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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

「坊ちゃん」

2009-02-03 | 読後感
夏目漱石の「坊ちゃん」を読みました
多分大昔に一度読んだと思います
ストーリーや登場人物はなぜかほとんど知っておりました
東京の物理学校を卒業したばかりの主人公坊ちゃんが
数学の先生として松山の中学校に赴任します
直情径行、反俗精神で周囲の愚劣や無気力と戦います
最初の下宿では主人と虫が合わず
道後温泉で蕎麦を食ったと冷やかされ
学生たちから寝床にイナゴを放り込まれ
中学校の生徒同士の喧嘩騒ぎに巻き込まれて警察沙汰となり
ここに書ききれないいろいろなことが起きます
ここで坊ちゃんの気に食わないのが
教頭赤シャツとその取り巻き画学教師の野だでした
また事なかれ主義の権化タヌキこと校長もそうです
坊ちゃんの唯一の味方は数学教師の山嵐です
山嵐とも初めのうちは気が合いません
お互い似たところのある性格からでしょうか
赤シャツは帝大卒で優しい声を出す気持ちの悪い男です
頭がよいのでこの中学校のほとんどのことを支配しています
また裏でこそこそ芸者やマドンナ嬢と付き合ったりしています
陰湿なイジメもやります いやな男たちです
ある時赤シャツは明け方まで
料亭で良からぬことをして朝まで遊んでいました
坊ちゃんはそれを待ち伏せして懲らしめるのです
坊ちゃんらしく素手にて腕力も振るいます
散々仕返しをして坊ちゃんは中学を辞して東京に帰ります
まことに痛快!です
日本は昔から「やられたらやり返す国」だったんですね
今ではこのように自由自在に振る舞える坊ちゃんが羨ましい
今時の若い者はこんなに自由には生きていけないでしょう
現代はいつの間にかガマンガマンの日常生活になっています
ストレスを開放する場所がありません
坊ちゃんは東京に帰ってから昔からの下女(老婆)清と仲良く暮らします
坊ちゃんと清の仲がこの小説の一番のロマンスと言えます
誰が読んでも良い本ですが
テーマが古く 感激する部分が少なく
ずば抜けて面白い本ではなかったように思います
この本は一度お読みになった方で
昔の郷愁を味わってみたいと思われる方にお勧めの本ですね


「行人」

2009-01-25 | 読後感
夏目漱石の「行人」を読みました
いきなり大阪梅田駅から始まります
天下茶屋や浜寺の地名も出てきます
和歌山の和歌の浦や紀三井寺なども出てきます
漱石の小説とは思えない出だしです
小説には多くの人物が出てきますが、
主たる登場人物は、長男一郎、その妻、二郎、一郎の同僚Hくらいでしょうか
東京帝大の先生、一郎が主人公です
家族は、両親も一郎も二郎もみな東京の一つのお屋敷に住んでいます
一郎とその妻との関係、一郎の精神的な苦悩、夫婦関係などが主題です
語り部は弟の二郎です 手紙の形の同僚Hの報告で終わります
一郎は、純粋な性格で、学問だけが生甲斐の学者です、
また、わがままに育った長男として内面では大変生きにくい毎日を送っています
純粋すぎる一郎は妻との仲が上手く行きません
一方の妻は貞淑で賢いのです
一郎は妻からも敬遠されるのです
妻は一歩距離を置きながらも一切の弱みを見せません
それが一郎に大変な精神的苦痛を与えました
もちろん一郎は妻を愛しています
しかし妻を信ずることが出来ません
妻は弟の二郎を愛しているのではないかと一郎は疑います
平行していろいろな話が進みます
東京の屋敷に同居する下女のお貞さんの縁談が進みます
佐野という大阪に住むサラリーマンとの縁談です
不思議な縁談で双方写真でしか見たことがない間柄です
岡田という保険会社のサラリーマンの男がこの二人の縁談を紹介したのです
お貞さんと佐野との縁談の可能性を探るべく
一郎、一郎の妻、母、二郎は大阪へ家族旅行を兼ねて来るのです
ノイローゼ気味の一郎は弟の二郎に変なことを頼みます
妻と一晩外泊してくれと頼むのです
二郎は兄からの半ば強制的な願いを聞き入れてしまいます
たまたま台風が来たため帰れなくなり
和歌の浦の宿で二郎は兄一郎の妻と二人だけの外泊になってしまいます
二郎に分ったことは
一郎の妻の賢明さと女としての強さだけでした
妻には何の問題もありません
妻は自分のことを「腑抜け(魂の抜け殻)」と表現しますが
そのことの原因は一郎にあります
二郎は一郎に簡単な報告をしますが一郎は納得出来ません
他方、佐野の縁談も無事に進みます
この時代の縁談は、東京と大阪の知らないもの同士が簡単に結婚します
そして結構上手く行きます そんな和やかな時代だったんですね
一方、不幸な結婚生活から気の狂った娘さんの話も出てきます
気が狂って初めて本心が出るのか、
気が狂っているため本心が分らなくなるのか
人の心は難しくて分りません
一郎の夫婦関係を含め、人の本当の心の中身は分りません
というような感じで、一郎の周りの日常が進みます
最後は一郎の病的な精神性がどのように決着するかということになります
二郎は一郎の大学の同僚のHさんに依頼します
Hさんは一郎の心理状態を身近に知るために一郎を旅行に誘います 
一郎はしぶしぶ同行します
ある夜旅先で一郎はHさんに語ります
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。
僕の前途にはこの三つのものしかない」と
Hさんが二郎宛に報告の手紙を書いている間、
一郎は旅先の宿でぐうぐう眠ったままです
このHさんの長い手紙で、小説は終わります
結局、この小説には結論がありません
一郎は、この後、少し気の狂った状態から回復するのでしょうか
明治や大正の時代から生きるということは既に大変苦しいものだったんですね
現代になってうつ病が蔓延することを漱石は見通していたでしょうか
漱石が自身で既に身をもって体験していたのでしょうか
人の内面は外見から分かりません 難しい問題です
この小説は大正の初めに朝日新聞に2年にわたって連載されました
文体は平易ですが気楽に読める小説ではありませんでした


「こころ」

2009-01-20 | 読後感
夏目漱石の「こころ」を読みました
大正時代に創作された夏目漱石の名作です
「こころ」には「私」、「先生」、「K」の3人が登場します
「先生」と「K」は大学(当時の東京帝国大学)の同級生です
「K」は将来、「先生」の妻となる女性に恋したことから自殺します
「先生」は、友人の自殺の事実を何十年も悔やんで、最後にやっぱり自殺します
「私」とは、その事実を観察する第三者の位置づけの仮の主人公です
自分は、この年になって初めてこの小説を読みました
何ともやるせない気持ちになって最後のページを閉じました
「先生」「K」「私」3人とも、出自は素封家、生活には何の苦労もありません
現代人の目から見れば、3人が3人とも定職にも付かず
しかも 最高学府の帝大卒またはその学生という恵まれた身分でありながら
なぜか人生に悩みぬいて悶々と生きています
そして 2人が自殺するなんて 
そんなこと ありうることでないと感じます
人間とはいったい何なのかと思います
幕末大政奉還の年に生まれ、明治を駆け抜けた漱石の心の中身も
現代人の悩み多き我々とほとんど違っていないのではないか
そして 時代が変わっても 
やはり 人間は弱い 真面目な人間ほど弱い と感じます
こんなひ弱い男たちが明治や大正の時代に存在することができたのかと
信じがたい感じがします
シェークスピアは「弱きもの 汝の名は女なり」と言いました
実際は「弱きもの 汝の名は男なり」が正解のようです
しかし 自分はこの小説を2度と読むことはないでしょう
読むほどに、人間の弱さ、衷しさを思い知らされたからでした


「草枕」

2009-01-12 | 読後感
夏目漱石の「草枕」を読んだ
『山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』
冒頭のこの名文句は有名だ
大学入試の受験参考書、模擬試験などで散々お世話になった
お陰で、すっかり、読んだつもりになっていた
最後まで読んで再発見、実は初めてであった
この小説 実は筋がない
「余」と称する画工(画描き)の旅の逗留記である
漱石の深い漢文の素養や多彩な語彙
これに付いていかなければ読みきれない
東洋的幻想の世界、墨絵の世界、俳諧の世界
芸術や詩についての感性がなければ読みきれない
筋だけに興味を惹かれる現代人には読みきれない
情緒と非人情だとか オフェリアの世界だとか
思想や哲学的な概念の理解力がないと読みきれない
筋といえば、不思議な女「那美さん」のことだけだった
美人で、勝気で、利口で、出戻りの女
俗塵を離れた山奥の桃源郷を舞台に
温泉付き民宿の女主人となって「余」の関心を惹く
この女とて、遠景にちらほら現れる役者の一人に過ぎない
どのページを開いても
俳句のような 詩のような 画のような世界
絵画的感覚美の世界
官費で留学した帝国大学英文科のエリートの作品とは思えない
ロンドンで精神的におかしくなりかけた理由も分る
漱石には東洋の学問的素養や教養があり過ぎたのだ
文庫本巻末の注解(語彙の説明)を頼りに
辛うじて最後まで読みきれたことを誇りに思う


「クヌルプ」

2009-01-04 | 読後感
ヘルマン・ヘッセの「クヌルプ」を読んだ
副題は「クヌルプの生涯の三つの物語」とある
多分自分が読むヘッセの最終版となるであろう
日本語に翻訳し出版されたものは大概読んでしまった
もう自分には読むべきヘッセはなくなった

思うにヘッセの小説は大半が詩であった
南ドイツのアルプス地方
澄んだ青空と流れゆく綿雲
緑なす山並みと白雪を頂く連山
群生する高山植物、花の匂い
めーと啼く羊、モーと啼く乳牛
点在するこぎれいな町・村・教会・尖塔・広場
主人公クヌルプはその中を放浪する
淡々と生きて
そして死ぬ
クヌルプは定職も地位も富も得ようとせず
孤独の流浪を好んだ
最後には失意の中で雪の山中で路傍に倒れる

一編目は「早春」
クヌルプの青年期を描く
クヌルプは病み上がりだったがみなに好かれた
美少年でおしゃれで歌が上手で踊りも上手かった
若い女性にも年寄りの女性にも好かれた
人を楽しくさせる名手であった

二編目は「クヌルプの思い出」
クヌルプは過去の自分を語る
クヌルプはひょんなことから
将来を約束されたエリート養成校(中高一貫校)を中退した
フランチスカという年上の娘に恋をしたからだった
フランチスカが言った
将来あるエリート高校生よりも腕のある職人でなくてはイヤだと
クヌルプはフランチスカのために
自ら高校を追い出されるように図った
だがフランチスカは他の機械工を愛した
クヌルプはフランチスカにからかわれたに過ぎなかった
クヌルプは最初の恋人に裏切られて人間が信じられなくなった
そして定めのない旅職人になった
行く先々で農民に話を聞かせ子供達と遊んだ
みんなクヌルプに宿を貸しごちそうした
クヌルプは中年になっても放浪を続けた
幸せな毎日であった

最終編は「最期」
クヌルプはとうとう生活力のある親方にはならなかった
しかし人生の芸術家になった
クヌルプは病気になった
医者にも見せず放浪を続けた
最後に雪の山中で行き倒れた
クヌルプは死に際に自分の人生を後悔していた
成功者になれなかったからだ
だが結果的にはそれで良かったことを知った
クヌルプは死の瀬戸際で朦朧としながら神と対話したのである
神はこの世にそういう人間をも必要としていると言われた
自分らしく生きたことに意義があると神に言われた
ここで初めてクヌルプは自分が自分らしく生きたことを知った
クヌルプは安心した
クヌルプは自分のことだけでなく
周囲の人たちをも幸福にしていたのであった
クヌルプは自分が自分自身を生きたことに満足して目を閉じた

クヌルプの人生
終始、飄々として屈託がなかった
自身のペースを守って生きた
詩人ではなかったが詩人のように生きた
著者ヘッセはこのようなクヌルプの生き方を肯定しているのだ
また、ヘッセの主張は次のとおりだ
「おまえ自身のあるところのものになれ」と
「デミアン」も「車輪の下」もみな同じ主題であった
これがヘッセの文学上の一貫したテーマであった

組織・仕組み・時間・目標・計画・効率・成果・責任
これらに追われて生きる現代人には羨ましい生き方だ

我がことにつき思う
これまでの半生は仕事だけの人生であった
落ち着きのない多忙な時間に支配された
しかし まだ若干の残りの時間がある
望むらくは
心に余裕を持ち
おおらかな詩人の心境で
多くの時間を過ごしたいものだ
完璧で居るよりも人間らしくしている時間を選びたい


「竜馬がゆく」

2008-12-07 | 読後感
司馬遼太郎を読んだ
タイトルは「竜馬がゆく」である
文庫本で8冊
長編だった
昨年 同じ作者の「坂の上の雲」を読んだが
それ以上の読み応えがあった

西欧列強の威嚇的な開国要求が厳しくなる幕末の頃から
徳川慶喜の大政奉還に至るまでの激動の約二十年
熱血の英雄坂本竜馬の生き様を描く歴史小説である
竜馬は土佐では恵まれぬ階級の郷士(下士)に生まれた
若きより剣術の才能には秀でていたが
粗野で風采構わぬ野人でしかなく 才気煥発とは言えず
さしたる思想や哲学なく凡庸の少年時代を送った
だが竜馬は長足の進歩を遂げる
先人のない独自の見識を構築した
関心は土佐藩を越え日本を越え世界を志向した
商才と経営のセンスがあった
人間としての温かさがあった
多くの美人を魅了した
はるかに高い地位にある勝(海舟)や桂(小五郎)や西郷(隆盛)と相まみえた
公卿の三条実美や岩倉具視などとも相まみえた
彼らと対等に付き合った
既存の役人のヒエラルキーを上がるのではなく
自ら活躍する場を自分の力で構築していった
先例なき時代に海援隊という貿易商社を作った
有力者のコネや信用でこれを私設の軍事力(海軍)に発展させた
倒幕の原動力となった薩長同盟の陰の立役者でもあった
やがて維新の元勲となる連中の中でリーダーシップを持つに至った
ゴールである慶喜の大政奉還も竜馬の発想であったという
これをコーディネートし実現させたのも竜馬であった
明治維新の人事を含む政権構想も原案は竜馬が作った
身分なき脱藩浪士の竜馬にどうして可能であったのか
奇跡としか言いようがないが 秘密はある
他の人間とは目の付けどころが違うのだ
先ず小手先の策を弄しない
真っ直ぐに進む
西欧的国際ルールを理解している
部下に生命を投げ出させるほどの共感が得られる
人間性がある
人としての平等の意識に目覚めている
人を見る目がある
人を信頼している
細部に拘泥しない
大局観を持っている
目的意識が明確である
目的達成の使命感と情熱を持っている
人間のスケールが大きい

そして最後に竜馬は暗殺されて終わる
下手人は新撰組であったか真実が不明のまま終わる
維新回天に最も活躍した人間が何のリターンもなく死んで終わる
天の定めとは言え無情なものだ
天は最も努力した者を正当に評価するとは限らないのだ

ここでこれまで何もなかった我が人生と比べてみたい
自分は50年前に此の小説を読んでおれば良かったのにと思う
50年前に読んでおれば我が人生はもう少し変ったものになっていたかも知れぬと思う
ことに臨んで竜馬ならどうするかを常に考えて生きて来れば良かったのにと思う
心の持ち方の一つで自分にももう少し別のことが出来たかも知れぬと思う
我が人生 
惜しむらくは
細部に拘りすぎた
体面を気にしすぎた
大きな目的よりも小さな目標や戦術にこだわりすぎた
少しは竜馬のように生きてみる努力があれば良かった

さらに思う
現今のわが国の腐り切った官僚機構
徳川300年を経た幕藩官僚体制以上に出口なき閉塞感
明治維新のような平成の大維新を断行できぬものか?
出でよ!竜馬の如き平成の傑物!
言葉だけの改革ではなく
時代に適合せぬ現体制の大変革をやってくれ!


「青春は美わし(うるわし)」

2008-08-18 | 読後感
ヘルマン・ヘッセの
「青春は美わし」「ラテン語学校生」
2編の短編を読みました
どちらも
思えば懐かしい青春譜
はかなく消えいく初恋の思い出です
ヘッセの青春の体験的小説でしょうか
美しい詩のタッチで綴られています
淡い夢、感傷、ロマン、ときめき
ここにはヘッセのようには綴れません
雰囲気を壊してもいけません
合わせて100ページほどの短い小説です
自分の目で読んでみてください
巻末にあった詩をここに記します

 楽しき時の命は美わし
 青春は美わし 
 そはもはや来たらず
 されば重ねて言わん
 青春の年々は美わし
 青春は美わし
 そはもはや来たらず

思えば何十年もの昔
青い空にぽっかり浮かんだ雲がありました
今も白い綿のような雲を見ると
ふと思い出すことがあります
青春は美わしかった
青春の年々は美わしかった
楽しき時の命は美わしかった
が、二度と来ることはありません


「知と愛―ナルチスとゴルトムント―」

2008-08-06 | 読後感
ヘッセの「知と愛」を読みました
副題は「ナルチスとゴルトムント」です
マリアブロンというドイツの片田舎のとある修道院
ナルチスは少年見習僧ですが
英才を認められ教師の代役をやっていました
そこへゴルトムントと言う金髪の美少年が送り込まれます
暫く勉強させたい
あわよくば修道僧にとの父親の願いです
ナルチスが年長ですが
ゴルトムントと年は数年しか違いません
あまりにも対照的な性格の違いからか
二人は惹かれあって直ぐに親しくなります
あ互いにないものを尊敬したのです
ナルチスは知を象徴しています
知性、論理、克己心の塊のような人物です
ゴルトムントは愛を象徴しています
感性、直感、情感豊かで人好きのする人物です
少年ゴルトムントは母の顔を憶えていませんでした
帝国官吏であった父は素性の知れない踊り子の母を娶り
母はその後も放縦な生活を送り
最後には何処へともなく姿をくらませたとのことです
父はせめてもの罪滅ぼしにと
少年ゴルトムントを修道院に預けました
ゴルトムントには母譲りの隠れた才能がありました
それは芸術家としての類まれなる感性でした
その容姿は世の如何なる女性を魅惑するに何の不足もありませんでした
ある日ゴルトムントは修道院を飛び出します
以後、ゴルトムントは愛欲に溺れ 官能に溺れ 
したい放題の放浪の旅をします
時には人を殺し 貧に窮し 行き倒れにもなります
窮したゴルトムントは木彫り彫刻師の家に転げ込みます
そしてそこで親方に才能を見出されます
暫く落ち着いたゴルトムントは
ナルチスの容姿を模した作品聖ヨハネの像を残しますが
ゴルトムントの目は覚めませんでした
再び放浪の旅に出るのです
またも悲惨な旅でした
ヨーロッパ史に残る黒死病(ペスト)の凄惨さに圧倒されます
ゴルトムントは行けども行けどもうち続く死人の世界を彷徨います
ゴルトムントの生命力はペストの死の地獄を生き延びさせるのです
何とゴルトムントにはまだ女を誘惑するに足るエネルギーが残っていました
とある町の最高権力者である総督の女に手を出したのです
それが命取りとなりました
ゴルトムントは捕縛され地下牢につながれます
翌朝 縛り首が待っていると言う将にその時 偶然が起こります
放浪数十年
修道院で別れたあのナルチスが出世していたのです
ナルチスは町の総督と対等の司教の地位にまで上り詰めていたのです
ナルチスは縛り首の執行前の囚人の懺悔を聴きに来ただけですが
罪人が他ならぬ昔なじみのゴルトムントと知って助け出します
この時 ナルチスはマリアブロン修道院の院長になっていました
ナルチスはゴルトムントを修道院に連れて帰ります
ゴルトムントは心を入れ替え再び芸術活動に精を出します
ゴルトムントは最後の作品マリアの像を完成させます
このマリア像も過去の遍歴で会った女性を模したものでした
ゴルトムントは最高の作品を完成させた満足感を得て 再び
放浪の情断ちがたく修道院を出て行きます
しかしゴルトムントは年を取っていました
この放浪は長く続かず旅に病んで修道院に戻ります
戻ったゴルトムントは生気のない老人になっていました
そして間もなくゴルトムントはナルチスに看取られて亡くなります
以上が荒筋ですが私には何とも言えない感慨が残りました
ゴルトムントに何とも言えない共感を覚えたのです
知性や知識では足下にも及ばなかったナルチスに対して
歩いた道は全く異なっていても
人生の終末時点では対等以上の高みに到達していることを実感させたのです
元々ゴルトムントに芸術家の才能があることを示唆したのはナルチスです
ナルチスの精神によってゴルトムントは目覚めたのです
しかし知性のゴルトムントは近寄りがたく偉すぎます
破れかぶれのゴルトムントの生き方にこそ真実があるように感じます
ゴルトムントとナルチスは
一人の人間の二つの側面の存在を物語っているのかもしれません
ふむ 自分の中にもゴルトムントとナルチスの二人が居るかもしれない
しかし 自分の場合 二つの人格が溶け合い お互いに足を引っ張り合って
才能として発揮できるものは何もありません
振り返れば
自分の人生 常に常識的で中庸の平凡な生き方を良しとしてきました
また ナルチスのように知性を磨き ただひたすら勉強する
そのような生き方を理想としてきました
そして ゴルトムントのような不良少年の生き方は
これを頭から否定してきたのです
しかし 今にして思えば
人間として生き切った後の幸せ感は 一体どちらの方が大きいのでしょうか
人間を知り世界を知り最後に悟る哲学のレベルはどちらが高いのでしょうか
自分も ゴルトムントのような生き方ができておれば
どんなに幸せであったろうかと思います
しかし 現実には やはり それはムリと言うものです
世間も 家族も 自分も 誰にもそんな人生は考えられませんでした
私は自身の許された容量の中で小さな世界を精一杯生きてきたつもりです
事実 ナルチスの知性を千分の一くらいに縮めて
ゴルトムントの万分の一以下の感性を持って
世界や哲学を十分に理解できない凡人であることに活路を見出して
現代の管理社会の片隅で辛うじて小さく小さく生きてきたのでしょう
自分にはこれが精一杯の生き方だったようです
我が人生の時間も残り少なくなった今
ナルチスと対比したゴルトムントの生き様を読んで考え直します
国も時代も違うとは言うものの
ゴルトムントのように生きて死んでいった人物を大変羨ましく感じます


「マルテの手記」

2008-06-30 | 読後感
リルケの「マルテの手記」を読んだ
ストーリもなくただ淡々と思い出と連想が続く
はっきり言ってこの小説の感想を述べるのは楽ではない
リルケとマルテは別人らしいがこの二人の区別が一寸難しい
リルケは書き進むうちにマルテと言う自己の分身を作ったのだ
そして孤独や病や死や貧困の苦しみをすべてマルテに委譲したのだ
リルケの詩人らしい鋭い感受性で切々と繰り返し語られる人間の不幸
この不幸をマルテにすべて割譲して辛うじて精神の平衡を維持したリルケ
そんな構図が透けて見える 
二度と読み返したくない本だ
考えるに元凶はマルテの孤独にある
青年の日マルテは一人パリに出て孤独な生活を送った
見るもの聞くものすべて敏感にマルテの頭の中を反射する
一人夜長のアパートで反芻するマルテ
連想が連想を生み拡大する
独り言がこだまする
話し相手は居ない
街で病人を見れば病人のことが忘れられず
死にそうな人がいたら死のことだけが次々と浮かぶ
不幸な人が何千何万といるパリで不幸ばかりを穿り出すマルテ
そして不幸ばかりを考える
夜、ロウソクの下で悶々とする精神
次から次へと繰り出される過去の思い出
時にアペローネという女性を思い出すが恋人ではなかった
かなり年上の叔母であった
その女性がマルテの淡い憧憬の対象だ
ただそれだけのこと
恋もなければ現実の会話もない
舞台は暗闇
丸く白む薄明かりのスポットライト
登場する人物のパントマイムが続く
やめてくれ
気分がふさぐ
わざわざまとめて本にしてくれなくても良い
現実世界の近辺の話で沢山だ
この本の20世紀初頭も現在の21世紀初頭も人間世界の本質は変らない
人の住む世界の人間の苦悩は同じだ
受身の感性を自慢気に吐露するようなリルケの真似は止めたが良い
人は積極的に前向きに人生に取り組んでいくことを選択すべきだ
鬱々とした人生に時間の大半を消費できるほど人生は短くない
ネガティブな負け犬発想は現代では通用しない
憂鬱なムードから遠ざかるに如くはない
若い頃にこの本を読まなくて良かった
最後まで読み終えるのに苦労した
人には勧めたくない本だ


「父と子」

2008-05-28 | 読後感
ツルゲーネフの「父と子」を読みました
ツルゲーネフはこれが初めてです
淡々と読み進むうちに突然主人公バザーロフが死にます
そこでお話が終わってしまうのです
何だこの本
面白くも可笑しくもないと思いながら読んでいました
そこで突拍子もなく主人公が亡くなります
突然面白くなってきたと思ったらお話が終わってしまうのです
この小説は1860年代のロシアが背景でした
ロシア革命のはるか以前の時代です
農奴がいて解放が始ったか始らないかの時代です
バザーロフは貴族ではありませんが自由な知識階級のお医者の息子です
バザーロフも医者の卵です
ニヒリストとされていますが至極真っ当な人間です
現代の理科系人間から見れば何一つ変ったところがありません
論理や事実に立脚する態度はむしろ健全だと思えます
しかしこの時代のロシアでは突出していました
このバザーロフ君
若き美貌と才媛の未亡人オジンツオーワに恋心を抱きます
オジンツオーワもバザーロフに同じ気持ちを抱きます
しかし二人は結ばれません
お互いあまりにも理性が先行するからです
結局バザーロフは片思いの気分を胸に抱いて去っていきます
その後バザーロフはふとした事故でチフスに罹り急死します
不注意から医療事故に合うのです
死の床にオジンツオーワが駆け込みます
オジンツオーワがバザーロフの額に接吻して終わりです
クライマックスがあっけない
もう一寸盛り上げてくれんかねと思いました
作者ツルゲーネフは淡々と進めます
作者の読者への過剰サービスはありません
虚無感が胸のうちを漂いました
人間の一生なんてこんなものかね
青年時代で終わってしまう人生もある
それに引き換えしたいことやって老年になるまで生きてる人って
それだけで幸せなんですね
この小説の評判はもっと別のところにあったようです
この時代バザーロフの唯物論的な思想を生んだ背景
時代の最先端を切ったため旧体制の思想と相容れなかったこと
自由民として誇りをもって体制を支配する貴族を批判し始めたこと
貴族との思想の相克などなど
時代の背景の方に主題があるとのことです
バザーロフは典型的な貴族気質の男から挑戦を受け決闘します
正面向いて拳銃を撃ち合います
しかし始終落ち着いていて
大人として対応したのはバザーロフの方でした
この辺りのことはあまり興味が湧きません
バザーロフには貴族の息子であるアルカージという親友がいましたが
この男にも興味がありません
初めのうちはアルカージが主人公と思って読んでいたのですが
最後になってやっとバザーロフが主人公であることに気付きました
さて表題の「父と子」の父とは誰のことでしょうか
バザーロフの父のことでした
バザーロフが死の床に伏した時の父の狼狽振りは筆舌に尽くせません
時代が変っても 国が変っても
父の子への期待や気持ちは不変です
ところでツルゲーネフはこの小説で何を書きたかったのでしょうか
ツルゲーネフのニヒリストの人物像でしょうか
貴族と対立する新しい階級の出現でしょうか
オジンツオーワとの冷めた恋でしょうか
父の子に対する愛情でしょうか
これは読む人のそのときの心情次第でしょう
現在の自分には
「子を思う親の気持ち」が最も強く心に響くのでありました
表題の「父と子」が正解であります


「シッダールタ」

2008-04-20 | 読後感
またもや ヘルマン・ヘッセの登場です
ヘッセの「シッダールタ」を読みました
シッダールタとはお釈迦様の名前です
しかし これはお釈迦様とは全く別人のフィクションでした
昔 インドの最上層の支配階級バラモンに属する一人の若者が
老人となるまでの心身の遍歴を経て 悟りに至る心の動きを描いています
仏教やお釈迦様のことを東洋人としてほんの僅か聞きかじっている私には
同姓同名の別人とはいえ お釈迦様を冒涜するような感じを受けました
此処に登場するシッダールタは 
商売に励むは 博打はするは 女を買うは 子供まで作る人物です
その男が真の悟りを求めて遍歴します
少年時代は 身分、才能に恵まれた誇り高き子供でした
やがて 友ゴービンタとともに苦行に身を投じ沙門への道を選びます
森の苦行者になりますが 苦行から得るものはありません
そこで出会った仏陀にゴービンタは魅かれ付いて行きます
シッダールタは仏陀に満足できず ゴービンタと分かれ放浪を続けます
シッダールタは商人カーマスワーミの下で働き成功します
贅沢に慣れ 堕落しますが シッダールタは目覚めます
しかし遊女カマーラとの交遊は続きます 
そしてカマーラに子供が出来ます
悩めるシッダールタは再び放浪者となります
放浪の末 川で出会った渡し守ヴァズデーヴァが偉かった
ここで シッダールタはヴァズデーヴァの生き様に多くのヒントを得ました
そして 川の実在に気付き 川と語り合います
カマーラに育てられた息子はシッダールタと出会います
カマーラは蛇にかまれて亡くなります
息子はシッダールタに反抗し町に出ます
息子に逃げられたシッダールタは息子を偲び悲嘆にくれます
このような人間臭い遍歴を経てシッダールタは覚者となり悟りを開きました
しかし、私はあまりの人間臭さ バタ臭さに辟易します
悟りに至るまでの一人の人間としての精神の遍歴は語られていますが
無や空の哲学や仏さまの奥の深い思想はあまり語られていません
東洋の哲学の真髄がほとんど語られていません
無眼耳鼻舌身意の匂いがほとんどしません
覚者となって悟りを開くといえども そこには何か偽物の匂いが致します
私は 正直 あまり面白くありません
ヘッセと言う西洋人が如何に優秀であっても 
ヘッセと言う人物は 所詮 東洋人にはなり切れなかったと思います
しかし 一つだけ私の心に響いたことがあります
それはシッダールタが渡し守をしていた川との交感のお話です
シッダールタは語ります
川には未来も過去も現在もない
川は至るところにおいて 
源泉において 河口において 滝において 渡し場において 
早瀬において 海において 山において 同時に存在する と
シッダールタは続けます
自分の前世も過去ではないし、梵への復帰も未来ではない
何物も存在しなかったし 何物も存在しないだろう
だが すべては存在する すべては本質と現在を持っている と
さらに シッダールタは語ります
自分は自分の生活を眺めた すると これも川であった
自分が 少年であった時 壮年であった時 老人となった時
これらは現実的なものではなく 影によって隔てられているだけである と
ここで 私には何かが分ったような気がしました
この辺が一番東洋の哲学に触れた部分であると思いました
私は 実際は何も分っていないのかもしれませんが 
これから川を見るたびに そして 川の声を聞くたびに 
このシッダールタの語りが私の心に浮かんで来るでしょう
川には 自然の 永遠の 過去も 未来をも超越した
生命が宿っているように感じます
耳を澄ませば 川はいつも何かを語りかけています
じっと座って 川が私に語っていることを聞き届けたい
それが何であるか分らなくても
少なくとも心を落ち着かせ 静寂の世界に自分を引き込んでくれます
私がこの本から得た感慨はこの一点でした
本と言うもの 
手に取った時 抹香くさい書名に若干のためらいがありましたが 
読めば必ず得るところがあると言うことをここに再確認しました


「郷愁-ペーター・カーメンチント」

2008-04-03 | 読後感
ヘッセの小説「郷愁」を読みました
副題ペーター・カーメンチントとは主人公の名前です
詩人ペーター・カーメンチントの半生を綴る自叙伝でした
南部ドイツの高原地方のある村には
カーメンチントと言う名前の人ばかりからなる村がありました
スイスに近いアルプスの山奥のその奥にあります
ペーターはその村の出身でした
町に出てスイスやイタリヤの都会を転々として
町には住みきれず最後に自分の生まれた村に帰ります
生業は文筆業ですが純朴ながっちりした体格の農民カタギの好人物です
この自叙伝
冒頭から終わりまですべて詩で出来ています
短い言葉が繋がりまるで抒情詩のように流れています
山や湖や森の描写は誠に秀逸であります
中でも青い空を流れつつ変化する白い雲は
目の前の本物を見ているような感動をそそります
自分にもこのような詩が書ければ
どれほど嬉しく幸せであろうかと思いました
しかしこれはヘッセだからできることです
餅は餅屋のヘッセさんにお任せすることと致します
ところでペーターは実はヘッセさご自身のことなんでしょうか
純情にして多感です
少年時代から恋をしながら過ごします
いずれも実らぬ片思いばかりです
微笑ましくも懐かしい
最初の恋は17歳の美少女レージー・ギルタナーです
初恋でしたが
ここでも
初恋とは片思いに終わるものなりを地で行きました
続いてイタリヤ系の女性エルミニヤ・アリエッティーです
女流画家でした
彼女からも好意の気持ちは受けますが実りませんでした
さらに続いて飛びきり美人のエリーザベトです
ペーターの一番忘れえぬ本命でしたが
ペーターがもたもたしている内に他人の妻になりました
最後の恋がフィレンツェは八百屋の未亡人アヌンチアタ・ナルディニです
彼女の方からペーターに積極的に好意を示しましたが
ペーターは辞退してしまうのです
全部を合わせれば1勝3敗でした
何とも身につまされる生き様であります
ペーターの青年時代の親友リヒャルトが川で溺れて死にます
それも死んでから後で人づてにわかる話です
青春時代の刎頚の友を失った同様の経験は自分にもあります
もし生きておればと思っても人の命は帰りません
ペーターはお酒が強かったのです
これにも共感できます
ペーターのこのお話 
遠い昔の我がことと共通の郷愁を思い起こさせる
また身障者ボビーを引取り
病死するまでのポピーを我がことのように見取ります
これほどまでに純粋なペーターは誰にも真似ができません
ペーターは自然の山や湖水をこよなく愛した詩人です
自らの魂を山や湖水に映し続けた詩人です
自然への憧憬の叫びが胸にこだまします
今ここで目を瞑ると遥か向うに何かが浮かびます
スイスの雪を頂いたアルプスの連山と青い空のようです
空には白い綿のような雲がぽっかり浮かんでいます
澄んだ光のあった昔が懐かしく思い出されます


「狭き門」

2008-03-12 | 読後感
アンドレ・ジッドの「狭き門」を読みました
高校生の頃に一度読んだ覚えがありました
しかし中身に何の記憶もないことが分かりました
50年という歳月は記憶を完全に消去しています
そんな事実が分って愕然としています
ところでこのお話の概要は以下の通りです
昔ある所にジェロームと言う男とアリサと言う女がいました
アリサはジェロームの二歳年長の従姉でした
ジェロームとアリサは恋に落ちました
極めて精神的なプラトニックの関係です
ジェロームがアリサを愛すれば愛するほど
アリサはジェロームを愛しつつ離れていくのです
このじれったい関係が最後の最後まで続きます
何故かアリサはジェロームを避けるようになるのです
そして最後に死を選びます
アリサが亡くなっても
ジェロームはその思い出を一生の思い出として
一人生きていきます
これって一体何を意味しているのでしょうか?
50年前の自分はジェロームに自分を投影しました
恋することの苦しさにだけ共鳴したのでしょうか
しかし、50年経って再読した今は
何故かアリサの立場に立って読んでいました
「狭き門」とは聖書の言葉です
ルカ伝に「力を尽くして狭き門より入れ」とあります
アリサは幸福への狭き門は二人して並んで通れるほど広くない
だからジェロームのために自分は身を引くと日記に語っています
このことが理解が出来ません
愛しているから身を引くなんて考えることが出来ません
そこには理解を超えた論理の矛盾があります
アリサは厳しいプロテスタントの掟を背負って育ったらしい
そんな純粋すぎたアリサを気の毒に思いますが
このようなストーリーを作って人々を突き放すジッドも分りません
この物語は読み終わって不思議な余韻を残しました
この物語の意味や本質が何一つ理解できないのです
そんな自分がいやになりました
ジッドをもう少し勉強する必要があります
ジッドをさらに読んで読み比べる必要を感じます

※ 学生時代はアンドレ・ジイドと呼び慣れていたのに、最近の書物はすべてアンドレ・ジッドとなっており、少し違和感を感じている。これも年の為せる業かね?


「春の嵐」

2008-02-09 | 読後感
ヘッセの「春の嵐(ゲルトルート)」を読みました
この年になって今時分読んでいるのかと笑ってくださるな
老年になって読めばまた違う味が出るというもの
まあ最後まで私の話を聞いてください
まずはお話の粗筋です
甘くもほろ苦いお話でありました
主人公は音楽家のクーンという男です
クーンは少年の頃 淡い恋をしました
そのことで事故に遭い足に障害を持ちます
このため諦めかけていた音楽家への道を復活させます
しかしクーンの人生は終始遠慮がちです
孤独でもあります
この時、音楽界にはムオトというオペラの人気歌手が居ました
音楽家として自信が持てなかったクーンを
ムオトが引き立て音楽界に導きます
お陰でクーンは音楽界で徐々に認められていきます
ところでムオトは多くの女性から愛される男でありました
しかし ムオトは女性も自分をも愛せない男でありました
運命は皮肉です
クーンが心から愛していた心の優しいゲルトルートは
友人であり先輩であったムオトに恋します
そしてムオトと結婚します
このクーンに対して
秘かに思いを寄せるブリギッテという少女が居りました
クーンはそれに気が付きませんでした
ブリギッテも孤独でした
ところで清純で高貴なゲルトルートは
夫ムオトに心のどこかで違和感を覚え親しくなれません
夫へのひたむきな献身の気持ちを常に口にしながら
とうとうゲルトルートは病気になります
ゲルトルートは静養のため父の元にしばらく帰ります
不安で孤独で自棄になったムオトは何故か死にます
未亡人ゲルトルートは
変わらぬクーンの愛の気持ちを知っていますが
クーンとは友情のみの関係を維持します
ブリギッテも淡い恋がかなわず最後に別の男と結ばれます
が、最初のお産で死んでしまいます
何ともやるせなくやり場のない雰囲気が漂います
それぞれに苦悩に満ちた春の嵐が吹き荒れました
若者の季節は春でも嵐が吹きすさぶ春です
最後にムオトの言葉としてクーンの述懐が綴られます
人は年を取ると青年時代よりも満足している
だからと言って私は青年時代を咎めようとしない
なぜなら青春はすべての夢の中で輝かしい夢のように響き
青春が現実であったときよりも一段と清純な調子で響くのだから
と、ここでお話のすべてが終わります
ここで私は人間の青春から老年までの長い人生を考えます
青春には未来があるが満足が少ない
老人には未来がありません
できることはただ諦めて満足するだけです
青春とは一つずつの人生の初めのことであれば
出来る限りやって悔いを残してはなりません
青春の時代に満足などありえません
未来ある限り満足をしてはいけないのです
主人公クーンは少し大人しすぎたのではないでしょうか
もうちょっと頑張らなければいけなかったのではないでしょうか
足に障害が残り自信を持てなかった人間として
やむを得なかったかもしれませんが
もう一寸頑張ってゲルトルートに働きかけて欲しかったと思います
クーンには世間に認められる音楽の才能もありました
ヘルマン・ヘッセさん!
クーンにその思いを諦めさせるには少々若かったのではありませんか?
一寸物足らない思いが残りました
ひるがえってよく考えると
障害もなく何一つ不幸もなかったわれわれ凡人は
さりとて格別の才能もなく
何もせず 漫然と生きて
漫然と恋をして
いつの間にか子供が出来て 
老年となり
最後には、
名もなく 感激もなく死んでいくのでしょうか
人生も終わり近くなれば、ただ、お釈迦様の膝元にすがり付いて
余計なことはなるべく考えないようにして
残りの時間を無や空やと言って生きていくのでしょうか
だが、そんな老年は淋しいと思います
老人の心にも春の嵐が吹いて良いのです
満足は少なくても
渇くことなく青春の心を持ち続ければいい
そのような老年もまた楽しからずやではないでしょうか


「罪と罰」

2008-01-18 | 読後感
またもやドストエフスキーの登場です
「罪と罰」を読みました
何とも深刻なお話でした
主人公は大学中退の青年ラスコリニコフ
極貧の中で授業料が払えず中退しました
ラスコリニコフには少し学問がありました
思想もありました
世の中はナポレオンのような有能な者と
それに従う無能な者の二つに分けられる
そんな思想でした
ラスコリニコフは自分は有能であると考えていました
そんな背景の下で質屋の老婆を殺しました
有能なものは罪を犯しても罰せられない
そんな思想を実証したかったのです
その瞬間からラスコリニコフの哀れな人生が始りました
ラスコリニコフは犯行の前からウツだったのです
精神分裂病(統合失調症)とまでは行きませんが
現実離れした自我理想を描いていました
しかし現実は現実でした
殺人の瞬間からラスコリニコフの悲惨な生活が始りました
その心の状態が痛いほど伝わってきます
其処に心の安定は全くありません
安らぎも癒やしも何もありません
悲惨でただ苦しいだけの毎日が始ったのです
やさしい母や美貌の妹の悲しみも
ラスコリニコフには分かっています
予審判事ポルフィーリーの執拗な追跡も始ります
刑事コロンボを思い出させるような心理作戦です
現物の証拠は何もありません
ラスコリニコフは白状しませんが
逃げれば逃げるほど精神的な圧迫が彼を苦しめます
逆にポルフィーリーに接近していくラスコリニコフ
罪と罰の罪は一瞬の出来事ですが
その後の精神的な苦しみが延々と続きます
これを罰と言うのでしょう
ラスコリニコフは追い詰められていきます
ラスコリニコフにも親友が居ました
ラズミーヒンという男です
この男も大学中退ですが
何と言う人の良さでしょうか
ラスコリニコフを信じて助けます
竹を割ったような明るい青年です
この男がラスコリニコフ本人との母や妹を支えます
また 薄幸の女ソーニャが居ました
ソーニャも貧窮の下で娼婦にまで落ち込みますが
ラスコリニコフを信じます
ラスコリニコフはソーニャにだけ犯行を白状します
ラスコリニコフはソーニャの言葉に促されて
最後には自首します
ラスコリニコフはシベリヤに流刑となります
ソーニャはラスコリニコフを追ってシベリヤに行きます
刑期を終えた二人はどうやら幸せになるようですが
小説には最後までは書いてありません
以上が粗筋でした
この小説
140年も昔の作品とは考えられません
現在の日本のそのものです
ひきこもり、登校拒否、対人恐怖、脅迫症状、被害妄想
うつ、神経症、離人症、人格障害、解離性障害
現代に蔓延するあらゆる人の病的な精神状態が読み取れるのです
ドストエフスキーは病名こそ書いていませんが
人間の内部の混迷する精神状態を知っていたのです
感心し、また驚きました 
それにしても
ラスコリニコフは先のことを少しは考えるべきでした
自分のやった刹那の結果がどうなっていくか
想像力を働かせることが必要でした
しかし 精神を病んだ者には弱みがあります
それが分からないのです
犯行を急き立てる固定観念が強迫観念となっていきます
本人を責め続けます
そして犯行に及んで初めて気がつきます
後の祭りです
人生に親友が居ることの大切さ
人が生きていく上で極めて大切であることが分かります
ラズミーヒンが居なければ彼は一体どうなっていたでしょうか
自殺に追いやられ其処でこの話は終わっていたと思います
人生における恋人の存在
人が人生を生き抜く上でやはり大切なことが分かります
ラスコリニコフにとってソーニャが恋人であったかどうか
本人は強く意識していません
しかし最後の拠り所はやはりソーニャの献身的な愛だったのです
この世に絶対的な貧困があること
そして未来に希望が持てないこと 
これらが事件の発端になっています
ロシアの過去の話ではありません
日本の現代にも十分ありうる状況です
年金で生活できない老人
未来に希望が持てない若者
この背景で貧困が蔓延すればどうなっていくのでしょうか?
行きずりの殺人、親殺し、子殺し、人殺し
すべて追い詰められた人間の精神の産物でしょう
予兆ではなく現状です
日本でも毎日のように発生しています
この小説
最初は独白が長くて退屈しました
ドストエフスキーの小説の悪いクセです
しかし後になるほど面白く一気呵成に読みました
次は何を読もうかと楽しみにしています
長編小説の虜になりそうです