日暮れて道遠し。突然の幕引きがあっても、まだ生きている現実は変わらない。しかも、後何年生きるか。皆平等に分らないのだから、何も騒ぐこともない。これからの人生においても、それなりに何らかの生甲斐が必要かと思うが、慌てずに、ぼちぼちと行くしかない。
ところで、慌てずにぼちぼち行った人の代表に越後の「良寛さん」が居た。良寛さんがどのような生活を送ったのか、2、3冊本を読んで調べてみた。良寛は、詩作や和歌、墨書に優れ、人々の尊敬を集めていたが、老いてからは、特に、積極的に修行するわけでなく、ただ淡々と生きて行った。生きていること自体が、既に悟りそのものであったから、何もわざわざ意識して道を求めることもなかった。無欲で、恬淡として、自然に生きた。趣味といえば、詩作や和歌の文芸の創作であったが、自身は働かず、すべて乞食の寄生生活であった。
だが、凡夫には、全然、参考にならないのである。人生、何もあくせくしなくとも良い。スローライフもまた楽しからずやの世界である。自分にはとても真似のできない世界であるが、70%くらいは、いやでも真似をしたような生活になっていくのであろう。
自分は、5年ほど前から、哲学としての般若心経に関心をもっている。暇さえあれば、般若心経の解説本を手にして読んでいる。しかしながら、一向に分ったという状態にならない。5年前に以下のような読後感を書いたことがある。
「生きて死ぬ智慧」と言う本を読んだ
複雑な心境だ 全く分らなくなった それは「般若心経」の世界だった
年ならば そろそろ 悟りを開かねばならんが 65歳の若造ではムリだ
まだまだ 娑婆の色香を嗅ぎ 欲しいものがあり したいことがある
ところで みんなは「般若心経」の世界が分るかね?
「無受想行識」(むじゅそうぎょうしき)とは何か分るかね?
それは 形もなく 感覚もなく 意志もなく 知識もない ことだ
「無眼耳鼻舌身意」(むげんにびぜっしんい)とは何か分るかね?
それは 眼もなく 耳もなく 鼻もなく 舌もなく 身体もなく 心もない ことだ
「無色声香味触法」(むしきしょうこうみそくほう)とは何か分るかね?
それは 形もなく 声もなく 香りもなく 触覚もなく 心の対象もない ことだ
これだけ言って この「般若心経」の世界が分るかね?
分らなければ もう一度言って聞かせよう
世界とは 実体がない 物質的存在もない 感覚もない 感じた概念を構成する働きもない
意志もない 知識もない そういう世界だ 「空」の世界だ 「無」の世界だ
生きて死ぬまで 何もない 痛くもない 痒くもない
苦しみもない 悲しみもない 喜びもない 幸せもない
老いもない 死ぬこともない 恐れることは何もない
すべてが硝子のように透き通った 実体があるのに実体のない世界だ
「色即是空」を悟らず 「空即是色」を悟らず 色と物の世界に身をゆだねる者よ
汝は永遠に 煩悩の世界から 抜け出すことが出来ぬ
悟るものよ 悟るものよ 真理を悟るものよ 幸いなれ
彼岸に行くものよ 幸いあれ これがどうも結論だ
ところで みんなはこの世界のことが分ったかね?
オレには難しすぎてよく分らんが 分らんお陰で幸せを感じて生きている
達成感 充実感 満足感 自己実現 これらが幸せの源泉だ
没頭して 時間を忘れて やったことが残る これが幸せの源泉だ
しんどい 辛い 苦しい 疲れた... 副産物はあるかもしれんが
じっとして 何もせぬより 何かして 何かがあれば それが生甲斐だ
成果など なくてもよいと思うときがある その実現のプロセスが尊いのだと思う
とは言っても 「65歳の抵抗」 そんなことして何になるか と思うときがある
もうそろそろ年ではないか と思うときがある
疲れたね みんな休んでいるから オマエも休んだら と思うときがある
そんなときがあるから それが原因で悩んでいるときがある
しかし 明日の予定があり 今日はそれを済ませて
1日の充実を感じて やったぜ 今日も幸せだ と思う日々は幸せだ
「菩提薩埵」(ぼだいさった)であることは 後で考えよう
「究竟涅槃」(くきょうねはん)の境地は まだまだ先だ
オレの幸せは 衆生(しゅじょう)の中で呻吟して 分らんことに悪びれず
無理せず 背伸びせず 正直に まっ直ぐに 生きること ただそれだけのことだ
オレは難しいことは分らんがそれで良い オレは何も出来んがそれで良い
オレはオレなりに ぼちぼちゆるりと慌てずに
年を取ったからとて 遠慮しないで 胸張って 勝ちもせず 負けもせず
精一杯の人生を続けるだけのことよ
※「生きて死ぬ智慧」;柳澤桂子・堀文子、小学館(2004)
残念なことに、このときの感想は、そのまま現在の感想でもある。5年経っても全く進歩していない。だが、なぜか自分の関心を引き寄せる。少なくとも、西洋の哲学よりも感覚的に近いところにある。
般若心経は難しすぎる
これを何とか理解したい
心経は言う
見えるものに実在なく
すべてが空であるという
これが分れば
世界のすべてが理解できる
人生のすべてが理解できる
長年の疑問が氷解する
だがいくら考えても分らない
色即是空 空即是色
色不異空 空不異色
分ったようで分らない
般若心経の世界が真実なら
そしてすべてが空というなら
真実もまた空であり
般若心経自体もまた空とはならぬか
クレタ人はうそつきだと言ったクレタ人
そのクレタ人の言うことが信じられるか
般若心経も同じでないか
真実であり嘘ではない
観自在菩薩は真実不嘘と仰るが
嘘と思っていない
何も疑っていない
ただ真実を理解したいだけだ
だが分らない
考えても考えても分らない
常ならぬ変化の世界に生きて
変ることのない真実を求めることって
自己矛盾でないか
すべてが空であると心経が断ずれば
心経自体が空でないとなぜ言えるか
堂々巡りの乏しい思考で考える
修行もへったくれもない人間が
未熟な脳ミソを振り絞って考える
だが分らぬものは分らない
このようにして
一日また一日と無明を生きて一生を終えるとき
最期の言葉は
やっぱり分らなかったと白状するか
そんな先が見え見えだけど
それはそれで宜しいのではないか
水と空気とエネルギーで生きている人間である限り
人が色(しき)なる肉体をもつ存在である限り
色即是空を是と断ずれば我が肉体を空と断ずるに同じ
それは生きることすら空であると言うに等しい
般若心経の世界
いくら考えても分らない
どうやら解のない方程式のようなものだから
一番弟子の舎利子ですら説教を受けている身だから
凡夫はありのままを白状しよう
やっぱり無も空も分らんと
だが生きてまだ余命がある身なれば
とりあえずはそれで宜しいのではないかとしておこう
だがここで一段レベルを上げてみよう
生きて余命がある身という考え方自体がおかしいと思え
色身が既に空であることを悟れ
空である色身は元々生じもせず滅しもしていない
色身は元々生じていない
だから生きているはずがない
だから死にもしない
だから生きている身を意識する限り永久に分るはずがない
生も死も超越した無の世界
それが心経の世界
生身の身をもつ限り悟ることあたわざる世界
ゼロが何であるか
無限大が何であるか
それすら分らぬ身が生きて
心経を理解しようとすること自体がおこがましい
だからやっぱり
とりあえずはそれで宜しいとしておくしかない
これからの人生。どのくらいの暇な時間があるのか分らない。ひょっとすると100%暇な時間となるかもしれない。暇なら暇で、かつ精神的な余裕が残っておれば、般若心経の世界にもっと首を突っ込んで、頭をひねってみるのも良いことかも知れない。
それにしても、最近は知人・友人の訃報が多い。自分もそのような年になって、情報に敏感になっているだけのことかも知れない。
この年になると
毎月のように
知人友人が亡くなる
人間は生まれるときと同じく
死ぬときも何ともならぬらしい
自分では選べぬものらしい
自分の身体とはいえ
生老病死のすべてにおいて
思うようにならないものらしい
長生きしたいと思っても死ぬときは死ぬ
病気だけはならないぞと思ってもなるときはなる
死にたいと思っても好きなときに死ねない
すべてにおいて仏様にお任せするしかない
本当に自分の身体は自分のものではない
わが身はご縁によって
この世に生かされているというだけのこと
この年になって
やっと知る
自分が自分の力で生きているように思っていても、実は色々な縁で生かされているだけのこと。老いてくれば、あまり我を張らず、すべてを仏様にお任せして、ゆっくりとストレスのない状態を維持することも必要だ。
ところで、することが一杯あるときには、長生きも良い。しかし、何もやることがなくて、しかも苦しいことばかりの長生きとなれば、必ずしも良い話とは言えない。ひょっとすると、自分は必要以上の長生きは望んでいないかもしれない。死ぬということに、あまり強い恐れがないような気もする。
人は死んだら何処へ行くのかね
焼き場で焼かれて炭酸ガスと水蒸気になるんだって
ところで生まれる前は何だったんかね
やっぱり炭酸ガスと水蒸気ってとこかな
炭酸ガスと水蒸気が寄り集まって今の身体が出来てるんだからね
生まれる前も地球上の何処かに在ったことは間違いない
お釈迦様の言葉にもあるだろ
是諸法空相、不生不滅、不増不減ってのがね
すべてのものごとは空と言って 実体がない
だから 生まれもしなけりゃ 滅することもない
増えもしなけりゃ 減りもせんとね
炭酸ガスも水蒸気も空気の成分だから
人は生まれる前も死んでからも空気ってことだね
ところで 千の風って歌
あの歌 結構 いい線いってるよ
風とは空気の動きのことだから
死んで千の風になるってまんざらウソじゃないみたい
そして 私は死んでなんかいませんって
お墓の前で泣いてもしようがないとかと言ってる
生きてる者みんな例外なく死ぬんだし
死んだらみんな同じ風になって混ざってしまうんだからね
死ぬってことなんかちっとも怖くない
生まれる前と結局同じって思えば気も楽だ
きみひとりだけのことじゃないよ
みんな一緒だからね
泰然自若としてりゃそれでいいってことだ
生きてる間のそんな心配 仏様にお任せしといたらいいんだよ
死んだらそれで終わって無になるってことじゃないんだから
みんな同じ風になって世界中好き放題遊びまわってりゃいいだけさ
みんな永遠に地球上の何処かに居るってことだからね
結局 生まれる前も死んでからもずっと千の風だってこと
まあ あまり難しく考えてもしようがないけど
せめて 生きてる間は みんな助け合って仲良くしていたいもんだね
だって 死んだらみんな混ざって一緒になってしまうんだから
いつ死ぬかは、誰にも分からない。親しい人との別れは悲しいことであるが、別れの瞬間は、あっさりと淡白でありたい。もし余裕があれば、下記のいずれかの言葉を発して、さらりと別れていきたい。
「一生懸命に生きたね」
「満足しているよ」
「平和な気分だ」
「良い人生だったよ」
「これでよい(Es ist gut)」
「じゃあ、先に、行って来るよ」
ただ、別れた後の時間は、残された人々にとっては、辛い悲しい長い時間になるかもしれない。死んでいく者はよい。別れの悲しさは残された人々だけの問題である。このことについては、あまり軽々しく論じたくはない。


ところで、慌てずにぼちぼち行った人の代表に越後の「良寛さん」が居た。良寛さんがどのような生活を送ったのか、2、3冊本を読んで調べてみた。良寛は、詩作や和歌、墨書に優れ、人々の尊敬を集めていたが、老いてからは、特に、積極的に修行するわけでなく、ただ淡々と生きて行った。生きていること自体が、既に悟りそのものであったから、何もわざわざ意識して道を求めることもなかった。無欲で、恬淡として、自然に生きた。趣味といえば、詩作や和歌の文芸の創作であったが、自身は働かず、すべて乞食の寄生生活であった。
だが、凡夫には、全然、参考にならないのである。人生、何もあくせくしなくとも良い。スローライフもまた楽しからずやの世界である。自分にはとても真似のできない世界であるが、70%くらいは、いやでも真似をしたような生活になっていくのであろう。
自分は、5年ほど前から、哲学としての般若心経に関心をもっている。暇さえあれば、般若心経の解説本を手にして読んでいる。しかしながら、一向に分ったという状態にならない。5年前に以下のような読後感を書いたことがある。
「生きて死ぬ智慧」と言う本を読んだ
複雑な心境だ 全く分らなくなった それは「般若心経」の世界だった
年ならば そろそろ 悟りを開かねばならんが 65歳の若造ではムリだ
まだまだ 娑婆の色香を嗅ぎ 欲しいものがあり したいことがある
ところで みんなは「般若心経」の世界が分るかね?
「無受想行識」(むじゅそうぎょうしき)とは何か分るかね?
それは 形もなく 感覚もなく 意志もなく 知識もない ことだ
「無眼耳鼻舌身意」(むげんにびぜっしんい)とは何か分るかね?
それは 眼もなく 耳もなく 鼻もなく 舌もなく 身体もなく 心もない ことだ
「無色声香味触法」(むしきしょうこうみそくほう)とは何か分るかね?
それは 形もなく 声もなく 香りもなく 触覚もなく 心の対象もない ことだ
これだけ言って この「般若心経」の世界が分るかね?
分らなければ もう一度言って聞かせよう
世界とは 実体がない 物質的存在もない 感覚もない 感じた概念を構成する働きもない
意志もない 知識もない そういう世界だ 「空」の世界だ 「無」の世界だ
生きて死ぬまで 何もない 痛くもない 痒くもない
苦しみもない 悲しみもない 喜びもない 幸せもない
老いもない 死ぬこともない 恐れることは何もない
すべてが硝子のように透き通った 実体があるのに実体のない世界だ
「色即是空」を悟らず 「空即是色」を悟らず 色と物の世界に身をゆだねる者よ
汝は永遠に 煩悩の世界から 抜け出すことが出来ぬ
悟るものよ 悟るものよ 真理を悟るものよ 幸いなれ
彼岸に行くものよ 幸いあれ これがどうも結論だ
ところで みんなはこの世界のことが分ったかね?
オレには難しすぎてよく分らんが 分らんお陰で幸せを感じて生きている
達成感 充実感 満足感 自己実現 これらが幸せの源泉だ
没頭して 時間を忘れて やったことが残る これが幸せの源泉だ
しんどい 辛い 苦しい 疲れた... 副産物はあるかもしれんが
じっとして 何もせぬより 何かして 何かがあれば それが生甲斐だ
成果など なくてもよいと思うときがある その実現のプロセスが尊いのだと思う
とは言っても 「65歳の抵抗」 そんなことして何になるか と思うときがある
もうそろそろ年ではないか と思うときがある
疲れたね みんな休んでいるから オマエも休んだら と思うときがある
そんなときがあるから それが原因で悩んでいるときがある
しかし 明日の予定があり 今日はそれを済ませて
1日の充実を感じて やったぜ 今日も幸せだ と思う日々は幸せだ
「菩提薩埵」(ぼだいさった)であることは 後で考えよう
「究竟涅槃」(くきょうねはん)の境地は まだまだ先だ
オレの幸せは 衆生(しゅじょう)の中で呻吟して 分らんことに悪びれず
無理せず 背伸びせず 正直に まっ直ぐに 生きること ただそれだけのことだ
オレは難しいことは分らんがそれで良い オレは何も出来んがそれで良い
オレはオレなりに ぼちぼちゆるりと慌てずに
年を取ったからとて 遠慮しないで 胸張って 勝ちもせず 負けもせず
精一杯の人生を続けるだけのことよ
※「生きて死ぬ智慧」;柳澤桂子・堀文子、小学館(2004)
残念なことに、このときの感想は、そのまま現在の感想でもある。5年経っても全く進歩していない。だが、なぜか自分の関心を引き寄せる。少なくとも、西洋の哲学よりも感覚的に近いところにある。
般若心経は難しすぎる
これを何とか理解したい
心経は言う
見えるものに実在なく
すべてが空であるという
これが分れば
世界のすべてが理解できる
人生のすべてが理解できる
長年の疑問が氷解する
だがいくら考えても分らない
色即是空 空即是色
色不異空 空不異色
分ったようで分らない
般若心経の世界が真実なら
そしてすべてが空というなら
真実もまた空であり
般若心経自体もまた空とはならぬか
クレタ人はうそつきだと言ったクレタ人
そのクレタ人の言うことが信じられるか
般若心経も同じでないか
真実であり嘘ではない
観自在菩薩は真実不嘘と仰るが
嘘と思っていない
何も疑っていない
ただ真実を理解したいだけだ
だが分らない
考えても考えても分らない
常ならぬ変化の世界に生きて
変ることのない真実を求めることって
自己矛盾でないか
すべてが空であると心経が断ずれば
心経自体が空でないとなぜ言えるか
堂々巡りの乏しい思考で考える
修行もへったくれもない人間が
未熟な脳ミソを振り絞って考える
だが分らぬものは分らない
このようにして
一日また一日と無明を生きて一生を終えるとき
最期の言葉は
やっぱり分らなかったと白状するか
そんな先が見え見えだけど
それはそれで宜しいのではないか
水と空気とエネルギーで生きている人間である限り
人が色(しき)なる肉体をもつ存在である限り
色即是空を是と断ずれば我が肉体を空と断ずるに同じ
それは生きることすら空であると言うに等しい
般若心経の世界
いくら考えても分らない
どうやら解のない方程式のようなものだから
一番弟子の舎利子ですら説教を受けている身だから
凡夫はありのままを白状しよう
やっぱり無も空も分らんと
だが生きてまだ余命がある身なれば
とりあえずはそれで宜しいのではないかとしておこう
だがここで一段レベルを上げてみよう
生きて余命がある身という考え方自体がおかしいと思え
色身が既に空であることを悟れ
空である色身は元々生じもせず滅しもしていない
色身は元々生じていない
だから生きているはずがない
だから死にもしない
だから生きている身を意識する限り永久に分るはずがない
生も死も超越した無の世界
それが心経の世界
生身の身をもつ限り悟ることあたわざる世界
ゼロが何であるか
無限大が何であるか
それすら分らぬ身が生きて
心経を理解しようとすること自体がおこがましい
だからやっぱり
とりあえずはそれで宜しいとしておくしかない
これからの人生。どのくらいの暇な時間があるのか分らない。ひょっとすると100%暇な時間となるかもしれない。暇なら暇で、かつ精神的な余裕が残っておれば、般若心経の世界にもっと首を突っ込んで、頭をひねってみるのも良いことかも知れない。
それにしても、最近は知人・友人の訃報が多い。自分もそのような年になって、情報に敏感になっているだけのことかも知れない。
この年になると
毎月のように
知人友人が亡くなる
人間は生まれるときと同じく
死ぬときも何ともならぬらしい
自分では選べぬものらしい
自分の身体とはいえ
生老病死のすべてにおいて
思うようにならないものらしい
長生きしたいと思っても死ぬときは死ぬ
病気だけはならないぞと思ってもなるときはなる
死にたいと思っても好きなときに死ねない
すべてにおいて仏様にお任せするしかない
本当に自分の身体は自分のものではない
わが身はご縁によって
この世に生かされているというだけのこと
この年になって
やっと知る
自分が自分の力で生きているように思っていても、実は色々な縁で生かされているだけのこと。老いてくれば、あまり我を張らず、すべてを仏様にお任せして、ゆっくりとストレスのない状態を維持することも必要だ。
ところで、することが一杯あるときには、長生きも良い。しかし、何もやることがなくて、しかも苦しいことばかりの長生きとなれば、必ずしも良い話とは言えない。ひょっとすると、自分は必要以上の長生きは望んでいないかもしれない。死ぬということに、あまり強い恐れがないような気もする。
人は死んだら何処へ行くのかね
焼き場で焼かれて炭酸ガスと水蒸気になるんだって
ところで生まれる前は何だったんかね
やっぱり炭酸ガスと水蒸気ってとこかな
炭酸ガスと水蒸気が寄り集まって今の身体が出来てるんだからね
生まれる前も地球上の何処かに在ったことは間違いない
お釈迦様の言葉にもあるだろ
是諸法空相、不生不滅、不増不減ってのがね
すべてのものごとは空と言って 実体がない
だから 生まれもしなけりゃ 滅することもない
増えもしなけりゃ 減りもせんとね
炭酸ガスも水蒸気も空気の成分だから
人は生まれる前も死んでからも空気ってことだね
ところで 千の風って歌
あの歌 結構 いい線いってるよ
風とは空気の動きのことだから
死んで千の風になるってまんざらウソじゃないみたい
そして 私は死んでなんかいませんって
お墓の前で泣いてもしようがないとかと言ってる
生きてる者みんな例外なく死ぬんだし
死んだらみんな同じ風になって混ざってしまうんだからね
死ぬってことなんかちっとも怖くない
生まれる前と結局同じって思えば気も楽だ
きみひとりだけのことじゃないよ
みんな一緒だからね
泰然自若としてりゃそれでいいってことだ
生きてる間のそんな心配 仏様にお任せしといたらいいんだよ
死んだらそれで終わって無になるってことじゃないんだから
みんな同じ風になって世界中好き放題遊びまわってりゃいいだけさ
みんな永遠に地球上の何処かに居るってことだからね
結局 生まれる前も死んでからもずっと千の風だってこと
まあ あまり難しく考えてもしようがないけど
せめて 生きてる間は みんな助け合って仲良くしていたいもんだね
だって 死んだらみんな混ざって一緒になってしまうんだから
いつ死ぬかは、誰にも分からない。親しい人との別れは悲しいことであるが、別れの瞬間は、あっさりと淡白でありたい。もし余裕があれば、下記のいずれかの言葉を発して、さらりと別れていきたい。
「一生懸命に生きたね」
「満足しているよ」
「平和な気分だ」
「良い人生だったよ」
「これでよい(Es ist gut)」
「じゃあ、先に、行って来るよ」
ただ、別れた後の時間は、残された人々にとっては、辛い悲しい長い時間になるかもしれない。死んでいく者はよい。別れの悲しさは残された人々だけの問題である。このことについては、あまり軽々しく論じたくはない。


