷小学校はその昔、桃園第二小学校と言っていたことがあるらしく、創立の年代や歴史から見て桃園の方が兄貴格の風格があったが、お互いに競争意識があって、学校同士はあまり交流はしていなかった。しかし、桃園小学校にはプールがあったし、運動場も桃谷小学校より広かったので、個人的にはよく出入りした。夏休みには、有料のそのプールへよく泳ぎにいったし、夏の夕方は、納涼をかねた運動場での野外映画鑑賞会などにもよく行った。
 その桃園小学校に、桃谷の生徒が数人そろって遊びに行くようなことがあると、ガラの悪い桃谷の生徒は大きな声で次のような言葉を合唱しながら歩いた。
   
   桃園学校、ぼろ学校
   机の下でシラミ取り
   先生、一匹取れました
   取れた人から帰りなさい

 連れ立って歩いている友達が桃園小学校の校内で、大合唱をし始めると自分は恥ずかしくて何処か穴があれば入りたいような気がした。ただ、後で桃園小学校の卒業生から聞くところによると、桃園では「桃谷学校、ぼろ学校...」と全く同じことを言っていたらしい。
 桃谷小学校は桃園小学校よりも創立が新しくて、設備的には少し劣っていた。地域の外の人達も桃園小学校は知っているが、桃谷小学校まで知っている人は少なかった。そんなわけで、桃谷小学校の生徒には、桃園小学校に対して潜在的な劣等感をもっており、機先を制して桃谷の方から「桃園学校、ぼろ学校」と言い始めたような気がする。


第41話「五十軒筋」(昭和20年~23年)

2006-10-30 | 昔の思い出話
 私たちの住んでいた北桃谷付近(現町名は谷町六丁目)は何かの間違いで偶然にも戦争で焼け残った。古い家が多くいわゆる住宅地帯ではあったが、多くの商店や工場が混在して居て今で言う住商工の混在地域であった。表通りには住宅に混ざって商店が散在していた。通りから直角に多くの路地があり路地の両側には住宅が密集している。路地は表通りと違って勿論殆どが住宅で占められていた。表通りには、商店と比べると工場はあまり多くなく、印刷工場や紙を加工する軽工業的なものがいくつかある程度であった。町工場は隣接する谷町地区の方により多く密集していて、そこには溶接を専門にする鉄工所や金属材料を切断する工場などがあった。
 五十軒筋は庶民的な温もりのある生活の場であり、またそれなりに風格のある大きな住居もいくつか混じっていた。その雰囲気は古い京都の町並みにも似たところがあって、昔の良き時代の大阪の下町の風情を漂わせていた。聞くところによると、五十軒筋はその昔、豊臣の城下町の頃には鉄砲鍛冶の屋敷町であったそうである。古地図にはそのような記載が残っており、背中合わせの谷町筋に鉄工所や金属材料の商店が多数集まっていたことを思うと、その昔は鉄砲の製造を業とする人達が棲息していた可能性は信憑性を帯びてくる。この通りには今では窺い知ることが出来ない長い歴史が刻み込まれている可能性がある。
 自分はこの五十軒筋を毎日毎日通学路に使っていた。またこの通りはそこに住む人達のなくてはならない生活道路であった。市場や商店は空堀通りに集中していたので、五十軒筋は空堀商店街へ行くための通路であったが、それでも数多くの生活のための機能がそこにはあった。住宅が6割、小売りやサービスの商店が3割、町工場のようなものが1割といった割合であったろうか。
 五十軒筋は空堀通りとT字型に交差した突き当たりになっており、そこが南の端である。ここを起点にして、北端の長堀通りまでわずか約300メートルほどの長さである。当時の自分の生活はこの約300メートルを軸に回転していた。この通りの両側には細い路地がたくさんあって、その路地の両側には庶民の生活が充満していた。大抵の路地には学校友達が住んでいたので、どの路地にも奥深く侵入して友達の家に上がり込み、大抵はその家の大屋根に登り、空き地があればその空き地で草をむしり、虫を捕り、穴を掘り、すもうを取ったなど、言うなればネズミの通る穴まで熟知している土地であった。大抵の路地は私道であったので石畳やコンクリートで舗装されていた。しかし、五十軒通りの本通りの方は舗装がされておらず、運送屋の馬車が通り、馬糞の匂いがする、のんびりとした、しかし人通りは結構多い道であった。舗装は戦争が終わって数年経ってから、世の中も大分落ち着いてきた頃に、やっと砂とコールタールを吹き付けるだけの簡易舗装がなされた。
 この通りの南端の角には道にはみ出て、道路幅の3分の1ほどを占拠した交番があった。この交番のことはこれまでも何度も記述したので詳細は省略する。この交番と50センチメートルほどの狭い間隔を介して模型屋があった。その隙間のごみ箱には、模型屋の廃材がいつも多数捨てられていたので、それを漁るのが大変な楽しみであった。ごみ箱の中には古いモーターや乾電池で動く壊れたベル、磁石、その他、喉から手が出るほど憧れていた模型の残材が捨てられていた。その隙間に忍び込んで、ごそごそとやっていると、ときどき模型屋のお兄さんが物音を察知して、家の中から面白半分に
   「こらー、そこにいるのは誰や!」と怒鳴る。
 こそ泥をしていることを百も承知の子供達は肝を冷やして逃げる。それでもそのごみ箱には大変な魅力があり、絶えず、潜り込んでは宝物を失敬した。特に交番との隣り合わせなので余計にスリルがあった。
 五十軒筋を挟んで交番の向かい側はアイスキャンディ屋であった。アイスキャンディにも色々な種類があって一番ポピュラーで安かったのはミルク、さらにはイチゴと言っても色が赤いだけ、お茶入りと言っても緑色しているだけ、以下似たようなもので、アズキ入り、など種類は割合豊富であった。値段は安いもので5円、高いのは10円位であったろうか。ここには氷饅頭もあったが、店がパーラー風で高級感があり他所よりも高かった。
 氷饅頭というのはみぞれやイチゴなど、今で言うカキ氷であるが、手でぎゅっとガラスの皿に押しつけて型を取る、テイクアウト専用のカキ氷である。昔は一個5円くらいであった。氷饅頭は時には鍋などに5個とか10個を入れて持ち帰った。氷饅頭は手でがりがりと回す機械で作るので、結構時間がかかり、家から命ぜられて十個買ってこいと言われたときには、店先で一個ずつ手で作っていくのを見ながらじっと待ったものである。初めの頃は氷饅頭を使い古しの汚い新聞紙に包んで売っていたが、不潔でもあり、やがてそのまま食べられる最中の皮のような容器にとって代わった。
 五十軒筋を、交番から少し北に上がると、沢井さんだったか名前は忘れたが、音楽のレッスンを家業にしている家があった。庶民には戦後の飢餓線上の窮乏時代でも、音楽を習っている裕福な家庭の子供は少数は居たようだ。その家の前を通るとピアノの音やバイオリンの音などが賑やかに聞こえてきて、我々庶民とは無関係のまるで別世界の雰囲気がしたものだ。大多数の窮乏者とは別に、比較的裕福な家庭もあったのだが、そういうところは大抵、自宅とは別の場所で工場経営か商売などの事業をしていたようだ。
 その沢井音楽教室の向かいに北村と言う名の古道具屋があった。客が入っている所を見たことはないが、何十年にもわたって商売をしていた所を見ると、結構繁盛していたのかも知れない。その隣りに「先張り、湯のし、そめこ」と書いた店があった。和服を解体して、仕立て直しすることが商売であると思っていたが、まあそんなところであろうか。
 もう少し北へ歩いて行くと、東向きに朝鮮村へおりる階段があった。その脇にタバコや郵便切手、文具類、それに駄菓子などを売っている小さな店があった。この店へ行く頻度は極めて高かった。お年玉で買う駄菓子などは殆どこの店でお世話になった。駄菓子や小物の玩具にはおまけの付いていることがよくあった。
 ある日、この店でゴム風船の「当てもの」を買ったことがある。半紙大のボール紙に、大きな風船、小さな風船がいっぱいぶら下がっていて、その下に番号を引く紙切れがある。その番号は紙切れの内側に印刷してあり外からは見えない。思い切って、なけ無しのお年玉5円か10円を投資する決断をして、その紙切れをちぎった。中を開けると番号が書いてあり、その番号と同じ番号の風船が当たるという仕組みであった。
 このときは、生まれて初めての「当てもの」で、何と一番大きな風船が当たったのであった。あまりの嬉しさに、その場で風船を一杯に膨らませて、自分の顔より大きな風船を手に持って、得意になってみんなに見て貰うつもりで走り始めると、その途端に膨らみすぎた風船は「パン」と音を立てて割れてしまった。哀れにも、折角の投資が一瞬のことでパーになってしまった。「飴か、酢昆布にしておけば良かったのに」と悔やんでも後の祭りであった。それ以後、滅多なことで「当てもの」には手を出さなくなった。大人になってからも個人で買う宝くじは酔っぱらった時以外には手を出したことはない。
 その店の隣が自転車屋でもっぱらパンク修理が専門であった。その向かいには谷町筋の方に通じる西向きの道があって途中に米屋があった。五十軒筋のこの辺りにも焼夷弾が数発落ちて、家二軒分くらいの小さな焼け跡が出来ており、その米屋の隣りは長く畑になっていた。
 さらに、北側に進んで行くと、「えのき」と言う名のうどん屋があった。大変汚い店であったが、わが家からは直ぐ近くであったので、出前をよく利用した。キツネうどんが15円、てんぷらうどんが20円くらいであったかな?。ドンブリになると30円くらいはしたかも知れない。この家のご主人の痩せた顔は今でもよく覚えている。この店も氷饅頭をやっていたので、ここの氷饅頭に一番よくお世話になった。「えのき」の北側にも朝鮮村へ降りていく階段があったが、この階段が朝鮮村への通路の最北端であった。
 話が前後するが、この「えのき」うどん店の南側、同じ並び(空堀通りの方)に、田井運送店、岸田酒店などがあった。岸田酒店では、お酒類以外にも醤油などを扱っていた。また、この店先では、立ち飲みでドブロクなども飲めたのではなかろうか?田井運送店は、親父が玩具問屋の事業を始める前に一時アルバイトをしていたことがある店だった。毎日の学校帰りに、父が外から見える運送店の帳場で事務をとっている姿を見かけたが、知らんふりをして通り過ぎたものだ。
 自分にはこの田井運送店には少々の恨みがある。当時、運送店の運搬の主力は馬の引く荷車であった。この運送店の馬の1頭が、第26話で書いた「尻尾で当方をしばいたニックキ馬」であったからだ。結局、このときの馬方は当方の顔を見て直接の謝罪も何もしていない。田井運送店はとうの昔に無くなっているが、当方はまだ記憶していて恨んでいるのだぞ。
 わが家のある路地は五十軒筋の丁度真ん中あたりであるが、路地の入り口の向かいに、大きい「久保さん」と小さい「久保さん」の二軒の久保さんの家が並んでいた。大きい「久保さん」は大きな邸宅であり、その玄関の門の軒先が広かったので、その下で戦後から十数年くらいの間、八百屋が一軒店を出していた。この八百屋がもっぱら当家の台所を預かっていた。
 ある時、その店先にそれまで見たこともないおいしそうな商品が箱にいっぱい入っているのを見つけた。母に買ってくれとねだったが、「高い」と言ってどうしても買ってもらえない。そこで、一計を案ずるのが子供ながらも他の子供と少し違うところであった。
 自分は無言で八百屋のおじさんの後片づけを手伝ってあげたのである。おじさんは初めは怪訝な顔をしていたが、子供のお目当てがサクランボウであることを知って、そっと一握りのサクランボウを手の中につかませてくれた。それが自分のサクランボウの食べ初めであった。実にうまいものであると思った。戦後、三、四年ほどしか経っていない頃のことであったと思う。
 その店はおじさんが二人で商売をやっていた。一人は軍隊の隊長さんのような風貌、いつも革の長靴を履いていた。もう一人は優しいおとなしい感じのする田舎のおじさんと言う風貌であった。二人とも年齢は、当時で四十を越えていたかどうか。サクランボウをくれたのは優しい方のおじさんだったと思うが、いつの頃かこの八百屋は商売を辞めて姿を消してしまった。
 もう一方の小さい方の「久保さん」は平屋であったが、結構大きな邸宅でその裏には広い日本式の庭園があった。この久保さんは斜め向かいにかなり大きな印刷業を営んでいた。
 さらに通りを北に進むと西側に竹本という炭屋があった。炭屋の北側は路地になっておりその奧には製粉工場があった。そこでは、配給で貰ったトウモロコシの実を粉に引く製粉を商売にしていた。またその工場では「やし粉」や「トウモロコシ」の粉を煎餅に加工することもやっており、我が家も米の代わりに配給で手に入れた「トウモロコシ」や「やし粉」を煎餅に加工してもらうためによく利用した。「トウモロコシ粉」の煎餅の口当たりは辛口で、あまり美味しくなかった。「やし粉」の方は口にほんのり甘く、自分には大好物であった。
 その路地から、さらなる北側にはあまり生活に直結した商売屋はなかった。覚えているのは、岩崎泌尿器科医院と下村弁護士事務所くらいであるが、何れも殆ど客の出入りのない寂れた感じがするたたずまいであった。五十軒筋の南詰め、長堀通りの角には森田写真館という写真屋があって、正月などには家族で写真を撮って貰いに行った。


第40話「夢心地」(昭和20年~23年)

2006-10-29 | 昔の思い出話
 何だか、むずむずしてトイレに行きたくなってきた、と思っていったらそこにトイレがあって「ほっ」とした。勢いよく貯まっていたものを放出して「はっ」とした。下半身全体がなま温かくなってきたではないか。
 「しまった」。ここは布団の中ではないか。寝ぼけ頭に意識が戻ってくる。
 事は既に済んでしまっている。布団の中に大量の放出をしてしまった後である。この決着を如何に付けるかが問題である。布団の中でじっとしたまま「どうしょうか」というあせりの気持ちが起こってくる。外はまだ夜明け前。「どうしょうか...」と、眠れぬまま、まんじりもせず時間は過ぎていく。再び、はっと気が付くとすっかり辺りは明るくなっている。いつもより少し早いが、布団の中の洪水は未解決のまま朝を迎えている。
 「ええい」とトビ起きて、いつもは自分で上げ下ろしをしない布団をたたんで押入にいれる。しかし畳までが濡れているではないか。ここで一計。側にあった座布団をその畳の上において何食わぬ顔をして朝飯を食べる。そして、バレない内にと、いつもよりかなり早く家をでる。後ろめたい気持ちが頭を占めており、教室で先生の話していることも全く上の空、やっと一時間目が終わった。少し気分もほぐれてきたと思いはじめた矢先、次姉が突然教室に現れて、「お母さんが怒っている」と。残念ながら失敗、ばれたのである。
 母の目は節穴ではなかった。畳が湿っていること、いつもいくら「布団を片づけなさい」と口を酸っぱくしても言うことを聞かない子供が、殊勝にも自分で布団を畳んで、ものも言わずにそそくさと学校へ行ってしまう。「おかしい」と思わない方がおかしい。
 こういうレベルのごまかしは小さいときからお手の物であったが、成功率は低かった。姉がわざわざ教室まで来たことを思うと、これは姉もまだ同じ小学校に通っていた三年生頃の話である。
 こんなこともあった。
 真夜中、急にトイレに行きたくなった。布団からがばと跳ね起きて、何を考えたのか玄関の方へ足が向いてしまった。玄関の扉は鍵がかかっている。その鍵を開けて、路地にでる。路地の入り口の方を見ると五十軒筋にはもう人影は全く見えない。時刻は深夜の丑三つ時を少し回ったころであろうか。当時は道路の中央に架けた電線に電灯が数メートルおきにぶら下げられていて、真夜中でも道路は明るかった。気持ちの良い夜だなと思いつつ、路地の反対側の塀に向かって思いきり勢いよく貯まっているものを放出した。すっきりして、また玄関の鍵をかけて布団に戻りぐうぐうと眠った。
 父や母が行動を起こしたのはその直後であった。誰か家の子供が真夜中に起き出して家の外へでた。両親が「なんだろう」といぶかしく思って眠り続けていると、今度は外からその子供が帰って来るではないか。しかもきちんと鍵までかけている。そこで親もはっと気が付く。「うちの子供が寝ぼけてトイレを間違えた」と推測した。正解であった。
  「おい」
と父に起こされて、今度は逆に当方が驚く番である。
  「寝ぼけて今、外へ出ていったのはお前か?」と父。
  「?」と自分。
本当のような本当でないような、その割に下腹部がすっきりしている。
  「やっぱり、お前やな」
  「?」
 朝になって、一部始終をもう一度、父から聞かされて、何だかそのような気がしてくるのも不思議であった。自分でも何故本当のトイレに行かず、わざわざ玄関の鍵を開けて外へ出たのか分からなかった。
 しかし、こんなことを今もって覚えていて時々思い出すのはどういうことなのであろうか。あの時、本当は玄関から外へは出ず、玄関の部屋の押入に入って押入の中で用を足したのではないかというぼんやりとした恐れもあり、今となっては何が本当なのか分からなくなってしまった。
 最後に、小学生の間でよく流行った「寝小便の歌」を残しておく。小学唱歌「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと、思う間もなくトンネルを」のメロディーで歌う替え歌である。

   今は夜中の3時頃
   アノネのおっさん
   寝とぼけて
   床と便所と
   間違えて
   あっと言う間に
   寝小便だ


第39話「風呂屋」(昭和20年~23年)

2006-10-28 | 昔の思い出話
 風呂は自宅にもあったが、燃料の薪がないので、殆ど毎日風呂屋通いであった。当時の風呂屋の湯船の大きさは現在とさして変わらないが、浴槽は木造であった。ぬるっとした感じで大変気持ちが悪かった。戦後、しばらくして大分暮らし向きがよくなってきてから、風呂屋の浴槽も木造から石造りに変えて来たのである。
 お湯は大変汚れていて、透明感は全くなかった。垢が表面に浮いているだけでなく、水面を通しての透視度は1センチもなかった。また、いつも大変混雑していて、浴槽の中へ入る隙間がなく、無理にはいると他人様との肌と肌が直接に触れた。丁度ラッシュアワーに全員が裸で満員電車に乗り込むようなものであった。他人様とのスキンシップも余り苦にならず、習慣から当然のように感じていたのであろうか。今では想像もできない。
 風呂代がいくらであったのかは、あまり記憶にない。風呂屋からの帰りに駄菓子屋で風呂代のおつりで、試験管のようなガラスのチューブに入ったほんのりと甘い寒天のような駄菓子を買う楽しみもあった。風呂代が4円くらいで、5円からのおつりをそれに使ったのであろうか。
 風呂屋は「のみ」を仕入に行く場所でもあった。着替えを入れる箱には、先に利用した客が「のみ」や「しらみ」をおいていくので、風呂から帰ってしばらくすると、あちこち噛まれてかゆくなることがよくあった。それでも風呂は子供にとっては、格好の遊び場で友達同士でよく風呂へ遊びに行った。
 時に風呂の湯温が高すぎたり、低すぎたりすることがあった。すると浴客の一人が湯船の中で手で「ぱんぱん」と柏手を打つのである。その音の合図が釜たきのおっちゃんの耳に達すると、やがてお風呂がどんどんと熱くなってくると言うようなことで、風呂の温度がコントロールされていた。
 また、時に全身くまなく刺青(いれずみ)をしたおじさんが一緒にふろにはいっていることがあった。やくざのお兄さんであったのかも知れないが、当時は比較的、入れ墨をした人が多かった。場所柄、土地柄もあるかもしれないが、運送屋の若いお兄さんや力仕事のおじさん達が、やくざでなくても気軽に粋がって刺青をしていたのかも知れない。
 その頃、毎日通っていた風呂屋は、上二近くの風呂屋であった。名前は、多分「にしき湯」と言ったように思う。脱衣場の上に弘法大師の絵と文字の額が掛かっていた。そのほかにも「一の湯」「いろは湯」「銀杏(いちょう)湯」など、近くのたくさんの風呂屋の名前が思い出せる。
 谷町筋の谷六から少し北、通りの東側の交番の近くに一軒の風呂屋があった。「谷町湯」と言う名であったか覚えていない。ここへは一時、ほぼ毎日、里摩君のお母さんに、午後三時か四時頃に連れていってもらったことがあった。夏のまだ明るいうちに風呂へ行き、帰りに氷のかちわりを買ってもらって、里摩君と二人でそれかじりながら歩いていたことなどを思い出す。
 あちらこちらの風呂屋を探訪して、相当時代も下った頃のこと、多分、戦後7、8年も経った頃のことであろうか、上六に大理石で出来た湯船の風呂屋がオープンした。木製の風呂から大理石への大変革で、上六までわざわざ一風呂浴びに行ったことは言うまでもない。「むちゃくちゃきれいやわ」と言うのがその時の皆の印象で、家族も友人たちも物珍しくぞろぞろと揃って、その風呂屋へ行った。それがまた、新しい話題であり自慢話にもなった。大分後になって、普通の風呂屋の浴槽が石造りになって、大理石など珍しくも何もなくなってしまった。
 ある時、ある風呂屋の湯船に大変なものが浮いていたことがあった。子供の大便である。そのことがあってから、その風呂屋へは二度と行かなくなった。


第38話「警察官」(昭和20年~23年)

2006-10-27 | 昔の思い出話
 玄関に制服姿の若い警察官が来て、母と何か話をしている。
  「ご主人はどこで働いていますか?」
  「お子さんは何人で...?」
  「お住まいの方は他に...?」
等々。いわゆる戸籍調査に来た警察官であった。年は、20歳を少し上回ったくらいで、がっちりしたタイプの真面目そうな警察官であった。
  「広い家ですね。所で...、奥さん、私をこちらに下宿させてくれんでしょうか?」
 仕事の最中に不謹慎にも、とんでもないことを言い出す警察官であった。
  「独り者なんですが、寝るところが無くて困って居るんです」
 母は「この青年なら実直そうだし、うちの長男のよい遊び相手になってくれるだろう」ととっさに考えたらしい。勝手に、口が動いて、
  「うちには、同い年くらいの息子もいるし、仲良くしてくれるなら...」
と、深くも考えず、OKを出してしまったのであった。このような経緯で、この警察官はしばらくの間、当家の用心棒代わりに下宿することになったのであった。
 この警察官は、我々年端も行かないチビどもの面倒もよく見てくれた。時には、大変よい遊び仲間にもなってくれたし、終始、対等の精神で接してくれたように思う。お陰で、一生かけてもできない経験を、たくさんさせてもらえることになった。  
 たとえば、古くなった警察官用の警棒を気前良く、
  「ひとつあげるよ」
と、チビの自分にくれた。
 本物の警棒をオモチャ代わりにくれるなんて、子供にとっては夢のような話であった。勿論、近所にそのような宝物を持った子供は居ない。警棒の根元フェースの部分には例の菊の御紋をあしらった警察の紋章の焼き印が押されている。自分は、当然のこと、子供仲間に見せびらかせて得意中の得意であった。
 また、ある時は、公務中の交番でアイスキャンディをごちそうになったり、奥の仮眠室に隠れてこっそりと、ピストルを見せてくれたりした。
 交番は空堀通りと五十軒筋の交差点の部分に張り出して設置されており、学校からの帰りに、この警察官が居るときにはよく遊びに立ち寄ったものである。
 また、こんなこともあった。警察官は身分証明書を見せれば、どこへでも立入ることが出来たようだ。次姉と自分の二人は、このお陰で、ときどき映画をただで見せてもらうことが出来た。千日前の映画館の入り口で、この警察官が制服姿で、身分証明書をちらっと見せて、
  「この二人、ちょっと中へ入れてやってや」
の一言。霊験は極めてアラタカであった。我々は切符もなしで、その映画館のカウンターをパスすることが出来たのであった。大変頼もしい力のある知り合いであった。
 こんなこともあった。多分イタズラで、ひょうきんな人であったのであろう。非番で日中家にいたとき、小さな瓶からスプーンに液体を注いで、
  「ちょっと舐めてごらん」と言われた。
舐めて見ると、何と酢の百倍以上もするような酸っぱい液体であった。酢酸か何かであったらしい。何かの事件に関係してたまたま手元にあった品物であったようだ。あまりの酸っぱさに、下の部屋にいた父に、
  「ああ、びっくりした。2階で、びっくりするほど酸っぱいものを舐めさせられてしもた」
と告げた。これは告げ口するのが本意ではない。自慢話のようなもので、自分の異常体験を気楽に、しゃべったに過ぎない。
 ところが、びっくりするようなことが起こった。父は激怒して、この警察官が下宿している二階に向かって大声で呼びつけたのである。普段、人を呼び捨てにしたり、怒鳴ったりしたことのない穏やかな父が、である。父はこの警察官が自分の子供に、イタズラにせよ危険な毒物を飲ませたと思ったのかもしれない。この警察官は、可哀想に平謝りであった。自分はこの警察官に何か悪いことをしてしまったのではないかと暫く後悔をした。
 この警察官とは、長兄と一緒に、阪神電車に乗って、香炉園の浜に海水浴に行ったことがある。その時に、自分は往きの電車の中で電車に酔って吐き気がして必死にこらえたこと、兄かこの警察官のどちらかが、遊泳中に岩場で足を切って、血を流すほどの怪我をしたことなど、色々なことを覚えている。いずれにせよ、この警察官が近くに住んでいただけで大変楽しい日々を過ごすことが出来たのであった。しかし、その楽しい日々もそう長くは続かなかった。
 別れの日がきたのである。
 朝の新聞の三面に「トラ警官大暴れ」と言う大見出しがあった。家の中が騒がしくなった。と思うや、トラックに乗った制服警官が10人以上も大挙して、わが家に押し掛けて来たのであった。当家に下宿していた警察官はうなだれて、おとなしく警察に連れて行かれた。
 何でも、その前の晩、ある飲み屋で酔っぱらった上、大暴れをしたらしい。飲み屋のテーブルを投げるは、椅子を倒すは、人を投げ飛ばすはと、あの普段は温厚な警察官からはとても信じられないような乱暴狼藉を働いたとのことであった。警察官が警察官を逮捕するという前代未聞の事件であったので、身内の警察官が大挙してわが家の包囲網を敷いたのであった。
 これがこの警察官との楽しい日々の最後となった。この警察官は暫く、留置所にいて、釈放され、その後消防士をやっているといううわさなどを聞いたりした。相当後、20年位の後になろうか、少しやせた洋服屋の元警察官と再会することになった。その時は自分も結婚して一家を構えていた。懐かしさのあまり、即座にオーダーメードの礼服を注文した。昔受けた懐かしい日々のせめてもの恩返しがしたかった。寸法を取る手つきは、とても洋服屋のそれとは思えなかったが、そんなことはどうでもよかった。作ったダブルの礼服は、それから更に何十年も経つが、未だ当方の洋服タンスに中に仕舞ってある。若き頃から、この自分もすっかりと体形が変わって、おなかの辺りはとても入りきらないであろうがね。


第37話「今は昔」(昭和20年~23年)

2006-10-26 | 昔の思い出話
 当時あったもので最近ないものの一つに「托鉢僧」や「虚無僧」がある。夏の暑い昼下がり台所で食事をしていると、開け放した素通しの玄関先に何か異様な物音が聞こえ始める。外を見ると尺八を鳴らす虚無僧が一人玄関先にたたずんでいる。暫くそのまま様子を見ていると、いつまでもいつまでもその場所を動く気配がない。誰かが早くどこかへ行って欲しいと、「お通り」と声をかけても全く動く気配はない。それから暫くは虚無僧と家の内部の者との根比べが始まる。負けるのは決まって家人である。向こうはそれが商売であった。プロには勝てるはずがない。
  「ユーちゃん。これを上げてきて」
と母は十円硬貨を当方に手渡す。
 十円をもって玄関まで行くと、其処にたたずむ者は何と異様な格好か。近づくことさえ不気味なほどである。顔がすっぽり編み笠に覆われており、その者が年寄りか若者かすら分からない。恐々、近づいて虚無僧の胸元の四角い布袋に硬貨を入れる。と虚無僧は最後の一息を大きく尺八に吹き込むや否や、動いたかと思うと風のごとく立ち去っていく。そして、次は隣の家の玄関に佇んで、同じことを繰り返していく。
 托鉢僧もよく玄関先に現れた。同じであった。托鉢僧の場合は尺八ではなくお経を唱えるのであるが、これも滅多なことでは立ち去ることをしなかった。それが修行なので根比べでは勝てるはずもない。プロとアマの勝負だから勝ち負けは決まっている。
 当時に存在して最近にはないものは他にもいろいろと思いつく。
当時は「金魚売り」「富山の薬売り」「竹竿屋」など様々な行商人が街を歩いていた。天秤竿に桶。桶の中に金魚の絵は江戸時代のお話のようであるが、我々の子供時代にはまだ立派に存在して商売になっていたのだ。「金魚えー、金魚ーお」とか「竹えーざおー」とか、節を付けて歌のように大きな声を張り上げて、街を歩く物売りの声。牧歌的でのんびりとした時間の流れる良き時代であった。
 夏が近づくと何処からともなく金魚が現れる。金魚売りから買うこともある。誰かが金魚すくいで貰ってくることもある。金魚が手に入ると、丸いガラスの上部のふちが青く透明でひだひだになって絞られたデザインの金魚鉢の出番であった。冬の間しまってあった押入の片隅から取り出され、底に小石が敷き詰められ、金魚藻が2、3本漂う典型的な金魚鉢が玄関の靴入れの上に姿を見せる。たったそれだけのことで夏という実感が湧いてくるから不思議である。現代は金魚よりももっと高級な熱帯魚が一年中飼われているし、水槽も珍しくはなく、世の中が殺風景になって、季節感を完全に喪失しているが、あの頃は、風鈴の音と金魚鉢を見ただけで、夏を感じ、涼しさを感じたものであった。 
 「富山の薬」も本当に富山の製品かどうか分からないが、いつも押入れか戸棚のどこかに置いてあって、夜中に急に腹痛が起こったり熱が出たりしたときは、得体の知れない粉薬ではあったが、それでぴたりと症状がおさまって助かったことがよくあった。
 薬と言えば、当時よく飲まされた薬に虫下しがあった。小学校では一年に一回以上検便があり、マッチ箱に入れて一人ずつサンプルを提出させられた。これを学校へ持っていくことは大変恥ずかしかったが、提出しないと先生から厳しく叱られるので、女の子も男の子も差別なく全員が学校へ持っていった。一週間ほどすると検査結果の通知があり、殆どの子供は虫下しを飲まされた。「海人草」(まくりと読んでいた)や「サントニン」などという名前の薬であった。大変苦くて飲みにくい代物であったが、効果は抜群で翌日には虫が排出された。殆どは白い回虫で、みみずのような体型で、長さが10数センチもあり、ミミズよりはるかによく太った立派な体格の虫であった。
 代わりに人間様はやせ衰えていた。小学校の一年の時、同じクラスに同姓の痩せて貧弱な体格をした同級生がいた。顔はよく覚えているが、おとなしい子供で殆ど口を利いたこともなかった。ある日から急に学校に姿を見せなくなったので不思議に思っていたところ、程なく死んだと言う話を聞かされた。死因は回虫であったとのことだ。何でも野球のボールのように回虫の絡み合った丸い玉を口から二つも三つも吐いて死んだと聞かされた。本当に身の毛もよだつ思いをしたものである。
 人々が口にする野菜や根菜は下肥が唯一の肥料であった。その肥料を介して回虫の世代交代のサイクルが形成されており、人間の胃袋がその成虫の住処となっていたわけである。成虫になると運動が活発化し、時には胃袋を食い破って体内を放浪し、脳内に入り込んだため気が狂って死んだ人があるという話を聞いたこともある。
 「水枕」も最近は見たことがない。大きなゴム製の枕でその中に氷と水を入れる。風邪を引いて熱が出たりすると、母は決まってこの水枕を頭にあてがってくれた。自分はこの水枕は大嫌いであった。頭を乗せると何とも言えないふにゃふにゃした感じである。水枕の回りに滴露する水も気持ちが悪い。水枕のゴムの回りにタオルをくるりと巻いて使用するが、濡れて頭の回りが水浸しになる。さらに、ゴムの匂いが鼻についてただでさえ気分の悪いときに追い打ちをかけて吐き気を催すことがあった。
 「傷痍軍人」をここで一緒に上げるのに少しためらいはあるが、いつの間にかすっかり姿を消した。戦後しばらくは遊園地や行楽地に出かけると白衣に戦闘帽、義足、杖と言う出で立ちでよく見かけたものである。お国のために傷ついた元「兵隊さん」と言うことから若干の尊敬の念を持って眺めていた。「物乞い」ではなく堂々と存在していた気がする。当初はアコーディオンなどをならして活動的なイメージがあり若い人も多かった。皆が同様に戦後を背負っていたのでそう暗い感じがなかったが、段々無気力になってただ座ってじっとしているだけの老人が多くなり、人々も忙しくなり注目度が減じてやがてすっかり人々の目の前から姿を消してしまった。
 「ちんどん屋」と言う商売も繁盛していた。今でも商売にしている人が居るようであるが、当時は人の注意を引く派手な存在であった。商店街や商店の新規開業など5、6人から時にはもっと大勢の「髷(まげ)もの」スタイルのコミカルな行列が「太鼓」や「ドラ」や「クラリネット」を鳴らしながら街を練り歩く。沢山の人々の注目が集まったと見ると、やおら口上を述べ始める。見せ物としては意外なときに街頭に現れるので、人々の息抜きの一時でもあり、沢山の見物人があった。その頃は宣伝効果も抜群であったに違いない。今はテレビやラジオの世の中にになって、いつの間にかすっかり廃れてしまった。
 谷町六丁目の交差点の近くに「木野薬庁」という名の漢方薬屋があった。そのショーウィンドウに大きな「錦蛇」がアルコール漬けの瓶の中に入れられていた。その横、同じウィンドウの中に蛇よりも大きな「朝鮮人参」が同じような瓶の中におさめられていた。「朝鮮人参」は足が二股にも三つ股にも分かれた見事なものであったが、隣の蛇と同じくらいグロテスクに見えたものである。気持ちが悪いという思いと内部から漂う我慢の出来ない漢方薬の異臭とで怖じ気つきながらも、興味に駆られて薬屋の前を通る度に何時間もガラス越しにこれらの異様な展示物を眺めたものである。
 ついでに、家の中へ目を転じると、現在はなくて昔あったものをいくつか思い出すことが出来る。
 例えばちゃぶ台、我が家ではちゃぶ台などとは言わず、もっとスマートに「お膳」と言っていた。使っていたのは結構大きな丸形の「お膳」で、家族7人全員がその回りに座って同時に食事をすることが出来た。いつもは脚を折り畳んで壁際に立てかけておき、食事で必要になったときに脚を延ばして台所の部屋の真ん中におく。家族のめいめいはその回りの適当な場所に座って食事をとる。当家の兄弟連中があまり年功序列にこだわらず、自由にものが言えるのは、案外、子ども時代に使っていた、このお膳が丸形であったせいかも知れない。座る位置によって無言のステイタスの発生する余地が少なかった。また、昔飼っていた子猫がはしゃぎすぎて、このお膳の脚に鼻っ柱をぶつけて死んだことがあった。思い起こせば、ホントに我が家はネコがよく亡くなった家だった。
 お膳に付き物は「おひつ」であるが、これも我々の視界から失せて久しい。「おひつ」は当然、木製であるが、白いご飯がその中におさまるようになったのは何時ごろからであったろうか。最初は米すらなかったが、やがて豆ご飯がおさまり、麦飯がおさまり、外米飯がおさまり、10年以上の年月を経て、徐々に白いご飯に置き換わっていった。
 おひつにせよ、お釜にせよ、構造上隅の方にご飯粒が少しへばりついて残る。特にお釜には「お焦げ」が出来て大量に付着することがある。この残り福は食べ盛りの子供がしゃもじや包丁を使って当番でさらえたものだ。大抵は、腕力のある、発言力の強いものが残り福を制したが、時には民主的にじゃんけんで決めたりして、末弟にまで回ってくることがあった。このときは、大変、嬉しかったものだ。
 「下駄」も最近ほとんど見なくなった。下駄屋は一昔前は商店街に一つや二つはあったが、いつの間にか全部靴屋になってしまったのか?下駄にも色々な種類があって、男物の下駄と女物の下駄は明らかに違った。巾、高さ、大きさ、デザイン、重さ、など一目でその違いが分かる。
 雪の降った日の下駄歩きは最低であった。下駄の歯と歯の間に雪が挟まって、数メートルも歩くと歩けなくなる。立ち止まっては、歯と歯の間の雪を落とさねばならなくなる。また、歩いていると下駄の歯はよく欠けた。前の歯だけが折れたり、歯の半分が割れてなくなったりする。歯も差込みの下駄とか、1枚の板から切り出したもなどがあった。差込の場合はよく抜けたりした。また、足癖の悪い人の使っている下駄は歯の減り方が、一様でないので、うっかり一寸拝借とばかりに、足に突っかけて外に出ると、足が斜めになったりして、もたもたと歩かざるを得なかった。雨の日は高下駄をはいた。女物の雨用の高下駄は足袋(たび)が濡れない様に、前にフードが付いていた。
 下駄の重要な要素の一つにハナオがある。これもデザインに趣向が凝らされていた。特に女物の下駄はハナオが命であった。このハナオがすり切れると歩けなくなる。ハナオが切れた時には道端で藁や雑草を見つけて急こしらえの修繕をして歩いたものだ。ハナオも切れる場所による。前が切れた時は全く歩けない。横が切れたときは歩けなくはないが、歩きにくいことには変りはない。ハナオと言うものは段々とすり切れて、もう間もなく切れると予告してくれる場合もあるが、ある時突然プッツンと切れて、道中で往生することもあった。
 昔のバンカラ学生は高下駄の音が自慢で、高下駄をはいて、わざと足音を鳴らして歩いたらしい。金色夜叉の貫一は高下駄でお宮を足蹴にしたし、旧制の高校生は放歌高吟して、街を闊歩したらしい。今で言えば、バイクの消音器のマフラーを外して粋がる若者の心理と通ずる所がある。今でも自分は教室の廊下を高下駄で歩いて、その音がやかましいと先生に叱られる夢を見る。下駄は音を立てずに歩くことは難しい。
 子供の頃の記憶として、下駄で懐かしく思い出すのは、お天気占いに使ったことだ。「明日、天気になあれ」と言って、履いている下駄の片方を、空中に放り上げる。下駄は落ちて、表が向けば晴れ、裏返しになれば雨と言うことになっていた。横向くこともあったが、季節が冬の時は雪といっていた。夏はどのように言っていたのか、今では思い出せない。
 また、下駄でも、天狗の下駄やお化けの下駄は歯が一本と決まっていた。それも高下駄であった。このような下駄は、一体、何処へ行ってしまったのかね。日本古来の文化の一つであったのに、完全に姿を消したとなると残念至極だ。
 「今は昔」と上げていけばなつかしい事柄が色々と思い出されるが、このようなものは日本の伝統的な文化遺産とでも言うべきものであり、ただ過去の化石の展示物というような位置づけではなく、使い方を含めてもっと動態的なものとしての保存の方法を考えておかねばならない。
 ついでに本題と関係はないが、古い歌のいくつかを思い出した。軍歌の替え歌と思われる。
  
   昨日生まれたブタの子は
   蜂に刺されて名誉の戦死
   ブタの遺骨はいつ帰る
   四月八日の朝帰る
   ブタの母さん寂しそう

 次も本題とは関係ないが、よく口にした思い出のかぞえ歌である。歌詞の完全さに自信はないが耳から入ったそのままの記憶として記載する。メロディーの方は明瞭に記憶している。今でも気が付けば頭の中で口ずさんでいることがよくある。
   
   一番初めは一宮
   二また日光東照宮
   三はサクラの吉野山
   四また信濃の善光寺
   五つはいつもの大八洲(おおやしま)
   六つ昔の天神さん
   七つはななこの兎さん
   八つ山田の案山子(かかし)
   九つ高野の弘法師
   十で東京心願寺
   あれほど心願かけたのに
   浪子の病気は治らずに
   轟々ごうと行く汽車は
   浪子と武郎の別れ汽車
   泣いて血を吐く不如帰(ほととぎす)
   泣いて血を吐く不如帰

 歌ではないが、以下のような戯れ言もよく大声で口にして遊んだ。その殆どが忘却の彼方にある。今後、思い出す都度、補充することにしてその断片だけを記しておく。
   
   海でとれたるハマグリと
   山でとれたる松茸を
   ...........
   ...........
   水のない川渡るとき
   みみずの骨で指さして
   豆腐のかけらにつまずいて
   ...........
   ...........
   武士といわれし侍が
   馬から落ちて落馬して
   女の婦人に笑われて
   無念残念
   腹切って切腹

 最後に、初めの文字がすべて「に」で始まる次のようなセリフも、得意になって叫んだものだ。

   日本橋二丁目の
   肉屋の二階で
   鶏にわかに
   西向いて逃げた 


第36話「三つ子の魂」(昭和20年~23年)

2006-10-26 | 昔の思い出話
 母からは、この自分に対して「体が弱い」こと、と「気が弱い」ことの二点を繰り返し、繰り返し聞かされた。母の意図は勿論のこと、何とか強く逞しい男の子に育てたいという一念であったと思うが、現実は子供のやる気をそぐ一番都合の悪いときに、それを強調することに終始して、結局は逆効果になったのではないか。
 「体が弱い」。今から考えると、まだ記憶も定かでない幼児の頃に胃腸系の大病を患って死にかけたことがあったらしい。それが母の思い込みの直接の原因になったのではないかと思っている。自分は、妹と同時に発病し、どちらも重体で、死ぬのは自分の方だと思われていたらしい。結局、持ちこたえたのは当方で、妹の方が亡くなった。死んだのは大阪上二にあった病院とのことであるから、彼女も3つか4つくらいの年齢までは生きていたのであろうか。
 戦後、食糧事情の良くない時期に食べ物が目の前にあると、つい食いダメの心理が働いて、よく食べ過ぎをしたものだ。自分も、よく胃腸をこわして、吐いたり、翌日は学校を休んで寝るということがよくあった。また、喉にアデノイドがあり、それを大学に進学する頃に切除するまでは、よく熱を出し寝込むことがあった。そんなことで、母の当方に対する「体が弱い」という思いは、ますます強固なものとなっていた。
 この頃の病気で寝ている子供の心境を、思い出風に以下に少し綴ってみる。
 学校を休んで家で朝から布団の中に寝込んで居ると、普段と全く違う事が経験できる。平素、聞いたことのない色々な物音に気がつく。雀の鳴き声が聞こえる。犬が絶えず吠えている。鳩がグルルグルルと鳴いている。朝日が差し込んでくると、冬の淡いこもれ陽が遠い遠い昔の原始の体験を思い出させる。水たまりに反射した光が天井に当たって、光の陰陽のさまざまな模様が妖しくうごめく。光の波長と天井の木目のパターンが夢幻の世界を演出する。突然、日が陰ると天井の模様がすーっと消えていき、日が戻るとまた妖しげな模様を復活させる。
 そして、たいていの場合、次のように思う。
  「今時分、学校で友達は何してるんやろか?」とか、
  「先生は休んだこと怒ってへんやろか」などと言った心配ばかり。
そして、一番の心配は、
  「今日は学校でみんな何を習っているんやろか?」
  「みんなから勉強遅れるんとちゃうやろか?」
と言うようなことであった。
 そのようなわけで、「体が弱い」割には、自分は学校を休んだことが無く、よほどの時をのぞいて、学校だけは休まなかった。小学校の6年間を通して、1年に平均して1日か2日も休んでいないと思う。
 これは、サラリーマンをやっていたときも、それ以降の現在も同じ思いであり、滅多なことで仕事は休まない。休むと気持ちが悪いという損な性分となって残っている。
 次に「気が弱い」こと。これも現実その通りで、全く完治していない。これを克服するために、一生かけて努力して、まだ克服できていない。驚くほど気の強い人を周囲によく見かけるにつけ、特にそのように思う。
 遠くから家にお客様が見えて、今日こそは進んで自分から挨拶しようと思って決意をしている矢先、母が開口一番、大人の挨拶を省略して、代わりに、
  「この子はおトンボで挨拶もようしませんねん、すみません」
と言う挨拶をする。「もう一寸、ちゃんと挨拶するのが親の務めとちゃうか?」「挨拶でけんのは自分の方やないか?」などと何度思ったことか。
 もう一つ、つけ加えるなら、親はわが子がかなり勉強出来るという秘かな自信がある。その前提で、子供の前で、
  「うちの子供はあきまへんねん。躾(しつけ)をちゃんとやっておりまへんので」
と自白めいた謙遜のような発言をする。
 お客はあわてて、
  「いやいや、お宅のお子さんはようできて良ろしいですね。うらやましいですわ」
などといってくれる。それを聞いて母は安心したり、自己満足したり。
 結局、子供を自分の気持ちを安定させるための、あるいは話の場をつなぐための道具として使っているだけ。それ以外には何も考えていないのでは?と、絶えず心の中に繰り返し考えながら、我が幼年時代を育ってしまったように思う。
 現代では、相手にもよるが、「出来る」「強い」と、絶えず誉めて自信をつけさせることが強く育てる常識と言うことになっている。自分の場合は、残念ながらその正反対のやり方で育てられた。その結果かどうかは知る由もないが、この「気が弱い」という難問には何の解決も見いだせていない。
 この年になっても未だ初対面の人には気恥ずかしく気後れするし、女性や目上の人にはなおのことである。常に相手の気持ちを先読みし、自分を押さえることに終始し、何一つ相手に強制することが出来ない。わが子供に対してすら、そのようになってしまっている。三つ子の魂、百までとばかりに、昔の状態をそのまま保持している。一生の課題であるが、今後ともなお一層の研鑽が必要である。


老化とは

2006-10-26 | 徒然草
加齢が進めば精神力が衰える
体力が衰える
新しいものへの対処が遅れる
これはウソである
高齢にかかわらず
気力ハツラツとしている人が居る
新たな発想をする人が居る
新たな行動を起こす人が居る
体力を経験でカバーし
判断力を蓄積でカバーする
老人とは肉体的なことより
精神的な若さを失い
責任を他に転嫁する人を言う
若くても夢をなくした人
気力のない人
意欲のない人
このような人は年齢にかかわりなく
精神的には老人である
老人にならぬ秘訣
それは精神的に老化しないことだ


第35話「学校周辺」(昭和20年~23年)

2006-10-26 | 昔の思い出話
 桃谷小学校のこの頃の周辺の状況を書いてみる。
 桃谷といっても環状線の桃谷駅のある地区とは全く関係がない。大阪市南区、現在の中央区にある。その後、都会のドーナツ現象のあおりを食って過疎化してしまい、子供の数も減って桃谷小学校は廃校になった。当時は、校区の南側に隣接する東平小学校と合併して運営されていた。この界隈は古くから住商工の混在地域であったが、戦災を免れ奇しくもほぼ無傷の状態で残った。そのようなわけで戦前からの二階建て木造の古ぼけた家の建ち並ぶ下町を形成していた。
 桃谷と言う名前は多分、「桃の谷」から由来していると思われる。と言うのは桃谷小学校の西側は低地になっており進入路がすべて下りの坂になっていた。上町台地の峯にそって出来た小さな谷であったろうか。上町台地そのものは南北にのびた台地で、北は大阪城から南は天王寺あたりまで広がっている。そしてその両側は何れも下り坂になっている。台地の西側の斜面は上町筋から松屋町筋まで緩やかな下り坂である。谷町筋も多分、上町台地にそった名前の通りの谷であったのかも知れないが、桃谷はその谷町と上町台地の稜線の間にある、さらに小さなローカルな桃の花咲く谷であったと推測される。
 桃谷小学校の校舎は南北に長く視界は東と西に広がっていた。屋上からは、東側に遥か生駒の連山が眺望できる。学校から生駒の麓までは20キロメートルくらいはあるかと思うが、見える範囲では黒い屋根瓦の甍(いらか)と町工場や公衆浴場の煙突、あるいは焼け跡の空き地くらいで、他に目に付く物は何もなかった。西側の直ぐ眼下には朝鮮村と呼ぶ長屋の連なる一画があった。その西の向こう側は大阪の中心部に当たり焼け残ったビルが淋しげにポツンポツンと建っていた。目に見えるビルはごくわずかで、記憶にあるビルは、堺筋日本橋にあった松坂屋百貨店のビルと長堀通りの丸善石油本社ビルくらいであった。その他の市街の大半は黒い屋根瓦の木造モルタルの汚いバラックが密集していた。
 桃谷小学校の校舎の正面は間口が狭かった。正面玄関は空堀通りに面しており、空堀通りは主として八百屋や魚屋などの生活密着型の大変活気ある商店街であった。この面影は現在にも、多少は引き継がれている。
 校舎の直ぐ西側、前述の一段と低くなった地域、ここが名前の由来する本来の桃谷地区と思われるが、ここには多数の朝鮮人が住んでいた。民族色豊かで、年配の女性は白い民族服を着ており、朝鮮語で日常的に会話が行われている一種の租界であった。この地区からも多数、桃谷小学校への通学者があり、50名の一クラスに平均して5名くらいの朝鮮人が居た。ガキ大将も沢山居たが、ごく普通の男の子や女の子達で、学校友達として個人的な日常の接触があり、朝鮮人であるという偏見など持たずに育った。この頃はまだ韓国という国名があまり一般的ではなかったので、自分は朝鮮という呼び方の方になじんでしまって、今でもあまり韓国という名前が浮かんでこない。
 朝鮮村への入り口は多数あったが、何れの入り口も坂道や階段を降りていく格好になり、足を踏み入れるときにはそれなりの緊張感を抱かせた。そこは明らかに日本の普通の場所とは違った雰囲気を持っていた。しかし、こわいもの見たさから、学校からの帰りは好んでこの朝鮮村を通り抜けて帰宅した。
 朝鮮村の名物は養豚場であった。20頭くらいの豚が囲いの中に飼育されており、すさまじい悪臭を周囲に放っていた。鼻をつまみながら、それでもよく豚見物に行った。
 悪臭について言えば、学校帰りに通る空堀通りの漢方薬屋もひどい匂いを発散していた。漢方薬の匂いのために、その店先を通るだけでも強烈な匂いで、いつも足早に逃げるようにして通り過ぎたものである。また、この薬屋の隣に、一軒の蒲鉾屋があった。時々人間より遥かに大きなフカ(又は鮫)がコンクリートの床の上に転がされていた。このフカも大変な匂いであった。昔はこのように強烈な匂いのするものが生活場面のごく近くにたくさんあった。
 この蒲鉾屋の店先で、フカの解体現場を見物していたら、そこで作業をしているお兄さん達が、
  「この前はフカの腹から、人間の履くゴム長靴が出てきよったんや、きっと人
   を食いよったんや」
などと見物の子供にわざと聞こえるように言った。見物している我々子供達は、その話にド肝を抜かれた。そのフカこそは、やがて美味しいかまぼこやテンプラ(薩摩揚げのことを大阪ではテンプラという)に加工され、我々の食卓に供されることになるからである。
 空堀通りと五十軒筋の角の場所には、道に出っ張った交番があった。その交番の裏側には模型材料店があり、飛行機や電気機関車などの模型の材料が陳列されていて、子供の夢をはぐくむ店であった。
 学校の直ぐ西側の斜め向かいに、南を向いて楠木通り(周防町筋)の方に出る坂道があり、その坂道の降りたところに1軒の文具屋があった。急な坂道であったので、滑らないように、でこぼこの石のブロックが埋め込まれていて大変歩きにくかった。
 その文具屋は学校の教科書を扱っており指定の販売店であった。宿題の工作材料などもそこでしか手に入れることが出来なかったので、よく立ち寄った店であった。漢字を習い初めて、半年もしない頃、ビンのふたに「野球のり」と書いてある糊を、その文具屋の店先でみつけて、ずいぶん長く「のきゅうのり」と読んでいた覚えがある。普通の子供には読めない漢字であったので大変得意に思いつつ。
 これについてはこんな話を思い出す。
 当時の学校の工作は紙細工が一番安くて手っ取り早かった。当時の紙の接着剤には丸いガラスのビンに入った糊しかなかった。あの舌きり雀が食べた澱粉質の糊である。ある時、学校の工作のために、この文具屋でわざわざ「のきゅうのり」を探したのは、自分が漢字を読めることを皆に知らせたかったからであった。
 文具屋の店先には、探しても探しても「不易糊(ふえきのり)」と書いた糊しかなかった。
  「おばチャン、ボク、のきゅう糊が欲しいねんけどなあ...」
  「???」
  「おばチャン、アノなあ、のきゅう糊やんかあ、ほら、何時もこの辺に置いてあったんやけど...」
  「ン?、あははは...、やきゅう糊のことかいな...、それやったら今は売り切れやわ..」
学がないと見くびっていた文具屋のおばあチャンに対して、とんだ赤つ恥をかくこことになった。
 話を戻す。その文具屋の道を少し南側に進むと左手に聾唖学校があった。校舎は木造二階建ての古いもので、当時そこで授業が行われていたかどうか知らないが、校舎の屋根下に鳩がたくさん住んでいた。ある同級生くらいの子供が、どうして捕まえたのか、生きた小鳩を手にして遊んでいるのを見て大変うらやましく思った。生きた動物を自分の支配下におくということは、小さい子供にとって、本当にうらやましく思えたものである。その聾唖学校は後に改装されて上町中学校になった。
 更に、その道を南に行くと、東西に走る楠木通りに出る。楠木通りは大きな楠木が道の中央に植わっており、道はそれを避けて両側に迂回している。現在もそのままである。楠木にはしめなわがはってあり、その直下には小さな祠(ほこら)がしつらえてあった。何でもその楠木には大きな白蛇が住んでいて、下手に触るとたたりがあると言われていた。
 その楠木通りの向こう南側から桃谷小学校の校区外となる。上汐町、中寺町界隈であるが、広大な墓所を抱えたお寺の町であった。この辺りはお寺も民家も、ほぼ完全に空襲で焼失し、焼け野原となっていた。


第34話「子猫」(昭和20年~23年)

2006-10-26 | 昔の思い出話
 我が家はみな動物が大好きであった。未だ、目も開かぬ生まれたばかりの時に拾ってきた子猫の話である。名前は、「ミーコ」とでもしておこう。家族から好かれて、誰の膝の上でも、座りに来る子猫であった。すっかり慣れて、家族のすべての布団の中に入って一緒に寝てみて、誰が一番暖かくて気持ちが通じ合うか肌でわかった頃、突然行方不明になった。
 寒い日であったが、朝から姿が見えないので、家族一同不思議だなと首を傾げて、帰ってくるのを今か今かと待っていた。昼を過ぎても帰ってこない。夕方になっても帰ってこない。いよいよ本当に心配になって、家族総出で、「ミーコ」「ミーコ」と、近所中を探し回った。それでも姿が見えないので、
  「誰か子猫のミーコを見てませんか?」
と近所の人に聞いて回った。すると、近くの4つか5つ位になる「きみちゃん」と言う女の子が「その猫を見た」と言ってくれた。
  「ミーコはどっち向いて行ったん?」
  「何時頃やったん?」
根ほり葉ほり質問をしたら、
  「あの路地のその屋根の上から、こっちの家の塀の下をくぐり抜けて...」
とすべて、はきはきと答えてくれたのである。そして家族は、その情報を頼りに、また、何時間も何時間も探し回った。結局、真夜中になって、それでも見つからないので、みんながっかりして心配しながら家へ帰って、またしばらく「ミーコ」「ミーコ」と外へ向かって呼んでみたりした。やっぱり出てこなかった。そして、今度こそ本当に諦らめて、そろそろ寝るかと、母が押入から布団をおろしにかかると、「ちゃりん」と子猫の首に付けていた鈴の音がしたのであった。みんなは「どきっ」として、
  「ああ居た」
  「ミーコや」
  「帰ってきよった」
と喜びの声をあげた。
 確かに居たのである。しかし、そこに居たのは、冷たくこちこちになった、変わり果てたミーコであった。ミーコは押入の布団の上で、その日は朝から、独り寝を楽しんでいたに違いない。そして、朝起きたばかりの家族の誰かが気付かずに、眠っている子猫の上に布団を積み上げてしまったのだった。可哀想な子猫は、布団の重さで身動きもできず、窒息して、誰にも見とめられることなく、果てたと言うことがわかった。
 次の日、朝の内に子猫は紙箱に入れて路地のプラタナスの並木の下に穴を掘って、手厚く葬ってやった。それにしても、子猫を見たという小っちゃい女の子「きみちゃん」の話は何であったのか。別の猫を見たのかも知れない。あるいは、人から問いつめられると、気が優しかったり、気が弱かったりして、つい善意で確かでもないことを、その場逃れに言ってしまうのか。あるいは、大人から認められたい一心の子供心のなせるわざか。子供と言うものは、誰でもつい背伸びをして知った振りをしてしまうものか。
 

第33話「冬」(昭和20年~23年)

2006-10-26 | 昔の思い出話
 冬は大変寒かった。冬が寒いのは火が熱いことと同様、きわめて当たり前のことである。最近は地球温暖化のためか、びっくりするほどの積雪や、厚い氷がはることは少ないが、当時は今よりもっと雪が降ったし、厚い氷も張った。終戦直後から10年くらいは寒い冬が当たり前だったような気がする。アカギレになった手が痛くかじかんで、焚き火などには喜んで手をかざしたものである。隣家の里摩君の家は、古い木箱の再生業をやっていたので、よく藁くずが発生し、それを焼却するため、たえず焚き火をしていた。サツマイモを焚き火にいれ、火が消えるまでそのままにしておいても、芋は燃えてしまわず、ほかほかに仕上がって、冬の味覚としては最高のものであった。 
 アカギレだけでなく、しもやけには一冬中、悩まされた。しもやけの成りたては、皮膚が少し腫れたようになってかゆくなる。その後堅くなってきて、更に進むと、皮膚が崩れて、ずる剥けになる。さらに進むと皮膚の下の肉がえぐれて大変な激痛に悩まされる。一度そこまで進んでしまうと春になるまで全治せず、治ってもケロイドのような傷跡が残る。
 お風呂に入って、しもやけのかゆいところを暖めると、たいそう気持ちが良かった。足の指先がしもやけになると、温かいこたつの壁にその部分をこすりつけたまま、寝入ったものである。真夜中にしもやけが痛いと言って、母に、くずれたしもやけの包帯をなおしてもらったり、「トフメルA」と言うピンク色の軟膏を塗ってもらったりしたこともなつかしい。
 こたつは冬の必需品であった。こたつは木で櫓に組んだもので、布団の足下に入れて寝るわけであるが、兄弟が一つのこたつを共有して、2人ではL字型、3人ではT 字型のように布団を敷いた。布団の接合点の部分にコタツを置いて、どちらからも足が届くように布団を敷くのである。こたつの櫓には素焼きの灰の入った容器を入れ、その中に火を付けて赤くしたタドンや豆炭をもぐらせた。布団に入るとタドンの粘結剤であるコールタールピッチの匂いがツンと鼻を突いたが、今ではなつかしい匂いだ。
 部屋の暖房は火鉢が主流であった。火鉢には縄やむしろを燃やして作った灰の中に、火をつけた炭を入れたが、普通は経済的な理由で練炭が使われた。一個の練炭を入れておけば大体、一日中、火が消えずに持ちつづけた。練炭はうまく燃えていると、丸い穴から、青い色の炎が勢いよく出て、大変暖かかった。練炭もなつかしい匂いを出すが、原料となる石炭が完全に石油やガスに置き換わった現代では、二度とその匂いをかぐ機会は来ないであろう。練炭は燃え尽きると練炭の形をしたまま大きな灰の塊となることも子供の自分には面白かった。特に火鉢から形が崩れないように取り出すのは、豆腐を箸でつまむ感覚にも似て難しい。
 その昔は我が家にも木製の四角い火鉢があって、いつもブンブク茶釜のような銅製の小さい茶瓶がかけてあり、沸騰する際にちんちんと音を出していた。特に人気のない昼間には、一種独特の時代がかった寂しい雰囲気を醸し出す舞台装置であった。
 冬の雰囲気には、もう一つ格別のものがあった。それはわが家の猫である。我が家では台所の板の間の下、つまり縁の下に木炭の置き場をしつらえてあったが、その場所が当時わが家に住んでいた猫達の好みのトイレになっていた。何代にもわたって、木炭の上に用を足すことが大好きな猫が続いたのであった。猫を木炭置場から隔離することは不可能であった。元々浄水器や脱臭器の吸着剤として使用されることのある木炭は、猫の排泄物を十二分に吸着することになった。その炭を火鉢に使うと、最初の一時間くらいは、その匂いが家中に充満した。窓の開けられない冬場だからこそ火鉢を入れているのであり、可愛いい猫が主犯であるがゆえに、鼻をつまんで我慢せざるを得なかった。しかし、この匂いだけは、いかになつかしくともあまり嗅ぎたいとは思わない。


第32話「相撲」(昭和20年~23年)

2006-10-26 | 昔の思い出話
 小学校の1年の時か2年の時か、はっきりしないが、体育の時間に砂場で相撲をとったことがある。二人ずつ勝負を付けていく勝ち抜き戦である。広い砂場の真ん中で四つに組んで投げ飛ばし合うだけで、特に土俵のような丸い線があるわけではない。従って、押し出しとか寄り切りとかと言う決まり手はない。小学校の低学年であるから、勝負もそう厳密なものではなく、ほんの余興としての取り組みであった。
 自分はそれまで砂場で遊んで友達と相撲をとったことは、勿論、あったと思われるが、いわゆる相撲のルールを知らなかった。相撲というものは相手を投げ飛ばすだけのことだと思っていた。その時は、2組の列に分かれて前から順番に相撲をとり、勝ち組と負け組に分かれていった。自分の番になったので砂場の中央に進み出て「はっけよい」と見よう見まねの仕切をやって相手と組み合った。思いの外、弱い相手で勝てそうな気がした。しかし、組んでいる間に手が痛くなったので、何気なく、自分から片手を離して、余裕を見せるために四つに組んだまま、砂場の砂を一握り掴んでしまったのである。
 その途端、先生から「勝負あり」の宣告が出されて、自分の負けとなってしまった。
  「先生、ちょっと手を付いただけやで、何で負けやねん」と自分は極めて不満であった。
  「手を付いたら負けです」と説明する先生に対して、さらに自分はつけくわえた。
  「先生、自分から手を付いただけやんか、何で負けやねん?」
先生は、
  「相撲は手を付いたら負けです」と繰り返した。
  「先生え、そんなこと、ボクは知らんかったわ」と言っても一度下った判定は覆らなかった。
 自分は全く不本意であった。相手に投げ飛ばされたわけではない。相手に押しつけられたわけではない。自分から余裕を持って足下の砂をほんの一瞬、触りに行っただけである。自分は唖然とするだけで負けの意味が理解できなかった。相撲とは投げ飛ばされたときだけが負けと思っていたからである。
 先生に、いくら自分の意志で砂を触りに行っただけだと説明しても、負けて手を付いたのと見かけは同じであり、弁解の余地はなかった。先生は分かっていても、たった一人のためにだけルールを曲げるわけには行かなかった。
 その時はそのことがよく理解できず、負けたことが非常に不本意であった。
  「ルールを知らんかっただけやから、そのとき先生は注意するだけで、試合を続けさせてくれてもええのになあ」と、厳格な先生を長く恨んでいたように思う。
 本当は相手がたまたま弱かっただけのことであり、もし強い相手であったら直ちに投げ飛ばされて、その様な教訓は得られなかったであろうと今は思う。


第31話「強き母」(昭和20年~23年)

2006-10-25 | 昔の思い出話
 先日、久しぶりに阿倍野から近鉄電車に乗ったが、昔なつかしい駅名に出会った。「高安」である。高安は、終戦直後、母親に付いて薩摩芋の買い出しに度々訪れた場所であった。当時、米は都会ではなかなか手に入らなかったので、主食は薩摩芋とメリケンコであった。むしろ、芋の方が比重は高かったかも知れない。そして、この主食の雄である薩摩芋の調達はもっぱら母の仕事であった。当時は片田舎であったが、今はすっかり都会の郊外になっている高安駅を電車が通過したとき、薩摩芋の買い出しに来たことをふと思い出した。我が母は本当に頼もしく、そして逞しかった。
 母のたくましさを示す思い出を一つあげておこう。ある日、母は一つの商売を思いついた。思いついたら矢も盾もたまらなくなって、直ちに実行に移すのが母の母たる所以である。母は畑でとれた豆でアンコロを作り、何とか口に出来る程度の甘味を持った団子(おはぎのようなものであったか)を作った。これを売れば商売になると思って、50個か100個か、かなりの数の団子を朝から苦労して作り上げた。それを風呂敷に包んで、上六の近鉄百貨店横の道路上に並べ、露天商をはじめた。店を広げるや、驚くことか、驚くまいことか、あっと言う間に長蛇の列が出来た。10円札を手に手に、私の方が先だとか、「ちゃんと並べ」とかの言い争いがあったりして、丁度、バーゲンに人が群がるのと同じ光景が出現した。人々は飢えており、値段がかなり安かったのであろう。団子の方もあっと言う間に売り切れた。そこまでは良かった。
 帰ろうと店じまいを始めると、大事なものが無いのである。何んたることか、ちょっと油断した隙に、売り上げ金を誰かに持ち去られてしまっていたのだ。朝早くから一生懸命に団子を作って、やっと商売にこぎつけて、やっと稼いで、やれやれと思ったら、すべてが無となっていたのであった。母は最高に惨めな思いをしたに違いない。
 自分はずっと母の側にいたので、本当に惨めなその気持ちが分かった。母はしつこく、この自分に「誰かお金を盗んだ人を見なかったか」と尋ねた。真冬であったと思うが、厚い外套を着たお爺さんが一人、お客の中にいて、何だか大変特徴のある風采をしていた。その外套の袖の端がたまたま、お金を入れていた紙箱に触れたことがあった。子供心に想像を逞しくして、その時に、袖の中から見えない手が出て、お金を盗んだかも知れないと思った。盗みそのものは目撃していないのに、つい母を慰めるつもりで、
  「ぼく、お爺さんが盗んだのを見た」と言ってしまった。正直言って、母を慰める気持ちから発した純真な言葉であったが、
  「何んで、その時に言ってくれへんかったんや」とひどく叱られた。
 後でゆっくり考えると、そのお爺さんの袖が、たまたまお金のはいった箱の外側に触れただけのことであって、わざわざ箱を開けてお金を持ち出した訳ではない。しかし、一度言ってしまうと後には引けず、最後まで、ただそう思っただけだとは言えなかった。
 昔から、子供は嘘をつかないとよく言うが、「お爺さんが盗んだのを見た」というのは、明らかに嘘である。子供は、悪意無く嘘をつく。今から考えるとこの時の自分は、想像の世界と真実の世界の区別がしっかりしていなかった。正直のあまり、自分の心に浮かんだ想像をそのまま発言したので、結果的に嘘になってしまったのであった。
 この商売はこれが最初で最後になった。母はこれに懲りて、二度と同じ商売はしなかった。色々思い出すと、末っ子として自分は片時も離れず、母の側にいたのであろう。どこへ行っても側に付いて甘えていたようだ。そんなことから、接触時間の長かった分だけ一層、母との心理的な摩擦が多かった。甘えて側にくっついていても、心の底では、自分でもはっきりと意識の出来ぬ底の底では、絶えず母に抵抗して口答えが絶えなかったのである。


第30話「我が家」(昭和20年~23年)

2006-10-24 | 昔の思い出話
 当時の住み家は広かったのか狭かったのかは分からない。一間に子供なら3人も4人も一緒に寝たが、そう狭いとは思わなかった。
 一階には部屋が4間あった。玄関が3畳、中の間が4.5畳、奥の間が6畳、食堂用の部屋が3畳。いわゆる流しのある台所はコンクリートの土間になっていたので数には入れていない。二階には二間あり、4.5畳の茶の間と6畳の一間があった。後に一階の台所の吹き抜けの天井部分にも一部屋をリフォームして作ったが最初は二階には二間しかなかった。4.5畳の茶の間は一足早く成人した長兄が占拠していたので、両親の寝室であった一階の奥の間をのぞいて至るところで、残りの子供4人が雑魚寝をしていた計算になる。一畳の大きさは京間であったので今の標準よりかなり広く、3畳で大体4.5畳くらいの広さの感じである。
 一階には2、3坪の小さな和風の庭があった。一番奥に大きな漆(うるし)の木が一本。縁側の大きな踏み石が一つ。そして庭を斜めに横切る数個の飛び石。手水鉢(ちょうずばち)が一つ。家の奥の間と庭のあいだに縁側の廊下があり、そこはいつも日当たりがよかった。その縁側の続きで渡り廊下が庭に沿っており、その庭に面した反対側にお風呂とトイレがあった。従って、お風呂とトイレは家の外側に離れて位置しているような作りなっていた。
 夜、トイレに行くときは、渡り廊下から星空が見え、風の強いときなどは風を受け、雨の日は雨に濡れた。トイレに行く途中、お風呂の扉が開いていると、中が真っ暗で気味悪く、誰かいるような気がして恐かった。自分はいつも、そこに白い衣服の黒烏帽子をかぶった神主か平安貴族の男がうずくまっている様に感じて、鳥肌が立つ思いをしたものである。夜はなるべくトイレには行きたくなかった。
 子供の頃は何故か、家の内でも外でも、暗がりに来ると、特に真っ暗な闇に遭遇すると、突然、黒々とした山の端、森閑とした森、神社、鳥居、そして烏帽子をかぶった神代の人達の姿が目の前に浮かんできて、恐怖心をつのらせることがあった。何故そのようなものを想像するようになったのか今もって理解出来ないでいる。最近は、努めて十二単(ひとえ)のお姫様を想像するようにしている。おかげで、暗闇に遭遇しても子供の頃のような恐怖心に襲われることがなくなった。成人後獲得した教養、特に心理学の成果である。
 家の庭は広くはなかったが、貴重な土のスペースであったので色々な用途に使われた。戦時中には穴を掘って貴重品を埋めた。戦災に会っても大丈夫なようにとのことである。燃えやすいものやアルバム、レコード、その他生活用品なども収納された。埋めた道具類は、結局は変色したり、錆びたり、紙類はぬれてしまったりして使い物にならず、戦前の必死の努力は徒労に終わる結果となっていた。
 終戦直後には、この庭は鶏などの放し飼いの場所にもなったりした。兎を飼っていたこともあるが、これらの肉を食った覚えはない。食用ではなく、ただの愛玩用のための飼育であった。鶏を飼っていたときは、庭の片隅に屋根の付いた鶏小屋を設置していた。
 庭の飛び石の周囲には土ぐもの細長い袋状の巣がたくさんあり、それを引っぱり出して、クモの子を裸にして手のひらに乗せて遊んだ。毒のあるクモではなく、子供にとっては友達のようなもので少しも恐くはなかった。庭には、その他丸虫やたくさんの小さい生物がいたので、一人で、庭で遊んでいても退屈することはなかった。
 遊び場は、家の中の至る所にあった。意外な盲点は押入である。ふすま戸を締め切ると真っ暗になり、何かしら秘密の雰囲気があって面白かった。洋服ダンスの中は特に隠れるにふさわしいところであった。ただ、洋服ダンスは中が狭くずっと立っている必要があり、押入ほど快適ではなかった。また、服やナフタリンの匂いがきつく、そう長時間にわたって楽しめる快適なスペースではない。楽しい空間は、何と言っても押入にしくものはない。そのまま布団の上で、ベッド代わりに寝てしまうことも可能であった。
 間仕切のふすま戸の敷居は格別の意味があった。ふすま戸の二本の溝は電車のレールのイメージがあった。その上に一冊の本を二つに割って立ててトンネル代わりにして、おもちゃの電車をくぐらせたり、ラムネの玉を勢いよく走らせたりして遊んだ。時には何冊もの本を連続して並べ、長い長いトンネルを作った。立てかけた本の端から、転がるものを入れ、反対の端からでてくる様子は、自分を何か動く物体と構築物を支配している技師のような気分にさせ、夢の世界に引き入れる魅力を持っていた。ものを作ったり動かしたりすることの、工学的な世界に何となく惹き付けられるものがあり、遠い将来、技術を自分の生き甲斐とする素地のようなものが、すでに小さい子供の頃にあったようだ。
 そして最も長時間にわたって、時間を過ごした空間は、多分空の下、物干し台と大屋根の上であった。特に大屋根の上へは暇さえあれば登っていたように思う。何よりも地面より一段と高所にあって、下界をヘイゲイ出来る。何か偉くなったような気がする。そのくせ静かで誰にも邪魔をされることがない。狭い家の中とは異なり、得がたい孤独を楽しめる空間でもある。時にはぼんやりと空を眺め、雲の流れていく様子を飽きずに眺めている。時には近所で仕事している人たちの仕事ぶりを秘かに眺めている。見られている人が気づいていないことも、何かしら優越感をくすぐる。大屋根伝いに隣の家や、時には更にもっと遠くまで遠征することができる。傾斜があって、滑り落ちるかも知れない危険や狭い隙間や隣屋の屋根に飛び移るときの緊張感は子供の冒険心を満足させる最高の場所であった。
 家の近くの大きい木や塀は大抵一度は登った。庭の漆の木だけは、もし樹液に触れてかぶれてはいけないと思ってあまり登らなかった。しかし、何と言っても、屋根の上の漫遊や木登りの理由は、家の中の見える場所でイタズラをしていて母に見つかって、叱られるのが恐いと言うことにあった。一度上に隠れてしまえば、相当長時間にわたって滞在していたのである。恐い順序は「地震」「雷」「火事」と来て、次は「親父」ではなく「母」の叱責であった。
 屋根上の漫遊や木登りは、大抵は人の見ていない時間と場所に限られ、ある程度、罪の意識を感じながらの遊びであった。


第29話「自動車」(昭和20年~23年)

2006-10-23 | 昔の思い出話
 終戦直後のしばらくは、親父の兄に当たる叔父さんが、よくわが家に足を運んで、食事を一緒にしたり、長時間話し込んだりして帰ったものである。この叔父さんは、戦後暫くは家族の一員のような感じであった。
 自分は好んでその叔父さんの膝の上に座って、時々真似をして、ぽんとおでこを叩いたりして、話の仲間に入っていた。叔父さんの癖は右の手の平で、おでこの辺りを、ぽんと叩くことであった。何か思いついたり、考え事をしたり、その他何でもないときに勢いよく、ぽんとおでこを叩いて、その手をすっと頭の頂上まで滑らせるのがクセであった。そのためかどうか、おでこの上部が薄くなって、かなり上の頭頂部まで禿げ上がっていた。
 子供の自分にはそのおでこを叩く仕草が面白く、わざと人目に見えるように真似をしては家族を笑わせたものだった。この叔父さんは生野区巽町に住んで居たので、家族はみな伊加賀(巽町にある一部地域の名前)の叔父さんと呼んでいた。この叔父さんの住んでいた場所は、今はすっかり市街地になっているが、当時は田圃の中の広い敷地のお宅であった。
 そのお宅へ母に連れられて訪問したことがあった。市バス終点今里まではバスに乗り、そこからタクシーに乗り変えたように思う。今から思うと、伊加賀へ行くのに何故タクシーかと思うが、勿論、交通の便が良くなかったからである。ただし、現在のような四輪のスマートな自動車ではない。
 この頃、町の大衆タクシーはダイハツの小型三輪トラックをタクシーに改造したものであった。乗り心地は、按摩機に身体全体を預けたようなもので、関節という関節がバイブレーションで完全に緩んでしまうような代物であった。そのすさまじい振動と騒音は経験してみないと分からない。尻や背中がこそばゆくてじっと座っていることが出来なかったし、また、車の中の会話など思いもよらなかった。だだだっだ、がたがたがたと、乗車中は人間であることを放棄して荷物に成りきらざるを得ないような感じであった。
 しかし、ハンドルは生意気にも円ハンドルであった。当初の小型三輪トラックはバイクのように両手で両端を握るハンドルであったが、少しでも人様を運ぶタクシーらしく見せるために、タクシー用に円ハンドルに設計変更したのであろう。また、運転手席と乗客の席は仕切壁でセパレートされていて、小さな窓を通してしか運転手に声をかけることができなかった。格好よく言えば、ロンドンやニューヨークのタクシーの客室のような感じであった。日本の復興とともに、いつのまにかこの三輪タクシーも姿を消したが、思い出せばなつかしい日本の省エネ発明の一つであった。
 ついでに車のことをもう少し書いておく。
 戦後暫く、木炭車なるものが走っていた。多分、市バスであると思うが大型の自動車の最後部に炭俵を積んで走っていた。運転手が時々降りてきては、木炭を燃焼室に放り込んでいた。その時、同時に、燃え残りの殻を掻き出して道路上に捨てていくので、道路のあちらこちらに燃滓の灰や石炭殻が落ちていた。時間的に、木炭自動車の方が先だったのか、石炭自動車の方が先だったのかよく分からない。両方の燃料を同時に使っていた可能性もある。また自動車というものは絶えずエンストを起こしたので、運転手たるものは、そのたびに車の前に回って手回しの道具を使ってブルンブルンと言わせながら、エンジンをかける汗を流したものだ。
 乗用車と言えば、戦後は何年にもわたって殆ど日本製の車がなかった。日本製はせいぜいトラックかバスなど大型の車に限られていた。走っている乗用車はほとんどなかったが、あってもそれは圧倒的にアメリカ車であった。フォード、ビュイック、シボレーなど、すべてが高級車に見えた。アメリカ車は他にも沢山の種類があったらしく、記憶力が良く、裕福な友人、特に3年生の同級生であった文田雄作君などは、遠くからちらっと車形を見ただけで、その種類を言い当てることが出来た。自分には、そのような趣味がなかったのか、全く興味が湧かず、ただただ、文田君の格好の良さに恐れおののくだけであった。自分の判別できた車はトラックの「日野」と「ふそう」くらいであり、しかも車の前に回ってマークの中の文字を見て、初めて自動車の車名を言うことが出来た。(この項は一部、昭和23年以降の話が混在している)