健康は貴重である
失って初めてそれを知る
だが健康でないからと言って
絶対に不幸であるとは言わせぬ
なぜなら
すべての人が時に健康でない時がある
また病気のまま一生の大半を過ごす人がある
健康でなければ幸せでないとなれば悲しいかぎりだ
もちろん不幸な病人は居る
だが幸福な病人も居る
病気と幸福とは矛盾するものではない
病気の目的とは何か?
病気の原因となっている精神的要素は何か?
それを封じる手立ては何か?
それらを思考する過程で
より強い自己が確立できるのではないか?
病気にも目的があると思え!
その目的を意識すれば
病気にも利点があることに気付かされる


失って初めてそれを知る
だが健康でないからと言って
絶対に不幸であるとは言わせぬ
なぜなら
すべての人が時に健康でない時がある
また病気のまま一生の大半を過ごす人がある
健康でなければ幸せでないとなれば悲しいかぎりだ
もちろん不幸な病人は居る
だが幸福な病人も居る
病気と幸福とは矛盾するものではない
病気の目的とは何か?
病気の原因となっている精神的要素は何か?
それを封じる手立ては何か?
それらを思考する過程で
より強い自己が確立できるのではないか?
病気にも目的があると思え!
その目的を意識すれば
病気にも利点があることに気付かされる



それが判るようになってきている。
昨日、雨中、正倉院展を観てから、美しいが小さな品々よりも、巨大な力強い仁王像が無性に見たくなって南大門に行って参りました。
運慶が快慶らとこの阿吽二像を彫ったのが1203年、69日を要したのみでした・・・かのミケランジェロが活躍する300年も前であった。そんな強い思いを、改めて感じたのでした。
それら人間関係の錯綜の中、それでも常に何らかの相対的な意味付けを追い求めようとせざるを得ない・・・その様なお互いの精神的活力の在り方が、既往の人生を自ら反映させつつ「老病死」を生かす・・・ことにも繋がるのでしょうか?
何においても対的な意味や目的など考えられませんが、理解の奥行きが深まるというか、今まで感じなかったものを感じるようになります。これを経験とか年の功というのでしょうか?般若心経の本意の理解や悟りの境地にはとても達することは出来ませんが、時々部分的に胸の奥で何か分ったような気がすることがあります。
病気になると周囲の人に迷惑をかけ、やりたいこともできなくなるし、自分を不幸と思い、時に気が滅入ってくることもある。
しかし病気はネガテイブな面ばかりだろうか。人間誰しも病気を避けられないのであれば病気にもプラス面があるのではないだろうか。でなければ病気はあまりにも悲しいことである。
健康な時は頭でしか理解していなかったことが病気になって初めて心から理解できることがあると思う。
卑近な話、駅や病院にあるエスカレーターやエレベーター。
健康な時はただ便利だなと思うだけだった。
混んでいれば階段を歩いて上ればいい。しかし階段を昇ることが出来ない体の弱い人やハンデイキャップを持っている人にとってはエスカレーターやエレベーターはただ便利というだけでなく、なくてはならない必需品なのだ。今の小生にとってはエレベーターやエスカレーターなしでは病院に行くことも出来ない。
また人の痛み(心の痛みも含め)は病気を経験して初めて心からわかるのではないだろうか。
もちろん健康な人でも心からわかる人もいる。しかし大病を経験した人や大病と闘っている人はよりわかるのではと思っています。
5年近くにわたる闘病生活を通して自分なりに病気から何かしら学ぼうと思ってきたことです。
健康を取り戻した暁には少しでも健康な時よりもいろいろなことが単に頭だけではなく心からもわかる人間になれるよう、病と過ごしています。
私は自分が死ぬことに何も恐れては居ません。人間生まれたからには、全ての人が平等にその苦しみを共有させられているのですから。しかしながら、愛する人々との永遠の別れが最もかなしいように感じます。愛別離苦の苦です。欲しい物が手に入らぬ(求不得苦)などは論外の苦です。
病気になって、逆に健康時より強くなる部分がある。今まで気付かなかったことにも気付く。私も同感です。弓太郎さんは昔から強く正しい人でした。病気になっても変わらない。流石に弓太郎さんだと思います。
“ 遠山に 日の当りたる 枯野かな ”(虚子)
意識が遠山の果てを超えて 何処までも拡がり、世界と一つになって結びつく境地 ~ これは脱我の一句です。
では、愛別離苦の対手のことは?心配ご無用。
きっと貴方の対手の中に多くのものが生きる~例えば、数々の想い出や感謝~~そして、それらの形作る世界が意識の果てを超えて、何処までも拡がり、あるいは引き継がれて行くものと疑わない。
いじめの標的にされた男女生徒の“ヘヴン”を夢見ながらの秘かな交流及び 加害生徒らに知られて大雨の公園で突き付けられた難題 ・・・ それに各々がどの様に立ち向い又は乗り越えようとし、結局、二人の何れが何れを救って“ヘヴン”に向って行ったのか・・・。これは 誠に哀切な物語でした。しかし,しかしながら・・・。