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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第239話「伊豆の旅」(昭和34年~40年)

2007-08-31 | 昔の思い出話
 毎年の春休みは天国であった。春休みには試験の準備や宿題等のストレスは全くなかった。長い寒い冬が終わって気候も良くなる。自分は待ちかねていたかのように、春には決まって日本国中遠くあちこちへと旅行した。夏休みにも旅行をしたが、夏休みは既に前期の試験の準備をすべき射程距離にあり、勉強せねばと言うストレスがかかり始めるため、完全に精神的にフリーという訳ではなかった。 
 その春旅行のひとつに修士1回生が過ぎた時の伊豆旅行がある。この時は親友の和草君と二人だけで行った。長期の旅行の基本計画は大体自分が主導権を取った。和草君は世話好きな性質で、高校生の時分から面倒見が良かった。従ってグループで何か行事をやるときは大抵、人望の厚い和草君に手配のすべてが任された。和草君に委せておくと八方に気を使ってくれるので、誰も文句を言わずに従った。しかし、少人数で行くような旅行では、自分が先に基本計画を立てて、旅行社との相談も出来る限り自らが買って出るようにした。
 期間は10日ばかりであったが少し欲張って、熱海、箱根、富士5湖、伊豆半島、伊豆大島と回った。この旅行では、あちこちで様々な経験を積むことが出来て、大変思い出に残る良い旅行となった。
 修士1回生が終わっての春と言えば、普通に行けば大学を卒業しているので既に社会人である。和草君は既に小学校の教員生活も1年が過ぎていた。二人はきちんとスーツを着て、ネクタイを締めて、ビジネスマンスタイルで出かけた。服装のお陰で、宿でも旅先でも学生としてではなく、社会人として扱ってくれる効果があった。もう永らく学生をやっていて、自分は、ほとほと学生であることに疲れが見え始めていたのであった。
 先ず熱海の話から始める。熱海の温泉街へ来たのは初めてであった。宿で食事をたらふく食って、ビールを少々飲んだ。酔いも回って良い気持ちになっていた。
  「おい、夕涼みに街でもぶらつくか?」
と、二人は、学生と見て馬鹿にされないように、スーツにネクタイをきちんと付けて外へ出た。一通り歩き終わって、ある薄暗いところへ差し掛かると、どきつい看板をした小さなテント張りの小屋があった。その軒下でお兄さんが呼び込みをやっていた。
  「寄ってって!見ていって!安いよ!」
 そこはストリップの小屋であった。お兄さんの顔を見ないように、直接、目が合わないようにしていたのに、運悪く目が合ってしまった。
  「お兄ちゃん、どや、見ていって、安くしとくよ」
と呼び込みの声。
  「そんなこと言うても、まだ学生やねんで、止めとくわ!」
と都合よく、ここでは学生になって、逃げ腰を装った。
  「ええ? 学生さんかい。宜しい。学割で半額。
   二人で1000円でいいよ」
 この即妙の返事で、宿で飲んだビールの酔いも手伝って、つい心が動揺して和草君と顔を見合わせた。和草君の顔には、にやにやの笑みとともに「ええやんけ、早く中へ入ろう」と書いてあった。
  「よし、こう見えても、わいらも、男やで!」
と決断一発。二人はお金を払って中へ入った。
 内部は10数人ほどしか入れない狭いスペースであったが、既に男の客がいっぱいで、安物のレコードにあわせて、若い女の子がけばけばしい衣装を付けて、一人でステージで踊っていた。女の客もちらほらいるので驚いた。混んでいたので和草君とは並んで座れなかった。自分は仕方なく1番前の空いていた席に座った。和草君は前から3番目くらいの自分よりは後ろの席に座った。
 一場が終わって、ぼんやりしていると、ステージの上から踊り子が手招きして、こちらへ来いと言う素振り。心臓が早鐘を打った。絶体絶命。その踊り子は間違いなく自分に目を合わせている。
 じりじりと時間が過ぎていく。窮地に陥った自分は、無為に流れる時間に責任を感じて、やむなく立ち上がって女の子に近づいた。すると、女の子は当方の耳元に囁いた。
  「100円で...むにゃむにゃ...」
  「何やそんなことか、よっしゃ、和草君の分も含めて、
   チップも足して...ほれ、300円や」
ポケットから小銭を取り出して気前良く彼女の手に渡した。
  「おい、和草ぁ、お前の分も払ってやったからなあ!」
 手招きして前列へ来るように和草君を誘った。教育者の和草先生は、さすがに前の列まで足を運ぶことをしなかった。
 伊豆旅行では他にも色々な経験をさせて頂いた。伊豆は下田に有名なお寺と下田奉行所跡がある。そこには、現在の時勢なら何でもないが、当時では子供には一寸見せることをはばかるような展示品もあった。観光バスでは「1時間以内に帰れ」と言うことで、我々は荷物を置いたままバスを降りていたのであるが、つい夢中になっていた。ふと制限時間が過ぎかけていることに気が付いた。
  「おい、大変やぞ。バスが出る時間やぞ!」
 二人は大慌てで走って道路に戻った。バスは待ち合わせの場所から既に走り去っていた。「あっ」と思った。しかし、そのバスは積み残しの客が居るとも気がつかず、50メートルほど先の交差点で信号待ちをしていたのだ。
  「おーい、そこのバス。待ってくれえ! 僕らの荷物が乗っとる
   んや!」
 大声を出して、必死で追いかけた。幸いにも、バスは我々に気が付いてくれた。危機一髪であった。お寺の見せ物でつい時間を忘れてしまった我々はきまりが悪くて、同じバスの乗客に会わせる顔が無かった。一番後ろの席で窓の外を見ながら、時間が早く過ぎ去っていくことをただ祈るだけであった。
 翌日は熱海から伊豆大島へ割合大きな船で渡った。船は外洋を行くので大波を受けて完全にグロッギーになった。船酔いで早朝に食べたものを全部吐いた。それでも、三原山はスケールの大きな活火山で度肝を抜かれる余り、その火口の近くにたどり着いたときには船酔いは完全に無くなっていた。
 その昔、日航機木星号がこの三原山に激突してバラバラになった。広い大海原の中に一つぽつんと山があるから、ぶち当たったのである。山がなければ木星号には何にもなかったか、あるいは海の底へ沈んだだけのことかも知れない。が、三原山は「俺はそんなことシラン」とばかり、悠然とパイプの煙をくゆらせるが如く、ただ一人煙を上げて仕事をしていた。
 その数日前、河口湖から見た富士山は、頂上から5合目付近までが真っ白の雪に覆われており、その静かなたたずまいの秀麗さに驚いた。富士山は、どちらかと言えば女性を思わせる。それに比べて、こちらの三原山は全くごつごつとしていて美しいという印象は全くない。しかも他の山々とは海を隔てて、一人ぽつんと離れて活動している。超然としている。悠然と構えた、その男らしい存在感には威厳がある。
 自分も、人間としてこれから長く生きて行くにあたって、三原山のような男っぽい孤高の存在であることも、一つの理想像ではないかとの感慨を抱いた。暫く噴火口を見物した。
 山を下りて小高い岬から真っ青な沖合いの海を眺めていると、1羽の白い鳥が眼下を舞っていた。この白鳥も人のことなど全く気にも止めないで悠々と飛んでいる。高校生の国語で習った、

  白鳥は悲しからずや
  海の青 
  空の青にも染(し)まず
  ただよう

と言う歌が即座に脳裏を横切った。 
 たった1羽の白い鳥が大海原を飛んでいる。青い海の色、青い空の色とは一線を画して、自分独自の白い色で飛んでいる。この鳥は周囲の青さに何ら恥じることなく自分の色で飛んでいる。「悲しからずや」と言うのは悲しくないことを強調している。周囲の青一色の中で堂々と自分の白色を誇っているのだ。
 真っ白な羽根を精一杯に広げて滑空する白鳥の姿を脳裏に浮かべるたびに胸にじんと来る。常々、他人と同じであることにのみ安心を見出している人は、この白鳥を見習うべきである。三原山も同じだ。勿論、人知れない海の向こうに三原山があるので、そこに山があることすら気付いて貰えないが、それはそれで良いのだ。三原山は活火山である。人が知ろうと知るまいと、きちんと自分の仕事をし続けている。
 我々は人に認めて貰うために生きているのではない。自分で自分の真価を発揮して自分の生き様に自分が満足するために生きているのだ。三原山も男らしく、ただ一人、もくもくと煙をはき続けており、また、その傍では白鳥が、一人でしっかりと飛んでいるではないか。
  
  

第238話「古寺庭園巡り」(昭和34年~40年)

2007-08-30 | 昔の思い出話
 京都に滞在して5年が過ぎようとしていたが、どちらかと言うと自分の目はいつも他府県に向いていて、京都そのものの良さを探求する気になったことはほとんどなかった。長期の休みになれば何処か日本の最果てへと行く計画ばかりを思いつくのであった。京都の風物と言えば、たまたま銀閣寺が下宿の直ぐ側にあったことから、一度だけぶらっと銀閣寺の庭園に入りこんで、人がとやかく立てる評判のむなしさを噛みしめたのと、同じく下宿が大文字山の麓にあったので、たまたま居合わせた真夏のお盆の送り火をその直下で見たくらいのものであった。
 丁度、その頃、第2講座の修士課程の先輩が、卒業に当たって京都を離れて就職するので、京都の有名なお寺の庭園見物を観光バスでやることにしたと言う話を聞いた。考えてみれば、自分も京都のお寺の庭園などは爺くさいとばかりに近寄ったことがなかった。何でも、その観光バスのコースは「インテリ必見!!」と名打ってあったらしい。
  「インテリ必見やったら、当然自分も見にいかなアカンなぁ。
   先輩、一緒について行って宜しいか?」
と、乞うて同行することにした。
 この話を聞き及んで参加することになった自称インテリは他にも何人か居たが、ともかく、安直に、たった一日で、京都の有名なお寺の殆どを見て回ることが出来ることが一番の魅力であった。
 訪れたお寺は大仙院、金地院、天竜寺、竜安寺、南禅寺等である。少なくとも田舎から京へ上って皆が見に行く、あの超有名な金閣寺や銀閣寺、二条城などがコースに入っていなかった。そのためか、「さすがインテリ用のコースである」と喜んで参加した次第である。勿論、自分はこの以前に金閣寺へは一度も行ったことがなかった。
 正直言って、青年期のこの年ごろでは、京都の社寺の庭園見物をしても極めて退屈であった。今でこそ日本庭園を見ると何かしら心が落ち着くような気分になり、また何か日本的なものを感じて感動することもあるが、この若き年頃では心の琴線に触れるものが何もなかった。我が心に何の下地もできていないので、見えるものがすべて表面を流れ去っていくだけである。ただ行って見て来たというだけのこと。庭園を前にして、することと言えば確かに来たことを証明する証拠写真を残すだけで、写真1枚を撮ればそれですべてが終わりであった。
 京都に長く住んで、終盤近くになって、さっとアイスクリームの天ぷらの如く、京都のお寺を見てまわることの効用は、何かの拍子に何かの会話で話題になったときに、自分も行ったことがあると、一応は相手に話を合わせて、知ったような顔をすることにあった。
 自分は高校時代の友人であった小原君が何故か博学で、何処かの日本庭園を一緒に訪れたときに、茶人にして庭園にも造詣の深い小堀遠州のことを話してくれたことがあった。自分は小堀遠州などという名前すら知らなかったので恥ずかしく感じていた。小原君は日本人として生活していたが、一時期には北朝鮮へ帰国することを真剣に考えていたこともあり、本籍は韓国の人であった。現在に至るまで親しくお付き合いをさせて頂き、常々尊敬することが多い友人であるが、インテリを自認する、この自分の方が日本のことをよく知らないと言う事実を思い知らされて、恥ずかしく感じたのであった。
 そして、その後も無為のまま、日本庭園などという世界とは無縁に過ごしていた負い目が、自分をして「インテリ必見、京の庭園1日コース巡り」にあたふたと参加させたわけである。
 あれから何十年も経つ。あの時、何も分からないまま見たお寺や庭園に、その後、時に立寄ることがある。「ああ、この庭は昔一度来て見たことがある」と懐かしく感ずる。若い時には、何も感じなかったのに、いつの間にかその方面の感性が芽生えてきている。若い時には、あまり意味を求めなくとも良いのである。後になって、そのことが生きてくる。小賢しく、その時だけの効果など考えなくて良いのだ。若い時には鷹揚に何でも見ておくことの大切さを痛感する今日このごろである。


第237話「生兵法」(昭和34年~40年)

2007-08-29 | 昔の思い出話
 琵琶湖は京都のごく近くに位置しており、他府県にあるという感じがしなかった。琵琶湖の見える大津までは京阪三条駅から電車で20~30分の距離に過ぎない。大津は隣の県の県庁所在地と言うよりも京都郊外の町という感じである。琵琶湖へ行けば水平線が見える。そこにはスケールの大きい自然があり、箱庭のように、ちまちました京都とは異なった広いスペースを感じさせる。湖の透明度も高く、きれいな砂浜がある。湖岸の街道沿いには延々と続く松林があり、海のように日焼けをしない素晴らしい場所である。湖岸の町や地域には歴史を感じさせる奥ゆかしい地名が多く、たまの日曜日には琵琶湖へ行って、一寸ゆっくりしようかと思わせるような魅力があった。
 修士1年生のある時、京都大学のヨット部が部活の資金稼ぎを目的に「ヨット教室」なるものを計画したことがあった。大学のキャンパスに、その宣伝ビラが貼ってあったので、下宿に帰って坪田君に話した。
  「今日、ヨット部のビラを見たんやけど、あれ、安うて
   面白そうやでぇ。今度の日曜日にやりよるらしいけど、
   一緒に行って見ぃへんか?」
坪田君も興味津々。
  「うん、僕もそう思うてたんや。明日、二人分申しこんどこか?」
  「そうやね、そしたらよろしく頼むわ」
と言うような調子で、話がとんとん拍子に進み、生まれて初めてヨット教室に参加することになった。
 京大のヨット部は琵琶湖を基地にしていたが、ヨット教室で使用するヨットはヨット部が所有するヨットではなく、貸しボート屋の一般のヨットであった。柳ヶ崎にある京大ヨット部の艇庫の近くで、ヨット部員が各艇に一人ずつ乗り込み、応募者数人ずつが分乗して、一通りの基本的な帆走操作をやって見せてくれた。ヨット部員の話では、驚いたことに、ヨットは風上に向かっても走行できるということであった。ただし、風上から斜めに風を受けて、ジグザグに進むことになると言う。半信半疑ながら、実際に風上に走行するヨットに身体を預けていたためか、何か分かったような気になった。本当の所は分かっていなかったが、10分ほど帆の紐を持たせて貰った。言われたとおりにしていただけなので大きなミスもなく終わった。広い琵琶湖のことである。自分がそちらへ行こうとしていたのか、風が勝手に運んでくれていたのか、はっきりせぬままヨットはすいすいと走った。
  「何や、ヨットて、簡単やな!」
と思った。
 講習会が済んで暫くして今度は、化学機械学科第2講座一同で吉田教授のお供をして琵琶湖へヨット遊びに行こうと言う話が持ち上がった。自分は一度ヨットを操縦した実績があったので、誰よりも大きな声を上げて勇んで参加した。
 現地へ着いて、吉田先生は自分とは別のヨットに乗られたが、桟橋からヨットに乗り移る際に先生は足を滑らせそうになった。それを見たヨット屋のオッチャンが、京都大学の世界的な大先生に対して、
  「こらあ! おっさん。危ないやないか! もうちょっと、
   かがまんとアカンがな!」
と声を荒げた。
 また、吉田先生のヨットが桟橋からの発進でぐずぐずしていたので、ヨット屋のオッチャンはさらに悪態を続けて、大きな声で怒鳴った。
  「こらあ! その紐をそっちの方へひっぱらんと反対の方向へ
   行くやないか! 危ない、ぶつかるでぇ!」
これを見ていた同級生の小島君は、にやっとして、
  「偉い先生も、こんなオッチャンにかかったら形無しやなあ!」
と笑った。
 自分もこの時は、いくら学問の世界で偉い先生でも、次元の違う世界では何の価値もないもんだと少々残念に思った。
 この時は、ベテランが一緒に乗っていたのか自分のヨットは何のトラブルもなく、すいすいと走った。自分はすっかりヨットの魅力にとりつかれてしまった。こんな快適なものはない。面白いと思いながらこの日も何事もなく幸せに過ぎた。
 帰って、坪田君に話した。
  「2回目のヨットに乗ったよ。ヨットは面白いねえ、また行き
   たいなあ!」
これに対して坪田君が答えて曰く。以下会話が続く。
  「そしたら、今度の日曜日一緒に行こうか?」
  「うん、僕も、もう2回、乗ったから大体やり方が分かったよ」
  「そう、簡単や。ベクトルや。ヨットは風の向きと帆が受ける力
   と舵の抵抗力を合成した方向に進みよる。力のベクトルが合成
   した方向に行くだけのことや。簡単やで!」
  「ベクトルを知っとたら、ヨットなんか易しいもんや!」
などと二人ともすっかり意気投合してベテランになったつもりであった。
 次の日曜日、意気揚々と大津の岸壁から、貸しヨット屋のヨットを繰り出した二人であった。風は少し強くて、岸から沖に向かって吹いていたようであった。岸を離れたヨットはすいすいと沖合いを目指して進み、みるみる内に岸が遠くになった。天気も良く、広い湖面を涼しい風が吹き渡って快調な航海であった。
 自分達のヨットは30分ほど気持ちよく走った。二人は、そろそろ、帰りの時間だと思った。坪田君と自分は風上に向かって進路を取ろうとしたが、どうした訳か思う方向へは全然進まなかった。
  「おかしいな、ベクトルの理論から言えばこっちへ行くはずや
   のに!」
  「風はこちらから来てるから、帆をこっちへ向けたら、
   ええんや!」
などと二人で議論しながら正しいと思うことをやっても、ヨットはあらぬ方向へ目指して勝手に走っていくばかりであった。
 そうこうしている内に、我がヨットは琵琶湖競艇場の境界線近くまで来てしまった。競艇場の観客席には競艇ファンが満席の状態であった。競艇場の監視員が我々のヨットを見つけたらしく、岸から競艇場の拡声器でがなり立てた。
  「そこのヨットぅ! 境界線からぁ、離れてくダサイぃ!」
  「分かっている。分かっているけど、そっちへ行かへんのや!」
 二人は焦り始めた。あせるほどに、ベクトルなどと言う屁理屈とは関係なく、世の中のこともヨットのことも、何が何だか分からなくなってくるのであった。紐をあっちへ引っ張り、こっちへ引っ張り、どちらへ引っ張っても吸い込まれるように、なおもヨットは競艇場の方へ向かって進んでいくのであった。
 すると、一隻のモーターボートが競艇場の岸壁を離れて、波をけたててこちらへ進んで来るのが見えた。競艇場の監視員が警告だけでは埒があかずに、直接注意しに来たのであった。
  「命の危険がありますから、直ちに退去して下さい」
  「そんなこと言うても、無理やがな。このヨット、思てるとこへ
   全然、行けへんねん!」
 弁解の声はおろおろとしていた。事情を知った監視員は直ぐに、命令を止めて指導員に変身した。
  「その紐をそっちへ引っぱたらアカン!こっちや!」
  「舵はあっち向けてぇ、ほれっ!」
 言われたとおりにすると、何とヨットは舳先を風上の安全な方に向け始めるではないか。結局、監視員のボートは、我々のヨットが出発した桟橋に到着するまでの30分間、ヨット教室の先生になって、補導と先導をする羽目になった。
 面目丸つぶれの我々二人は、それでも毅然として、その監視員に平謝りと感謝の嵐でお返しをした。お陰で、相手はそう怒るでもなく、小言を少々我々に聞かせただけで、立ち去ってくれた。
 以後、自分は二度とヨットに近づいたことがない。今でもこのことを思い出すのでヨットは見るのもいやだ。それにしても、坪田君がもう少しヨットのことを知っていると思っていたが、全然、知らなかった。勿論、この事件の直前まで、大言壮語していたのはむしろ自分の方だった。坪田君も同じことを当方に対して思っていたに違いない。お互いに素人の相手を頼りにしていたのがまずかった。素人なるがゆえに冒険もできるが、危険も隣り合わせであった。「生兵法は怪我のもと」と言う格言を、身を持って思い知らされた一幕であった。
  
  

第236話「数学の意味」(昭和34年~40年)

2007-08-28 | 昔の思い出話
 修士論文のテーマは先生からの指定で、平衡関係について理論的な考察をして、ガスの液体への溶解度の推算ができるような相関関係を見出すことであった。誰もやったことがない、このようなテーマについて修士論文を書くということは簡単なことではなかった。紙とハサミで工作や家を造ることとはわけが違うのである。先ず、それに耐える理論的な土台と基礎を自分の頭の中にきちんと構築する必要があった。
 少し腰を落ちつけて考えて分かったことは、熱力学上の平衡という概念をきちんと理解するためには、熱力学の数学的な基礎を徹底的に勉強する必要があるということであった。そのためには偏微分方程式を自由自在に使いこなすことが出来なければならなかった。しかし、自分は偏微分という数学上の概念を、ただの数学上の約束事として抽象的にしか理解していなかったので、分かったような分からないような状態にあった。従って、その道具により表現され、構築されている熱力学についても表面的な理解のみで、本当の所は何も分かっていなかった。
 ところが、改めて熱力学を勉強して、そのために必要な道具としての偏微分方程式をいじくり回し始めると、不思議なことに、抽象的で雲をつかむような感じであった数式の物理的な意味が具体的に意味あるものとして、おぼろげながらも分かり始めてくるような気がした。自分の頭は少し低級に出来ているらしく、何か具体的なイメージを頭の中に描いて、それとリンクさせなければ何も理解できないようになっていた。数学としてやれば何も理解できないが、熱力学としてやれば少しは分かってくる。言うなれば自分の頭は左脳がやや弱く、右脳の助けを借りない限り全体像が把握できないような構造であった。
 更に、熱力学そのものが人間の経験則を前提にして、理論構築しているようなところがあって、最も基本の部分で分からなくなっていた。しかし、統計熱力学を勉強してみると、空間に浮かぶ分子のランダムな運動を前提にした確率論で、見事に熱力学の基礎的な公式が誘導されてくることが分かり、目からウロコが落ちるような思いをした。修士課程で統計熱力学を勉強しておらなければ、熱力学とは分からないものだという劣等感を抱いたまま、一生を過ごしていたであろう。
 自分には、高校生の頃から数学は抽象的で、人を詭弁でだますような訳の分からないものであったけれども、この時期に至って数学に対するいささかの開眼があり、おぼろげながらも、自分の哲学を持つに至ったような気がするのである。
 この頃の自分の考えでは、数学は人工の構築物であった。人工の構築物と対極にある自然現象が、何故数学で表現できるのかさっぱり分からなかった。例えば、天体は正確に数学の命ずるまま運行しているように見えた。日食や月食は1分1秒に至るまで数学で正確に予測が出来た。人間を超越した存在である自然が人間の構築した論理に従っているように感じたのであった。これは何故か。数学のような人間の思考の産物の方が自然より先にあるのが実に不思議であった。主体が人間の観念にあるのか、客観的な存在である自然や物体にあるのか分からなかったのである。
 しかし、プラグマティズムの権化のようなアメリカ育ちの化学工学を通じて、あらためて物理や化学の基礎を勉強し直している間に、数学というものは人間が自然現象を描写するために構築した単なる言語に過ぎないものであると思うようになった。数学も出来の悪い未熟な時代にはずいぶんと自然現象と矛盾するようなものであったに違いない。それが次第に洗練されて、完璧な一つの体系となってきたのだ。自然現象を表現するために最も効率的な言語として成立するまで、数学が開発されて来たのであると解釈できた。
 そんなわけで、前提さえ正しければ、数学的な思考の過程を経て全く新規の自然科学上の発見に到達することについても何の不思議もないわけである。以前には、中間子の存在にしても、光は粒子であるという説にしても、人間が直接認識できないものを数学で前もって予言して、後からその存在や事実が証明されることが実に不思議であった。人間の論理である数学が先に存在し、その論理を自然が後追いしているように感じたのであったが、実際はやはりその逆であった。
 数学とはあくまでも自然を教師にして人間が矛盾のないように厳密な思考を積み重ねてやっと構築することが出来た自然模写の体系である。厳とした自然が先ず存在しており、人間がただそれを解釈しているだけであり、数学はそのための道具である。数学は自然を表現するために構築した人間の言語に過ぎないと理解して、やっと世の中の道理が分かったような気がした。このように、この頃の我が哲学的信念は自然や客体が人間の観念より優先する唯物論に傾いていた。

  

第235話「水銀騒動」(昭和34年~40年)

2007-08-27 | 昔の思い出話
 修士1年生では修士論文についての切迫感はほとんどなく、専ら、同じ第2講座の4回生の卒論や助手の人の博士論文の応援をやっていた。自分の必要とは関係のない研究の手伝いと言ったような仕事であり、手作りのガラス製の装置でガスの溶解度の測定をやった。博士課程まで進むことになっていた1年後輩の古田君と二人で、実験装置の組立からスタートして相当数のガスの溶解度のデーターを揃えるところまでやった。
 古田君は既に退官されたが阪大の教授をやっておられた。教授と言うのは大変偉いので古田君と呼ぶのに少々気が引けるが、この時は自分の方が一年先輩の学生どうしであったゆえ古田君と呼ばせていただく。当時は、どうしたことか、当方と1、2を争うそそっかしい性格で、研究室では先を争ってヘマをやった。特に溶解度の測定実験ではそれを頻繁に実証して見せた。
 ガスの溶解度の測定には、ガラス容器の中に入っている溶媒やガスの量を正確に測定する必要があるので、液体水銀を大量に使った。水銀のメニスカスでガスや溶媒との接点を作り、置換された水銀量からガスや液体の量を測定するのである。この為には、外部に設けたガラス容器に水銀を溜め、内部のガスや液体の入った容器と連通させて、目は正面のメニスカスに焦点を当てながら、片や水銀の入った一寸重いガラス容器を片手で上下させる操作が必要であった。一つのガスの溶解度を測定するのに、初めと終わりの2回は必要となる操作であった。一日にいくつものサンプルの測定をすると、相当頻繁に水銀溜めのガラス容器の上下を繰り返すことになる。
 先を争ってやるヘマとは、この水銀容器を古田君と自分のどちらかが、1週間に一度くらいのペースでひっくり返すことであった。水銀を研究室の床一面にこぼすと、30分くらいは掃除に手間がかかった。床にこぼれると、水銀はころころと小さな小滴に砕けて丸く転がり収拾がつかなくなるので、実にやっかいなものである。小さな水銀粒は銅や亜鉛の針金でアマルガムにして回収する。また、大きな粒は特製のアスピレーターで真空吸引器を作ってそれで吸い取って回収した。
 机の下や床の細いスキマに散らばった水銀を床にはいつくばって、探し出してはきゅっと吸い取る。時には5分もおかず水銀をこぼすので、1日中水銀掃除ばかりをやっている日もあった。自分も絶えずやる失敗ゆえ、古田君がヘマをやっても全然文句が言えなかった。研究とはいえ、仲良く協力して、もくもくと水銀掃除をする時間が多かった。何分にも水銀は健康に良くないと言われ始めた頃のことであった。健康に有害なのは有機水銀であるが、無機水銀も健康に良くないといわれていたので真剣であった。
 2、3カ月経つと、こぼれて回収した水銀が相当に溜まってくる。水銀は高価なので、やたらと購入するわけに行かないから、汚れた水銀は精製して再使用した。ある時、古田君と二人で、汚れた水銀の精製をやることになった。水銀はいつも表面を水でシールしているので、先ず表面の水を除去する必要があった。ドラフトの中で水銀を大きな磁性容器に移し、下からブンゼンバーナーで加熱して水銀表面の水だけを蒸発させる予定であった。しかし、ガスに火を付けた直後に、たまたま何かの用事が出来て、古田君も自分もガスに火を点けたまま、その場を離れることになった。二人とも同じところへ用事に行ったのであるが、そこでの仕事に夢中になり、かなりの時間を費やしてしまった。二人は用事を済ませて、研究室へ戻ってびっくりした。
  「ああ...、ない!」
 磁性容器に入れて加熱していた水銀が、表面の水どころか水銀本体の全部が蒸発してしまって、空っぽになっていた。1キロほどの水銀はきれいさっぱりと全部無くなっていたのだ。二人は動転するほどに驚いた。ただ、幸いなことにドラフトの中で操作しており、換気扇は効かせたままであった。
  「水銀が何処かへ行ってしまいよったで!」
  「ありゃー、ほんまや!」
と呆気にとられて、二人は顔を見合わせた。
 見るとドラフト内部の壁面は、一面灰色に変色していた。蒸発した水銀が壁一面に凝縮して、薄く刷毛で塗ったように付着していたのであった。手でこすると、それらが水銀粒に戻って転げ落ちて来た。
 古田君は、
  「こわいなあ、こわいなあ」
と言いながらも責任を感じて、ドラフトの中に身を入れて壁や天井の掃除をし始めた。自分も共犯者であり、しかも先輩にあたるので更に強い責任を感じて、ドラフトの中に体ごと入り込んで天井や壁に付着した水銀を回収した。多分、この時には、いやと言うほど水銀蒸気を体内に取り込んだ可能性がある。
 しかし、今も元気に生きているので、まあ、健康には問題がなかったのであろう。蒸発した水銀のうち、どれだけ回収できたのかは分からない。大半は大気中に放散してしまったものと思われる。
 そそっかしい性格は小学校以来の自分の持病であったが、23歳のこの年になっても、まだ十分には治ってはいなかったようだ。 
 
  

第234話「試験の要領」(昭和34年~40年)

2007-08-26 | 昔の思い出話
 修士課程の1年生の間は比較的のんびりと出来たが、それでも履修すべき単位が決められており、研究の合間には教室に出て先生の講義を受けた。学部3年生で「化学機械の理論と計算」の演習問題を自力で殆ど全部解いたお陰か、化学工学の専門科目では恐いという感じの科目は一つもなかった。最初の一瞥で分からないと思われる問題に出くわしても、囲碁と同じで、考えれば手があると粘って考えている内に、不思議とひらめくところがあって、正解にたどり着くことが多くなっていた。
 それまでの自分には信じられないことであったが、つぎのようなことがあった。それは乾燥工学特論の試験で、ややこしい数値計算をやるものがあった。小さな水滴に風を当ててどのくらいの時間で全部蒸発するかという問題である。最初にきちんと基本式を立てて、うまずたゆまず、計算を進めていくと2時間の試験時間内に何とか答えが出せる問題であった。自分はその解答を5.3秒と計算していた。連続した計算問題であるから、途中でちょっとしたミスでもあると、絶対に正解にはたどり着かない。
 試験が終わって、クラスメートに答えを聞くと皆思い思いの数値を言い、自分の答えと一致するものは一人もいなかった。
  「やり方には自信があるけど、答えは間違うたかも知れん。
   まぁええわ。やり方さえよければ60点はくれるやろう」
と思い、答案が返却される日を待った。
 何日か過ぎて、答案の返却される日になった。桐栄教授はいつもよりさらに恐い顔をして教室に入ってこられた。皆の成績が良くなかったらしい。名前を呼ばれて答案を一人ずつ受け取る。自分の答案を見ると、何と100点であった。
 答案を配り終わった後、桐栄教授は更に恐い顔をして、
  「今日の試験の成績は一体何んだ。殆どみんな零点
   ではないか!」
と一喝された。
  「一人だけ、100点が居る。毛利君だ!」
自分はびっくりした。
  「へー、こんなこともあるもんやなぁ!」
と、思った。
 また、同じ時期の試験で、水科教授の「伝熱工学特論」においても殆ど全員が零点の時に自分一人100点であった。しかし、これは先生の採点ミスである。
 試験の問題は、厚い鋼板の中を熱が伝わる現象を既に数式で表してあるのだが、その式を証明せよと言う問題であった。これは最終の形が表されているので、最初に基本的な伝熱方程式を正しく作ると言う点がポイントである。自分は基本式を先ず三つ作って、それをいじくり回していた。1時間くらい経っても最終の証明すべき形にはたどり着けない。残り時間が後30分くらいになった。どうしても越えられない壁があって、もう駄目かと思った。あせって思考が停止しそうになった。後15分、仕方なく自分は証明すべき最終の式を答案用紙の一番下に書いて1行ずつ上へ出来るだけ初めの式に似た形になるように行を埋めていった。上からは既に3分の2ほど来ているので、下から残りの3分の1を書けば一応、答案用紙は埋まる。
 終了の合図と同時に、見かけだけの答案が出来た。しかし、上から進めた部分と下から進めた部分とに思考の断絶があってどうしてもつながらなかった。仕方がない。時間もない。諦めて答案を提出せざるを得なくなった。
  「ああーあ!こりゃあかんわ。それでも最初の基本式さえ
   合っておれば、60点はくれるやろ」
と思わず舌を出した。
 ところが、返ってきた結果は100点であった。上村助手が採点されたらしいが、出だしも終わりも完全に合っているので、途中の経過を見られなかったらしい。この問題はかなり難しい問題であったので、100点は誰もいなかった可能性がある。
 しかし、試験では良いことばかりではなかった。吉田教授の「蒸留工学特論」では大失敗をした。大変難しい問題が数題出されて、どれもこれも殆ど手が付かなかった。しかし答案には少しずつ答えを書いた。答案用紙は全部で3枚あった。
  「こりゃあかんで、部分点を期待しても60点に届かんわ。
   また来年受けるか?」
と教室を出るときには溜息が出た。
 しかし、吉田教授は自分の属する第2講座の大御所で、この科目で成績が悪いと、後々、色々なところに差し障りが出るので、これは困ったことになったと思った。下宿へ帰って、半分諦めながらも、もう一度何故出来なかったかと反省をするために、試験問題を鞄から取りだした。取り出してびっくりした。
  「ああーあ、こりゃえらいこっちゃ!」
心臓が口から飛び出るほど驚いた。教室で出したはずの答案用紙が問題用紙に紛れ込んで下宿まで持って帰っていたのである。ただでさえ出来が悪くて、60点もとれていないところへ。その3枚の内、1枚の答案用紙を持って帰って居たのだ。その夜はまんじりともせず眠れなかった。
 翌日、朝一番に吉田先生の部屋へ泣き落としに行った。
  「先生、スミマセン、昨日の試験、答案用紙を持って帰って
   しまっておりました。何とかならんでしょうか?
   スミマセン、先生、スミマセン」
と、今にも泣き出しそうな声を出した。先生は鷹揚に、
  「ああそう。竹岡さんに渡しておいてください」
とだけ言われた。
  「全部足しても合格点にはおぼつかないが、とにかく
   受け取って頂きさえすれば....」
と思い、ほっとした。
 竹岡さんとは吉田教授の女性秘書である。蒸留工学の専門知識など知る由もないが、後から聞いたところによれば、採点は竹岡さんがしたそうである。皆の成績が余りにも良くなかったので、先生は自ら採点するのを止めたらしい。お陰で他の連中との差は殆ど付かなかったようであった。自分の答案もそのまま出さずにいても、何れ60点の運命であったのかも知れない。
 このように吉田先生の試験はいつもむずかしかった。学部の時も熱力学の講義で「明日はクイズをやります」と予告があった。クイズとは易しい遊び半分のようなものかなと高をくくっていたが、
  「私が交換教授でアメリカで教えていたときと、同じ
   問題を出しています。そう難しくはありませんね」
と言われて、出された問題が一問も出来なかったことがあった。アメリカでは大学の教室における普通の試験のことをクイズというらしい。
 まあ、色々なことがあったが、修士課程の試験では、この吉田先生の試験を除いて殆どの科目で何故か100点に近い成績がとれた。この様に思い通りに物事がすいすいと行った時期は、自分の人生でもこの時を置いて他にはない。正しく人生の黄金の時代であった。

  

変化の主役

2007-08-25 | 徒然草
環境さえ変れば自分は変われると考えている人
この世界はそんな生易しいものではありません
そんな考えでいる限り環境の波に飲み込まれます
環境が人を作るのではありません
自分が環境を作るのです
自分が自分の運命を方向付ける主役です
環境は自分の心の内面の変化に合わせて自然に変わります
自分の身勝手な思いや自分本位の考え方を正しなさい
そうすれば環境は自ずと変っていくのです
変るのは自分です
変えるのも自分です
環境はそれを映すただの鏡に過ぎません


自分という商品の営業マンは自分

2007-08-24 | 社長のサプリ
上司とは仕事を注文してくれる大事なお客様
同僚とは同じ業界で利害を共有する同業者様
部下とは仕事をしてくださる下請協力会社様
自分とは自分という商品を売り込む営業マン
自分以外はすべて大切なお客様・お取引先様
ゆめこれらの方に失礼があってはなりませぬ
じっとしていても注文は飛び込んで来ませぬ
営業が黙っていてはその価値が分かりませぬ
わが身が商品である営業部の商売繁盛の秘訣 
それはすべての関係者様に満足を与えること


失敗は隠してはいけません

2007-08-23 | 社長のサプリ
社長さん
幹部の皆さん
失敗は成功の母です
失敗を隠してはいけません
失敗するから進歩があります
失敗するから前進するのです
隠せば失敗の意味がありません
隠せば失敗から誰も何も学びません
失敗は失敗の原因を知ることが大事です
失敗をオープンにした人を賞賛しましょう
失敗を社会や組織の進歩発展に役立てましょう
失敗を社会や組織の財産であると認識しましょう
皆さん失敗をしたら胸を張って堂々と発表しましょう
失敗の本質的原因を共有すればみんなが賢くなります
失敗した人には社会・組織功労賞を授与しましょう
失敗はあってはならぬことだと考えていませんか
失敗はけしからんことだと考えていませんか
だからみんな失敗の準備を怠るのです
そして同じ失敗を繰り返すのです
日本国の大臣、議員の皆さん
社保庁、農水省、役所の皆さん
雪印乳業、ミートホープ、白い恋人の社長さん
口先だけの再発防止を唱えても何も始りませんよ
トップは普段から失敗の見せ方の研究をしていますか
再発防止とは真の原因を究明しそれを除去することですよ
失敗を隠していては真の原因まで一緒に隠してしまっています


暑さクン もう良い!

2007-08-22 | 徒然草
暑い
夏が暑いのは当たり前だけど
ちと暑すぎる
温暖化か 一時的現象か
原因の講釈など どうでも良い
とにかく暑い
暑いとボケる
何もする気がしない
ただアゴ出してぐったりだ
暑さクン
そろそろ終われ!
もう良い 分かった
いい加減にしてくれ
退場だ!退場!


第233話「信州小諸の学生村」(昭和34年~40年)

2007-08-21 | 昔の思い出話
 この頃、信州長野へは蓼科方面に一人旅で一度行ったきりであり、ずっと憧れに思っていた場所であった。そんな時、下宿の隣部屋の坪田君から声がかかった。
  「この間、新聞見てたら、夏の間、信州の小諸で学生村
   いうのがあって、安く泊まれるそうや。この夏、
   行こうかなと思てんねんけど、一緒に行かへんか?」
 これに対して自分は、
  「ええ話やな。そやけど、この夏は思いきり本読みたいねん。
   そこでは、静かに本呼んで勉強できるんやろか?」
 坪田君は、
  「当たり前やないか! 学生村言うのは学生が夏の間、涼しい
   とこで勉強するために開いているとこや。そこは果樹園らし
   いわ。リンゴと桃作ってるとこやから、いや言うほど果物が
   食べれるぞ。そうや、夏やったら桃かもしれんな!」
 涼しいと言う保証。勉強も出来る。桃が食べ放題。桃太郎伝説の吉備出身の坪田君のこと。少なくとも桃の話は信ずることが出来た。
  「で、どのくらいかかるんやろか?」
  「4週間で、1万円くらいとちゃうか?」
と、話はトントン拍子で進んだのであった。
  「よっしゃ、今年の夏は小諸にコモロうやないか!」 
 二人の間では、このような情報のキャッチと起案は常に坪田君が行い、誘われて同調して計画を深めて、後へ引けなくするのが自分の役目であった。
  「谷川君も誘ってみよう」
  「そうやな」
と言うことで、谷川君を誘った。残念ながら、この夏は何か別の計画があるとのことで、結局、坪田君との二人だけで申し込みをすることになった。
 旅行鞄には勉強の本をどっさり詰めて出発した。着替えは最小限にした。下着は2式のみ。絶えず着替えて自分で洗濯することにした。京都を汽車で出発して名古屋で乗り換えて、憧れの中央本線で茅野を経由して、小渕沢で小海線長野行きに乗り継いで、やっと辿り着いたところが小諸であった。小諸は「千曲川旅情の歌」で高校生の頃から憧れの町であったが、市内見物はせずに、そのまま駅前からバスで郊外に向かった。目指すは村中果樹園であった。
 真夏の小諸は何と暑いところかというのが第一印象であった。日本の尾根とも言うべき高い山脈の麓なので涼しかろうと思っていたが、バスを降りて果樹園までの数百メートルほどのかんかん照りの坂道を、ふうふう汗を拭きながら歩いた。
 果樹園の村中さんご夫婦は中年を卒業したばかりであったろうか。気さくなおじさん、おばさんであった。村中果樹園には既に、男女併せて10人ばかりの先客があり、京都から来た関西組は我々くらいで、殆どが東京と名古屋からの学生達であった。隣の部屋には東京の学生が一人いるらしく、大きな声でフランス語の詩を朗読していた。なるほどここは学生村だ。アカデミックな雰囲気があった。一帯は、散在する果樹園農家が夏の農閑期に、個々に自宅を都会の学生の下宿として開放するもので、取り立てて何か専用の施設があるわけではなかった。
 この村中果樹園には大きな母屋が一軒あり、その囲りは全部リンゴと桃の畑であった。学生たちはこの建物の中で一部屋に2、3人ずつ同居して生活する。関西で見慣れている農家とはかなり異なった風情があり、一月間の滞在の期待を十分に感ずることが出来た。当然のこと、自分は坪田君と8畳くらいの広い部屋に同居することになった。
 リンゴ園のリンゴはまだ青かった。しかし大きさはすっかり普通の大きさになっており、太陽の当たる部分だけ、局所的に真っ赤になっていた。りんごの実の一つずつに紙の袋が被せられて、太陽の光の偏りを避けているとのことであった。当地では冬になって、気温が零下にもなるらしい。その時、外気に曝されたリンゴはこちこちに凍るという。そしてニュートンが見たように、リンゴに万有引力が作用して、時には落ちて来ることがある。リンゴの落ちて行く先が、たまたま人間の頭の上であった場合、凍ったコチコチのリンゴと頭がゴッチンコして、涙が出るほど痛い目に遭うとのことであった。どれもこれも珍しい話ばかりで、ただただ、リンゴのように目を円くして驚いた。 
 朝は早く起きて一人で山道を散歩する。朝露の降りた、すがすがしい草むらは独特の匂いがする。この匂いは奥深い森林では全国共通である。濃密なフィトンチッドが冷たい朝の空気の中に凝縮し露となる。時に何処か朝の山中でこの匂いに出会うと、原始時代の祖先から嗅ぎ続けた太古の匂いが体内の遺伝子を刺激する。大変に懐かしい感情が沸き起こる。 
 夕食時には、学生全員が一室に会して食事をとる。男子学生よりも女子学生の方が人数が多かった。東京女子医大や津田塾大等々、みんな、かなり高いレベルの集団であった。東京から来た高校生も一人居た。いつも全員で行動をともにするわけではない。三々五々に、一日中、本を読んだり、散歩したり、時には隣の部屋に議論をふっかけに行ったりの毎日を過ごすわけだ。
 夜は盆踊り大会があった。村の人達の盆踊りではあるが、都会から来ている学生達のために和風の踊りのほかに、半分くらいはフォークダンスの曲が流れた。和風の踊りは、人の真似をしておれば少々人と合わなくても良かったが、フォークダンスはダメであった。元々フォークダンスの踊り方を知らないし、女性と手が触れるというだけで緊張してしまう。その場で踊りの動作を覚えるほどの心の余裕など、とても出て来そうになかった。結局、最後まで面白いとか楽しむとかの気分になれず、フォークダンスの曲が鳴り始めると、常に戦線を離脱することになった。
 また、学生たちは肝試し大会をやった。真夜中に近くの墓地まで行って、わいわいと楽しんでいたが、自分は正真正銘、本当に恐くて、その様な雰囲気にはなじめなかった。ただ、横でにこにこと見ているだけで、一度もチャレンジをしなかった。
 夕食時には東西の学生が一堂に会することになるが、ここで面白いことを発見した。名古屋の文化はどちらかと言えば、東京よりも関西に近いことが分かった。最近はどうか知らないが、天ぷらにはソースをかける者が関西出身者には圧倒的に多かった。東京の人間は殆ど全員が醤油をかけて天ぷらを食べた。名古屋の人はソースであった。どうやら、日本の文化はフォッサマグナ(糸魚川と静岡を結ぶ地溝帯)を境に東西に別れているようであった。思いの外、関西文化が東にまで勢力を伸ばしていると感じた。 
 学生村での滞在も終わりに近づいた頃、同宿の学生有志が村中果樹園の軽四トラックの荷台に乗せて貰って、軽井沢や浅間山まで見物に行った。果樹園の主人である村中さんが運転して、我々学生一同、息を凝らして幌付きの荷台に乗った。運送用の軽四なので、人間を運んではいけない交通規則になっているらしい。村中さんは正直一徹の真面目人間なので、道中、しきりに警察に見つかってはいけないと言う。既に荷台に乗せて貰って相当遠方まで来ているのに、途中でそんなことを言われても我々は何もできなかったが、要するに交差点で車が止まったときには、一切外に声を漏らすなと言うアドバイスであった。
 ある時、軽四が山道の上り坂の途中でエンコした。
  「ちょっと悪いけど、男は車から降りて、押してくれんかね?」
 運転をしている村中さんにそう言われて、坪田君と高校生と自分の三人は車から降りて、後ろから押した。何人かの女子は荷台に乗ったままであった。重かった。車が後ろに下がってくるのを必死にこらえながら三人が力を合わせて押し続けると、車は何とか前向きに進み始めた。じりじりと100メートルほど坂道を押したであろうか。額から汗がぼたぼたと落ちる。運転席ではおじさんが必死になってアクセルを踏むが、エンジンがかからない。
 と思うや、道は急な上り坂を脱して少し傾斜の緩やかなところへ来たらしい。突然、バリバリという音を発して、押していた車は急発進したのだ。今迄必死に押していた車が急に自力で走り始めた。三人は息も絶え絶えになって、車を支えにしていたのに、突然目の前からその支えがなくなって、前につんのめった。そしてそのまま、3人は思い思いのスタイルで山道の真ん中に転げ込んだのであった。
  「スマン!スマン!」
 村中さんは車を止めて謝った。しかし、自分達は息が苦しくて暫く物も言えなかった。そして、みんな大笑いになった。その後は、車は快調に走り続け、1日中、信州の山中をあちらこちらを巡った。遠くは群馬県に入り草津温泉まで行ったような記憶がある。
 色々と楽しい信州での避暑生活が終わる頃、殆ど全員が親しく打ち解けて、お別れをするのが悲しくなるほどであった。坪田君と自分は合作で、次のような替え歌を歌って、皆と別れた。この歌の本歌は殆ど忘れたが、「浅間の煙天高く、夕闇迫る懐古園...」と言う出だしの歌であった。

   お風呂の煙天高く
   夕闇迫るリンゴ園
   夕餉(ゆうげ)のテレビの音かなし
   栄華の夢も小諸なる
   お墓のほとり佇めば
   歴史も古き村中城

 歌詞の最初の「お風呂」とは、丁度、学生たちが寝起きしている母屋からリンゴ園の一部を挟んだ正面に小屋があり、そこが風呂場になっていた。夕方の4時頃になると、小さな煙突から勢いよく煙が出始める。学生たちはそれで夕べの近いことを知る。その有り様は平和な田舎の叙情であり今も目に焼き付いている。また、台所にあった、たった1台のテレビの調子が悪く、音が出にくかった。さらに、お墓とは肝試しのお墓のことである。最後の村中城とは、言うまでもなく小諸古城のパロディーであり、村中果樹園を指していた。
 何れにせよ、都会の喧騒を離れて、周りの風景や文化の違う異境で暮らすことは大変に良い経験となった。村中果樹園には、翌年の夏、既に1年前に就職して、会社を辞めて、司法試験にチャレンジしていた比良松君を誘って再び訪れた。この時は、坪田君は忙しくて行けなかった。

  

第232話「山道に迷う快感」(昭和34年~40年)

2007-08-20 | 昔の思い出話
 この頃は一人で山歩きをよくやった。下宿で勉強に疲れるとふと外の空気に触れたくなる。一人で下駄を履いたまま裏山に登る。裏山に登ると、時には4時間も5時間も歩き続けてしまう。目的地は大文字山のふもとまでのつもりが、いつの間にか滋賀県大津までたどり着き、帰りは電車と言うようなこともあった。
 時間がないときのショートコースは大文字山に決めていた。下宿から北白川山中越えに道を取り、途中で細道に入って如意ヶ嶽を目指す。如意ヶ嶽とは通称大文字山のことである。大文字山の大の字の中心に腰をかけて下界を睥睨(へいげい)すると、京の街全体を眼下に見下ろして、何とも言えず、気宇壮大になるのであった。特に京大のキャンパス全体がはるか下正面の南北に見おろせて、いつも見上げている吉田山がまるで平地の森に見えるのであった。京都御所よりも広大な京大キャンパスを眺めていると、何か偉大な力がもりもりと盛り上がって来るような感じを受けた。
 下宿から大文字山のいつもの場所までは、大体30分程度で登れたように思う。当初は汗をかく快感と下界を見下ろす快感とから山歩きが好きになった。しかし、その後は、後に書く別の動機が触発されて何とも言えない喜びを見出すようになった。それは、それまで歩いたことのない細道に分け入ると、先は何処へ通じているのか分からない未知に挑むと言うような快感であった。進むほどに細くなり、行った分必ず戻らなければならなくなると思いつつ先に行き、とうとう戻れなくなる所まで行ってしまうのだ。そのまま突き進むと、突然に、人家が見えたり、人の話し声が聞こえたり、大きな道が見えたりする。ほっとして、それまで感じていた心細さなどはすっかり忘れて、スリルと言う快感だけが残る。そして、このような道なき道を一人行く行動が趣味になり、病みつきになり、最後には信念を形成するまでになったような気がするのである。
 5万分の1の京都市外東部の地図を買い込み、歩いた道を赤鉛筆で印を付けていくと、1年ほどの間に、下宿を中心に地図が真っ赤になる。地図を見る度に未だ歩いていない道があると、何故かしゃくにさわって来るのであった。
 この徘徊は友人と一緒にハイキングのつもりでやると全然面白くない。一人でやって、迷子になるかもしれない不安がじわじわと心の中に染み込んでくる時の、その心理状態が大きな快感なのである。二人以上となると、その気分が味わえない。研究や仕事においても、その様なことがあるのかも知れない。とにかく、一人でする初めての経験が実に面白いのだ。
 「すべての道はローマに通ずる。何処へ行っても、先は必ずローマに
  たどり着くはずや。大丈夫。迷子になって死にはせん。とことん
  行って、この目でローマを見てやろうやないか!」
 何の根拠もなく、大きな気持ちになって前へ進む。すると、当初期待も考えもしていなかった事物や状況にぶつかる。そして、さっと目の前の視界が晴れてすべてが解決する。研究や仕事でもその様なことが多くあったし、少なくとも山歩きでは必ず答えがあった。
 山の中で道に迷うと必ず心に去来した考えがある。
 「今は道に迷っているが、今晩きっと、下宿の布団の中で寝てる
  はずや。明日の朝は絶対にあのメシ屋で朝メシ食ってるはずや。
  今は、朝メシ前の状態やで!」
と、明日の姿を頭の中に描く。
 「現に、この前、迷ったときにもそうやった。その日の夜には、
  ちゃんと布団の中で寝て、次の日には朝飯を食った。それが
  証拠に、今こうやってちゃんと生きていて、同じことしてる
  やないか!」
 この様に考えると、自然と足が前へ進む。その結果、やがて必ずローマならぬ下宿に通ずる道に出くわす。そして、その都度、
 「引き返したり、途中で止めてはならない。前へ前へと進み続ける
  ことだけが正解への一番の近道である」
と、知らない山道で迷うたびに、このような信念がますます強固になっていくのであった。

  

第231話「いつの間にか変っていることも」(昭和34年~40年)

2007-08-19 | 昔の思い出話
 化学機械学教室では研究や授業の合間に野球をよくやった。講座ごとにチームを作って、対抗試合をした。第4講座の吉岡先生は専ら「流動」を担当しておられたので、かの有名な「レイノルズ数」の名前を取って、チームの名前は「吉岡レイノルズ」と名乗っていた。軟式野球であった。吉岡先生自身も野球が得意で学生の中に混じって豪速球を投げておられた。
 自分は昔から、野球のような球技は不得意であったし、エラーをすると極端に責任を感ずるところがあって、あまり積極的には参加しなかった。しかし、ここ第2講座のチーム「吉田ディスティラーズ」では人数が少なくて、自分が出なければチームとして成立しないし、やってみれば自分より下手な人間の方が多いことが分かった。それでも、みんなプレーを楽しんでいた。エラーすれば、その時のボールやグラブや投げたり打ったりした他人のせいにして、それなりに楽しんでいるのであった。
 自分は高校生の頃から守備につくときは、常にライトを守った。球が飛んでこないし、そのためエラーをすることが少ないし、人から非難される心配が一番少ないことを知っていたので、人より先に飛び出して、ライトの位置を目指して走った。先にそこに到達しておれば、大抵の場合、後から来た人が遠慮する。ライトは他人から「お前はライト」と指名されるのではなく、自分からすすんで獲得するポジションであった。
 ここ化学機械学教室では勝手が違った。ライトのポジションへ走って行くと、自分より先にライトに陣取っている先人が居るのであった。そんなわけで、やむを得ず自分の守備はセカンドが普通になった。やってみて驚いたのは、セカンドでも結構やれるのであった。エラーも沢山やったわけではない。自分はここではごく普通の人間であった。下手クソ呼ばわりもされず、人からとやかく非難されることもなかった。野球と聞く度に、いつも遠慮して、人の前に出ないようにしてきた習慣は一体何であったのか不思議な感じさえした。
 もっと驚いたことには、自分の打撃であった。ある時、ピッチャーの投げた高めの打ちごろの球が来たので、思いきりひっぱたくと、ボールは芯に当たって、飛ぶは、飛ぶはのセンターオーバーであった。次の回はもっと驚いたことに、同じことが2回続いたのであった。これがチームの小島監督の目に止まるところとなり、次回の試合では4番バッターに指名されることになった。
 4番が長く続いたかどうか記憶にはない。それまで、こと野球やソフトボールになるといつも、こそこそと人の背中に隠れていたのであるが、この頃からそう遠慮しなくても良いことが分かった。京大と言う大学のお陰だったかも知れない。スポーツの堪能な人の多い他の集団であれば、このような自信の回復は経験出来なかったかも知れない。しかし、人は自分の殻をいつまでも守リ続ける必要はないということであった。環境が変われば世の中すっかり変わっていることもある。昔出来なかったことでも、勇気をもって再チャレンジすれば案外できるかもしれないのだ。
 考えてみると、このような経験は自分の人生でも数知れない。ある場所で限界に達したときは、べたべたとその場所に拘泥しないで、さっさと場所を移して、新たなスタートを切ることも一法だ。今まで本人も知らなかった別の自分を発見することになるのである。

  

第230話「修士課程」(昭和34年~40年)

2007-08-18 | 昔の思い出話
 小学生の頃には友人達から「君なら大学へ行けるよ」と言われただけで、「そんなことあるもんか」と必死になって謙遜したり否定したりしていたが、とうとう大学院の修士課程まで行ってしまった。しかし、これは大学で自分だけが特別であったわけでない。化学機械学科の同級生の内、学部で卒業した者は僅か3人であり、大学院へは10数人が進んだのであった。
 もともと、化学機械学教室の先生を含めて工学部の教授一同、かなり以前から京都大学工学部を大学院大学とする構想を持っておられて、京大工学部に入学した限りは学生全員を大学院に進学させる腹つもりであった。一部の人には足切りの入学試験もあったが、成績上位には入学試験がなかった。結果的には化学機械学教室に在籍の希望者全員の入学が許可された。自分は幸い入学試験を免除される組に入っており、無試験で大学院へ進学できることになった。
 他の大学からも入学試験を受け付けていた。他の大学からの受験生は殆どが不合格となった。入学試験の問題を見せて貰ったが、非常に難しい問題であり、もし自分がこの試験を受けていたら、多分、合格はおぼつかなかった。それは、正しく落とすための試験であったが、それでも合格した男が二人いた。
 大学院では、博士課程への進学希望を申告しない限り、学部課程から講座を変更しなければならなかった。自分はいくら何でも博士課程まで残る気がなく、2年間の修士課程を終了した段階で就職するつもりであった。
 大学院への進学に当たって移った講座は吉田教授の第2講座であった。ここは、蒸留、吸収、熱力学などをやる講座であった。大学院生になる頃になっても、自分は将来何をするべきかよく分からない未熟児であったので、新しい講座で何をしたいか特に自分の希望を表明しなかった。その結果、結局、片山助教授に面倒見て頂くことになり、講座では本流から少し外れた物性平衡、すなわち熱力学の研究をやることになった。研究室の名前は平衡研究室。すなわち平衡研または先生の名前を取って片山研と呼ばれていた。
 自分の場合、幸か不幸か、修士課程になっても、学部の時と同じように共同研究の先輩は存在しなかった。大抵の場合、修士の初年度は1年上の先輩の手伝いをしておれば、それがそのまま自分の卒論につながった。しかし、自分の場合は、またもや自分一人のテーマを与えられ、一からすべて自分でレールを敷かねばならないことになった。
 テーマは「ガスの溶解度の推算に関する研究」であった。今回も、研究には一銭の予算も使わない、頭脳だけで勝負する研究テーマである。しかも、指導教官である片山助教授は、ほんの暫く日本におられただけで、間もなく米国ウィスコンシン大学へ長期の交換教授として赴任された。そんなわけで、こと卒論については、突然の意図せざる自主独立路線を歩むこととなり、学部の卒論よりも更に強烈に悩み多き学生時代を過ごすこととなった。
 片山研の助手として徳永先生がおられて、話し相手になっては頂いたが、どちらかと言うと、徳永先生の研究のガスの溶解度の測定装置を組立てたり、それを用いてデーター取りの作業を手伝ったりしただけで、当方の卒論に反映される物ではなかった。
 片山助教授にはアメリカで、京都の当方の修士論文の進捗を逐一レターで確認していただいた。いわば通信教育で修士論文を仕上げて行った。

  

第229話「三石研究室」(昭和34年~40年)

2007-08-17 | 昔の思い出話
 4年生で卒論のご指導をしていただいた三石助教授は、阿波徳島の出身と勝手に想像しているが、大きなひたいの豪快な風貌で、また豪快に笑う先生であった。ある最大手の化学会社に一度奉職されたが、研究生活のため大学へ帰って来られたとのことであった。
 入った研究室は元々、原子核化学工学というふれこみであったが、これは教室に与えられた講座数や予算制約を避けるための名目だけの講座であったようだ。勿論、当初は本当に重水の分離などの研究をやっていたらしく、研究室の直ぐ前に重水を分離する大きな研究用蒸留塔が一本立っていた。棚板は多孔板と言うことで、塔の覗き窓からその棚板を見ることが出来た。何でもない蒸留塔であったが、素人目には時代の最先端を行く装置のように見えた。しかし、この蒸留塔が運転状態にあるのを見たことは一度もなかった。
 当時の三石先生の興味の中心は、もっぱら、レオロジーにあり、飛沫同伴と言う昔に先生がやっておられた研究でわずかに原子核化学工学とつながっているだけであった。そのような意味では、「放射性微粒子の湿式除去に関する研究」と言うテーマを与えられた自分は、この研究室のメインのテーマを与えられたのかも知れないが、講座の輪読会や先輩達の話題はすべてレオロジーに関するものであった。
 自分はこのレオロジーという学問がよく分からなかった。内容が至極難しいのである。数学的にも難解で、ベクトルやテンソルを理解していないと議論に付いていけなかった。最も基本となるテキストは米国ウイスコンシン大学のバード先生ほか数名の共著である「Transport Phenomena(輸送現象論)」であった。これを講座の輪読会で勉強した。自分は教養部時代に数学でベクトルの本質を余り明確に掴んでいなかったし、その前提となる行列や行列式なるものの物理的な意味が理解できていなかった。テキストの至る所で、そのような数式を見るにつけ、目眩と吐き気が起きる有り様であった。又、レオロジーという学問自体、産業のどの分野で役に立つのかよく分からなかった。自分には化学工業を石油精製や製鉄業の範疇で単純に捉える知識しかなかったので、レオロジーとは特殊な人達の、何か為にする学問のような気がしたのであった。
 三石先生と雑談していると先生はよくこんなことを言われた。
  「大学の先生になるためには何もずば抜けている必要はないよ。
   クラスで上から三分の一くらいの成績であれば十分だ。
   君も大学に残らんかね」と。
 しかし、自分には大学の先生の能力があるようには思えなかった。特に学者に必須の抽象的な問題の把握力に及ばないところがあった。自分は努力と頑張りで後から追いつくことでそれらを解決してきたのだ。瞬間的には分からないことでも時間をかけて考えていると分かってくる。それが自分のやり方であった。
 また、大学院博士課程の中町さんや修士課程の宮竹さんと言う素晴らしい先輩達の頭脳の明晰さには、毎日のように目を見張るだけであった。先輩達はベクトルやテンソルを偏微分方程式の中に取り込んで、訳の分からない数式を自由自在に展開して行く。その抽象的な数式の物理的意味がこの素晴らしい頭脳には完全に理解されており、まるで神様に接するような気分であった。
 研究室には我々と同年齢の補助役で村畑さんという人が居た。立命館の夜間に通っていたような記憶がある。実験装置を組み立てたり、運転の補助をしたりする役割で、大学での身分は技官であったと思われるが、実務的には学生の自分達よりはるかに工学的なことをよく知っていた。又、実質的に自分の判断で装置を設計し組み立て一切を任されて仕事をしていた。自分は、頭の切れる先生や先輩との対話に疲れると、気の張らない同級生の岩端君や蘇我君と雑談をして憂さを晴らしたが、特に自分はこの村畑さんとはよく気が合った。休みの日には壬生の自宅まで足を運んで遊びに行ったことがある。
 三石先生はドイツ語で言えばドライシュタインとなる。あの相対性理論で有名なアインシュタインの3倍にあたる名前で大変偉い先生だと思っている。先生は京都大学で助教授から順に教授になられると思っていたが、思いがけもせず足早に京大を去って、九州大学に転出され教授になられた。そんなわけで京大の化学機械学科の関係者に三石先生のことを話しても知らない人が多くてたいへん残念である。
 よく卒業時の所属研究室の名前を聞かれることがあるが、自分は必ず三石研究室(工研)と答える。所が、出来上がったリストを見ると高松研究室であったり、水科研究室であったり、勝手に変更されている。お膝もとの教室で教授になっておかないと、その存在をきちんと認めて貰えないのかと残念な気がするのである。
 三石先生とは卒業してから一度もお目にかかっていない。卒業する最後の日には学生の我々3人を祇園に連れていって下さった。岩端君と蘇我君の二人は学部で卒業することが決まっていたが、自分は大学院に進学するので先生とはいつでもお目にかかれると安心していた。従って、その時は岩端君や蘇我君との別れ話やこれからの彼らの会社生活への抱負等の話ばかりに花が咲いていた。本当は先生に対してもっと強く感謝の言葉を返して置かねばならなかった。我々の卒業と同時に三石先生も九州大学教授へと栄転される予定であることを我々には知らされていなかったのである。
 先生のポケットマネーで、祇園の立派なお座敷でお酒を飲ませていただいたのである。場所が祇園であったから、そうお安くない支払いになったと思われる。また、先生にはきちんとしたお礼も言わずそのままになってしまっていることも悔やまれる。京大の先生ともなれば、京都では名士だから、このような場所で盃を交わすことは当然であると勝手に想像していたが、その後、京大の先生にこのような場所へ連れて行って貰った経験は一度もなく、やはり、三石先生は格別甲斐性のある偉い先生であったことが、かなり時代が下った後になって気がついた次第である。