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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第392話<最終回>「これからのこと」(平成15年~21年)

2009-04-05 | 昔の思い出話
 日暮れて道遠し。突然の幕引きがあっても、まだ生きている現実は変わらない。しかも、後何年生きるか。皆平等に分らないのだから、何も騒ぐこともない。これからの人生においても、それなりに何らかの生甲斐が必要かと思うが、慌てずに、ぼちぼちと行くしかない。
 ところで、慌てずにぼちぼち行った人の代表に越後の「良寛さん」が居た。良寛さんがどのような生活を送ったのか、2、3冊本を読んで調べてみた。良寛は、詩作や和歌、墨書に優れ、人々の尊敬を集めていたが、老いてからは、特に、積極的に修行するわけでなく、ただ淡々と生きて行った。生きていること自体が、既に悟りそのものであったから、何もわざわざ意識して道を求めることもなかった。無欲で、恬淡として、自然に生きた。趣味といえば、詩作や和歌の文芸の創作であったが、自身は働かず、すべて乞食の寄生生活であった。
 だが、凡夫には、全然、参考にならないのである。人生、何もあくせくしなくとも良い。スローライフもまた楽しからずやの世界である。自分にはとても真似のできない世界であるが、70%くらいは、いやでも真似をしたような生活になっていくのであろう。

 自分は、5年ほど前から、哲学としての般若心経に関心をもっている。暇さえあれば、般若心経の解説本を手にして読んでいる。しかしながら、一向に分ったという状態にならない。5年前に以下のような読後感を書いたことがある。

「生きて死ぬ智慧」と言う本を読んだ
複雑な心境だ 全く分らなくなった それは「般若心経」の世界だった
年ならば そろそろ 悟りを開かねばならんが 65歳の若造ではムリだ
まだまだ 娑婆の色香を嗅ぎ 欲しいものがあり したいことがある

ところで みんなは「般若心経」の世界が分るかね?
「無受想行識」(むじゅそうぎょうしき)とは何か分るかね?
それは 形もなく 感覚もなく 意志もなく 知識もない ことだ
「無眼耳鼻舌身意」(むげんにびぜっしんい)とは何か分るかね?
それは 眼もなく 耳もなく 鼻もなく 舌もなく 身体もなく 心もない ことだ
「無色声香味触法」(むしきしょうこうみそくほう)とは何か分るかね?
それは 形もなく 声もなく 香りもなく 触覚もなく 心の対象もない ことだ

これだけ言って この「般若心経」の世界が分るかね?
分らなければ もう一度言って聞かせよう
世界とは 実体がない 物質的存在もない 感覚もない 感じた概念を構成する働きもない
意志もない 知識もない そういう世界だ 「空」の世界だ 「無」の世界だ
生きて死ぬまで 何もない 痛くもない 痒くもない
苦しみもない 悲しみもない 喜びもない 幸せもない
老いもない 死ぬこともない 恐れることは何もない
すべてが硝子のように透き通った 実体があるのに実体のない世界だ

「色即是空」を悟らず 「空即是色」を悟らず 色と物の世界に身をゆだねる者よ
汝は永遠に 煩悩の世界から 抜け出すことが出来ぬ
悟るものよ 悟るものよ 真理を悟るものよ 幸いなれ
彼岸に行くものよ 幸いあれ これがどうも結論だ

ところで みんなはこの世界のことが分ったかね?
オレには難しすぎてよく分らんが 分らんお陰で幸せを感じて生きている
達成感 充実感 満足感 自己実現 これらが幸せの源泉だ
没頭して 時間を忘れて やったことが残る これが幸せの源泉だ
しんどい 辛い 苦しい 疲れた... 副産物はあるかもしれんが
じっとして 何もせぬより 何かして 何かがあれば それが生甲斐だ
成果など なくてもよいと思うときがある その実現のプロセスが尊いのだと思う

とは言っても 「65歳の抵抗」 そんなことして何になるか と思うときがある
もうそろそろ年ではないか と思うときがある
疲れたね みんな休んでいるから オマエも休んだら と思うときがある
そんなときがあるから それが原因で悩んでいるときがある
しかし 明日の予定があり 今日はそれを済ませて 
1日の充実を感じて やったぜ 今日も幸せだ と思う日々は幸せだ

「菩提薩埵」(ぼだいさった)であることは 後で考えよう
「究竟涅槃」(くきょうねはん)の境地は まだまだ先だ
オレの幸せは 衆生(しゅじょう)の中で呻吟して 分らんことに悪びれず
無理せず 背伸びせず 正直に まっ直ぐに 生きること ただそれだけのことだ 

オレは難しいことは分らんがそれで良い オレは何も出来んがそれで良い
オレはオレなりに ぼちぼちゆるりと慌てずに
年を取ったからとて 遠慮しないで 胸張って 勝ちもせず 負けもせず
精一杯の人生を続けるだけのことよ

※「生きて死ぬ智慧」;柳澤桂子・堀文子、小学館(2004)


 残念なことに、このときの感想は、そのまま現在の感想でもある。5年経っても全く進歩していない。だが、なぜか自分の関心を引き寄せる。少なくとも、西洋の哲学よりも感覚的に近いところにある。

般若心経は難しすぎる
これを何とか理解したい
心経は言う
見えるものに実在なく
すべてが空であるという
これが分れば
世界のすべてが理解できる
人生のすべてが理解できる
長年の疑問が氷解する
だがいくら考えても分らない
色即是空 空即是色
色不異空 空不異色
分ったようで分らない
般若心経の世界が真実なら
そしてすべてが空というなら
真実もまた空であり
般若心経自体もまた空とはならぬか
クレタ人はうそつきだと言ったクレタ人
そのクレタ人の言うことが信じられるか
般若心経も同じでないか
真実であり嘘ではない
観自在菩薩は真実不嘘と仰るが
嘘と思っていない
何も疑っていない
ただ真実を理解したいだけだ
だが分らない
考えても考えても分らない
常ならぬ変化の世界に生きて
変ることのない真実を求めることって
自己矛盾でないか
すべてが空であると心経が断ずれば
心経自体が空でないとなぜ言えるか
堂々巡りの乏しい思考で考える
修行もへったくれもない人間が
未熟な脳ミソを振り絞って考える
だが分らぬものは分らない
このようにして
一日また一日と無明を生きて一生を終えるとき
最期の言葉は
やっぱり分らなかったと白状するか
そんな先が見え見えだけど
それはそれで宜しいのではないか
水と空気とエネルギーで生きている人間である限り
人が色(しき)なる肉体をもつ存在である限り
色即是空を是と断ずれば我が肉体を空と断ずるに同じ
それは生きることすら空であると言うに等しい
般若心経の世界
いくら考えても分らない
どうやら解のない方程式のようなものだから
一番弟子の舎利子ですら説教を受けている身だから
凡夫はありのままを白状しよう
やっぱり無も空も分らんと
だが生きてまだ余命がある身なれば
とりあえずはそれで宜しいのではないかとしておこう
だがここで一段レベルを上げてみよう
生きて余命がある身という考え方自体がおかしいと思え
色身が既に空であることを悟れ
空である色身は元々生じもせず滅しもしていない
色身は元々生じていない
だから生きているはずがない
だから死にもしない
だから生きている身を意識する限り永久に分るはずがない
生も死も超越した無の世界
それが心経の世界
生身の身をもつ限り悟ることあたわざる世界
ゼロが何であるか
無限大が何であるか
それすら分らぬ身が生きて
心経を理解しようとすること自体がおこがましい
だからやっぱり
とりあえずはそれで宜しいとしておくしかない

 これからの人生。どのくらいの暇な時間があるのか分らない。ひょっとすると100%暇な時間となるかもしれない。暇なら暇で、かつ精神的な余裕が残っておれば、般若心経の世界にもっと首を突っ込んで、頭をひねってみるのも良いことかも知れない。

 それにしても、最近は知人・友人の訃報が多い。自分もそのような年になって、情報に敏感になっているだけのことかも知れない。

この年になると
毎月のように
知人友人が亡くなる
人間は生まれるときと同じく
死ぬときも何ともならぬらしい
自分では選べぬものらしい
自分の身体とはいえ
生老病死のすべてにおいて
思うようにならないものらしい

長生きしたいと思っても死ぬときは死ぬ
病気だけはならないぞと思ってもなるときはなる
死にたいと思っても好きなときに死ねない
すべてにおいて仏様にお任せするしかない
本当に自分の身体は自分のものではない
わが身はご縁によって
この世に生かされているというだけのこと
この年になって 
やっと知る

 自分が自分の力で生きているように思っていても、実は色々な縁で生かされているだけのこと。老いてくれば、あまり我を張らず、すべてを仏様にお任せして、ゆっくりとストレスのない状態を維持することも必要だ。
 ところで、することが一杯あるときには、長生きも良い。しかし、何もやることがなくて、しかも苦しいことばかりの長生きとなれば、必ずしも良い話とは言えない。ひょっとすると、自分は必要以上の長生きは望んでいないかもしれない。死ぬということに、あまり強い恐れがないような気もする。

人は死んだら何処へ行くのかね
焼き場で焼かれて炭酸ガスと水蒸気になるんだって
ところで生まれる前は何だったんかね
やっぱり炭酸ガスと水蒸気ってとこかな
炭酸ガスと水蒸気が寄り集まって今の身体が出来てるんだからね
生まれる前も地球上の何処かに在ったことは間違いない
お釈迦様の言葉にもあるだろ
是諸法空相、不生不滅、不増不減ってのがね
すべてのものごとは空と言って 実体がない
だから 生まれもしなけりゃ 滅することもない
増えもしなけりゃ 減りもせんとね
炭酸ガスも水蒸気も空気の成分だから
人は生まれる前も死んでからも空気ってことだね
ところで 千の風って歌 
あの歌 結構 いい線いってるよ
風とは空気の動きのことだから
死んで千の風になるってまんざらウソじゃないみたい 
そして 私は死んでなんかいませんって
お墓の前で泣いてもしようがないとかと言ってる
生きてる者みんな例外なく死ぬんだし
死んだらみんな同じ風になって混ざってしまうんだからね
死ぬってことなんかちっとも怖くない
生まれる前と結局同じって思えば気も楽だ
きみひとりだけのことじゃないよ
みんな一緒だからね
泰然自若としてりゃそれでいいってことだ
生きてる間のそんな心配 仏様にお任せしといたらいいんだよ
死んだらそれで終わって無になるってことじゃないんだから
みんな同じ風になって世界中好き放題遊びまわってりゃいいだけさ
みんな永遠に地球上の何処かに居るってことだからね
結局 生まれる前も死んでからもずっと千の風だってこと
まあ あまり難しく考えてもしようがないけど
せめて 生きてる間は みんな助け合って仲良くしていたいもんだね
だって 死んだらみんな混ざって一緒になってしまうんだから

 いつ死ぬかは、誰にも分からない。親しい人との別れは悲しいことであるが、別れの瞬間は、あっさりと淡白でありたい。もし余裕があれば、下記のいずれかの言葉を発して、さらりと別れていきたい。

「一生懸命に生きたね」
「満足しているよ」
「平和な気分だ」
「良い人生だったよ」
「これでよい(Es ist gut)」
「じゃあ、先に、行って来るよ」

 ただ、別れた後の時間は、残された人々にとっては、辛い悲しい長い時間になるかもしれない。死んでいく者はよい。別れの悲しさは残された人々だけの問題である。このことについては、あまり軽々しく論じたくはない。


第391話「突然の幕引き」(平成15年~21年)

2009-04-04 | 昔の思い出話
 歌舞伎役者がクライマックスを経て花道を引き上げる。観衆のやんやの喝采を浴び、大見得を切りながら、ゆっくりと楽屋へと足を運んでいく。自分の、そのような幕引きを夢見ていたのに、何ということか。当の役者が演技している、その最中に、突然幕が下り始めたのである。呆然とする役者。自分史の芝居の終了を告げる、ことの顛末は、かくの如しだ。
 それは2008年9月中旬末のことであった。思いもかけない発病であった。見かけは突発的であるが、実際は10年近く潜在していた。その予兆と思われる背中痛や肩こりは10年来の持病となっていたからである。
 入院は9月下旬の土曜日であった。土曜日という普通の病院では休日の緊急入院であっる。黄疸が出て、医師の指示に従った。実は、自分はその直前の前日まで現場で仕事をしていた。直前の木曜、金曜の両日は、愛知県碧南市の会社へ、自身が審査リーダーを務める環境ISOの審査に行っていた。前日の夜遅く自宅に帰ったばかりであった。
 審査前日の夕刻は一人で碧南市に向かった。審査員は自分以外には1人だけであり、当日朝の現地集合としていたので、大阪からは一人旅であった。いつもならば、新大阪駅で先ず大ジョッキ一杯を飲んで新幹線に乗る。だが、この日はなぜか食欲がなかった。少し身体に熱があるような感じであった。名古屋駅で夕食の時間になったが、食欲無く、そのまま東海道線に乗り換えて、JR刈谷駅まで行った。刈谷で途中下車して、軽食のうどん屋に入った。うどんくらいしか食べる元気がなかった。いつもなら同時に飲むはずの瓶ビールや大ジョッキにも手が出なかった。
 碧南市のホテルへ入って、翌日の朝食のことを考えた。食欲皆無で、何も食べる気がしなかった。翌日の朝になれば、コンビニのオニギリ1個くらいなら食えるかと思った。ホテルのロビーで聞くと、直近のコンビニへは歩いて30分くらいかかるとのことであった。少し身体がだるく感じていたので、コンビニへはタクシーで行くことにした。コンビニでは120円のオニギリ1個を買っただけである。往復のタクシー代に1,500円掛かったので、オニギリのコストは、結局、タクシー代を含めて1,620円となった。
 翌日からの審査の仕事は夢中で過ごした。審査先の工場の現場や建物の階段の上り降りや、装置の下への潜り込みなど、色々歩き回ったが、現場での自覚では病気の感じはなく、何の苦痛も感じなかった。先方の経営者初め、事務局担当者とは、ごく普通の審査風景を演じていた。出された豪華な昼食も同席の会社担当者の手前、全部平らげた。しかし、夜ともなると、また食べる元気がなくなり、夕食を抜いた上、翌朝は、前日と同じく、タクシー代込みの1,620円のコンビニのオニギリで済ませた。2日目の夜は新大阪駅の立ち食いうどんを食べて帰った。食欲が無いとは言うものの、食べなければならぬという義務感から食べていただけであったが、自分が病気であることに全然気がつかなかった。
 夜、自宅のトイレで自分の排出する便が真っ白になっていることに気が付いた。このときになって初めて異常に気が付いた。翌日は朝一番に近所のK内科医院へ駆け込んだ。K先生が当方の顔を覗きこむや否や、
 「毛利さん、どうしたんですか? ひどい黄疸が顔に出ていますよ。
  直ぐに何処か大きな病院で検査する必要がありますね」
 このとき、自分は、我が身の上がそんなに大それたことになっているとは思いも及ばなかった。K先生は、土曜日でも診療している病院と入院の可能性について、先生の心当たりにあちこち電話をかけてくださった。幸いにも、自宅から少し遠方であったが、西宮市鳴尾のM病院で受け入れ可能ということであった。
 その足で、家内を連れてM病院へ行った。途中のタクシーの中で、妻につぶやいた。
 「うちの親父はね、62歳の時に黄疸が出て、入院したんや。
  入院してから1日たりとも良くなることなくて、半年後に
  肝臓ガンで死んでしまったよ。自分もそうでなけりゃいい
  んやけどな!」
 なぜか、そんな不吉なことを話しながらM病院に到着した。病院で診察を受けた。その場で、即入院と決まった。担当の内科医は若い女医であった。入院したその日の午後から直ぐに検査が始った。一通りの検査が終わって、内科医が説明した。
 「毛利さん、楽観してはいけません。膵臓に3~4センチの影が
  あります。これが胆管を圧迫して胆汁液が止まって、黄疸の原因
  となっています」
 「影って何ですか?」
 「腫瘍(ガン)かもしれません。ここまで大きくなるには、
  昨日今日の問題ではありません。とりあえずは、黄疸の治療に
  専念しましょう」
ということであった。
 その後の検査で、影は膵臓の頭部にできたガンであることが確実になった。何らかの治療をしなければ平均余命は7ヶ月程度とのことであった。
 黄疸の治療の方は内視鏡で十二指腸側から胆管にステント(プラスチックのパイプ)を通すという比較的簡単な手術で済むとのことであったが、実際に内視鏡で覗くと、既に十二指腸にまで及ぶ浸潤があり、ステントの挿入は不可と判断された。胆汁液は腹部にパイプを貫通させて外部に排出されることになった。M病院では、 とりあえず11月上旬に膵頭部ガン摘出の外科手術日と決められた。
 一方で以上のような治療を受けつつ、セカンドオピニオンとして、大阪のO成人病センターの見解を聞くことになった。O成人病センターの診断もほぼ同じであったが、治療の方針はM病院とは異なっていた。O成人病センターの見解では、放射線治療や抗がん剤による化学療法で、より時間をかけてゆっくり治療する方がよいとのことであった。
 結論的には、その結果を受けて、約1ヶ月後の10月中旬、O成人病センターに転院した。セカンドオピニオン先の選択や転院に当たっては、長女の夫君の勤め先のA弁護士先生のご紹介を賜わった。長女の夫君にも大変世話になった。
 翌2009年正月以降、特に入院先ですることもなくなり、1ヶ月の自宅療養を続けた。退院時には、何も解決していないのに、皆さんから「おめでとう」と言われ、変な感じであった。
 続いて、2月中旬に腫瘍摘出の外科手術のためにO成人病センターに再入院した。手術は予定通りの日程で行われたが、開腹後、事情あって、患部摘出の処置は取られなかった。後は通院による抗がん剤処方で、延命を図るとのことであった。
 O成人病センターでは、手術前後に1週間以上の絶食が続いたので、体重は61キロから54キロまで減った。自分としてはこのような大きな体重の減少は初めてであった。体重減少の影響は色々なところに出た。声帯が痩せて声が出にくくなり、細い声になった。さらに歯茎も痩せて歯がスキマだらけとなった。また足のスネも見るからに細くなり、心細いかぎりの体格となった。
 メタボ腹であったとはいえ、発病入院前には68キロの体重を維持していた。人間は、緊急事態に備え、ある程度の余裕の体重は維持しておくべきであることがよく分った。発病後、5ヶ月で合計14キロの体重減少を来たしたのである。最初に、少し太めの体重があったればこそであった。もし標準体重と言われる60キロ前後しかなければ、その後どうなっていたであろうか。突然の発病の経緯は以上のとおりである。
 しかしながら、この期に及んで、まだ自分の病気のことを信じがたい。今後とも、病気のことはすっかり忘れて、出来るかぎり平常心を維持して、ごく普通に笑って生活していたい。ワハハハハ...、ついに自分も齢を食って人並みに病気になったか!と笑っていたい。
 我が心は意外と平静であり、今更、何を言っても仕方ないとも思っている。なるようにしかならない。むしろ、ある日、突然、すべてが快方に向かい、いつの日にか、何事もなかったように全快して、平穏に過ごしている自分を想像している。
 だが、仕事の方はそうは行かない。特に今回の病気のことをあまり声高に言わなかったので、引き続き色々な所から仕事が舞い込んで来ている。その都度の言い訳けも大変なので、「有限会社K技術経営」は正式に幕引きすることとして、役所(税務署等)に休業届けを出した。発病前にはまだ10年くらい営業を続けようと思っていたが、まことに残念至極。これまで11年間、営業をやって来た。道半ばであり、断腸の思いがする。




第390話「世の心配と関心」(平成15年~21年)

2009-04-01 | 昔の思い出話
 そろそろこの長話も終わりにしたい。後1、2回の蛇足を付けて終わるつもりだ。ただほんの少しだけ、現在の政治・経済や世相の問題をここに付して、自分が仕事から引退した頃はどのような時代であったかを明確にしておきたい。
 現在は、第二次世界大戦が終わって、すでに60年以上が経過している。にも関らず、政治システムの外観はほとんど変わらず、自民党政権下にある。戦後ほんの暫くは社会党など革新政党との小競り合いもあったが、その後、何も変わっていない状態は信じられない。この国の政治には改革や革新という言葉はほんとうに縁が遠い。まあ徳川幕府が260年も続いた国のことだから仕方がない。 
 もはや戦後でなくなって、高度経済成長を謳歌していた頃の、右肩上がりを支えた官僚機構や予算制度がほとんどそのまま居座って、同じ発想で、同じような政策がまかり通っている。政権与党は出来合いの官僚制度の上にあぐらをかいて、出来るだけ変化を避けて、口先だけの改革を唱えて誤魔化しているように見える。
 時代の大きな変化ともいえるわが国の人口減少、高齢化、少子化、地球環境問題、外需依存、年金の挫折、財政の挫折、中国やインドなど新興国の興隆など、広範で基本的な、内外の構造変化に直面し、さらに2008年に始ったアメリカ発といわれるサブプライムローンに端を発した未曾有の経済恐慌のお蔭で、失業問題や社会格差、経済格差など解決すべき矛盾が現実化しているに関らず、現政権は有効な手を何も打てないでいる。期待できるところは何もない。だが、切歯扼腕すれども、いずれ間もなく、この世を去っていく身なれば、後のことはこれからの人々に任せておけと言う諦観が先に立つ。
 歴史の上では、成功したように語られている、あの明治維新も、実は、本当は将来に何のビジョンもない革命であったから、今回もなし崩し的に同じような感じで危機を脱出できると考えているのかもしれない。が、現今の苦境は構造的な変化への対応が求められており、政治的にも構造的な変化で対応せざるを得ない状況である。政府にはこのことへの認識がない。のんびりと小手先の対応をしておれば、改善は進むだろうが、本質的なところは何も変わらず、わが国はいつの間にか世界に取り残された後進国ということになっているだろう。
 日本は、歴史上、西欧のような市民革命を経験していないので、長いものに巻かれて、自分は高みの見物しか出来ない人ばかりである。人のことは言えないが、旗幟を鮮明にせず、無関心で、その時の情緒に流れる浮動票の人ばかりである。信念がない。何と、この自分と性格の似た人が多いことかと恐ろしくなる。中間層、凡人、付和雷同者、等々、要するに衆愚である。
 廃藩置県。明治政府は、これを思い切りよく、やれたものだが、結果がどうなるか分らぬ中で、決断して、蛮勇のもとで実行した。当時、人口の20%を占めていた士族が完全に、同時に失業したのである。もちろん、大きな社会的混乱が生じた。明治10年に起きた西南戦争が終わるまで、終わった後も余韻はくすぶった。しかし、その後10年もすれば、社会も安定し、新進気鋭の新興国として大いに発展していったのであった。やはり廃藩置県のような構造的な外科手術は必要であり、効果があった。
 現在は、この廃藩置県で設置された県をベースにした、旧い中央集権国家が長年にわたって続いている。高度経済成長の時代が終わって、また農業や漁業などの形態やシステムが構造的に完全に変化してきているに関らず、基本的な政策はそのまま放置され、最近は地方が疲弊している。何故、現代のような時代で、全てのことが霞ヶ関や永田町単独で決められるのか。
 日本のような小さい国で、明治時代には適切であったかもしれない小さな県単位を何時までも放置しておいて、そのままの中央集権もなかろう。日本全体は行政の単位としては大きすぎる。県単位は小さすぎて、どちらも生産性や効率性を著しく阻害している。道州制などの思い切った県の統廃合、平成の廃藩置県が必要だ。
 世の中の心配は国内に限らず、世界中にある。地球温暖化、資源問題などである。これらは既に顕在化しているが、10年以内にもっと明瞭に顕在化する。これまで何もしてこなかったアメリカ、それにこれからも何もしようとしない中国やインドに地球環境は破壊される。わが国を含め、いずれの国も景気対策だけではいけないのである。地球環境問題と矛盾しない景気対策が求められている。

 自分は京都市の生まれであるが、幼少の頃から大阪市(中央区)で育った。従って大阪という町が大好きである。その大阪がここ1,2年で、町の形を大きく変えようとしている。特に梅田(大阪駅)界隈の変貌が著しい。阪急百貨店の新ビルが威容を見せ始めている。また、大阪駅北側の駅新ビルも高層の姿が見え始めた。その北側の梅田貨物駅の整地も進み、やがて新高層ビルがにょきにょきと生えはじめるそうだ。楽しみにしている。何とか、これらの完成をこの目で見て、「よう、出来たか!」と一言、歓声を発することの出来る日まで生き伸びていたい。
 ただ、梅田貨物駅再開発の第2地区は、できれば、高層ビルなどは作らずに緑地で残して欲しい。当面、芝生で覆うか、植えるなら大木を植えてほしい。ニューヨークのセントラルパークかロンドンのハイドパークの小型版でよいのだ。大阪は緑に飢えている。梅田貨物駅跡地は、なけなしの都市空間である。緑地として残して欲しい。そこに作る建物は、関西州の州都としての白亜の州議事堂と州庁舎だけでよいのだ。残り全ては、子孫への贈り物として緑の公園にするのがよい。当方の犬の遠吠えのような遺言であるが、聞こえた人は考えて欲しい。梅田再開発第2地区が着工され、工事が完成する頃には、多分、自分は生きてはいまいから。


第389話「生涯の伴侶」(平成15年~21年)

2009-03-31 | 昔の思い出話
 今まで、わが糟糠の妻のことを此処に登場させたことはほとんどない。しかし、この長い自分史が終了する直前になって、お世話になった女房のことだけ、何も触れずに終わてしまうこともできるまい。
 実際、妻のことで公開するような事項は特になかったのである。しかし、全体として、生涯、当方の優柔不断や様々な欠点に対して、妻はよく我慢して、耐えて、頑張ってくれたと思う。このことには、心からの感謝の気持ちを残しておかなければならぬと思う。自分のような、恥ずかしがり屋の口下手が、面と向かって言っても、真面目に取り合ってくれないので、以下にまとめて書いておく。

 妻は生涯の伴侶
 妻が亭主の面倒を見ること
 至極当たり前のことと思っていた

 妻は健康で、働き者で、笑顔を忘れぬもの
 日や月が巡ると同じく平穏無事なもの
 昨日が今日と同じであったように
 明日もまた何の心配も要らぬもの
 亭主は 妻のことをそんなふうに思っていた

 これは考え違いであった
 妻も人間である
 人知れぬ陰の苦労がある
 耐えて偲んで堪える頑張りがある
 亭主は 妻のそんなことを何も考えていなかった

 当たり前のように 亭主は
 家事のことは何もしなかった
 亭主は会社で仕事さえしておればよい
 やがて会社でエラクなれば元が取れる
 亭主は そんなふうに考えていた
 家事の手伝い、子供の養育、何一つやらなかった
 全部妻に丸投げであった
 亭主はいつも涼しい顔でいた

 会社へ入って数年目のこと
 亭主は会社がいやになった
 亭主はサラリーマンを辞めて
 九州大学の助手に転向しようと決意した
 思いもかけず 妻は九州へ付いて行くと言ってくれた
 亭主は都合で途中で九州大学から大阪大学に変更した
 亭主の勝手な変更にも妻は快くOKしてくれた
 なのに 亭主は優柔不断
 最終決断できず 現状維持のサラリーマンを選択した
 亭主の心がころころ変わった
 妻は何も言わなかった

 ある日 会社からの帰りのこと
 亭主は大阪で一人浴びるほどヤケ酒を飲んだ
 亭主は深夜近く自宅最寄りの阪急苦楽園口駅から妻に電話した
 亭主は星降る下を妻と一緒に散歩したいとふと思ったのだ
 そして亭主は夙川公園の土手の下で座って待った
 暫しの酔い覚ましのつもりであった
 不覚にも 亭主は 苦楽園口橋の石垣にもたれて眠ってしまった
 夜が刻々と更けていった
 日付が変わった深夜丑三つ時
 石垣にもたれて眠っている亭主は妻に叩き起こされた
 気がつけば 其処は冷たい土の上であった
 妻は心配してあちこち探し回ったようであった
 妻は怒っていなかった

 その後 子供が3人生まれた
 亭主は一度も産院で立ち会ったことがなかった
 亭主はいつも会社で仕事に没頭していた
 帰宅時に子供の顔を見るべく見舞いに行っただけであった
 亭主はいつも会社優先であった
 すべて妻に任せ切っていた

 子供の勉強 子供の怪我 色々あった
 妻がぎっくり腰になって 
 一人で病院に行けなかったこともあった
 そんな時も こんな時も 
 亭主は 一切のこと すべて妻一人に任せ切っていた
 妻も亭主もほとんど病気はしなかった
 亭主は会社 妻は家庭 と割り切っていた
 家屋の新築、自動車の買い替え、お墓の購入
 すべて妻一人の仕事にしていた

 阪神大震災の対応も妻の仕事であった 
 本当の大災害であったから大変であった
 衣食の手当て、飲料水の確保、水洗トイレの処置
 家屋内崩壊物の処置(テレビ、ガラス、電子レンジ、陶器・食器、
 本棚、タンス、照明器具、その他あらゆる廃棄物の処置)
 建物本体の修復(内装破れ、天井・雨漏り)
 外構の修復(門扉・ブロック塀崩壊)
 本当に死にたくなるほどの損壊で修復は難渋を極めた
 にも拘らず すべて妻一人に任せた

 もし亭主が妻に借りがあるとすれば
 将来 亭主が会社でエラクなればよいだけと割り切った
 最後にまとめて返すと威張っていた
 だが 結果はそんな風にはならなかった
 世間並みにリストラ風が吹いて
 定年より3年早く会社を辞めることになった
 亭主には不本意の中途退職であった
 亭主は会社で思ったほどエラクもならなかった
 だが妻は黙って温かく見守っていた

 その後二人で立ち上げた有限会社K技術経営
 ド素人の妻が勉強して会社の会計処理を全部やってくれた
 税務申告(法人・個人)その他難しいことも多くあった
 亭主は全部妻に任せて安心していた
 我が家の船長は妻であった

 亭主が入院した時
 妻は命より大事にしていた自分の仕事を即断で辞めた
 亭主の看病・介護に専念するためだった
 欠かすことなく病院に日参した
 発熱・発汗のため1日数回の着替え、補完食、洗濯
 数日連続して泊り込んでくれたこともあった
 献身的にやってくれた
 亭主はあらためて妻を見直した
 妻は優しく温かく愛情豊かであった
 本当の最高の生涯の伴侶であった
 亭主は心から妻に感謝している
 心からの幸せを感じている

 もし輪廻転生して 再度人に生まれ変わることあれば
 もう一度 同じ妻に巡りあいたいね 
 そして一緒に過ごせたらいいのにね
 亭主はそんなふうに考えている
 妻の苦労も知らないで

 死ぬということはみな平等に来るので、個人の肉体的な苦痛を除けば、そんなに怖くないだろう。しかし、死別に伴う別れは人によって異なる。伴侶のうち、残された方には、長くて、辛くて、悲しい時間が訪れることとなる。今回の突然の再起不能に近い病気のために、妻よりも自分の方が先に逝く可能性が高くなった。妻の、その後に来る悲しみを思うといたたまれない気がする。
 もちろんのこと、自分の方が長生きする可能性もゼロではない。その時は、妻よ、心配する必要はないぞ。きちんと見送りをし、同じお墓に仲良く入れるようにして、思い出すたびに、倍する思いで、悲しむよ。だが、別れ際には、お互いできるだけ淡々としていたいのだ。


第388話「旧婚旅行」(平成15年~21年)

2009-03-26 | 昔の思い出話
 家内との新婚旅行の顛末は第258話に書いた。新婚旅行は当初南九州へ行く予定であったが、当時流行った航空会社のパイロットのストライキで、高校時代の修学旅行と同じ、北九州方面へのお決まりコースとなった。いつかはこのリカバリーをしなければならないと思っていた。
 それが出来たのは、つい最近のこと。やっとその余裕が出来たというべきか、それは2006年から2008年までの3年間、北海道、東北、伊豆、四国、南九州と全国を歩きまわり、都合、7回、家内と二人の旧婚旅行に行けたことであった。
 最初の旧婚旅行は2006年5月。裏磐梯、五色沼、日光、中禅寺湖へ行った。旅行社の企画ツアーのバス旅行である。磐梯山には雪が少し残っており、あの男らしい荒々しい山肌が、残雪に白く光り、目にまぶしかった。
 磐梯山を見れば、高村光太郎を思い出させる。高村光太郎の代表作品は「智恵子抄」である。「あれが阿多多羅山(あたたらやま)、あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)・・・・」の詩のある「智恵子抄」を読むと、自分はいつも涙が出る。その阿多多羅山の麓をバスで通過する時には、そっと家内の横顔を見て、高村光太郎の妻を愛する思いの詰まった「僕等」という詩の最初の部分を口ずさんだ。
 五色沼は学生時代に来た頃からは、すっかり変わっていた。その時に見た五色沼の清純さ、静けさがなく、五色と言われた色の変化に乏しく、あまり美しいとは感じなかった。また、日光東照宮は「日光見ずして、結構言うな」と言うほどには感激しなかった。日暮れや朝焼けの中禅寺湖の静かな佇まいは意外と良かったが。
 続いて、2006年の年末に、高知、岡山2泊2日の小旅行をした。それまで四国高知へは一度も行ったことがなかった。高知市は、案に相違して、新幹線岡山駅から特急で2時間で行ける近距離にあった。この旅行では、岡山は経費節減のためビジネスホテルで1泊とし、高知では旧藩主山内家の館跡のホテルで1泊の豪華版とした。
 岡山市では後楽園を初め、市内をあちらこちらと歩きまくった。夕方は岡山駅近くの居酒屋で過ごした。高知市では、宿泊代が豪華版であったので、魚料理も美味かった。しかし、うっかり食った脂ぎったウツボは腹にこたえて、長時間にわたってお腹がムカムカした。昼間の高知の市内見物は桂浜を含めて、タクシーを乗り回したので、大変高く付いた。
 高知から帰って僅か数日後、明けて正月3日から3泊4日で南九州へバス旅行に行った。ここでは風邪を引いたのか、ノロウイルスだったのか、原因不明の急性胃腸炎となり、嘔吐と下痢の辛い4日間となった。南九州は実は新婚旅行の最初に計画した行き先であったので、何とか、一度は行っておきたいと思っていた。
 最初の宿泊地、指宿で砂風呂に入って風邪を引いたのかもしれない。あるいは、その前日の昼間に、鹿児島市内で食った馬油(マー油)ラーメンが良くなかったのか、結果的には、自分にとって散々な旅行になった。特にマー油とは何かを知らずに、マー油の一杯入ったラーメンを食ったのが良くなかった。お腹にずしりと堪えて最初に不調の原因を作った。

 正月休みに南九州へバスツアーに行って来ました
 熟年カップル5組10人 
 3泊4日のゆっくりした旅でしたが
 雨続きの旅でもありました

 1日目
 鹿児島から指宿へ行きました
 心は嬉し 胸膨らみ
 芋焼酎たらふく飲んで 砂風呂へ入り
 ボーリングをして遊びました
 竜宮城へ来たかと思う極楽の境地でした
 家内までもが乙姫様に見えました
 この旅を人生に喩えれば成人までの時期でしょうか
 順風満帆の青年期でした

 2日目
 早朝から吐き気が始まりました
 朝食は一切喉を通りませんでした
 トマトジュース一杯だけ飲みました
 それから始まるムカムカ感
 バスの中で全部戻しました
 苦しいとか 苦しくないとか 
 苦しい人のことなど関係なく
 バスは長崎鼻、開聞岳、池田湖を走ります
 知覧(ちらん)を過ぎる頃は 座っているだけで苦痛でした
 ご馳走の昼食時には一人でバスに残りましたが
 一人で吐いて胃の中のすべてをカラにしました
 ムカムカ感がさらに募りました
 俺はここへ一体何しに来たのかと思いました
 ひたすら我慢の夕刻 バスは霧島温泉に着きました
 夕食も欠席し 部屋でカルカン1個食べて直ぐ寝ました
 寝る前に思いました
 これは二日酔いだ 自業自得だと
 しかし二日酔いならいつもある頭痛がありません
 人生で言えば二日目は人生の壮年期であったのでしょうが
 味気ない壮年期の盛りが終わりました
 翌朝まで12時間眠りました

 3日目
 下痢が始まりました
 バスが止まるごとにトイレに行きました
 3食抜いたあとの何も出ない下痢も苦しいものでした
 霧島神宮、都城、飫肥(おび)、堀切峠から宮崎までのまる1日
 この日は長い長い地獄の二日目でした
 昼食も夕食も山のようなご馳走でしたが
 ほとんど何も食べることが出来ません
 食べる気がしないのです
 見るだけでむかつくのです
 もうヤケクソになって夕刻温泉に入りました
 寒気がして早々に上がってきました
 ひょっとしてこれはノロウイルスではないかと思いましたが
 自分ひとりだけのノロウイルスはありえません
 この旅も人生で言えば壮年期の終わりの頃でしょうか?
 わけもなく苦痛の時間が続きます
 この日も12時間眠りました

 4日目
 よく寝たお陰で少し気分が快復しました
 夜中に寝汗を1升ほどかきました
 この日は宮崎から綾
 綾から酒泉の森、照葉大橋、青島、宮崎空港と回りました
 我ながら懸命に我慢しました 
 我ながら懸命に耐えました
 しかし気分はぐっと楽になってきました
 飛行機に乗って伊丹空港に着いたときには
 これはただの風邪ではなかったかと思いました
 しかし風邪にしては熱も咳も喉の痛みもありません
 また人生とは旅と同じことかもしれないと思いました
 運が悪ければ ただ苦しいだけの人生を送る人が居ますし
 一方で全然苦しくない人も居ます
 ひとり苦しんでいても 
 他のほとんどの人には何の関係もありません
 ちょっとさびしいことですが
 苦しいことも楽しいこともそれを感ずるその人だけのこと
 極めて個人的なことであったのです

 この4日間
 私個人にとっては
 クソ面白くもない旅であったかもしれません
 これを人生に喩えれば
 人生も似たようなもんだと思えてきます
 我が人生 
 まだ4分の1が残っていると勝手に思っていますが
 残りの4分の1は気楽な人生を送りたいものですね
 散々苦しんで人生の4分の3を過ごした挙句
 残りの4分の1まで病気で苦しんで過ごすなんて
 それはありませんよね
 そんなこと 考えただけでもイヤになりますよね
 老年期こそ 穏やかで苦痛や苦労のない人生であって欲しいですね
 我が4日間の旅は 苦痛の旅で終わってしまいましたが
 我が人生の残りの4分の1は 
 しっかりとした いい人生が待っていることを願います
 霧島神宮、宮崎神宮、青島神宮 すべての神様に 
 そのことだけを祈願してきました
 今年の正月は要らぬ旅して 要らぬ辛い目にあいましたが
 老年期への心つもりを構築する 
 またとない機会を得ることが出来ました
 そうです
 健康に留意します
 お酒は少し控えます
 仕事も少しペースを落とします
 そうは言っても 
 明日からまた 仕事!仕事!で頑張りますよ!
 それが健康に一番いいうちは

 旅行とは、常に楽しいものとは限らない。特に、日程の全てを旅行社という他人に決められた不自由な旅行は、意に沿わぬ仕事をイヤイヤやらされているのとよく似た感じがする。
 にもかかわらず、半年も経つと、またぞろ何処かへ行きたくなる。次の旧婚旅行は2007年8月中旬、又もやバス旅行で、今度は正反対の方角、北海道知床方面であった。冬には暖かい南九州。夏には涼しい北海道知床方面となり、理屈には合っている。
 北海道への往復は、大阪-網走間の航空機。道東の阿寒湖で1泊、網走で1泊。2泊3日の短期旅行であった。摩周湖は霧で有名であるが、到着の数分前に奇跡的に霧が晴れたそうだ。湖面に浮かぶ小さな島、周囲の山々全体がほぼ完全な姿を見せていた。
 肝心の知床半島めぐりは海が荒れて欠航。はるか遠くから知床半島だけを楽しみにしてはるばるとやって来たのに、添乗員は2千円ばかりの払い戻しをして、全て終わったような涼しい顔をしているのが癪だった。夜に自費で舞台のアイヌ踊りを見たのがせめてもの収穫であった。
 この北海道旅行はあまりにも物足らなかったので、すぐ1週間後に、自前の計画で修善寺1泊、伊東1泊の2泊3日の伊豆旅行を行った。2日目に修善寺、天城峠、堂が浜、下田、石廊崎等へとタクシーを終日借り切って、伊豆を南北に東西に自由自在に走り回った。天城峠の有名なトンネル、狩野川ハイキングコースの散策では雨が降ったが、その後の晴れ間の、瀧や渓谷ときれいな緑の眺めが良かった。堂が浜の船遊びも、空がすっかり晴れとなってきれいであった。やはり自由な時間に自由に振る舞える旅行が良い。しかし、1日のタクシー代が、コースはずれの追加料金を合わせて6万5千円ともなり、お安くはなかった。
 旧婚旅行のシリーズはなおも続く。どうやら、1年後に自分が病に倒れることを察知していたのかしらとも思われるが、もちろん、そんなことを知る由もなく、さらに2回の国内旅行に出かけた。
 翌2008年5月。大阪発青森行きの寝台特急の夜行列車日本海に乗って、下北半島、八甲田山,奥入瀬、十和田湖の旅に出かけたのである。帰りも寝台特急日本海であった。新緑と残雪のきれいな東北地方を見ることができた。
 この旅行では魚がうまかったし、思いのほか、自然の景色もよくて、大変印象が良かった。特に八甲田山の残雪の白さと新緑のコントラストは今でも目に焼きついている。また、下北半島西岸の仏が浦の奇勝奇岩も目に新しいものであった。恐山の地獄は期待に反してあまり大したことがなかったように思う。
 その3週間後、6月初め。今度は大阪発高山行きの列車に乗り、上高地、奥上高地のハイキングに出かけた。上高地で1泊。奥沢で1泊。3日間で27キロ歩いた。穂高連峰の残雪と新緑、梓川の水の美しさを堪能して来た。帰りも、高山から大阪までの特急列車ひだ号に乗った。この旅行は旅行社の決めた旅程であったが、ハイキング主体のマイペースで行ける旅であったので、大変に印象が良かった。特に梓川の澄んだ水の美しさに圧倒された。穂高連峰の残雪と雪渓は十分に残っていた。写真でしかみたことがなかった山々をこの目で見て、本当に日本という国の美しさ、素晴らしさを実感した。
 以上のように、僅か3年の間に、日本国内で、それまで行きたいと思いつつ果たせなった場所を、残らず見せてもらった。妻と40有余年を仲良く伴に過ごせたことへの感謝の旧婚旅行であったのか、それとも、直後にせまりくる自身の大病を予知した人生最後の修学旅行であったのかはよく分らない。何はともあれ、元気なうちに、妻に日本国中、端から端までを見せてやることが出来て嬉しい。妻にも色々と思い出に残る記憶が残ったことであろう。


第387話「信念の崩壊」(平成15年~21年)

2009-03-25 | 昔の思い出話
 「有限会社K技術経営」をスタートさせた初期の頃は暇であったので、昔居たX社のOB会のメーリングリストに駄文を送り、結構、ストレスの発散をさせてもらった。行き詰まりを感じたり、今日は一寸気が晴れないと思ったようなときには、他人よりもむしろ自分を元気付けるために、面白半分で何やかやと書き送った。
 つい調子に乗って、以下のような駄文を送ったことがあった。

 65歳のお父さんも
 70歳のお父さんも
 自分はそろそろ年だなんて
 思っていませんか

 大間違いですぞ

 生まれたときに
 吹き込まれたエネルギーが
 もう切れ掛かっている
 そんな幻想を抱いていませんか?

 大間違いですぞ

 お父さんは阪神フアンですか?
 阪神7回裏の七色の風船を
 見過ぎていませんか?

 エヤーが抜けたら落ちてくる
 エヤーがなくなったらアカンのや
 なんて思っていませんか?

 だが人生は風船ではありませんぞ

 エヤーなんぞ
 風船の中で作り続けりゃあ
 永久に風船は飛び続けるものなんです

 ところで
 お父さんは
 年のせいにしてエヤー作りを
 サボっていませんか?

 大丈夫です
 お父さんには
 まだまだエネルギーがあります
 エヤーを作る力は残っていますよ

 お父さん
 これから何か新しいことを始めてもOKです
 まだまだ時間があります
 驚くほどの時間が残っていますよ

 どんどん挑戦しましょう
 バリバリやりましょう

 お父さん
 年だといって
 年のせいにしたら終わりですぞ

 お父さん
 最低80歳までは現役で行きましょう
 今からその気で行けばOKです
 年だからなんて絶対に言わないでください

 この頃の自分は、人は誰でも70歳代後半くらいまで(若しくは80歳くらいまで)は、現役で働けるものと考えていた。自分も、内心、80歳までは現役で働くつもりでいた。世の中には、不幸にも病気などで働きたくとも働けない人がいることに頭がまわらなかった。今から思えば、65歳になったばかりのこの時期は、最も幸福な一時期であった。人は働けるかぎり働かねばならない。70歳を越えても働き続けなければならない。働くことが健康の秘訣でもある。死ぬまで働く。これが自分の強い信念となっていた。
 その後、それ以前を含めて「有限会社K技術経営」の活動をまる11年間続けたが、我が信念に反して、80歳まで未だ10年余を残した69歳で、仕事人生の幕を閉じることになった。夢にも思わなかった事態となり、死ぬより辛い決断をしたのである。
 詳細はあらためて述べるが、いろいろな理由の中で、再起不能の病気になったことが、仕事から引退する決意の最大の理由であった。
 病気くらい何だと言う考え方もある。これまでの自分の考え方からすれば、病気なんて言うのは、精神的な弱さが顔を覗かせただけのことであり、精神力さえ充実しておれば克服できるものだ。基本の考えに大きな変化はないが、この期に及んでは、現状を素直に認めて、仕事からの引退を決意することが最も賢明であると思われた。この決意を受けて、平成21年1月1日付けで、「有限会社K技術経営」の正式の休業届けを役所に提出したのである。
 般若心経に心無罣礙(しんむけいげ)という言葉がある。「心にこだわりを持つな」という意味である。「仕事にこだわる」「自分にこだわる」「自分の信念にこだわる」。これらにこだわることが、若き自分にとっては、基本の美徳であった。つい最近まで、そのとおりであった。しかし、ここ数年、人生を考え、人生の意味や価値を色々と振り返って、哲学として勉強した結果、少々、考え方が変わってきたのである。年齢の影響もあるだろう。結局、世界は色即是空・空即是色であり、人の心のあり方として、そこから誘導される「心無罣礙」が、最も正解に近いのではないかと思われる。特に、現在の境遇においては、心無罣礙に徹すれば徹するほど、心が安定し落ち着くことが実感できる。
 心無罣礙に徹すれば、人生でやり残したことの無念さに打ちのめされるのではなく、これまでの人生で既にやることは十分にやったと、何もやれなかった人間においても、充実感や満足感を感じさせてくれるのだ。この世は無常であり無情であると批難したり、諦観したりするのではなく、現実のそのままをありのままに受け入れて、肯定することができるのである。
 今後のことは分からないが、思いのほか長生きした場合のことは、その時に考えれば済む問題である。何も準備しておく必要もない。何事も、いつも計画とおりに行くものではない。その時点、その時点で、心静かに最善の処置を考えていけばよい。それを平常心というのだ。何はともあれ、現在に、そのときのエネルギーの全部を投入して、今を最高に生きること。これが最善の生き方である。
 その昔、弁慶は、奥州平泉の地で主君義経を守るために、背に腹に何十本という矢を受けて、満身創痍となっても、なお倒れず、立ったまま命尽きたとのことだ。このように、仕事の最中に死ぬような死に方ができれば、どんなに誇らしいことか。自分も、病室にあって、身体中に何十本という点滴や排泄の管を通して、管の化け物のような姿になっても、尚も仕事を続けながら、死んでいけたらと願わぬ気持ちもなくはない。
 しかしながら、2008年9月からの入院とその結末は、自分に劇的な心境の変化をもたらせた。半年間、病室のベッドに臥している間に、「心無罣礙とは何か」について、いやというほど考える時間を持った。自分は何にこだわっているのかを考えた。実は、何にもこだわっていないのだが、強いて言えば、これまで自分が外に向かって言ってきたことに、こだわっているだけのことであった。世間様に対して「ええ格好」を続けるかどうかだけにすぎなかったのである。そんなことよりも、現実としては、後何年生きることができるかの方が問題である。人生残りわずかなら、もう少し「人生というもの」に関して、深みを持って、しっかりと考える時間を持ちたい、と思った瞬間、「仕事はきっぱり辞める」と決意できたのである。
 自分としては、やっと到達した結論であった。意思や意欲のエネルギーは加齢とともに減っていくようだ。特に腹部の外科手術の後は、これまで感じたことのない、身体各所の不調感が継続する。今までなら数日もすれば、自然に改善に向かう違和感が、逆に悪化する日もある。このように、病気と共存する事実は事実として認めざるを得ない。
 自分は、病気を契機に、これまでの現場で働く中年の元気を喪失したのだ。そして期せずして老年の心境に到達している。僅か半年で、急転直下の変化を遂げてしまった。自分はこれを潔く認める。そして。これを恥ずかしいと思わない。この結論で良いのだ。凡夫は凡夫の引き際がある。これまで精一杯頑張ってきた自分だ。いつの間にか限界に来ている。この現実は素直に認めなければならない。
 もし、生きながらえて、少しは長く生きることがあっても、することは一杯ある。何をするかは、その時に考えればいいことだ。


第386話「最後の外国出張」(平成15年~21年)

2009-03-21 | 昔の思い出話
 2006年。企業に対するISOマネジメントシステムに関するコンサル活動と審査員活動を営業の中心に据えながら、我が「有限会社K技術経営」は拡大も縮小もせず、安定軌道に乗っていた。しかしながら、心の中には何とも言えない違和感が滞留していた。どうもISOがウソのように感じられてならなかった。
 組織の経営者がISOをほとんど理解していない現状が目の前にあった。大抵の場合、ISOマネジメントシステムの構築は事務局に丸投げされ、経営者が乗り出すのはシステム構築が終盤を迎えてからであった。
 「そろそろ社長に品質方針(環境方針)を作って頂かないと
  認証登録の準備が出来ませんよ」
とコンサルから事務局、時には社長に直接催促する。コンサルの自分は、口を酸っぱくして、常に、
 「品質(環境)方針を実行するために、現場の手順書や
  マニュアルを作成しますので、順序としては最初に経営者
  の具体的な品質(環境)方針の意思表明をお願いします」
と説明するのだが、特にISOが始まった1990年代の後半の頃はそのような運びとなることは滅多になかった。
 大抵の場合、社長はシステム構築の決意表明とスケジュール目標だけは明確に述べられるが、経営戦略や経営方針との関連に触れられることはなかった。また、ISOマネジメントシステムの中で、どのようなことを目指し実行しようとするかは何も言わなかった。要するに、経営戦略とか経営方針とか企業の中核となるビジョンがないのであった。ないものは徳利の口を逆さまにしても出て来るはずがない。
 また、経営者や組織の関係者はISOマネジメントシステムを出来合いの、取扱説明書のような文書一式を購入するように心得ておられるようであった。また、事務局に責任感があればあるほど、社長に代わって段取りの全てを行うことを使命と考えているようであった。できるだけ社長に相談せずに、社長の気に入った内容のシステムを構築しようと心がけているように見えた。品質方針や環境方針をすべてに先行して表明するよう、社長に掛け合う事務局も少なかった。品質(環境)方針などは、すべて事務局が文案を事前に勝手に準備して、できるだけ面倒な改訂を避けるべく、社長に数分説明して、社長から同意の署名をもらって終わるのであった。
 ISOマネジメントシステムとは言うものの、経営方針や経営戦略不在で、あるいは関係なく構築されていくのである。もちろん、コンサルとしては、そうならないように社長に掛け合い、専務に説明し、常務を口説くのであるが、現実には成功例はほとんどなかった。
 ここで、自分は、如何にして経営戦略とISOマネジメントシステムとをドッキングさせるかを思案し始めた。もし組織に明確な経営方針や戦略が存在しないならISOマネジメントシステム構築時に同時に作成すべきではないかと思った。
 丁度、その頃、横浜国立大学経営学部の吉川武男教授の主唱される「バランス・スコアカード」という経営戦略構築の新しい手法が世に出始めた頃でもあった。自分はこの手法に飛びついた。元々、アメリカのハーバード・ビジネススクール教授のキャプランと経営コンサルタントのノートンという先生が構築・提案した手法であり、大変実務的で分りやすく、世界の大企業や自治体などの大組織が取り入れて大変成功したということであった。また、分りやすいテキストも何冊か翻訳出版されたので、これらの書物を何度も何度も繰り返して読んだ。
 バランス・スコアカードというのは、複雑な組織やシステムの中で一貫した経営戦略や方針を構築する手法として開発された。財務の視点、顧客満足の視点、社内業務プロセスの視点、従業員の力量・教育・訓練の視点や企業文化の視点などの、色々な組織内の重点的な価値観をバランスよく配慮して、全社的なビジョンや戦略を構築する手法である。これによれば、一貫したビジョンの下で、中長期の目的・目標から年度の実行計画まで作成できる。ISOマネジメントシステムで言えば、品質目標や環境目的・目標に基づく行動計画や実行計画まで出来てしまうのである。
 自分は、わが国中小企業におけるISOマネジメントシステムの爬行的な運用を打開する鍵は此処にあると思った。特に、中小企業などの小さい規模の企業においては、経営課題を品質や環境に区分して運用することには無駄が多い。大企業のように品質や環境を別々のシステムとして個別に捉えるのではなく、どちらの課題であっても、組織全体としてクリヤーされておればよいのである。何も大企業を真似て精緻で複雑なシステムを構築する必要はないのである。
 例えば、「コスト削減」という大方針があれば、品質ISOで言えば、顧客満足を達成しつつ生産性を向上させることであり、環境ISOで言えば、原材料からの歩留まりを上げて産業廃棄物やリサイクルに回る素材を減少させることになるが、現場でやる実施課題は、評価の視点が異なるのみで、多分同じことを実施することになる。また、コスト削減は製造部門だけの問題ではない。資材・購買、経理、財務あらゆる部門がそれぞれの課題をもっている。現行のISOのように生産部門だけに責任を押し付けていては解決できる課題は半分もない。大抵の場合は、人間の力量や資質の問題であり、労務や人事の問題であり、資源配分の問題である。これらは一つの戦略のもとに資源を重点配分して、全社的に進めていくべき問題である。
 現行の大企業を念頭において運用されていた、あるいは例示されていたバランス・スコアカード(BSC)は重すぎる。が、少し手を加えて簡易な中小企業向けのものを開発すればよい。全社を一つのシステムとして捉えやすい中小企業にとって、ISOを含めた経営戦略をマネジメントするための絶好の経営手法となるのではないか。さらに、バランス・スコアカードを適用すれば、構築済みのISO品質(環境)マネジメントシステムの改善及びレベルアップの可能性も十分にある。
 自分は、自分の手でそのような主旨の本が書けないかと思った。ひょっとすると、本格的な第二の著作物になるのではないかと、胸が躍るような興奮を感じた。著作の進め方の具体案、特に出版社の心当たりはなかったが、出版社の候補が出てきたときに提案するべく、企画提案書まで作成した。中小企業向けのBSCの簡易ソフトを作成し、営業を始めた会社があったので、その社長に面会し、当方の著作計画を説明したりした。

 このようなことを考えていた矢先、東京のN協会傘下のK情報化協会の主催で、ストックホルムとロンドンへ「第3回訪欧BSC先進企業調査団(2006年9月)」が派遣される計画があるとの情報が入った。しかも、この方面で最も活躍されている、前述の横浜国立大学吉川教授が団長ということであった。これに参加すれば、吉川先生とも懇意になれる。また、参加者と仲良くなれれば、今後の交流や情報交換も出来るようになるだろうと、自分はこれに飛びつくことにした。
 早速、K情報化協会に申し込みを入れた。
 「参加費は協会員でないと、20万円アップということですが、
  当方は会員ではありませんので、総額100万円ということに
  なります。こちらは経営が苦しい零細企業です。何とか、
  20万円をご勘弁してもらえませんか?」
 何でも思ったことは言ってみるものである。主催団体の方では参加者集めに苦労していたようだ。一発で20万円を負けてもらうことが出来た。大成功であった。

 このような経緯を経て、2006年9/17~9/24の1週間、ストックホルムとロンドンへ行ってきた。他の参加者は全て東京近辺に在住の人たちであった。関西弁をしゃべるのは自分ひとり。また、長い間、英語をしゃべったことがなかったためか、英語の発話能力がかなり落ちているように感じた。
 滞在中、酒宴が度々催された。このとき、参加者間の雑談で感じたことであるが、東京の人たちが思う東西の境界線が、案外、東側寄りにあるということであった。彼らの感覚では、静岡県の富士川辺りは既に西側で、せいぜい箱根の関あたりが東西の境界線であるらしい。そう云えば、西に住む自分も、東京から新幹線などで帰宅する時、いつも岐阜-米原間の関ヶ原(不破の関)を越した辺りで、やっと帰ったという思いがするのである。西側に住む人間も、東西の境界は、結構、西側寄りにある。

 肝心の仕事の方であるが、イギリスとスエーデンにおけるBSCブームはかなり沈静化していた。この手法から撤退した組織もいくつかあった。しかし、自分は、今でもBSCを中小企業のISOマネジメントシステム改革の起爆剤にしようとする考えは引っ込めたわけではない。確かに、現状のBSCは少し大仰過ぎる。だが、BSCを中小企業向けにぐっと簡素化すれば、中小企業にもフィットするものが出来る。このあたりの呼吸が分る者はあまり居ない。しかもISOマネジメントシステム構築の前段階に位置づけて活用できる適任者は、自分以外にほとんど居ないのではないかと思う。
 しかし、その後、何処かのコンサル先でBSCとISOのドッキング実績を作って実証したいと思っているうちに、時間が過ぎ、構想を十分に深めることが出来ないまま、現在に至ってしまった。そして、2008年9月から始った突然の療養生活で、この計画の実現は難しくなった。結局、この構想の実現も夢物語で終わることになりそうである。やり残した仕事の一つとしてお蔵入りしつつある。大変残念なことである。
 また、この旅行は大変楽しいものであった。ロンドンは過去に十回以上は訪問したと思うが、ストックホルムは初めてであった。先ずストックホルムを訪問し、まる三日間滞在してロンドンに向かった。
 9月のストックホルムは、もう秋の気配が濃厚であった。我々がストックホルムに到着した日、スエーデンの総選挙があったらしい。ホテルの中は騒然とした雰囲気であった。これまで社会党系が支配していた国会が何十年ぶりかで、自由主義的な政党に政権を譲ったとのことであった。市民が高福祉高負担に嫌気がさしたそうだ。時代は少しずつ変わりつつあるとのことであった。ホテルはその政党の祝勝会で賑やかであった。

<ストックホルムにて>
 秋のストックホルム
 スペース豊かな湖面
 水辺に映える町並み
 林立する尖塔
 吹き抜ける冷たいそよ風
 一人静かに町を眺めていると
 ここにも確かな世界がある
 狭い国 日本に居て
 其処だけが世界と騒ぎまわっている自分
 その自分が今
 ストックホルムの水辺に居る不思議
 昨日まで居た我が日常とは無関係の別世界
 忙しく車が動き
 忙しく人が歩き
 都会の雑踏と騒音がこだまする
 自分が居ても居なくてもこの世界はここにある
 自分の居る空間が透明の空間のように
 人びとが通り過ぎていく
 至極当たり前の人びとの日常がある
 自分は考える
 自分とは何か
 自分の日常とは何か
 今ここで自分が別世界の人びとを見るように
 日本で生息するわが身を観察するとき
 自分はどのように見えるか?
 大したことでないことを大仰に考え
 些細なことにこだわり
 あくせくしているだけの自分ではないか?
 日本に帰り
 日常の仕事や生活に疲れるときあれば
 ストックホルムの街頭の景色を思い浮かべれば良い
 自分一人居ても居なくても世界はちゃんと動いている
 肩の力を抜いてもっと気楽に生きていくこと
 それで良い
 人生はあっさり生きるのが良い
 スエーデンの淡白な色調くらいが丁度良い
 いつも思う
 旅は人に気付きを与える
 来てよかった
 本当に遠くまで来てよかった

 続いて、ロンドンに向かった。ロンドンは既に何度も来ている。特別、見たいところもないし、東京へ着いた程度の気安い感覚であった。円安というかポンド(ユーロ)高というか、物価が高いのに驚いた。

<ロンドンにて>
 ロンドンは温かい秋だった
 数日の滞在で快晴と雨天が交代した
 ある雨のひと時 団体ツアーから離脱した
 なぜか無性に一人になりたくなった
 一人でナショナルギャラリー(美術館)を訪れた
 入館は無料だが入口には寄付金の箱だけが置いてあった
 箱には「入館無料を維持するために寄付を請う」と書いてあった
 日本男子なればお賽銭のつもりで5ユーロ(約750円)を放り込んだ
 他に寄付金の箱にお金を入れる人は意外に少なかった
 わずか5ユーロではあるがノブレス・オブリージを意識した 
 一寸良い気分だった
 中扉を開けて展示室へ入ると驚くほど多くの見事な絵があった
 5ユーロの価値は十二分にあった 
 20ユーロ(約3000円)でも安いと思った
 いつの間にかムソルグスキーの「展覧会の絵」を口ずさみながら歩いていた
 見憶えのある絵に出会ったときは昔馴染みとの出会いのように感じた
 初恋の彼女のような絵にはどきどきする胸のトキメキを感じた
 時間忘却の数時間 
 ふと足の疲れを意識して我に帰った
 いつの間にか3時間以上が経過していた
 全ての展示物を見たわけではなかった
 全部を見るにはさらに2倍の時間がかかると思った
 帰りはロンドンの地下鉄に乗った
 チェアリングクロス駅からユーストン駅まで3ポンド(約750円)であった
 これはとてつもない高い運賃ではないか!
 梅田駅から天王寺駅よりも近い距離なのに…
 大阪の地下鉄ならわずか270円の距離だ
 無料のナショナルギャラリーとびっくりするほど高い地下鉄
 このコントラストには驚かされる
 文化の違いか価値観の違いか 
 日本とは何かが違うと思った
 ユーストン駅で地上に出るとそこは見知らぬ街だった
 ホテルはどちらの方角か何の目印もなかった
 何はともあれ山勘を頼りに歩いた
 違っているかも知れぬ道を一人行く…
 不安の混じったこの快感がたまらなかった
 この気分を味わうことがなければ旅ではないと思った
 わずか数時間ではあるが一人旅の気分を味わった
 人生も多くの時間 多くの人と一緒に歩くが
 結局は一人旅だ
 この一人旅を面白いと思うか
 淋しいと思うか 
 それはその人の哲学次第だ
 人生の素晴らしい一人旅
 楽しむことが出来ぬ人たちは本当に気の毒だ

 我が人生で、これが最後の外国旅行となったかもしれない。思えば、広くあちこちへ行ったものだ。もちろん、訪問していない地域や国の方がはるかに多いが、個人的にはもう十分に堪能したように思う。外国旅行は、たとえ一人であっても、どの国へ行っても、特に不安を感じなかった。むしろ好奇心や何でも見たいという気分が横溢していた。幸せな人生を過ごせた。


第385話「音楽の好き・嫌い」(平成15年~21年)

2009-03-19 | 昔の思い出話
 モーツアルトの交響曲を聞いていると、よくもまあ、一人の人間がこれだけ多くのオリジナルなメロディーを創作できたものだと思う。これらの曲は発明家のような意識的な努力で生まれてくるのではなく、モーツアルトの心の奥底のどこかで、次から次から湧き上がってくる情感を五線譜上に書き写して行っただけのことであろう。自分には想像も付かないが、考えて、考えて、何かを生み出す努力などしていては、モーツアルトのようにあれだけ多くの作曲を出来るはずがない。どれもこれも珠玉のようなメロディーで、我々凡人には思いも付かない天才の所業としか言いようがない。
 学生の頃は、大人数の楽団で演奏するベートーベンなどの交響曲が勇ましくて好きであった。しかし50歳も越えてやや年を取ってくると、静かな曲に関心が移っていった。静かな曲とは言え、ソロはあまり好みではなく、四重奏や八重奏などのような室内楽がよいのである。弦楽四重奏やフルートやオーボエの入ったコンチェルトを聴いていると心が洗われる。
 特に夜更け、人が寝静まった後、少しアルコールが入った状態で、本を読みながら静かな音楽に耳を傾けていると、本などはそっちのけで、聞き覚えのあるメロディーに自分の体全体が乗っかっているような気がすることがある。
 自分を含め、人々の音楽の好みはモーツアルトに始まり、色々と浮気の遍歴を重ねて、最後にはやはりモーツアルトに帰ってくるのではないだろうか? モーツアルトのピアノ協奏曲だけでも一体いくつあるのだろうか? どれを聞いても、いつ聞いても、きれいだな、やさしいなあ、気持ちがいいなあと思う。
 モーツアルト、ベートーベン、シューベルトなどの古典派の終局の時代に、音楽の最高峰が築かれた。その頃の音楽は、特に人の心を強く打つ。シュポアなどはあまり話題にならないが、その甘美な境地は、モーツアルトやシューベルトに劣らない。ラフの交響曲もベートーベンに決して劣らない。しかし、シュポアもラフもあまり人々の話題に上らず、演奏もされないが、自分のように一人静かに音楽を楽しむ対象としては大変によろしい。ベートーベンやシューベルトはあまりにもポピュラーに過ぎて、唯我独尊の境地などに到達するのは困難だ。
 いくら聞いても好きになれないのはショスタコビッチであった。不協和音が耳障りで、我が心の琴線に触れるメロディーなどどこにもない。共産主義ソ連という国のガサツな印象が前面に出てきて興ざめである。そうは言っても、ショスタコビッチの交響曲を聴く頻度は結構高い。ショスタコビッチを聞いた後のモーツアルトがひときわ美しく、自分としてはモーツアルトを楽しむためのワサビのような効果を利用しているのかもしれない。
 R.シュトラウスも嫌いだ。ユーバーアレス(世界に優越せる国家ドイツ)のヒットラーに大変好かれたらしい。荘重、重厚だが、どうも好きになれない。ベートーベンの曲の荘重な中に存在する軽快さやロマンチックさがこの中には全く存在しない。
 あまり好きでない作曲家をもう一人。ブルックナーである。あの金管楽器の耳をつんざく音が嫌いだ。好きな人には、ヨーロッパの教会の尖塔が立ち並ぶ町の風景を呼び起こすらしいが、どうも我が神経に障る。好きでないなりにマーラーの方が、何ほど良いか分らない。しかし、マーラーにはややかび臭い匂いを感じるのは自分だけであろうか。
 ワグナーのリングは聞き始めると、大変、仕事の障害になる。続けて全部聞くとすれば24時間かかる。余程時間のある暇なときしか聞く気がしない。
 イギリスの作曲家も全く出番がない。エルガーも何十曲と聞いてみたが、どれ一つ、良いと感じられるものがない。平板。淡白。几帳面な活字で印刷された辞書か、法律文書を見ているときと変わらぬ気分にさせられる。
 ビゼーのカルメンやアルルの女は、聞けばそれを初めて聞いたのかもしれない中学生の少年時代の頃を思い出させる。遠く懐かしい気持ちは、大脳のかなり奥に存在するのであろう。漠然とした初恋の頃の郷愁は記憶というよりも感覚である。これらを耳にすると、なぜかはらはらと涙がこぼれてくることすらある。
 バロック音楽は極めて心地が良い。ヴィヴァルディやテレマンなどは全く肩がこらずに聞き流せて楽しい。宮廷音楽の時代は、庶民には好きに楽しめる余裕がなかったが、人間の本性が好むものを正直に当時の王侯貴族が愛したのである。聞いて腹が立ったり、ストレスを感じるようなものは元から排除されている。
 音楽は自分の書斎でCDやラジオで聞くのが一番良い。テレビで見る演奏は好きではない。視覚が入ると気が散って音楽ではなくなる。交響曲で言えば、指揮者ばかりが大写しでアップされる。指揮者のタクトを振る派手な身振を画面いっぱいに見せ付けられると、関心がそちらに移って、肝心の耳で聴く音がどこかへ行ってしまう。いつも思うことであるが、指揮者が指揮しているのではなく、音楽に合わせて指揮者が踊っているように感じてしまう。指揮者など居なくても、この交響曲は一人で流れていくのではないかと思ったりする。実際、練習の時の指揮者はなくてはならない存在であろうが、本番演奏では、単なる飾りであり、名誉職に過ぎないのではないかと思っている。
 実は、生の演奏を見るのもあまり好きではない。生の音の迫力にはいつも驚き、さすが本物は良いと思う。しかし、オーケストラは視野が広すぎて、一体、何処を見ていて良いのか分らないのである。指揮者は尻をこちらに向けているので其処ばかり見ているのも気が引ける。音楽の音そのものは一体となって、怒涛のように当方の体全体を襲って圧倒しているのに、チェロやクラリネットだけを見ているわけにも行かない。ついつい、図体の大きいコントラバスや音の大きい奏者ばかりを見てしまう。しかし、目はいつも一時に一点しか見ることができないので、シンバルや太鼓が響くと、ついそちらに目移りして、キョロキョロするが、全体として何処を見て良いのか分らず至極落ち着かない。
 その昔、岡山の倉敷まで出かけて朝比奈隆の指揮する交響曲を聴きに行ったことがある。最前列の中央の席が指定席であった。座ると、見えるのは指揮者のお尻だけであった。楽団そのものが見えないのだ。耳に聞こえるのは指揮者が動くたびにギシギシときしむ指揮台と指揮者の靴の音だけであった。とても音楽を聴いた気になれず、指揮者のお尻を見に行ったとしか言いようがなかった。
 以上は数年前までの正直な思いである。しかし、心無罣礙の心では好き・嫌いなどあるべきものではない。どちらかと言えば、理屈が先行する我が悟りも、自然の感性が勝手に思う気分をどの程度、管理できるであろうか。多分、管理などできるまい。こだわらないということは、好きや嫌いをも超越したところにある。好きなものは好き。嫌いなものは嫌いでいい。これが一番、こだわらない形である。要は、心無罣礙とは、我が心に素直であれば、好き嫌いにこだわろうとこだわるまいと、どちらでもよいということを云っているのではないか。


第384話「吉田文武先生」(平成15年~21年)

2009-03-17 | 昔の思い出話
 京都大学名誉教授であられた吉田文武先生は大学時代の恩師である。先生は90歳を越えても、まだまだカクシャクとしておられた。久し振りにお目にかかって、少し背中が丸くなったような気がしたが、我々の遠慮がちの低い小さな声に聞き直すことなく、直球の返球が即座に返ってくるのであった。此処でのお話は先生の91歳の時の思い出話である。残念ながら、先生はその数年後、94歳で老衰のため他界された。
 この先生を囲んで雑談する「先生を囲む会」の関西部会が、毎年、京都で行われており、この年度は、昔同じ研究室で同じ釜の飯を食った大阪大学教授の古田先生(仮名)と自分との二人が世話役を勤めた。
 吉田先生は埼玉に生家があり、京都松ヶ崎に自宅があった。先生は91歳になっても絶えず京都と埼玉の間を、苦にもせず、ご自分の足で往復しておられたが、「先生を囲む会」の世話役の手前、京都のご自宅を訪問する機会があった。約2時間の訪問においては40年前の師弟関係の再現であり、話題のイニシアチブはずっと先生の側にあり、教わるばかりの時間を過ごした。
 先生の京大退官後の足跡を振り返ると、先生は70歳になろうと80歳になろうと、ほとんど年齢と関係のない道を歩んでこられた。90歳になっても諸外国の研究者と交流して、世界中を歩き回って居られた。その昔、戦後間もなくフルブライトの交換教授として、数年間アメリカで教鞭を取られたこともあって、英語が極めて堪能であられた。また、退官前の京大教授の頃は、研究成果を日本の化学工学会に投稿するよりも、アメリカの化学工学以外の学会で発表する方が多いとされた先生でもあった。
 先生について最も感心するのは、60歳を越えてから、従来専門としてやって来られた吸収工学や蒸留工学など化学工学内の専門分野に捕らわれず、当時彷彿として沸き起こった新領域、すなわち医用工学や人工臓器等の研究に転進されたことにあった。年などとは本当に無関係に、怯まず恐れず、淡々と新しい領域に首を突っ込んで、新しい情報に接し、国際的な交友関係を一から築かれた。初老の人間、特に頭が固くなり始める頃には、是非、模範的なモデルとして、先生の生き様を見習うべきだ。先生の生き方は特筆に価する。
 この「吉田先生を囲む会」の世話役として、久しぶりに先生と並んで先生とお話をさせて頂いたが、本当にお元気であった。先生の長寿と元気の秘訣は何であったのだろうか?先生の元気エネルギー維持のノウハウが何処にあったのか? 自分としても、これらの秘密を知りたいのは、極めて、自然であった。
 吉田先生は我々弟子が大学を卒業する頃、先生の歳で言えば60歳のころから、山歩きにのめり込んで、「自分は年だ」などと言わずに積極的に体力の増進と維持に努められてきた。毎週のように、京都北山にハイキングに行かれた。我々が在学中はもちろんのこと、卒業してからも、先生から声が掛かって、ハイキングにお供したことも多い。しかし、何にも増して、年を取ってから、新しい世界を見つめ直し、ご自分の研究生活において新しい世界に没入して来られたことが一番の原因ではないか。
 自分自身は、誰に強制されるのでもなく、自らの意思で、会社エンジニアから経営コンサルタントに転進したと思っていたが、実は、潜在意識の中で、この吉田先生の生き様を密かに真似て来たのだ。先生は、80歳になってからも、ドイツ、スイス、イスラエル、ニュージランド、オーストラリアなどへ行って、講演をしたり、研究発表をしたりしてこられた。
 実際、大学卒業後、先生にお目にかかるたびに、元気エネルギーを頂戴した。60歳になってからも、恒例の秋の「先生を囲む会」でお目にかかるたびに、定年後の人生を送っている鼻たれ小僧の弟子達は、まだまだ、頑張らねばならないと感じさせられた。先生から見れば、まだまだ、赤子である弟子たちは「年だ」と言って、楽をしようとしてはいけないことを、先生は身をもって示されていた。
 下記は先生への記念品を贈るときに添えた世話役である当方の言葉である。手抜きをして、記念品として図書券を選んでしまったので、金銭を送る品の悪さを感じさせないため、オブラートに包む作戦であった。

 吉田先生
 昨年は卆寿をお迎えになりました
 誠におめでとう御座いました
 そして今年はプラス1年になりました

 おめでたい卆寿ですが
 それを越えるともっとめでたいと思います
 これから1年増えるごとにもっともっとめでたいと思います
 弟子たち一同吉田先生の健康を祝し大いにあやかりたいと思います

 そしてこれから8年経って
 ここに揃った弟子たち全員ともに元気で
 吉田先生の白寿を揃ってお祝いすることを誓います
 その願いを込めて先生の末永きご長寿をお祈りいたします

 吉田先生は
 学問の道では偉大な先達として
 また人生の道でも比類なき先輩として
 私たち弟子たちに模範を示し続けて来られました

 吉田先生は
 これからもご健康の証(あかし)として
 いつもお元気に埼玉と京都の間を往復してださい
 天気の良い日には埼玉や京都の小道を毎日歩き続けてください

 私たち弟子たち一同は
 心から吉田先生の今日のご健康を祝います
 そして心から先生の白寿の日をお待ちしています
 吉田先生の背を仰ぎ見つつみんな揃って頑張りたいと思っています
 
 これを皆の前で読み上げた。読みつつ感じたことは、此処でも、これはただの散文ではないか?であった。またもや、途中で何度も「皆さん、実はこれ、詩なんです」と釈明しながら、故意に抑揚を付けて読み上げた。もちろん、詩などと称するものは、学生時代から皆の前で披露したことはない。自分としても、とんだ恥をかいているような気がした。しかし、後刻、事の顛末や主旨を、司会進行役相棒の古田先生から補充説明された吉田先生は、「毛利君は詩が趣味とは大変羨ましい」「詩は絵と違って、後に残っても嵩張らないので大変良ろしい」などとのご感想とお褒めの言葉を頂戴したらしい。
 吉田先生には、幸いにもこれを「詩」と受け止めていただいた。また、記念品を金券にして特にご立腹の様子もなかったようだ。自意識過剰に陥らず、事前に勝手な評価をして遠慮して止めてしまわず、堂々とやって、その中を突き抜けば、それはそれで、案外、正当に評価され、うまく行くものだ。


第383話「ロータリークラブ」(平成15年~21年)

2009-03-14 | 昔の思い出話
 2004年4月に地域のロータリークラブに入会した。現状打開のきっかけか、はたまた何か商売に良い話がないかという打算がかなり働いての入会であった。
 早速、自己紹介を兼ねて、30分の卓話の時間を割り当てられた。しかし、ほぼ全員が初対面の社会的にも成功されている高いレベルの皆様を相手に、自分のことを、晴れがましく厚かましくしゃべる元気が起こらなかった。
 阪神西宮甲子園駅前にある高級ホテルのホールでの昼食の時間帯に行われる例会であった。この最初の場で、ロータリークラブと言うものは、自分にとって若干高尚過ぎるのではないかと感じた。よく分らない英語らしい専門用語が飛び交っていた。少し様子を見たいと思って、ジョギングの話を基に差し障りのない自己紹介をした。

 走るとは何でしょうか?
 走ることは肉体の訓練でしょうか?
 健康のためでしょうか?
 それもあります
 それもありますが
 もっと精神的なものを感じます
 走っている間は走っているだけで
 何も考えません
 いやいっぱい考えますが
 その間は思考が単純になります
 同じ時間に同じ人が歩いてるぞ
 同じ犬連れ同じ服着て同じ足取りだね
 それだけで何か安心するんです
 雨が降ってきても止めようか続けようか
 それだけです
 他のことは考えません
 そして雨を無視して続けます

 今日は天気がいいね
 気持ちの良い風だね
 甲山(かぶとやま)の上に白い雲が浮かんでる
 その下を鳥が群れて飛んで行く
 ニテコ池の草むらに赤い花が咲いてる
 澄んだ水に鯉が泳いでる
 道端にゴミが落ちてる
 水溜りだ、よけろ
 車が来たぞ、危ない
 踏むな、ワンちゃんの落し物だ
 頭の中を往来するのは
 そのようなことだけです
 しかし
 とても貴重なんです
 このような早朝の1時間が
 このような1時間を過ごした日は
 1日中気分が爽快なんです

 これを、みなの前で朗読している最中も、まるで詩を読んでいる感じがしなかった。聴いて頂いている方々は立派な紳士淑女で、真剣に耳を傾けてくれてはいるものの、自分はこの場とは何の関係もない、つまらぬ散文を読んでいるような気がして仕方がなかった。懸命に「実はこれでも詩のつもりなんですよ」と汗をかきかき、釈明の言葉を挟みながら、最後まで読み終えた。
 いずれ自己紹介の一つの手段としてやっているだけだ。ここでの自分の専門職業は経営コンサルタントである。しかし、自分は理系出身の論理分析だけが得意なコンサルタントに過ぎないと受け取られたくなかった。中身はともかく、自分はこう見えても詩人の端くれであると見栄を切って、出席者をビックリさせたかった。すでに齢65歳の男子だ。恥をかいても、汗をかいても、気にすることは何もないではないかと開き直っていた。
 このようにスタートしたロータリークラブへの入会であったが、毎週の例会の出席が大変な重荷であることが分ってきた。自分のように、これからも現場で現役生活を続けていこうとする者にとっては、毎週の例会に継続的に出席することに無理があった。例会は週日の昼食時であった。週日の昼間の時間帯は、大抵、ISO審査のための遠方への出張か、大阪地域での経営コンサルのための会社訪問があった。その結果、止むを得ない欠席が続き、1年も経たない間に、会長宛てに休会届けを出す羽目になった。
 また、ロータリークラブの使命は「社会への奉仕」にあるとのことであり、その精神は尊いと思ったが、自分の得意は現場の中で仕事を通じて奉仕することにあった。クラブのように、少し高い位置と余裕から、広角的な考えで、集団で組織的に人々に奉仕するような精神には慣れなかった。現場の仕事以外の場での間接的な奉仕を、気恥ずかしく感じたのである。自分は精神的に未熟であった。クラブへの入会時期が少し早すぎたのかもしれない。
 また、メンバーとしての資格には、一業種から1名という原則があった。それなりに地域や社会で、実業における貢献が認められなければならない。なかなか厳しい条件であった。この点については、メンバーのお一人である昔のX社の元上司の紹介と推薦を受けていた。結果的には、この元上司への義理を果たすことが出来なかった。折角の機会を与えてもらったのに、簡単に落ちこぼれてしまうとは! 大変申し訳なく思っている。
 自分は、人生の過程で、常に自分のことを中流の中くらいに思っていた。中流の中より少し上であるとすれば、凡人がただただ必死の努力で頑張っている結果にすぎないと思っていたのである。人様に大きな顔をして奉仕できるためには、自分には今少し何か不足しているものがあると感じた。
 クラブのメンバーの皆さんと比べれば、我が拠って立つ「有限会社K技術経営」があまりにもみすぼらしい。自分にはまだ時間がある。今少し現場で頑張って、這い上がる努力を続けようではないかと思うのであった。


第382話「初めての著作物出版」(平成15年~21年)

2009-03-12 | 昔の思い出話
 現在の生活を変えたい。何とかならんだろうかと思っていると機会は向うから飛び込んできた。コンサル仲間のA経営㈱のN社長から声が掛かった。
 「東京の出版社から研究開発マネジメントの分野で、
  管理項目を網羅したチェックリストのような本が書ける人を
  紹介して欲しいと言われています。
  毛利さん、ひとつどうですか?やってくれませんか?」
 渡りに船であった。何かすることないかと口をあんぐり開けて待っていたら、棚からボタモチが口の中に飛び込んできた。内容がどのようなものであれ、自分の口は脳ミソを経由せずに答えていた。
 「Nさん、OKです。喜んで引き受けます。出版社に
  紹介してください」
 その頃の自分は審査員業務が死ぬほどに多忙であったし、コンサル業務も同時並行しており、既に自分の時間は120%くらいの稼働率であった。さらに追加される著作の仕事は時間的に並立しないことは明白であった。しかし、何故か自分は楽観的であった。自分一人頑張って済むことなら、それは自分だけの問題であり、必ず解決できると思った。
 自分はN社長の紹介を受けて、東京四谷にあるUプロデュースという出版社の社長に面会に行った。社長は大阪で会っても良いとのことであったが、自分は「東京へ出張する機会があるから、その時に立ち寄る」とウソをついて訪問した。自分の方から訪問することによって、売り込みの立場を強化したいと思ったのであった。もちろん、後から東京での出版社以外の立ち寄り先を作った。話の辻褄は合わせた。
 出版社からは「研究開発マネジメントチェックリスト集」を1年掛かりで執筆してほしいということであった。400ページ以上、版権一括買取りで、印税はない。これが条件的に良いのかどうかは分らなかった。自分の頭は回転した。自分の報酬は、コンサルの場合、1日6時間で10万円を原則としている。400ページ以上の著作物を作るのでは、既に構想やアイディアがあるとして、1日で40ページを書き続けなければならないが、出来そうもないことは明白であった。しかし、自分の目的は金銭的報酬ではなかった。現状の忙しいことは忙しいが、変化のない行き詰まりを打開する取掛かりが欲しかった。また著作という初体験を経験してみたい。単独で著作物をものにしたい。これまでのキャリヤーの集大成としたい。人生の成功のモニュメントを構築したいとも思った。
 出版社と直接会ったのはこの1回だけであった。社長からは、3ヶ月くらい後でよいから、書物の構想をメールで送れとのことであった。着手に当たって、特に自分の履歴書を要求されたわけでなく、適性試験を課されたわけでもない。単なる口約束だけであった。もちろん先方の依頼状は書面で貰ったが、社長の押印があるわけでなく、単にワープロで作成したメモであった。もし、着手して数ヵ月後に、こんな詰まらない原稿なら要らないと言われたときにはどうしょうかとの不安もないことはなかったが、自分はとりあえず準備の勉強に取り掛かった。
 すでに、3ヶ月ほどのISO審査の予約やコンサル訪問で、自分の予定表はぎっしりと埋まっていたが、面と向かって約束した手前、約束を果たさざるを得なかった。勉強のための余裕の時間がなかったが、その勉強のほとんどは、審査員として東京やその他遠方の地方へ出張する際の電車の中で行った。また、勉強が最も捗ったのは年末・年始の連続する20日間の休日であった。
 事実、書物の全体構想はこの20日間の猛勉強で仕上げた。人々が正月の連休を海外で過ごすとか、何をして良いのか分らんので仕方なく車や家の掃除でもやるとかなどと思案しているときに、自分は日夜一心不乱の勉強をして過ごした。
 構想というものは、頭の中で仕上がったものを書面に書き写すものではない。パソコンと向き合って、最初にぼんやり浮かんできた擬似構想を叩き台にして、何度も何度も、死にたくなるほどに上塗りを重ねて段々と出来上がっていくものである。正月が開ける頃には、ほぼ構想の80%近くは出来ていた。メールで出版社の社長に送ると、直ぐにそれで進めて欲しいという連絡が入り、自分としてはこの時点でやっと面接試験が終了したような気がした。
 後はその構想に従って文書化していく。しかし、文書化の途中で、新しい事実を発見したり、新たな着想があったりして、出来上がってみると当初考えていたものとはずいぶんと違うものになっていた。自分は、昔から、化学工学でやるトライアンドエラー(試行錯誤)の習性が身についていることがよく分かった。何はともあれ、先ずやってみて、紙の上に具象化して、一度目の書き物を見て修正し、二度目の書き物を見て再度修正し、その修正を何度も繰り返してゴールに接近していくというアプローチしかできなかった。
 この仕事をしている間は、土曜日・日曜日といえども、ずっと何かやり残していることがあるような気がして心が落ち着かなかった。落ち着くためにはパソコンの前に座って黙々と作業を進める以外になかった。さすがに1日に16時間以上連続してパソコンをやっていると猛烈に目がかすみ、肩がこってくる。目薬を2時間おきに注し、寝る前には肩こりのサロンシップを張って床に入る毎日が続いた。
 自分は何かを始めるとそれが終わり切るまで、強烈なストレスに支配される損な性格であった。自分は気楽に遊べない損な人間に生まれ付いていたのだ。しかし、今更、悔やんでも仕方がなかった。この性質は遺伝子のレベルで定着しており、これを変更することは出来ないと諦めた。
 お陰で出版社の社長と約束した納期よりも3ヶ月早く、翌年の3月末にはほぼ予定の95%が終了していた。完成した書物は500ページ以上になった。やればやれるものだと我が意を強くした。その後、出版社の要請に従って、出稿原版の校正作業などをしたものの、実質的には3月末に仕上げた状態のままで完成させた。出版社の都合もあり、発刊日は数ヶ月遅れて11月上旬と決められた。
 ところで、この本はしっかりと売れたのであろうか?その後、こちらから出版社に問い合わせることもないまま、現在に至っている。その後、出版社から改訂の依頼やその他の連絡など特になく、出版社も東京都内のどこか別の場所に移転したそうだ。分野が研究開発マネジメントというごく限られた狭いものであっただけに、また、1冊の値段が約5万円という高額であったことなどから、飛ぶように売れたなんてことは考えにくい。今となっては、あの好意的な笑顔の出版社の社長さんに迷惑をかけていないことだけを祈っている。
 いずれにせよ、自分が生きている間に1冊の書物を書くことができたこと。内容はともかくも、我が人生に大きな意義と誇りを感じさせてくれたことは間違いない。出版社の社長初め、ご紹介頂いたN社長にも厚くお礼を申し上げたい。


第381話「結局は夢で終わったが」(平成15年~21年)

2009-03-08 | 昔の思い出話
 第380話で「中締め宣言」をやり、一応自分史のような、このシリーズを終わったものと考えていた。しかし、その後5年が過ぎて、世の中の諸行無常のご他聞に洩れず、我が身の周りにも色々な変化があった。今や多くのことを追記する元気は残っていないが、若干の補足をしておくこととする。

 2004年(平成16年)正月明け。ある日。早朝3時過ぎであったろうか、真っ暗な自宅の電話がけたたましく鳴り響いた。家内の母が大阪市内の病院で逝去されたとの知らせであった。しかし、自分は、事情があってお通夜にも、葬儀にも出席できなかった。
 実は審査機関の仕事で、その日の午後に出発し、翌日から九州は宮崎県都城市のある会社で環境ISOの審査リーダーを務めなければならなかったのである。この審査は、その会社にとっては、登録のための本審査であり、数年間の血の滲むような努力をして準備してこられたものであり、やっとのことで本番を迎えるものであった。自分は一月ほど前の事前審査のリーダーを担当した。この期に及んでは、自分以外に審査を担当できる人間が存在しなかった。
 運悪く、義母の死は自分が九州宮崎へ出発するその日の早朝であった。出発までの時間が切迫していて最早考える余地がなかった。自分は、煩悶の末、義母の病院と家内の実家を早朝に訪問し、お悔やみを述べ、不義理の極みであったが、そのまま宮崎へ出発した。断腸の思いであった。考えてみれば、義母は陰に陽に我が家のこと、家内、孫のことなど、我が家族の生活を強力に支えて下さった大恩人であった。その義母の葬儀に参列しないことはどう考えても許されるはずがなかった。
 自分は、自分の仕事を優先するという決断で、家内の親族の信頼感は地に落ちたことであろう。これまでに受けてきたご恩と、審査機関との恩を天秤にかけた時に、果たして、審査機関を優先させるだけの価値が本当にあったのか? 義母の死がこの数日前のことであれば、審査機関を優先させることは絶対にしなかったであろう。しかし、審査先への出発当日のこととなれば、当方の突然の審査辞退は審査機関の大混乱を招くことが必定であったし、仕事人間を40年間も勤めて来た自分には、仕事を犠牲にする決断が簡単には出来なかった。
 結局、自分は、その日から3日間、葬儀の行われる神戸を遠く離れた遠隔地宮崎で審査リーダーを務めた。身内の死とその間に葬儀があったことは、同行の審査員には話さなかった。また、審査対象の会社にも身内の死のことは一切話さず、黙って3日間の審査を終えて九州から帰還した。そして、この3日が終わった時には、通夜から葬儀までのすべてが平行して終了していたのであった。
 自分は帰ってからも胸が裂けるような思いであった。そのことを思い返せば返すほど腹が立つ自分であった。審査機関に対する義理は、親の葬儀を欠席しなければならぬほど大きなものであったのだろうか? 義母の死のことがなくても、そろそろ、審査員稼業から足を洗う時機に来ているのではないか? 親の死に目にも会えない審査員稼業を呪った。そして、何日か後に次のような夢を見た。

 『数時間後に新幹線で大阪から東京へ行く予定があったのに、何か忘れ物をしたような気がして、乗り込んだ列車(これも新幹線だった)で探し物を探し始めたら、あっと言う間に扉が閉まり列車が京都へ向かって走り始めた。「しまった!」次の京都で降りて引き返して、荷物を取りに自宅へ帰って、本来乗る予定の新幹線に乗ろうとしても、このタイミングでは絶対に間に合わないと思った。何とか京都へ着く前に、少しでも早く飛び降りるより仕方がないと思い、飛び降りる隙を狙っていると、運良く列車が徐行を始めた。何度か飛び降りを試みたが、線路の外側のガードが固くて、外の世界へは飛び出せそうになかった。いらいらしながら、走る列車の中でなおも機会を窺っていると、突然視界が開けた場所に差しかかり、列車は最徐行を始めた。今だ。自分は目を瞑って飛び降りた。大阪と京都の途中の高い土手の上だった。いつかどこかで見た場所だった。しかも、一度ではないように思えた。そうだ、昔も、またその昔も何かのことで、ここで飛び降りたのだった。今回も命だけは助かったし、これから大阪へ戻って初めの予定の新幹線に乗ることも何とかすれば何とかなるのではないかと思った』

 目が覚めてから、一体、今の夢は何だったのかと妙に気に掛かった。1時間近くも布団の中から飛び出せず、じっと考えた。探し物をするために乗った列車と言うのは、多分、審査機関という組織ではないか。列車の徐行は、数年来、何十件と続いたISOの審査がふと途切れて、一息ついたことと符合する。
 昔、飛び降りた一度目は、長年奉職したX会社という列車からであった。二度目に飛び降りたのは,次の勤め先であったX商工会議所を意味しているのか? さらに、自分は審査機関の審査員という列車からも跳び降りて、本来の願望(人生の目標・夢)である経営コンサルタントという列車に乗り換えようとしているのだろうか? 夢は自分に、それとなく告げてくれているのではないか?などと頭はぐるぐると回転するのであった。

 審査員というのは、ISO規格というルールに適合しているかどうかだけを判定する。野球で言えば審判のような存在である。それが企業の経営に役立とうが役立つまいが、書いてあるルールに違反しておればアウトを宣告する。審査員の頭に経営的に役立ちそうな何か良い提案やアイディアがひらめいても、それを言うことは許されない。企業が真面目に受け止めて、審査においては権限をもつ審査員に強制されてはいけないという原則が存在する。
 考えてみれば、このルールは良い着想の実験と実現に生き甲斐を感じる自分のような人間にとっては実に辛いことなのだ。また、ルールに適合しているか否かの判断は、どちらかというとやや低いIQで出来る仕事であった。審判であるよりも実際に野球をやる監督や選手の方が格好良いのは当然であると思った。
 この審判生活を数年やっている間に、自分は審査員であることにすっかり嫌気がさした。また、審査員の報酬は、実感ではコンサル報酬の5割程度に過ぎなかった。自分はもっと高いレベルで経営全体を見るような存在でありたい。審査員になるために、これまで苦労して長い人生を送り、勉強してきたのではない。審査員に甘んじて、審査員生活を主とした一生を終えるならば、これまでもっと楽な生活をして来ても十分だっただろうと思い始めると、これまでの人生が何ともむなしく感じられた。
 しかしながら、結果的には、自分は経営コンサルタントには成りきれなかった。我が「有限会社K技術経営」のコンサルティングのウエイトは50%に届かず、あまり大きく発展させることができなかった。継続事業としてどんどん拡大させたかったが、ほとんど個人的な営業の範囲でしか行うことができなかった。元々、個人経営のコンサル業というものは本質的にコンサルタント本人の個人的力量への信頼感に拠っているものであった。営業的には、他のコンサルタントに自分の取ってきた仕事を委託(下請)したり、営業そのものに大目のリベートを用意して新規受注を獲得するなど、ある程度成功したこともあったが、単発的な受発注に終わり、直ぐに限界に立ち至った。
 自分は総合的な経営コンサルタント業を目標としてきたので、他人に自分を紹介するときには、「私はISO審査員である」などと紹介したことは滅多にない。常に、「私は経営コンサルタントです」とか、せいぜい「私は中小企業診断士です」としてきたのであった。
 手が届きそうなところまで行きながら、実現できないもの。それが夢である。夢は人生に張り合いをもたらせる。夢は人生に意味と価値と目標を与える。自分にとって、経営コンサルタント業を事業として成立させることは、夢としての期待を十分に与えてくれた。夢で終わったにせよ、決して価値のないものではなかった。夢であっても、夢そのものは人生のあらゆる過程で人々に元気を与え、人生のプロセスを有意義なものに変換してくれるのである。


第380話「中締め宣言」(平成9年~平成15年)

2008-06-12 | 昔の思い出話
 これまでの半生を振り返ってみると、本当に長い道のりを歩んできたものだと思う。だが、よく考えてみると、自分はこの間に、人に誇れるような実績は何一つない。本当に何もやっていない。いや、ずっと何かをしてきたが、結果がないのだ。愕然とするくらい成果がない。色々と書き続けて来たこの手記を読み返してみても、情けないくらい自分がやったと言えるものがない。一体、これまでの人生は何であったのか?
 他の人間も似たりよったりかもしれないが、他の人間は他の人間。自分は自分である。この辺りで、もう一皮むける必要がある。蛇は大きくなろうとするたびに、皮を脱ぐ。カニはカニで窮屈な甲羅を脱ぎ捨てる。同じ皮を、着続ける人間は恥ずかしくないのかと思う。
 自分も60歳をいくつか越えて、昔の同級生や同僚はほとんど、第一線を引退した。「長い間、頑張ってきたので、そろそろ、悠々自適の生活に入ります」と、定年になった友人達の挨拶状を見るにつけ、一抹のわびしさが漂ってくる。まあ、十分に頑張ってきた人にはそれでもよかろうが、自分のような、未だ何も成果を上げていない人間にはその資格がないのではないかと考えさせられる。
 ところで、腹の立つ言葉に、シルバーエイジという言葉がある。髪が白髪となり、銀色を想像させることから、シルバーという言葉が生まれたように思われるが、如何にも人生の終着点に来たような印象を与える。列車やバスにもシルバーシートと書いてある。しかし、自分のイメージでは、シルバーとは90歳以上のことを言うような気がする。時に席が空いていて、うっかり座ってその席の後ろを見ると、シルバーシートと書いてあることがある。自分は慌てて、立ち上がって、席を離れるのである。自分がシルバーと思って、そこに座るには、それだけの自覚が必要であるが、自分にはまだまだその自覚が出来ていない。
 一層のこと、シルバーなんて言葉は日本語から廃止して欲しい。あえて言うならばゴールドと言って欲しい。「永らくのお勤めご苦労様でした、これからが人生の黄金期です」と言うべきだ。
 自分は、この人生のゴールデンエイジを、また違った角度から見ている。これまでの人生は何と遠慮に満ちた人生であったか。小学校に入るや否や、年次が上の上級生が居ていじめられたり、先生からは色々と指図を受けた。学校生活は大学を卒業するまで、ずっと先生や誰か先輩が居るのであった。会社へ入れば入ったで、上司が居り、同様に先輩が居て、それこそ、箸の上げ下げまで命令されたり、指示された。人事異動などは、一切異議申し立ての出来ない絶対命令であった。
 そのような生活を定年まで勤め上げれば、皆さん、ほっとする気は分かる。しかし、考えて見て欲しい。これらの束縛から脱することで、やっとのびのびと自分の人生を歩むことが出来る状態になったのではないか。この時期になってやっと、「さあ、これから好きな絵を描いてください」と神様から、真っ白なカンバスを与えられたのだ。これをゴールデンエイジと言わずに何と言えようか?
 本当の人生は60歳から始まるのかもしれない。自分が考え、考えたとおりのことを行い、失敗もし、反省もし、またやり直す。すべてが自分の脳幹を軸に回転する。そのような人生を開始する絶好の機会であり、その始まりでもある。
 永い人生。我が人生も折り返し点をかなり過ぎたことは確かだ。しかし、制約や束縛が少ない分、これから新な事業を展開したり、創造したりすることができる可能性は、これからの方がはるかに大きい。なぜなら、自分の時間があるからだ。これまでの人生の大半において、残念ながら、主体性のある自分という自覚がなかった。一人で考え、実行する勇気もなかった。いつも誰かに監視されているような気がして、どこかに恐怖の気持ちを持ち続けていた。
 60歳を越えてやっとそのような束縛がなくなった。いつのまにか、勇気も備わってきた。やる気も出てきた。昔のように恐るおそる上役の顔色を見上げる必要もない。これからの人生は、これから設計して、これから始めるのだ。その意味では、新たな人生の幕開けであり、これまでの永い、永い半生は、ほんの人生の序章であったのかもしれないとも思われる。
 自分はあと何年生きているのか自分にも分らない。ここまで書いて、もう一度、振り返ってみると、我が人生は、その起承転結を文字通りの起承転結で実践したような気もする。華々しい成功はなかったが、目的とした平凡な人生を淡々と歩むことは出来た。此処までの人生、案外、幸せな最高の人生を生きてきたような気もする。
 起承転結の「起」は技術者として身を立てるべく懸命に勉強した学生時代であったろうか。「承」とは、会社に入って心行くまで技術屋生活を楽しんだことであった。しかし、会社生活の最後で「転」を余儀なくされて、技術屋稼業を放棄した。結局、経営コンサルで「結」を志したが、世界の隅っこで専門外の小さなロウソクの火を灯しているだけのことである。これから、まだ少々の時間が残っているし、結論は出ていない。
 1回しか機会をあたえられない、この人生において自分は本当に幸運だったと思う。たかが知れた取り立てて能力もない男がここまで幸せに生きて来れたのだ。それは、生まれてこの方、自分の身の周りには自分を助けてくれた人が一杯いたからだ。会社の先輩や同僚や後輩達も、学生時代の諸先生方や同級生や友人達も、家族の者たちも、みな好い人ばかりであった。また、仕事や遊びや色々なことで、世話になったことすら気がついていない多数の方々も居られる。最後の最後に書くことになって、本当に申し訳ないが、自分の周りに居て、なにかれとなく気を使ったり、面倒を見ていただいたりした、これらの方々に、本当に心からの感謝を捧げたい。
 この長話をこれ以上続けると、いよいよリアルタイムの実況中継になる。この話の主人公が昭和15年(1940年)に生まれて、延々と平成15年(2003年)までの64年間、生きて、考えてきたことのほとんどすべてを洗いざらい白状した。考えてみれば、クソ真面目だけが取り柄でここまで来たのであった。誉められるところの何一つない人生を最後までさらけ出して、「何だ、こいつ。何とツマラン人生を送ったねぇ」と思われるのも癪だ。自分にはまだ少し先がある。もう少しだけ頑張ってみたいと思っている。ほんの少ししかない夢と希望のかけらを残して、この辺りでパソコンのキーボードを置くのがよい。
 最後に一言。「今日と言う日は残りの人生の最初の1日である」という言葉を、毎朝、口に出して1日の始まりとすることを死ぬまで続けたい。


第379話「人は何故生くるか」(平成9年~平成15年)

2008-06-11 | 昔の思い出話
 自分は高校生の頃から哲学と言う言葉にずっと憧れを抱き続けてきた。「人は何故生くるか?」「世界とは何か?」「宇宙とは何か?」「その中で人が生きる意味は何か?」などが気になって仕方がなかった。しかし、この年になるまで、これらについて本当に分ったと思ったことは一度もない。また、哲学とは、当初は知識欲の対象に過ぎなかったが、年を経るとともに、目の前に存在する苦悩や煩悩と対決するための、なくてはならない思考手段と化していった。
 高校生の頃、物心が付き始めて会社に入るまでの時代は、恵まれたごく少数を除いて、基本的に人々の生活は貧しかった。心の問題よりも、目の前の窮乏を何とかしなければならない時代であった。この頃は人々のものの考え方は概ね唯物論に支配されていたような気がする。
 戦後は何十年にもわたって、共産主義の国が世界の半数を占めていた。共産主義とはマルクスの説く史的唯物論の世界である。また、進歩的という言葉の意味は科学的社会主義を信奉することであった。分りやすいということもあって、自分はずいぶんと子供の頃から、唯物論的なものの見方を信じていた。我々が受けた戦後の平和教育の中では、唯物論的な認識論が最も科学的であると思われたのである。
 しかし、唯物論に立脚した共産主義体制の国の後進性、特にソ連や中国などの国家における政治的な独裁体制や、数十年前のわが国の学生運動家の破壊活動に狂奔する有様などを見るにつけ、唯物論的なものの見方に少しずつ疑念を感ずるようになった。彼らは、あまりにも非人道的であり、独善的であった。なぜか? 多分、彼らこそ、社会科学とか科学的社会主義という名前を冠して、絶対的な真理であるとされた史的唯物論を信奉していたのである。
 絶対的な真理を信奉するとは、結局、それを神様と言わなくても、神と同等の対象を信ずることに他ならない。マルキストにとっては、マルクス主義以外の哲学は真理ではないのである。彼らには史的唯物論という絶対的な真理以外の哲学が認められなかったのだ。思想的にほんの僅かの差異があるだけで、同じグループのメンバーが異端として排除された。スターリンも毛沢東も金日成もすべて神様に祭り上げられ、その一言一句が神様の伝道師として神聖化された。彼らはマルクスと言う絶対的な最高神を信仰する狂信者と化していった。神様に抵抗する者がおれば、それは悪魔に相当する反逆者であり、悪魔なら人間ではないと言うような理由で処刑や殺戮の対象となった。立脚する哲学が少し異なるだけで排撃され、粛清されていったのである。その帰結が如何に非人道的なものであろうと絶対的な神の下での異端は異端であった。エトスやパトスに欠けたロゴスだけの論理の帰結とは恐ろしいものである。
 その後、自分は自然科学と親しむ世界を歩んだが、自然科学に対するものの見方もずいぶんと変ってきた。当初はもちろん主体と客体を画然と分けて考える二元論を信じていた。自然は即ち客体であり、それ自身が独立に存在すること。基本的には、このことについて疑問を挟む余地がなかった。人間という後から世界に割り込んできた者の観念が自然と言う客体を認識しようとしまいと、客体それ自体が存在していることには疑いようがない。しかし、自然という客体を理解する自分の理解の仕方は、ずいぶんと変化してきているのである。
 まず、人間は自然という客体を100%完全に理解できないことの認識である。自然科学の発達により、人間の知識はずいぶんと拡大した。何でも神様のせいにして、ただ拝むだけの時代は過ぎたのである。現在では宇宙の果てまで望遠鏡で覗けるし、電子顕微鏡やその他の装置を使えば分子や原子のレベルまで観察できる。しかし、人間の見える範囲には限界があるし、その外側は人間の頭脳の産物である推論やモデル化に頼らざるを得ない。結局、人間が観察する限り、如何に科学が発達し技術が進歩しても、其処には必ず限界があり、結局は対象を完全に把握することが出来ない。人間の科学的分析能力の拡大とともに人間の描くモデルは段々と真実に近いものになっていくが、それはあくまでもモデルに過ぎず、100%の真実ではないのである。対象が人智の及ばないほど複雑だからではなく、実体を確率でしか議論できない世界や推測でしかモノが言えない世界も相当のウエイトで存在する。
 また、人間にとっての価値や意味と言うものも客体自体から生成しない。唯物論が根拠を失うのはこの点にある。人間の生存にとって最も重要な概念は意味と価値であって、その意味と価値を重視する人間が客体をある種の偏見で見る限り、客体を100%確実に把握できないのは当然であり、また把握できなくても良いと思われる。
 自分のような凡人は普段の生活が忙しいので、なかなか哲学を哲学として勉強する時間がない。哲学史でサルトルの実存主義やフッサールの現象論などを見たり聞いたりすることがあっても、実生活の現場にしっかりとそれらを取り入れて、実践的に応用できるほどには理解が進まない。フッサールの現象論などは、その基本となる認識論からして自分の能力の範囲の外側にある。だが、ずいぶんと気にはなっている。ひょっとすると、現象論は、自分にも、より価値と意味に富んだ認識論を提供してくれるかもしれないと感じている。唯物論のような絶対的な認識論ではなく、相対的というか関係的というか、主体と客体の間にはかなりのクッションが存在している。これからまだ暫く勉強を続けるつもりだ。
 また、数年前の母の死以降、ずいぶんと般若心経の本を読んだ。東洋の仏教哲学の代表として般若心経についても相当の時間をかけて表面をなぞった。しかし、般若心経の説く不生不滅や色即是空は分ったようで分らない。空や無の思想に至ってはなおさら分らない。現在までのところ、実生活とは無縁の思想となっている。しかし、この哲学にも捨てがたい味がある。少なくとも生きていることを卒業した時点で、突然、真理に転換することは間違いない。が、色身を持った身でこの哲学を受け入れてしまうと、この世が全くの無意味とも思われて生きていくことがいやになったり、自分ひとりだけの悟りを追及する独善に落ち込む可能性がある。副作用の方が気になる。しかし、これもまだ暫く勉強を続けたい。
 生まれてこの方、六十有余年の無駄飯を食ってきたが、実は、未だに生きることの意味が分からないでいる。生きることに意味がないと言っているのではなく、ただその本当の意味が分からない未熟人間であることが悲しいと言っているだけだ。楽しいことよりも苦しいことが多い世の中であるが、分らないだけに、ただこつこつと努力して生きるしかない。
 ただ黙ってこつこつと生きるのは牛も然り。蟻も然り。牛も蟻も我が人生の象徴として格別の存在であった。牛は「もおう」と啼くだけだ。文句も言わず、渾身の力で一歩一歩踏みしめて歩く。牛は何も考えず前進するだけである。必然の一歩を踏み締めていく。蟻も文句を言わない。朝から晩までただ忙しく働いている。小さな一歩の数を重ねて行きたいところへは必ず行く。牛も蟻も死ぬまで働いて命が尽きれば死ぬ。何が楽しくて彼らは生きているのかと思う。しかし、牛も蟻も自ら死を選ぶことをせず、黙々と働き続ける。一体、彼らと自分とは何処が違うのかと感じて常に親近感を抱く。
 自分は生きることの意味が今の時点でもまだ本当に分っていない。しかし、そのうちに分る時がきっと来る。まだ分るほどに勉強もしていない。人生経験も不十分だ。牛や蟻のようにこつこつと歩き続ければ最後には分る。その時がいつかは来る。そう思ってただひたすらに生き続けるだけだ。
 この自分史をモデルにした長話も間もなく終わる予定だ。ずいぶん長編になったが、書きたいことのうち本当に書けたことは多くない。表現力における能力面もさることながら、忘却の彼方に去ってしまったことや、書く前に見栄や外聞に左右されてしまうことや、どうしても他人には見せたくない内部の葛藤などが一杯あるのだ。自分史においても、真実は一つかもしれないが、それを100%正確に捕捉して記述することは不可能なのである。丁度、認識論において、人間が自然や客体を100%確実に捕捉し得ないことと本質的に共通している。ここに表現しえたものは、やはり、一つの仮想的なモデルであり、実体の近似値に過ぎないものだ。
 いずれにしても、「人は何故生くるか?」は永遠の課題である。自分はあと何年生きるか、どのような死に方をするのか、自分が死んだ後の世の中がどのようになっていくのか。死ぬ時が来るまで分ることではないが、分りたいという願望を最後の最後まで諦めたくない。老いとともにボケが来ようが、大病におかされようが、諦めることをせず、最後まで「人生とは何か」を考え続けたい。そして、死ぬまで分るための努力をしたことに満足して、ひっそり静かに死んで行くのも良いことではないかと思っている。


第378話「化学工学を選択して良かった」(平成9年~平成15年)

2008-06-10 | 昔の思い出話
 そろそろ、この長話も終了の予定であるが、終わる前に一言書いておきたいことがある。それは大学における専攻のことである。自分は工学部の出身であるが、卒業した学科は当時の名称では化学機械学科。その後は化学工学と変わり、さらに様々に分化・多様化して、現在、どのように呼ばれているのか自分にもわからない。
 自分が化学工学を専攻することに決定したのは高校を卒業してからのことであった。最初は航空学科を受験したが、幸か不幸か入試に失敗した。その後、心が千々に乱れて、悩みぬいた末、志望学科を変更した。実は、高校生の分際で、航空学科も化学機械学科も、そもそも、それが一体何をするところかよく分かっていなかった。高校の担任の化学の先生に聞きに行ってやっと決めたのである。入学してからは、それで生涯の身を立てるものと思って、至極、真面目に勉強し、大学院まで行き、化学系の技術者として会社に就職した。
 しかし、化学工学を意識して仕事ができたのは卒業後せいぜい10年くらいであった。研究開発の仕事が多かったにもかかわらず、いわゆるケミカルプロセスとは無縁であった。その後、さらに続いた在職20年の間、化学工学との関係は遠ざかるばかりで、退職後の現在では完全にゼロの関係となった。このような関係で半生を送りはしたが、自分は、今でも、自分のことを化学装置および設備が専門の化学技術者だと思っている。三つ子の魂とでも言うのであろうか。
 仮に生活や仕事の場で自分の専門知識を使用する機会がなくても、何らかのバックボーンは必要であると思っている。常に頼るべき基本的な哲学が欲しい。この哲学は一つの分野で奥義を極めれば、他の分野でも似たような原則が支配しているのではないかと考えている。
 化学工学という学問は局在のミクロの世界だけでなく、システム全体にも目を向けさせるような視点をもった学問であった。この学問のお陰で、自分はかなり早い時点で、基本となるものの見方が確立できたように思っている。何も知らずに選択した偶然とはいえ、青年の時代に化学工学を選択し、そのことにより、時にはシステム全体を見る大局観を得て、人生の大半を過ごすことができたことを大変幸運に思っている。
 自分は化学工学の原則は次の3つに集約できると考えている。
 システム全体を一括りにして考える時、化学工学は、①物質収支、②速度論、③平衡関係、の三つを基本の柱に据える。もちろん、専門科目としての研究対象は専ら化学プロセスに関るシステムであるが、この原則は化学プロセスに限らず、森羅万象、社会や経済や医学や自然現象などのあらゆるシステムに共通する原則であると思われる。専門用語のせいで、少し分かりにくくなるが、内容は難しくない。以下、その概要を述べる。
 ①の物質収支の意味は、世界中の物質は全体で見れば増えも減りもしない。言わば般若心経の不生不滅のような概念が基本となる。システムに入ったものの合計と出たものの合計は同じということ。これは、会社の損益計算書や家計の現金出納帳と全く同じである。あらゆる世界では出入りの収支がバランスしているのである。人間の現在の体重にしても、生まれてこの方、食ったものの総計から、排出したものの総計を差し引けば現在の体重となるが如しである。
 ②の速度論。これについても、そんなに難しいものではない。ものごとが変化する場合の変化の速度を決める原則のことである。水が高いところから低いところに流れる場合、勾配がきついほど速い速度で流れる。温度が周囲の温度よりも高ければ高いほど冷める速さが早くなる。雲の流れや風の速さにしても同じ。高い気圧から低い気圧に流れる場合のスピードは気圧の差が決める。人間で言えば、願望や欲望が強ければ強いほど、人は頑張るし、その達成度も高くなる。みな同じである。すなわち、変化の速度は推進力に比例する。推進力とは理想や目標の状態と実態との差と考えればよい。
 ③の平衡関係。これについてもすべての自然現象、経済現象、人間の精神生活などのあらゆる場面で共通する概念である。プラスの方向とマイナスの方向への変化の速度は、それぞれ②の速度論で決まるとして、十分の長時間が経過した時点では、プラスの方向への変化とマイナスの方向への変化する速度が拮抗する点でバランス点が決まると言う原則である。バランス点は環境や状態の関数となる。
 心理学に当てはめると、苦労して何かを獲得しようとする時、予想される苦労の量と得られる成果の見通しとの差が成果という最終的な到達点を決めるのである。苦労が多いほど達成への速度は減ずるし、期待が大きいほど達成への速度が上がる。このとき、周囲の人たちの見ている目や期待度などが平衡状態(到達点)を決定する環境条件と考えればいいであろうか。理屈の上では、平衡する位置は無限大の時間が経って到達する点のことを言うが、現実の時間内では平衡点に到達することはない。現実は絶えず究極の平衡状態に向かおうとするダイナミックな運動の過程にある。
 経済学で言えば、物の価格と購買量の関係も同じ平衡関係で説明できる。高ければ買わないし、安ければ買う。この平衡関係である価格に対する購買量が決まる。人間の健康状態についても然り。健康への意欲や努力と自堕落に流れる生活習慣とのバランスで、その時の健康状態が決まってくる。世界のあらゆることは、この3つの原則で決められているように見える。
 学生時代に勉強する専門とは、この原則を理解する一つの方便に過ぎないのではないか。よく言われることであるが、一つの専門を極めれば、掘り下げた地下では水脈がみな一つに繋がっている。世界の原則はすべて同じであることに気付くのである。化学工学の技術者はこの三つの原則を化学プロセスに当てはめてシステムの基本設計を行う。お医者にしても、人間の身体の中で起きている現象を同じ原則で理解しているはすだ。国の経済にして、経済現象の90%くらいは①の物質収支だけで理解できる。
 自分は学生時代、化学工学というごく狭い範囲の専門の勉強を通じて、この3原則を学んで以来40年以上経っても、まだこの3原則が間違っている現場に出食わしたことがない。国も、社会も、生命も、会社のような組織も、すべて一つのシステムである。システムは無数のプロセスから成り立っており、すべて共通の同一原則が働いている。それぞれのシステムには驚くほどのアナロジー(共通点や相似則)が存在する。人間の考えることは、結局、同じであり、自然現象や社会現象の根底の部分理解が深まれば深まるほど、より単純な同一の原則に基づいていることが分ってくる。
 こんなことを考えて、結論として、自分は化学工学を専攻して良かったと思うのである。化学工学を選択した後は、あまり迷いもせず、懸命に勉強してよかったと思うのである。その後で、実務的には仕事や生活の上で、勉強したことがそのまま役に立っていなくても、十分のリターンは得られていると思うのである。
 大学進学前に高校生の諸君で自分の将来をどうするか悩んでいる人も多かろう。また、現在、サラリーマンで自分の将来について悩んでいる人も多かろう。過去に選択した自分の進路が誤っていたのではないかと思うこともあろう。しかし、何をやっても結局は同じである、あるいは同じであったと考えれば気も楽になるのではないか。いずれ人間の世界の出来事だから、基本的な思想・原理は人間の能力や限界を越えるものではない。
 思うに、小さな世界で、自分ひとりの勝手な思い込みで、世界を小さく考えない方が良い。自分の能力だって、思いのほか大きいかもしれないし、やればほかの何だってできるかもしれない。最終の結論が同じ所に落ち着くならば、くよくよ考えるよりも、先ずは今の現在を懸命に頑張るが良い。変化を求めるなら、その第一歩を早く踏み出せばよい。どの道を選択しても、結局は同じところへ到達するのだからと、割り切ることが大切だと思う。そしてまた、分からない将来のことや済んでしまった過去のことで、くよくよ悩むよりも、現在の時間をしっかり生きるがよい。自分の考えや意思を強く持つことは大切であるが、運を天に任せて自然に生きることも思いのほか心配が少ない。個人が一人で思う可能性よりも、天が授ける可能性の方がはるかに広大だ。結局は、他所でもみな同じことをやっているのであり、要らぬ心配は無用と言うことである。