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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

「坂の上の雲」

2007-11-30 | 読後感
司馬遼太郎を読んだ
タイトルは「坂の上の雲」である
文庫本で8冊あった
今年の夏 
四国松山を訪問したことが切掛けだった
読み応えのある内容であった
明治の初めから日露戦争が終わるまでの30年
ロシヤとの戦争を克明に記した歴史小説である
俳句の正岡子規
松山に生まれ東京で記者となり
若くして病没したが
ベースボールを野球と訳した当人と知って驚いた
打者、走者、直球、死球、すべて子規の発明だそうだ
海軍の秋山真之 陸軍騎兵の秋山好古は兄弟であった
松山伊予藩の貧乏士族の出自だそうだ
子規と交友があり互いに影響し合ったとか
旅順を攻略した乃木希典大将
軍神と聞いていたが
実は凡庸な人であったと書いてあった
死ななくても良い罪なき兵士を1万人も死なせた
無謀な正面突撃を繰り返したと言う
我が心の英雄像が崩壊した
ガッカリした
東郷平八郎連合艦隊長官
対馬海峡にバルチック艦隊を向かえ 
これを撃滅した
最初の1時間で大勢を決したと言う
信じられない戦果であった
戦端を開くにあたり
発した兵員への発令は次の如し
敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊は直ちに出動 
之を撃滅せんとす
本日天気晴朗なれども浪高し 皇国の興廃この一戦にあり
連合艦隊参謀秋山真之の作だそうだ
本日天気晴朗なれども浪高し 皇国の興廃この一戦にあり
我が家を出て会社に向かうとき いつも口ずさみたい言葉だ
イメージトレーニングに最適だ
坂の上の雲の時代
ただ黙々と坂の上の雲を目指して
明治の人は坂道を登って行ったのだ
錚々たる人たちと庶民が綴った歴史があった
坂の上の雲の時代
わが国は明治維新の直後にして世界では赤子であった
国力も兵力もなかった
日露の戦争はアリが象に刃向かうが如き戦争であった
ロシヤは一等国 
今で言えば超大国であった
日本は三等国 
農業国にして太平の眠りから覚めて30年に過ぎなかった
信じられない組み合わせであった
ロシヤにとっては皇帝ニコライ二世の野望に始る侵略戦争であったとか
日本にとっては生きるか死ぬかの祖国防衛戦争であったとか
負ければ対馬、北海道をロシヤに割譲せねばならぬという危機感があったとか
ロシヤにとっては皇帝が統治する官僚機構の軍隊がいやいや戦ったとか
日本は頂点に天皇を戴くといえども素朴な国民の純粋な思いで戦ったとか
ロシヤと日本の庶民の文化の構造が異なっていたとか
日英同盟でイギリスが何かに付け日本を支援したとか
勝っても疲労困憊
余力の全くなかった日本であったが
戦争の早期終結にアメリカ大統領が一肌脱いだとか
あらゆることが日本に味方したのであった
要するに運がついていたのだ
だが
こんな戦争の始まりを小国日本がよく決意したものだ
政府の要人は慎重論であったが
新聞などの世論が開戦を主張し これを抑え切れなかったそうだ
信じられない
自分は人が人を殺す戦争を賛美する気は毛頭ないが
現在のわが国の軟弱振りを見るに付け 少しは思う
偉大な明治の先人の気力を少しは見習えと
一寸の虫にも五分の魂があるのだ
戦う前から負けると思うな
繰り返す
本日天気晴朗なれども浪高し 皇国の興廃この一戦にあり
この意気込みを忘れてはいけない
如何に力の強い相手であろうと
如何に勝つ気のしない相手であろうと戦う前から負けていてはいかんのだ
勝てる勝負も負けて終わる
せめて知力と精神力では相手の上を行け
日清戦争も日露戦争も勝った日本だ
いずれも当時の超大国を相手に立ち上がって勝ったのだ
我々はその末裔だ
明治は遠くなりにけりだがこの事実を時には思い起こせ
同胞よ 同輩よ 仲間達よ
自信を持とう 今よりは強くなろう
精神力とエネルギーが漲った
久方ぶりだった
読むに長時間を要したが読み応えのある本であった


第274話「ソクラテスとブタ」(昭和44年~49年)

2007-11-28 | 昔の思い出話
 1971年ごろから左翼の学生運動は次第に下火になってきた。しかし、ここで、その最終章を飾るようなとんでもない事件が起きたのである。連合赤軍による浅間山荘事件であった。浅間山荘事件は、警察の捜査により軽井沢の保養所浅間山荘まで追い詰められた連合赤軍が篭城し、9日間にわたり警察と睨みあった末、最後には機動隊の強行突入で死者まで出して解決した事件である。
 驚愕すべき事態が明らかになったのは赤軍が警察に逮捕されてからのことであった。連合赤軍は総括と称してメンバーに政治的な反省を強いていた。初めは純粋な動機から出たかもしれないが、それが発展して、単に本人の自覚を促すに留まらず、周囲の者が集団で意見や批判を行う形に発展した。さらに、これが破綻して、総括には常時暴力を伴うようになったのだ。総括の対象となった一人の人間に対し、仲間全員が暴力によって厳しい反省を強要した。これは実質的なリンチであり粛清であった。被害者も政治的な動機や哲学的な信条から必ずしも抵抗せず、暴力は次第に激しくなり、その暴力は死に至るまで続けられたのである。リンチは非常に凄惨であったらしい。激しい殴打があり、女性は逃亡を防ぐために髪を切られたし、死にまで追い詰められた者の多くは、殴打による内臓破裂や、氷点下の屋外にさらされての凍死であったという。総括は、裁判を模して死刑を宣告され、アイスピックやナイフで刺され、その後に絞殺される者まで出たそうだ。遺体は全裸で土中に埋められ、証拠隠滅が図られた。
 この浅間山荘事件はテレビなどでセンセーショナルに報じられた。このような内部抗争の事実が分るまでは、自分は連合赤軍に対して少々同情を感じていた。なぜ警察が執拗に若い前途ある優秀な学生達をあそこまで追い詰める必要があるのかと考えていたくらいだ。
 彼らにも理屈があった。強固な信念と哲学に支えられているように見えたので、いつも軟弱な態度に終始している自分から見ればまぶしいほどの存在であった。彼らの精神的な強さに羨ましくさえ感じた。彼らには、革命を志す彼らなりの夢があり、それを行動で実践しているように見えたのだ。しかし、日が経つに連れ、総括と称して仲間が仲間の生命を奪う現実を知ると、とてもそれ以上共感する気が起こらなくなった。目的や信念が正しくても、手段が間違っているのではないか。彼らの理想と現実との懸隔には目を覆うばかりになっていた。彼らの信奉するマルクス主義の哲学は、それを絶対的な真理と信じて信仰する一種の宗教であった。マルクスは絶対神であり、その主張は聖書となっていたのだ。それを疑うものは神の名において処罰し、処刑することまで許されるという理屈であった。丁度、中世の西洋でキリストの名において、火あぶりや魔女狩りが許されたのと同じ理屈であった。
 それまで自分が学生時代から懸命に勉強して、一番の拠り所としていた弁証法的唯物論に基づく認識論が、この事件を契機として心の中で揺らぎ始めたのである。人間とは、現実の社会が如何に矛盾に満ちたものであっても、これを容認して、結局はその中で生きて行かざるをない存在かもしれないと考え始めたのである。
 元々、子供の時から自分はプラグマティズム(実用主義)の傾向があった。学生時代に、そのような考えが多少浅はかではないかと感じ始めたことと、自然科学の勉強を通して徐々に唯物論に基づく認識論に傾斜してきたのであった。このような経緯で、自分はマルクスの哲学に少々の親近感を抱いていた。さらに弱く虐げられた者にも平等の権利を与えようとする主張が、自分には大変好ましく思われていた。しかし、この浅間山荘事件を契機として、このような思想的な基盤が崩壊し始めた。このことは自分に基本的な精神構造の危機をもたらせた。
 そして、自分と言う人間が一体、何であるか分からなくなり始めた。自分はソクラテスかブタか?自分の本質はソクラテスではない。ブタの生まれであるが、頑張ってソクラテスになろうとする途上にある。しかし、ソクラテスになろうとすることが正しいことか?自分の人生における目標は一体どちらを指向しているのか?これらのことが、すべてよく分からなくなっていくのであった。

  ソクラテスはブタに言った
  ブタよ、
  お前は生まれつき卑しい
  お前はいくら頑張っても
  オレのようにはなれないのだ

  ブタはおそるおそるソクラテスの顔を見た
  ソクラテスは知識と権威に輝き
  支配者の絶対の自信に満ちていた

  省みて、ブタは思った
  食うものがないからハラが減る
  ハラが減るから何でも食う
  カネがないから何も出来ない
  何も出来ないから卑しくなる

  ソクラテスとオレの差は何か?
  差の由来は何故か?
  汚い、何としてもオレは汚い
  悔しさと腹立たしさと自悔の念をもって
  ブタはソクラテスを見た

  ソクラテスはブタに言った
  お前が卑しいのは生まれつきだ
  神がお前をそのように作ったのだ

  ソクラテスはそう言って
  家来を従えて厳かに去った

  ブタは考えた
  現在のオレとソクラテスの違いは
  神のせいなのか?
  神とは何か?

  ブタはブタなりに三日三晩考えた
  三日後の夜明け
  乏しい思考の中から
  ブタは一つの明かりを見出した

  そうだ、
  ソクラテスが神を作ったのだ
  神がブタを創ったのではない
  ソクラテスが神を捏造し、
  オレの現状を神の仕業にし
  ソクラテスの富と権力を正当化しているのだ

  ブタはブタの立場から
  最も妥当な結論に達した

  ブタが貧しさと卑しさから脱却するには
  ソクラテスを殺し
  万人平等の世界を造らなければならない
  ブタはブタなりの信念を持った

  ソクラテスの父は
  ソクラテスが子供の時から
  ソクラテスに教えた

  お前は神の子、
  すべて世界は神の支配するところ
  神の子のお前は神に代わって
  世界を統治する
  それがお前の使命だ

  ソクラテスは教えられたとおりに
  信じていた

  ソクラテスは裕福で時間があったから
  一生懸命に勉強した
  そして考えた

  オレは神の子
  神の子だから
  神のように考えることが出来る
  神のように振舞うことが出来る
  人を治める権力も富もすべて自分のものだ
  ブタが神に反して
  自分に背くことはまかりならぬ
  ブタは秩序を乱す不逞の輩
  不敬、騒乱、危険思想の罪で処刑する

  ブタに同情するヒトも居た
  そして
  ソクラテス派とブタ派の
  戦争が始まった

  戦いはあっけなく
  武器も理屈もカネも何もない
  ブタ派の負けに終わった

  時移り、日が過ぎて
  何百年何千年経った今
  ブタの子孫は今も生きている
  ソクラテスの子孫も生きている

  そして
  ソクラテスの子孫は威張り
  人の上に立ち続けている
  また
  ブタの子孫は相変わらず
  ブウブウ言いながら
  必死に生きている
  

第273話「潜在意識の一角」(昭和44年~49年)

2007-11-27 | 昔の思い出話
 研究所へ来て、最初の1、2年はかなり充実した気分であった。毎日、夜中の10時や11時頃まで残業する日が続いたが、家へ帰れば別人になる二重人格の生活を送っていた。自分は研究所へ転勤する少し前に大学へ帰る決心をして、それを思いとどまっていた。その後の心中は複雑であった。
 入社以来、もう何年も本業と無関係の仕事ばかりしている。もちろん、自分で選択して、そのようにしているわけではない。会社で誰かがそれを決めているのであるが、その実体は自分には分からない。会社と言うシステムの本質的な問題なのだ。自分は、決して現状に納得していなかった。このままではいけないと言う気持ちに悩まされていた。
 プライベートの世界では、現実の会社の仕事とは無関係に、OR、IE、QCなどの生産管理や原価計算、会計、経理の世界への関心が高まっていった。潜在意識の支配する心の世界では、いつかは自由になって、会社から独立して、経営と技術の両方が分かるコンサルタントになりたいと思うことがあった。もちろん、この時期に、このような考えを明確に意識していたわけではない。そのような考えが頭を過(よ)ぎったら、即座に否定していた。しかし、完全に否定はできず、その芽を温存していた。
 自分は、何食わぬ顔をして、昼間は技術者として実験プラントの運転研究に没頭し、夜は夜で全く別の分野の勉強に没入した。研究所へ転勤する前から中小企業相手のコンサルタントである中小企業診断員(当時は診断士と言わずに診断員と称していた)に関心を持っていたので、診断士資格をとるための「中小企業診断員」や日本能率協会の通信教育「会計コース」の通信教育を始めていた。これらと平行して、化学プロセスの経済評価、設備更新の経済理論、原価計算、公認会計士2次試験講座(この講座だけでも分厚い本で20数巻あった)等の書物を秘かに購入して乱読した。
 長期の人生目標が見えないと嘆きつつ、潜在意識では何かを模索していたのだ。もちろん、直ぐに経営や技術の専門コンサルタントになれるはずもないことは分かっていた。しかし、遊び半分の2足のわらじは昔からの得意技であった。一方で現在の仕事を人の数倍以上やって、他方では人知れず新たな新天地の開拓に努めていたのだ。
 コンサルタントになるための勉強として、最初は技術屋らしく技術士(生産管理部門)の資格を考えた。しかし、技術士の受験資格には実務経験が7年以上という条件があった。この時点では未だ経験年数が不足しており、受験資格そのものが満たされなかった。無為に待機する時間がもったいないと考えて、とりあえず、受験資格に経験年数不問の中小企業診断士を先に目指そうと考えたのである。
 中小企業診断士と技術士の資格と、そして、資格取得までの間に充足される10年間の現場経験があれば、コンサルタントとして独立できるのではないか?と、今から思えば世の中のことを何も知らない若造のひそかな夢が、亡霊のように潜在意識と顕在意識の境界をさまよっていたのである。
 まだ、30歳になるかならぬかの頃であった。自身が弱きゆえに弱いものに味方するのは人の情であった。政治の世界では、自民党は常に強大で横暴、国会では数の力で次から次へと悪態の限りを尽くしていた。だから、選挙になれば自民党の候補者には投票したことがなかった。また、プロ野球で巨人が好きになれなかったのは強打者ばかりを金で集めて当然のように勝ちつづけたからであった。そして、東京が好きになれなかったのも、日本で何でも一番を取り続けるからであった。アメリカは何でも世界一であることと、とりわけ、戦後は日本を属国扱いにして偉そうにしているから嫌いであった。自分は本能的に上位の者が好きになれなかった。会社でも上司が同じ部屋に居るだけで何となく落ち着かなかった。学校でも教師が好きでなかった。教室に自分より出来る同級生が居ると人知れず対抗心を燃やした。そのような意識が30歳になってもまだ心の底を流れていた。
 会社の仕事は一生懸命にする。仕事についての文句は一切言わない。仕事は上司のためにしているのではなく、人のため、社会のためにしているからであると割り切る。とりわけバイタリティーの塊のような上司から厳しく指導されても、文句を言わずに大概は従順に従った。猛烈社員を装い、有休はほとんど取らず、1月に50時間から70時間の残業が常態であった。会社では何かしら圧迫を感じて、心の底ではあまり楽しくなかった。一度は退職を決意した会社だから、いつかは会社を辞めることになるだろうとの思いが潜在して伏流水となっていた。
 潜在意識は秘かに第二の選択肢の準備を命令していた。そのことを明瞭に意識していなかったが、家に帰れば別人になって、会社とは無関係のことをやっている。そんな毎日が続くのであった。
 
  平凡であることへの反発
  平凡であらねばならぬ特質
  この間の矛盾がストレスの根源

  人は何も無ければないで
  自ら好んで
  悩みの種を蒔き
  悩みを育てて
  悩むことをする

  悩み解消への
  努力だけが
  人を前進させ
  進歩をもたらす

  人は悩まなければ
  進歩できないのか?
  人は悩まなければ
  本当に進歩できないのか?


第272話「大阪万国博覧会」(昭和44年~49年)

2007-11-25 | 昔の思い出話
 東海道新幹線が開通し、東京でオリンピックが行われ、日本も米ソなどの超大国に伍して自前の人工衛星を打ち上げるなどして日本人の自信がかなり回復してきた。日本では東京ばかりが自信を持っているような状態であったが、大阪でも、当時はまだ日本の都市の2番手として実力を維持していたので、東京の次は大阪とばかりに日本万国博覧会が大阪千里の丘陵地で行われることになった。
 この時期に前後して、竹やぶに覆われていた大阪北部の千里の丘陵地が見違えるように整備され、白い四角いアパート群が次から次へと建設されて、超モダンなニュータウンが出現していた。そのニュータウンに隣接して開かれる万博会場への交通網や周辺地域の整備が怒涛のような勢いで行われた。名神高速道路、中国自動車道、近畿自動車道、大阪中央環状線、新御堂筋、西名阪自動車道、大阪内環状線、大阪外環状線、さらに大阪地下鉄の千里地区への延伸(北大阪急行電鉄)などが万博に照準を合わせて姿を現した。何とも言えない凄まじい建設ラッシュであった。
 テレビやラジオでも毎日特別番組を組んで放送された。その都度、三波春夫が歌う「コンニチハ、コンニチハ、世界の国から…」と万博テーマソングが流され、いやが上にも雰囲気が盛り上がっていった。ほかに多くのアミューズメントやエンタテイメントのあった時代ではない。一地方のイベントとしてではなく、全国民が注目するイベントとなって行くのは自然の勢いであった。
 この前宣伝が功を奏したのか、会期中の会場は連日大変な盛況であった。日本の一流企業が競って自社の企業力を誇示すべくパビリオンを作り、色々な物品やイメージを展示した。特に人気の高かったのは、三菱未来館や松下館などであり、入口前には長蛇の列が出来た。並び始めてから入館できるまで、優に2時間は待たされたのである。それでもみんな文句も言わずにガマンして待った。
 各国の政府や日本企業の展示には当時の最高レベルの技術を取り入れられた。ベニヤ板で作った芝居小屋の見世物しか見たことがない庶民には、光と映像と音響の総合効果でもう感激の連続であった。また、アメリカ館のアポロ計画でアポロ12号が月から持ち帰った「月の石」も人気が高かった。
 自分が見たり入ったりした記憶があるのは、比較的空いていたガスパビリオンや日本庭園ぐらいであろうか。この時代、日本にはまだファミリーレストランがなかった。この万博で初めてロイヤルがステーキハウスを開店し、これがその後のロイヤルホストに発展したのがそもそもの始まりだそうだ。また、今なら携帯で簡単にできそうだが、テレビ電話も未来技術の一つとしてこの万博で紹介された。驚くのは動く歩道である。これも日本でここに登場したのが初めてだそうだ。今では、駅や空港などの、ごく当たり前の技術となっているのだが。
 万博の共通テーマは「人類の進歩と調和」であった。丁度、技術の発展目覚しい高度成長の時代であったから、「人類の進歩」と言うものを日本人の誰もが一様に感ずることが出来たし、公害を撒き散らす技術や一地域の繁栄だけが突出しても具合が悪いので、「人類の調和」と言うことも理解できた。
 しかし、この万博には自分は一度しか行かなかった。何分にも、毎日の仕事が猛烈に忙しかった。また、その壮大なテーマ「人類の進歩と調和」とコマーシャリズム優先の展示物との関係が今一つ理解できなかったこともあった。さらに、あの岡本太郎作のシンボルタワー「太陽の塔」の顔があまりに悲しげで、塔から突き出たサリドマイドの後遺症のような両腕がグロテスクに思われて、あまりにも不調和なシンボルタワーに虫唾が走る思いをしたからであった。残念ながら、自然で写実的なコローやクールベーの絵が好きな自分にはピカソの絵がほとんど理解できない。同様に、あの不細工であまりにも人工の感じを与える「太陽の塔」には何の感慨も覚えなかった。そのようなものを見て、誉め讃える人達が居るのも不思議なくらいだ。彼らは過去の岡本太郎の業績や人物を評価して、「太陽の塔」の実体を評価していないと思った。
 パリのエッフェル塔が万博の記念碑として後世のパリに残されたように、「太陽の塔」も、その後大阪のシンボルのような形で残されている。その後も、時に近辺を通過するたびに、あの汚いコンクリートの胴体と、物憂げな今にも泣き出しそうな表情の歪んだ丸い顔を見ると、いつまでも、それを残している大阪の風景に、いささか、がっかりする。「人類の進歩と調和」が万博のテーマなら、シンボルタワーも「人類の進歩と調和」にふさわしいような、もっと素晴らしいものにして欲しかったと思っている。
 万博見物に一度しか行かなかった本当の理由は、実は、各パビリオンに出来た長蛇の行列にあった。人々は、「人類の辛抱と長蛇」と揶揄しながらも辛抱強く並んでいたが、自分のような落ち着きのない、せっかちな人間には、行列に並んで、じっと待つほど苦痛を感ずることはないのである。人を待たせると言うことは、人に時間の無駄を強制することであり、何処かに主催者の怠慢や計画者の設計不備を感じさせる。何故か、浪速育ちの自分は、江戸っ子以上に気が短くて、ここまで生きてきたことをあらためて思い出した次第である。


第271話「高度経済成長の影」(昭和44年~49年)

2007-11-24 | 昔の思い出話
 1970年頃は日本の高度経済成長の時代が華々しく進展していた。海岸は埋め立てられ、浜辺は護岸のコンクリート壁で固められ、工場が次から次へと建設されて行った。
 富山のイタイイタイ病は三井鉱山の公害が主因であり、裁判所で公式に公害病と認定された。東京や大阪などの大都市では光化学スモッグと言う得体の知れない現象が頻々と発生した。水俣病の原因は明らかになったが、犯人とされたチッソの株主総会では総会屋を動員して一株株主の言論を封じる総会運営をした。阿賀野川の水銀中毒は昭和電工が原因であることが明確になり、住民側勝訴の判決が出た。スモン病に対して、患者から製薬会社や医師、病院に対して慰謝料請求の訴訟もあった。
 企業の社会的責任や環境意識が著しく向上した現在ではかなり改善されているが、当時の時勢では大企業の我がままが目立っていた。いつの世でも弱いものは常に泣き寝入りを余儀なくされるのかと悔しく思うことが多かった。ベトナムではアメリカ軍がめちゃくちゃな戦争をやって、人間や生物の生活の基である森林を焼き払い、枯葉作戦と称して化学薬剤を散布した。このような横暴を許すアメリカと言う国や資本主義は間違っているのではないかと思った。共産主義や社会主義の基本的な問題が表面化していない頃のことだった。赤軍の一派が日航機「よど号」を乗っ取って北朝鮮に亡命しても、体制へほんのちくりとした抵抗を見せたとしか感じられなかった。
 自分は大手企業の一社員として、大気汚染や水質汚濁の原因になるかもしれない仕事を毎日、深夜までやるような生活を送っていた。が、内心では、市民の生存や平等な権利を軽んずる資本主義の矛盾を意識していた。国会議員の選挙では常に顔も名前も知らぬ社会党の候補者に投票した。それがせめてもの罪滅ぼしであった。政治的には完全なアウトサイダーであり続け、一途に平凡な生活を目標にして、小市民の一人として、ただ自分と会社のことだけを考えて毎日を送っていた。
 
  公害先進国日本
  GNP自由世界第2位
  高度経済成長
  物価上昇
  中小企業の倒産
  大型合併
  独占の強化
  殺伐とした競争
  せかせかした余裕のない毎日
  人間の自由な心とくつろぎを
  奪って奪って奪い取る経済
  
  大気は亜硫酸ガスと炭化水素に満ち、
  川は黒く海底はヘドロに覆われ
  山はスモッグにかすむ
  街から星は姿を消し
  ネオンの原色が輝きわたる
  白砂青松の浜辺は埋立地と化し、
  工場地帯は不夜城と化し
  重油臭う浜辺は水泳禁止となる
  
  高速道路、交通事故、むち打ち症
  大気汚染、水質汚濁
  地価高騰、物価の騰貴
  ジャンボジェットの騒音
  スカイジャック、シージャック
  
  人の心はアニマルと化し
  通勤電車は人間の缶詰め
  チカン、わいせつ
  SEX映画、SEXテレビ、
  SEX新聞、SEX週刊誌
  残業、残業休日勤務
  ゆとりの安売り
  労務倒産
  金融の引き締め
  2重価格とダンピング

  日出ずる国では
  母乳から農薬が出
  北極圏では
  ペンギンからBHCが出る
  イタイイタイ病、水俣病
  鉛、カドミ、銅、水銀
  プラスチックに漁場は埋まり
  漁師はデモで一日を過ごす

  水があっても飲めない
  空気があっても息が出来ない
  道があっても歩けない
  土地があっても住めない

  稼ぎを無にする物価の騰貴
  経済は大きな慣性を持つ歯車
  ニッチモサッチもならぬガンジガラメ
  人間の作る世界は進歩と調和の世界
  進歩と調和は後退と矛盾の根源となる

  競争、競争また競争の
  エコノミックアニマル
  電話が鳴り、会議は踊る
  ユニホームの氾濫
  規則と規制の氾濫
  法律はここまではやっても良いことを示し
  賢いものが得をする
  こせこせせかせか一攫千金
  迷路のねずみは走り回り
  目の前のニンジンで馬は疾走する

  日本の自由と平和の一日
  平和は体制の硬直を作り
  自由は不平等を作り
  平和と自由、平等の相互矛盾が始まる
 
  日本の自由と平和の一日
  自由と平和の一日はものすごい馬力で前進する
  誰もこれを止めることが出来ない


第270話「未熟人生哲学」(昭和44年~49年)

2007-11-23 | 昔の思い出話
 第269話でいきなり研究所転勤後の最初の5年間を書いてしまったが、順に研究所生活1年目から記述を始める。 
 世間にはあまりよく理解されていないことであるが、研究や実験と言う仕事は、そもそも、最初に計画した通りには絶対にいかないものである。途中で必ず失敗があり、その失敗の原因を追求していくことが研究なのである。したがって、真面目な人には極めてストレスのかかる仕事である。
 研究特有のこのような事情を知らない人は社内にも多数居たし、もちろん、自分にしても研究所の一員となるまでは、途中でスケジュールの変更ばかりしている研究員を見て、何故そんなにもたもたするのか理解できなかった。
 車が道の上をすいすいと走ることを当然と見る者には、研究と言う車が道の上を真っ直ぐ走らないことを直ぐには理解出来ない。研究とは前人未到のことを専門的にやるので、皆目、雲をつかむようなテーマが多い。研究は道の無いところを走る。キャタピラー車のように、自分で道を作りながらその上を走る。性能のよいキャタピラー車でも車より大きな穴があったら、はまりこんで動けなくなることがあるし、手に余る急な斜面は登れない。荒地を目隠しで行けば、如何に優秀なキャタピラ車であっても、一定の速度で直線的に進行することは困難だ。
 そうはいっても、常に失敗のないように考えて何も手を出さずに居ると、成果は何も出て来ない。研究者は何もしないより何でも良いから次から次へと手を出す方が大切だ。この点は、営業マンと共通点がある。
 社内には「研究は金食い虫だから出来るだけ頭を使って金は使うな」という人が多かったが、どの程度分かって言っておられたかは疑問である。自分は化学工学をベースにした思想の持ち主であったから、トライアンドエラーが身上であった。
 「まずはやってみよ。トライしてみてダメならやり方を変えて再度やってみよ。何度失敗しても、その都度、起き上がれ。とにかくうまく行くまでやってみよ」と言うようなやり方が性格にあっていた。問題の糸口を探るために、先ずやってみることが先決であり、それが研究であると考えていたのだ。
 自分の得意の方法論はトライアンドエラーであると割り切れば、いくら失敗しても怖くなかった。何もせずにじっとしていることが一番良くない。大学で微分方程式の数値解法や化学工学演習で、いやになるほどトライアンドエラーを叩き込まれてきた自分は、単に微分方程式を解くためだけでなく、平素の生活や仕事の進め方にいたるまでトライアンドエラーを信条とするようになっていた。
 初めてのことは大抵のばあいうまくいかない。トライしてはエラーをする。エラーするとトライする。また、トライしてはエラーをする。このようにして、徐々に、しかも確実に正解に接近していく。しかし、正解に接近しつつあることが見えておれば苦労はないが、現実にはエラーばかりして、自分がどちらを向いて進んでいるのか、サッパリ分からなくなってしまうことも多い。
 研究所へ来る前は、研究所が如何にもアカデミックに見え、ほのかな期待と憧れを持っていたのは事実であった。K部の現場で毎日コールタールの匂いを嗅ぎながら生活していると、まるで研究所は別天地のように見えた。しかし、女でも、富士山でも、研究所でも、ごく間近から見るとか、あるいはその中に入ってしまうと、遠くから見えるイメージとはまるで違っていることが常だ。
 研究所へ来て、憧れの新天地で新しい仕事を任され、期待もされ、最初はたいへん張り切っていた。しかし、間もなくして、「隣の芝生は青く見えていただけだった」、「まあ、研究所とて、4、5年くらいで転勤になるだろう」、「エライとこへ来てしまったが、まあ、仕方がない。ともかく精一杯働こう」と、半ば諦めに近い気持ちと殊勝な気持ちとが交錯し始めるのであった。
 人生は長期の視点で見ないと何も見えない。何が成功で、何が失敗かは、その場に居てはサッパリ分からない。K部では、理由もなく長期の現場生活を送らされたように感じて不満が鬱積していた。そして、K部最後の1年は「大学へ帰る」ことを真剣に考えた自分であった。その報いかどうか分からないが、こうして自分は研究所で仕事をするようになった。ここで、自分の長期の人生目標は何かと考えても、この時点では、未だ、はっきり分からなかったのである。
 研究所に来ても、仕事と言えば実験プラントのボルトを力任せに締め上げたり、保温の板金を金切りバサミと針金で補修したりする毎日であった。大学院で勉強したことは、又もや何の役にも立っていないのではないかと思った。「ひょっとすると、取り返しの付かない何か大きな間違いをしているのではないか?」、「とんでもない回り道をしているのではないか?」、「トライアンドエラーが信条とは言うものの、トライしてエラーばかりしているのではないか?」、「自分のトライは、果たして、最終的にサクセスに至るのであろうか?」、「自分の人生目標は一体全体何であろうか?」、「自分は目標に少しでも接近しつつあるのであろうか?」などと、鬱陶しい気分が頭の中をぐるぐると回り始めると止まらなかった。
 このように、この時期、「自分とは何か?」「自分は何をしたいのか?」等の基本的な自己に対するパラダイムが未熟でよく分かっていなかったのだ。「自分は若い。時間がある。とにかく、今の仕事に一生懸命に打ち込んでおれば、そのうちに、自分の目指す方向が見えてくるはずだ」と、世の中に甘え、軽く考え、毎日の仕事には誠心誠意をもって頑張っていれば良いとだけ考えていたのであった。そして、仕事第一を信奉し、遅くまで残業もし、上司への抵抗も極力控えた。長期の人生目標が見出せない内心の焦りを、今現在の仕事に没頭することで回避していただけであった。
 このように、自らの人生目標を明確にせず、他への積極的な働きかけもせず、毎日、毎日、その日の仕事に没頭していたのであるが、まさか、この研究所で、その後18年も滞留することとなり、自分自身が会社の不良在庫になる運命にあるとは夢にも考えなかった。そして、気楽に、その場しのぎの幸せな毎日を過ごしつつ、懸命の人生を送っていると勘違いしていたのであった。

  時には回り道をしてもやることが必要だ
  失敗でも無駄足でも何でも良い
  とにかくやってみることだ
  とにかくやってみてうまく行けば良し
  とにかくやってみてうまく行かねば
  もう一度やろうじゃないか
  何でもかでもすいすいと行くわけがない
  すいすいと行けばかえって不幸だ
  苦労して努力して成し遂げた感激は尊い
  時には回り道もして
  ともかくやってみよう
  やっている間は楽しい
  汗と血の中に未来の結果を思う夢がある
  今はこんなだけれど将来はこうなる
  夢とロマンとそして未知に飛び込むスリル
  これが楽しいのだ
  とにかくやってみて
  何もしなかったよりもこれだけ変化したのだと思う
  それが感激となるのだ
  人生は長い
  とにかく回り道であっても無駄骨を折っても
  やらないよりはやる方が良い
  そんなことをしている内に一生が終わるかもしれないが、
  何もせずに死んでいく時のことを思うと
  居ても立っても居られない
  とにかくやろうではないか
  やってみた上でやらない時と比較して
  失敗と思っても
  それはそれなりの意味がある
  やっている時は幸せだ
  やることをやめるは不幸の極みだ


第269話「再来ビギナーズラック」(昭和44年~49年)

2007-11-22 | 昔の思い出話
 X社のS研究所へ移って最初に合成研究室と言う名の研究室に配属された(研究室はその後直ぐにタールチームと改称された)。X社はまだ多角的化学工業への道というスローガンを完全に捨ててはいなかった。しかし、かなりの軌道修正が始っており、合成化学プロパーの研究は中止され、一般化学工業への道は、ほぼ断念状態であった。とは言うものの、本業製品は石炭からの製造ガスが中心であり、工場ではコークス炉が運転されていた。中でも最新鋭の工場では、製鉄用コークスを提供するため、製鉄会社とコンビナートを組んでいたので、コークス炉からの副製品であるコールタールを出発原料とする化成品分野に参入できる余地はあった。
 最も可能性が強かったのはコールタールから化学品の中間素材を製造するような分野であった。S研究所では、自分が赴任する前から、オートクレーブなどの基礎的な研究を行い、コールタールを熱処理してアルミ精錬用の電極のバインダーとするべき改質ピッチを製造する開発研究が進められていた。自分に課せられた最初の仕事は、この基礎研究の成果をスケールアップして、コマーシャル化するための開発であった。
 自分は、直前には、K部管理課に在籍し、特にこの1年は化成品製造プロセスの生産管理に没入していたので、機械設備の設計業務にほとんどタッチしていなかった。しかし、配属先の研究所では、機械装置やプロセスシステムを設計する現場的な専門家が求められており、自分にとっては専門分野の大幅な変更を迫るものであった。研究所には多数の化学屋が居たが、化学装置や設備の分る化学工学屋がほとんど居なかった。自分はプラントの設計や運転が出来る専門技術者として迎えられたわけだ。自分なりの技術力を評価されての異動であったようで、化学プロセスの技術屋として大きな誇りを感じた。
 その後の開発研究の経緯を若干詳しく述べる。自分は、着任早々、先ず、訳も分からぬままコールタールを熱処理する小型ベンチスケールのパイロットプラントを設計することを命じられた。これは現場スケールから見ると極めて小さい規模であり、原料の処理量も10キロ/時間程度に過ぎず、このような微少流量を取り扱うことは、小型スケールの極限設計を迫るものであった。しかも、厳しい温度条件下にあり、加熱器や反応器の内部でコールタールがコークス化して固着するので、十分な製品サンプルを取得するための数週間単位の連続運転が非常に難しいものであった。これまで見たこともない、あまりにも小規模なプロセスであったので、その設計の難しさに先ずドキモを抜かれた。
 小型のベンチプラントの取扱いにズブの素人であった自分ではあったが、この設備の設計から建設のすべてを自分の計画、管理下で行なわせてもらったように思う。フランジ1枚、バルブ1個、パッキン1枚に至るまで、仕様を決定し、発注伝票を書き、業者に注文し、検品し、在庫管理を行い、工事業者に指示を出し、工事や安全の監督をするなど、あらゆることを一人でやらなければならなかった。また、この実験設備の運転に際しては、停止する度に絶えず解体し内部を点検したので、保温工事や板金工事まで、すべてを研究員である自分達がやらなければならなかった。
 工場ではそれぞれ専業の作業員や工事係が居た。しかし、ここ研究所にはそう言う人たちは誰も居なかった。力任せの現場作業を研究員自身が自分でやらねばならない大変な職場であった。研究所がこのような泥臭い、油まみれの現場であることを、転勤して研究所に来るまで、まったく知らなかった。研究所の風呂に入って、きれいに洗ったつもりで、家へ帰って、寝て、朝起きて、布団や枕カバーに真っ黒なコールタールがこびりついていることを発見して、びっくりする現象は研究所に来てさらにひどくなった。
 しかし、ここでは仕事をしていると言う実感があった。仕事は順調に進み、ベンチプラントは、1年ほどで目処が立った。アルミ精錬用電極バインダーピッチとして性質の良いものが製造できることが分り、さらに大きなテストプラントへのスケールアップの決定がなされた。
 この開発研究は商業ベースに乗る可能性が出てきたのである。このため、一歩進めてコマーシャルプラント設計データ-を取ることと、実用規模で製品性能を実証する大量サンプル製造が必要になったことから、大型実証プラント(テストプラント)の建設が決定された。このテストプラントはベンチプラントとは異なり、数ヶ月間の連続運転を実施すること、また、製品の取扱数量も数百トン単位になるので、研究所構内に設置することは不可能であった。このため、実証のためのテストプラントを、自分の古巣のK部構内に建設することになった。K部のことならお任せくださいと、このテストプラントの設計、建設、さらには運転に至るまでの現場リーダーの役割を当然のように自分に任された。自分は、基本設計はもちろんのこと、メーカーと相談しながら詳細設計のかなり細部に至るまで立ち入った。改質ピッチの製造量としては10トン/日の規模であり、プラントの外観も、結構、大きなものでセミコマーシャルプラントと言っても良いほどであった。
 建設時点では工事監督をやり、運転に入ると運転リーダーをやった。途中で係長に昇進した。自分が、正味やる気になって会社で最も輝いていたのは、ひょっとすると、この頃であったかも知れない。若い学卒が運転員として投入されたので、その教育やシフト勤務の割り当てなどのほか、自分自身も、時々、夜勤の交替シフトに加わった。
 実証運転は順調に進み、昭和48年春には成功裏にこの開発研究が一段落した。引き続いて、コマーシャルプラントが建設されることになり、自分は、このプラントの基本設計には参画したが、以後の仕事は本社技術部及びK部の専門家に任せて、研究所の他の仕事に移った。
 コマーシャルプラントも成功した。この改質ピッチ製造プロセスの工業化に至る業績に対して、化学工学協会技術賞を受賞することになり、上司お二人並びに技術部一人の諸先輩に混じって、晴れの受賞者の末席に自分も名を連ねさせてもらった。特に、この時代、コールタールのような超多成分系の複雑な性質を持った重質油を処理する加熱炉や反応器などの化学工学的な設計手法はX社に存在していなかった。従って、S研究所の研究陣がベンチからコマーシャルに至る開発研究を経て、一からスケールアップの設計手法を開発することになったのである。そして、コマーシャルプラントで、その設計の妥当性が最終的に確認された時、多大の貢献をしたと自負する自分は、込み上げる達成感とともに、コールタール熱処理プロセスの専門家として、この分野に限って、X社の技術の頂点に立ったような気がしたのである。
 この中で、自分が担当した部分は化学工学面の設計手法の確立だけであり、このプロセス開発全体のごく一部に過ぎない。その前提となるシステム全体のコンセプトや熱処理条件の確立、製品用途の開発などは、すべて上司、先輩の行った成果であり、それなくして自分の貢献も存在しなかった。しかし、自分個人にとって、この業績は研究所での初仕事であり、終了まで5年にわたるロングプロジェクトとはなったが、我が技術屋人生において、またもや放った先頭バッターホームランと感ずることが出来た。自分は仕事が変わる度に、なぜかビギナーズラックが待っているラッキーボーイであると思った。
 ここで蛇足を一言付け加えるなら、この仕事が自分の人生全体において、どのような意味を持つかと言うことである。この仕事を通じて開発した技術上の成果やノウハウは膨大な報告書や文書になった。しかし、多分、研究所の天井の屋根裏で、誰も二度と掘り起こすことなくホコリをかぶったまま朽ち果てたであろう。会社におけるコア技術の中心が時代の流れとともに変って行ったのである。また、折角のコマーシャルプラントも10年後には姿を消した。個人的にも懸命に汗を流した記憶は残っているが、このときに得た知見やノウハウも、その後の自分の仕事の上でほとんど何の役にも立たなかった。勿論、現在は全く関係のない別の仕事をしている。
 大変残念な気もするが、過去はあくまでも過去であると考えざるを得ない。自分の過去に拘泥すると、現在の行動に意味のない足枷をはめるだけのことだ。過去は中立であると割り切って現在を生きるのが良い。技術がどんどんと進化し、変化し、時には過去の遺物と心中せざるを得ない技術者の悲哀を感じないわけではない。しかし、現在はあれから40年も経っている。世の中が変り、自分も変わっていく。自分の若き時代、人並みに若きエンジニアとして、精一杯やった。悔いはない。その思い出だけが我が人生に残る財産であると思えばそれで良いのだ。
 もう一言蛇足を付け加える。技術者の悲哀とは少々大袈裟な言い方であるが、技術者がその人生の99%をかけて獲得した知識や業績について、同業の技術者以外とはあまり言葉が通じず、理解されないことがある。同じ技術者仲間でも化学技術者は機械や電気の技術者とも十分に通じない。勿論、一般の人との間ではほとんど話が通じない。親兄弟や妻子との間でも話が通じない。自分はここでかなり大胆に専門用語や業界用語を用いているが、そのような言葉に出くわした途端に読むのを止める人も多かろう。それは大変に淋しいことなのだ。それに引き換え、普通の人々の生活と少しでも接点のあるお医者や弁護士、会計士、学校の先生などは、もう少し多くのことを理解されるであろうとうらやましく思われる。
 

時には休め

2007-11-21 | 徒然草
キミはなぜ頑張るのかね?
現状に満足していないからかね?
常に成功を目指しているからかね?
常に未来に視点を置いているからかね?
未来に向かって
頑張れば頑張るほど
今の心の安定が遠くへ行くってこと
そのことをキミはお分かりかね?
求めるがゆえに
求めるものがキミから遠ざかって行くってこと
そのことをキミはお分かりかね?
如何に努力しても堂々巡りになるだけってこと
そのことをキミはお分かりかね?
キミはいつも忙しがって
常に空いた時間に仕事を入れるってこと
悪いクセの最たるものと言うのだよ
それは新たな混乱を用意するだけと言うのに
気が付かないキミは哀れだね
キミの人生で本当に大切なことって一体何なのかね?
キミはそれを考えたことがあるのかね?
それはきっと何もしない時間を作るってことだろうよ
深呼吸して
一度ゆっくり考えてみてはどうかね?
ほんとにキミは哀れだね!


ことに臨んで

2007-11-18 | 徒然草
何が起ころうと私は対処できる
この言葉を寝る前に5回
起きて5回唱えます
一つ 何が起ころうと私は対処できる
二つ 何が起ころうと私は対処できる
三つ 何が起ころうと私は対処できる
四つ 何が起ころうと私は対処できる
五つ 何が起ころうと私は対処できる
家を出る時 
人と会う時 
何かが始る時
心を無にして5回唱えます
対処の中身は必要ありません
ことに臨めば中身は自然に出てきます
ナムアミダブと唱えておれば成仏できます
同じことです
その目的は心を鎮める
やる気を起こす
潜在意識に自信を定着させる
それだけのことですがそれでいいのです
難しいことは要りません


赤いサラファン

2007-11-17 | 徒然草
人生は大切だ
だから大事に仕舞っておいた
あまり大事にし過ぎて
取り出して楽しむことをしなかった
大切な人生
まだ蔵に入ったままだ
いつの間にか日暮れが近くなった
今さら取り出して
楽しむ時間がない
思い出す
小学校で習った唱歌のことを

赤いサラファン 
縫うてみても
楽しいあの日は 
帰えりゃせぬ
たとえ若い娘じゃとて
何でその日が長かろう
燃えるような そのほほも
今にごらん 色あせる
その時きっと 思いあたる
笑ろたりしないで母さんの
言っとく言葉 よくおきき
とは言え 
サラファン 縫うていると
お前といっしょに若がえる

この歌のこと
ずっと
他人事と思っていた
今ではとても
他人事とは思えない


第268話「異動と言う名の仮処分」(昭和40年~44年)

2007-11-14 | 昔の思い出話
 昭和44年(1969年)10月初めのこと、恒例の人事異動発令のある日であった。自分は朝から心が落ち着かなかった。管理職は本社で発令されるので、前日に、詳しいことは分からないまでも、自分に転勤や昇格のあることは知らされている。ヒラである自分は、当日まで何も知らされないが、何か胸騒ぎしながら、朝からずっと、待っていた。 K部長は朝から本社に出かけて、未だ戻っていないと言う。昇格や転勤の期待を持った連中は、自分を含めて、朝から心が落ち着かない。
 普通一般の学卒は、大体、1、2年で現場を終えて、適性に応じて、それぞれの新天地でスタッフ業務にかかわるのが普通であった。同期入社でK部へ入った技術系の連中は自分を除いて、2年くらいの間に全員が転出している。自分だけが異常に長期にわたって、現場所属で勤務を続けていたのである。配属後、丸4年を越えて、未だ製造現場に居る。もし今日のこのタイミングを逸すると、製造現場で何と5年目に突入することになる。尋常ではない事態を迎えることになっているのだ。しかも自分には前科があった。この年の初めから春先にかけて、退職を宣言して、実際にそのように行動した。そのことは会社もよく知っており、人事記録には前科者の烙印が押されているはずであった。その余韻が残っている。
 そうこうするうちに、部長が本社から帰ったらしく、最初の一人が部長席に呼ばれた。二人目も行った。自分に声がかかるのは何時か、胸がどきどきする瞬間であった。3人目、4人目、...。何時まで経っても、自分には声がかからない。今回もダメか、ついに5年目への突入か、と諦めかけた頃、最後の最後に勤労課長が自分の席に見えた。
  「部長がお呼びだ」
 自分は、この瞬間を待っていたのだ。わくわくしながら部長席へ行くと、部長はいきなり、次のように切り出された。
  「君には、S研究所へ行ってもらう。丁度、油が乗ってきて、今、
   キミに転出されるのは、部としても大変辛いが、研究所で新しい
   研究開発のテーマが計画されていて、是非、毛利君に来て欲しい
   と言う声がかかっている。行ってもらわざるをえない…。
   新天地ではしっかりと頑張って欲しい」
 S研究所は工場と道路を挟んだ向かい側にある。クーラーも何もない工場事務所で幾夏を過ごした自分には、研究所は御殿のようでもあったし、時々、研究所の図書室へ涼みに行くことが楽しみでもあった。同期入社の連中も、大学院修了組は大方、最初に研究所に配属されていた。研究所が何をやっているかに付いてはよく知らなかったが、スポーツマンの多いスマートな人達の集団であり、我々現場組から見ると、はるかにレベルの高いことをやっているように思われた。
  「わかりました。頑張ります。有難うございました」
と、部長に答えて、心は晴れ晴れとしていた。
 転勤とはうれしく心が踊るものである。同じ職場で長期にわたると、どうしてもマンネリになる。緊張感が失せる。あのビッグプロジェクトの中止以降、特に毎日の決まった仕事が無く、朝から何をしようかなということだけを考えて、何もせぬまま一日が終わっていく。一度は会社へ退職の決意を告げて、処分を待つ身の辛さもある。サラリーマン生活とは何と苦しいことかと身にしみる日々が続いていたのであった。
 なぜ同期入社組4名の中で、自分一人これだけ長期に現場部門に留め置かれたのか分からない。自分は少し嵩が高かったのか、異動に適切な場所が見つからなかったのか、何処からも引取り手が現れなかった。
 しかし、大喜びで転勤していったS研究所であったが、K部とは桁違いの長期にわたる18年間も居つづけることになった。そんなことを夢に思う由もなかった。もちろん、この時点では、入社以来の現場生活4年超の長すぎた春からやっと解放されたことと、新しく開けた新天地での勤務に大いなる満足と期待を感じていた。


第267話「優柔不断」(昭和40年~44年)

2007-11-13 | 昔の思い出話
 会社の自分のデスクで昼下がりをぼんやり過ごしていると、突然、目の前の電話がけたたましく鳴った。受話器を取ると、京都大学のP教授であった。
  「毛利君、近々、京都へ来る用事はありませんか?
   実はちょっと話したいことがあるんだけど…。」
  「分かりました。来週の月曜日午後にお邪魔します」
と言うようなことで、何の用事か分からないまま、有給の休みを取って、京都大学へ参上することになった。P教授から具体的な用件は伝えられず、ただ「京都へ来い」との一方的な命令であった。
 P教授の部屋に入ると、先生は、
  「突然の話で何だけど、実は、九州大学工学部の、ある先生の
   ところで助手を募集しているんだが、君はそこへ行く気は無いかね?
   その講座の先生はそう若くないお歳だから、年回りから行けば、
   君が助教授から教授へと昇進していく道も案外早いかもしれないね。
   これはきっと良い話だと思うよ!」
 丁度、X社の第2タール計画が挫折した直後であり、渡りに船のような心境であった自分はピクンと心が動いた。
  「その先生は、何を専門にやっておられるんでしょうか?」
  「真空工学と言って、ちょっと変わった学問だけど、何に、
   大したことは無いよ」
と極めて気楽に答えられる。
 自分は真空工学など、自分の専門にしようなどとは考えたことは無かった。そう言えば、P教授も、本当は蒸留工学や吸収工学など物質移動の講座で予算を取りながら、医用化学工学をやっておられる。4年生の時の指導教官であったZ先生だって、原子核化学工学と言っておきながら、実際は、レオロジーの研究をやっておられた。名は体を現すどころか、予算を獲得するための研究と実際の研究とは一般に乖離しているのが現実であることを知っていた自分は、名目上の専門など、どうでも良いのかもしれないと思った。
 また、真空工学と言っても、どうせ、気体分子の運動論だろう。真空系では、気体分子の相互衝突の機会が少ないので、常圧や圧力系にはない何かの特性が発見できる可能性がある。この特性をうまく活用すれば、物質の合成など化学的に利用できる新しい条件が見つかるのではないか、などと見たことも考えたことも無い世界のことを考えていた。
  「先生、少し考えるところがありますので、1週間ほど
   時間を頂けませんでしょうか?」
とその場では直ちに結論を出さずに、退出することにした。
 自分は、旧帝大の一つである九州大学なら悪くないと思って帰った。帰って家内に相談した。彼女は反対しなかったが、積極的に賛成する風でもなかった。何処へでも付いていくと言う風情であった。自分は、念のためを思って、2、3日して大阪大学のQ教授に挨拶を兼ねて相談に行った。
  「先生、P教授から九州大学で助手の口を見つけていただいて、
   誘われています。自分としては、X社を転出しようと思います。
   先生はどう考えられますか?」
先生は、びっくりして言われた。
  「九州大学へ行くなら、うちへ来てくれても良いよ。
   何なら、近々、教授会があるから君を、うちの大学に推薦しても
   良いけど…」
当方は、あっと驚いた。願ってもない大阪大学の助手の道が目の前に突然開けたのであった。九州大学のある博多は遠い。大阪は自分の育った町だ。博多ならちょっと考えるが、大阪大学なら決定だ、と思った。そこで何をやることになるのか、自分の専門が生かせるのか、何も考えていなかったが、帰り際には、
  「先生、是非、お願いします」
と自分から催促をしていた。
 この話は、暫く2、3週間そのままになっていたが、ほどなく、Q教授から電話が来た。
  「毛利君、昨日、教授会で、正式に君にうちの大学へ来て
   もらっても良いことに決まったよ」
自分は、この話はこれで決定したと思った。
 その後、会社の、同じ京大の教室の先輩に会社を辞めると決めて相談した。その話は上司の次長にも伝えられた。しかし、次長は、自分に直接には何も言わなかった。自分は母に「大学へ帰る」と言うと、母も特に反対しなかった。その他にも色々な人に相談したが、誰一人反対する人が居なかった。周囲の人達は自分の適性をかなり的確に評価してくれているようであった。自分は、もともと、会社のような組織で生きていくよりも、何か一つのことを、一人でこつこつやっていくことに向いているのではないかとの確信を深めた。
 家内の父にも相談した。義父は、X社を辞めることをむしろ積極的に賛成してくれた。
  「会社を辞めるなら、うちの会社へ来てくれ」
と、かなり、強い調子で要請された。
 この要請には少し困った。考えてみれば、自分は、ずっと自由を求めて、これまでの半生を頑張ってきた。親からの自由。末っ子と言う境遇からの自由。小中高と、各学校で3年も居れば息が詰まって別の校区へ逃げていったのも、人間関係や自然に出来る序列の束縛を感じて自由を欲したからであった。大学院を2年で辞めて会社へ入ったのも、研究室の束縛や能力の限界を感じたためではなかったか。今、X社を辞めると言うのも、会社と言う組織からの自由を求めているのであろうか。
 このようなことで、暫く、熟慮の時間が過ぎた。会社に所属すると言う現状維持と大学助手への転職とを比較して、その頃身体ごと嵌まっていたOR的な検討も行った。将来の全般情勢、将来の技術動向、将来の生活、将来の技術者としての能力発揮の機会、職場環境、自分の適性、家族の態度、人生のスケール、過去の知識・経験の活用度、人間関係の清算、リスク、未来学的考察等々、考え得る限りの要素を抽出し、それぞれの要素について言葉で表現し、点数評価した。
 その結果は、トータルして現状維持の場合は60~66点、大学助手への転職の場合は58~72点と評価された。大学助手への転職は、うまく行けば発展の可能性も高いがリスクも結構大きいと言う結果になった。Max-Max(一番良いと予測される事態が最高になると期待されるケース)を狙うならば転職を、Max-Min(最悪の事態が悪くても一番軽微になると期待されるケース)では現状維持と言うことで、成算はほぼ5分と5分、難しい選択となった。
 その後、会社には自分の身の振り方については、それ以上のことを何も言わず、半年以上の長考の時間を過ごした。そして、結果的には大学助手への転職を思いとどまったのであった。この結果は、決して、自分の優柔不断のせいだけではなかった。自分を現状維持に留めた本当の理由は当時の社会情勢にあった。
 丁度、京大のP教授や阪大のQ教授と連絡を取っていたとき、嵐のように吹き荒れた大学紛争が勃発したのであった。そして、それは片時も治まることがなく、日増しに激化の度を増して行き、大学を取り巻く環境が混沌としていった。全国的な規模で、特に国立大学を中心に大学が荒れすさんだ。極めつけは東大安田講堂の攻防であった。機動隊と学生が衝突して、安田講堂は戦場になった。
 阪大のキャンパスにQ教授を訪問した時も、教室の窓ガラスはめちゃくちゃに粉砕され砕け散っており、教室の外壁には黒色や赤色のペンキで反政府的、反体制的言辞が一面に落書きされていた。大学キャンパスの何処を見ても、落ちついて研究に専念できる雰囲気は感じられなかった。学生の手によって大学は封鎖され、学生との団体交渉の都度、教授会が開かれた。休講が長期間にわたり、そのうちに大学に電話しても、先生とは連絡が取れなくなった。また、東大と一部の大学では、その年の入学試験を行わないことまで決定された。まさしく大学の危機であった。
 旧態依然たる大学の閉鎖的な構造や慣行への反発から、学生達は改革を求めた。学生達の攻撃対象は、単に大学そのものではなく、政府や資本主義そのものにも向けられていた。この状況は世界的な現象となった。ヨーロッパでも、例えば、パリのカルチェラタン地区で火炎瓶が投げられた。
 自分は学生達の要求が分からないでもなかった。しかし、主張はあまりにも過激であり、単なる改革を超えて、社会主義革命を達成しないことには完結しないように思われた。関係者の話し合いによる平和的解決は望むべくも無く、学生と大学当局との対決は長期化の様相を見せていた。いまどき、このような戦場へ誰が何を好んで転出するのかと思わざるを得ない情勢であった。今ここへ入っていくことは勉強や研究どころか、過激派学生と教官との間に挟まって、新たな苦悩を背負い込むだけではないか。学生達とあまり年齢が違わない自分であり、この騒動に巻き込まれて、生活がめちゃくちゃにされてしまう可能性が高いのではないか。そうなれば、現在のX社で苦労している方が、はるかに生産的ではないかと思った。
 また、紛争の激化とともに受け入れて頂く予定のQ教授との連絡も取れなくなった。このような大学紛争に対して、自分自身、洞が峠を決め込んでいる間に、時間だけが過ぎていった。そして、大学の先生達も疲れてしまい、肝心の当方の意欲も変質・減退していき、結局、転職実行のタイミングを逸してしまったのが実情であった。
 自分の優柔不断。そして歴史的な大学紛争。あれよ、あれよと見守っているうちに、結局、何も変わらないまま1年が過ぎたのであった。

   ここに
   優柔不断と言われた男が居た
   その男は密かに
   変革を望んだ

   一方で大衆は
   安逸の夢を枕にして眠っている

   眠る大衆の慣性と旧体制の構造は
   あまりにも強靭だった

   変革を望む男は何をなすべきか?
   体制破壊か?大衆への反発か?

   否、否、否!

   男には
   体制を裁く権力も能力も無い
   また、大衆を操縦することもできない
   現実は
   あまりにも強く大きく強靭で
   変化を拒んでいる

   残念だが仕方が無い

   男のなすべきは
   大仏への体当たりではない
   富士山の爆破でもない

   正面からの対決は
   わが身を破滅させるだけだ

   男のなすべきは
   大石蔵之介を演ずることであり
   耐えて、
   我慢して
   時機を待ち
   己を磨くことでなければならない

   現状維持を選択した男の
   葛藤の後の優柔不断
   決意の後の優柔不断
   見せかけの優柔不断
   現状維持を選択した男にとって
   優柔不断は大人の高等戦術だ


第266話「技術者の嘆き」(昭和40年~44年)

2007-11-12 | 昔の思い出話
 自分が結婚する半年ほど前から、K部では、コールタール処理設備の大革新と言う壮大なプロジェクトがスタートしていた。オレフィンプラントや新規ベンゾール製造設備に続くK部の希望の星の誕生であった。計画では、X社が所有する原料資源(コールタール)に加えて、他社から同量以上の原料を購入して、一大タール処理センターを構築しようとするもであった。
 しかも、石油でしか実績のないディレードコーキングと言う技術を導入して、コールタールから一気にピッチコークスを製造するプロセスである。これまで世界のどこにおいても稼動したことのない画期的な計画であった。このプロセスを導入するに当たって、自分はK部におけるプラント受入れ準備担当を仰せつかった。
 K部での在籍も既に3年以上が経過しており、現場の雰囲気や仕事の進め方も大体分かってきた頃だった。この役割を仰せつかった自分は、生まれて初めてのビッグプロジェクトの一員として最初から参画できることに武者震いを感ずるほどうれしかった。そして、すぐにK部次長から次のような指示を受けた。
  「第2タールプラントにコンピューターコントロールが
   適用できるかどうか検討して欲しい」
 自分は、電子計算機のプログラムやORに少々のめり込んでいたので、何も分からないまま、以下のような発言をした。
  「そうですね。コーキングプロセスはセミバッチですから、
   熱回収によるスチームの発生量とスチームの必要量とが
   ともに刻々と変化します。コークドラムから回収する
   熱をスチームで回収するとか、原料の余熱に使うとか、
   動力に変換するとか、時々刻々、変化する多様な
   組み合わせが考えられますので、目的関数として
   生産量維持下でコストミニマムを取るか、コスト維持
   下で最大生産量を狙うか、何かを最適にすることが
   可能性なように思います」
これに対して、次長は次のように言葉を足された。
  「君の言うような、プラントオペレーションの最適化もあるし、
   制御系を一つずつローカルに考えるのではなくて、
   一ヶ所に集中して共用でコンピューターにやらせれば、
   高価な制御機器がすべて不要になり、設備費の相当な
   コストダウンができるかもしれない。今はどのような
   ことが出来るか分からないので、まず、電子計算機で
   何が出来るか、そこから一つ勉強してくれないか?」
 さすが先輩だと思った。少なくとも、自分がとっさに思いつく以上のことを考えておられているのであった。
 このコンピューターコントロール計画は実現しなかったが、この仕事に参画させてもらい、特別の課題を背負わされたお陰で、X社では誰も経験したことがないセミバッチプロセスの動特性や自動制御システムなどについて、かなり突っ込んだ勉強をすることが出来た。もちろん、自分にとっては、初めてのことであったし、X社技術陣でこのようなことまで検討した人は誰も居ないであろうと、大きな誇りを秘かに感じていたのであった。
 この第2タールプラントのプロセスには面白そうな装置や設備が一杯あった。本体のコーキングプロセス(ディレードコーカー)は米国の会社から技術導入する。当時の化学プロセスで新しいものは大抵の場合米国からの導入技術であった。この時代、日本は製造技術においてアメリカに一歩も二歩も遅れていた。また、周辺プロセスとしては、カルサイナー(ロータリーキルン)、ナフタリン蒸留、フェノールやクレゾールなどのタール酸精製プロセスが付属する。これらは日本の技術で十分であった。
 我々はメーカと共同してプロセスの基本設計を行い、詳細なプロセスフローダイアグラム(PFD)を作成し、塔槽類や駆動機など主要機器の諸次元を確定し、レイアウトまでほぼ確定させた。いわゆる基本設計が完了したのである。また、米国からの導入技術を仲介する総合商社やそれぞれの得意技術を分担する日本の一流どころのプラントメーカーもほぼ決まった。本社企画室の検討結果においても「フィージブル(経済性の上でも採算が取れる)」と言う結論が出されて、後は正式発注の社長の最終決断を待つだけと言うところまで漕ぎつけた。正に、その時に社長の鶴の一声があった。
  「第2タール計画は中止だ!」
このときのプロジェクトの統括責任者であった次長の落胆振りは大変なものであった。
  「今朝、社長から、自分に直接電話があった。製品の販売先が
   長期にわたって確実に受け入れてくれるかどうか、社長が
   不安に思って居られるとのことだ」
 現場第一線の我々としては青天の霹靂であった。勝ち戦だと思って、勇ましく敵を追撃している最中に、いきなり天皇陛下から終戦の詔勅を聞かされた思いであった。現場では、ここまで詰めるのに、精も根もあらん限りのエネルギーを注ぎ込んでいた。がっかりを通り越して虚脱状態に追い込まれた。しかも、20年この方、運転を続けている既存の老朽プラントに代替する具体的な構想は何一つ無かったのに。
  「会社は何を考えているのか分からん。一方で、多角的
   化学工業への道を歩むと宣言して、派手な宣伝をして
   おきながら、個別の計画では完全に腰が引けているでは
   ないか!」
 一人の若い技術者の虚脱状態が行き場の無い怒りに変わって行くのも、またやむを得ない必然であった。その昔、大学の恩師から「X社はダメです」と言われて、自分は「そんなこと絶対にありません」と、突っ張ってきたのだ。しかし、その一つの根拠が足元から崩れ去って行ったのである。恩師は、この会社の経営基本方針である「長期安定」の本質を本能的に嗅ぎ取っておられたのかもしれない。自分は、単純に、「長期安定」と「多角的化学工業への道」とは、両立するものであると信じていた。両者が矛盾する可能性のあることについて、全然、気がついていなかったのであった。いずれにせよ、目の前で、ほとんど前ぶれもなく、一つの夢が瓦解していった。夢から覚めてみると、「この会社で、はたしてケミカルエンジニアの自分が、将来にわたって本当にお役に立てる場があるのか?」と、不安が募ってくるのであった。
 当時の当人の怒りと嘆きの実感は以上のようなものであった。しかし、会社とて時代の流れに沿って、激変しつつある環境の中を泳ぎわたって行く存在だ。会社自身も将来のリスクを予測し、困難を回避するために色々と苦労をしているのである。当人の会社はエネルギー会社であったが、当時は石炭全盛の時代であり、その主たる原料は石炭であった。基幹エネルギーが流体革命を迎えつつある中、各社とも石炭から石油へと模索を始めた時期でもあった。将来、主たる原料を石油に転換しようとする限り、石油化学を軸に多角的化学工業への展開を視野に入れるのは当然の流れであった。実際、その後、この会社が石油を主たる原料としていた時期は比較的短い期間となり、やがてLNGに全面的に転換していった。そのようなことは50年のスパンで後から振り返れば一目瞭然であるが、その変化の真只中に居ては、よく見えないものであった。経営者にしてみれば、石橋を叩きつつ渡って行くのは当然のことである。
 他方、会社のおかれた環境や経営方針が変っていけば、個人の生活や人生に大きな影響を与えるのも至極当然のことである。会社がくしゃみすれば、その中の個人は風邪を引き、会社が風邪を引けば、個人は病気になり、時には死亡に至る。会社の動きは、個人一人の力では如何ともしがたい。残念ながら、個人としてはそれを運命として受け止めざるを得ないのであった。
 ここで、当人はケミカルエンジニアとして、過去数年にわたり、かなり猛烈な勉強をして、これから将にその知識と経験を活かそうと燃えていたのであった。しかし、残念なことに、時代の流れと言う不運に見舞われたのだ。ここで剛直にドジバれば、強風に煽られてポッキリ折れるだけである。ここは「柳に風」と受け流す戦術が正しかった。
 蛇足ながら、人生はこうあるべきと言う先入観に捕われると、今の状況やいろいろな変化から学ぶことが出来なくなるのである。よく考えれば、過去に(大学受験時代にさかのぼる)、自分がケミカルエンジニアとして身を立てようとした選択自体が正しかったかどうかの問題もある。勿論、過去の決定は重要である。未来の目標も重要である。若者にとって、特に未来が大事であることに変りはない。しかし、それがために、現在を見失って、現在から何も学べなくなれば、それは本末転倒の人生と言うべきなのだ。
 思うに、計画通りに進まないのが人生である。そのように割り切って「あるがまま」に心を開く。現実をもっとしっかりと眺める。そのような生き方が落ち着いた人生を歩むための最も正しい生き方ではないかと思う昨今であるが、この時は、若気というエネルギーもあって、そのような考えに達することが出来ず、ずいぶんと悩んだのも事実である。
 

ホテルの部屋を転々と渡り歩く男の夢

2007-11-11 | 真夜中の夢
 こんな夢を見るなんて、これまで考えたこともなかった。いや、あまり大した話でもないんだが、今朝方見たばかりの夢をここに記す。
 自分はコンサル仲間でもある会社の社長の事務所を訪ねた。なかなか羽振りのいい男で、男の事務所は大阪で一番大きいホテルのスイートルームを借り切っていた。豪勢な部屋であった。社長との話が弾み、夜も遅くなった。社長は「こんなことになろうかと思って、キミの部屋も予約しておいてあげたからな。泊まっていけよ。366号室だ」と親切に言ってくれた。仕事の話は、未だ終わっていなかったが、一寸、トイレに行きたくなったので1階まで下りた。
 用を足して、部屋に戻ろうとすると、彼の事務所は忽然と姿を消して影も形もなくなっていた。自分は、「不思議だな。階数を間違えたかもしれないぞ」と思って、事務所のある階の1階上と1階下を端から端まで歩いて探した。何度歩いても、何処にも心当たりの部屋が見つからなかった。最初に訪問したはずの事務所のドアには鍵がかかっており、鍵穴からのぞいても中は真っ暗で、人の気配が全くなかった。
 「こんなことって、あるものか!」と思って、ホテルの受付に行った。「先ほどまで520号室に居たのですが、...」とクラークに聞くと、クラークは「一寸待ってください」と言って、調べてくれた。「お客様、520号室は本日は空室なんですが...」とのことであった。「そんなことあるもんか!今の今まで私は其処に居たんですから...」と食い下がったが、返事は変らなかった。「それじゃぁ、366号室に予約が入っているはずなんで、そのルームキーをください」と言った。クラークは不思議そうな顔をして言った。「お客様、366号室も空室です。特に予約は承っておりません」と。
 自分はキツネにつままれたような気がした。「バカな!そんなことが絶対にない」と確信を持っていたが、仕方なく、不承不承引き下がろうとして、振り向いた途端、ばったりとくだんの社長の顔と鉢合わせになった。社長は「アナタを探していたんですよ。迷い子になられたのではないかと思いましたので、迎えに来ました」と言った。
 自分は社長の後ろに付いて行った。何と、事務所はホテルのはるか上階の39階にあった。自分は「夢を見ていたのではないか?何としたことか!」と思った。39階は変な構造の階になっていた。社長は「ベランダから入るよ」と言って、狭い通路を通り抜けた。社長は窓越しに声をかけた。窓が少し開いて、女の事務員が顔を出した。「ああ、社長!」と言って、我々のために窓を広く開けてくれた。ベランダには色々なものが雑然と置いてあった。スリムな社長はなんなく通り抜けたが、自分には無理であった。表に回って、正規の入口から入ろうとした。
 振り返ると、白いヘルメットをかぶった黒い制服のホテルの警備員が立っていた。我々は尾行されていた。自分一人むんずと腕を捕まれ警備員室に連れて行かれた。冷や汗が出た。どのような経緯で、その全貌が明らかになったのか、夢の中のことでよく分からないが、結論は次のようなことであった。
 その社長は何年にも渡ってそのホテルに住み着いていたが、空室を転々としていたとのことだ。勿論、ホテルにお金など払わない隠密行動である。しかも其処を事務所にして正規の商売までやっていた。電気代はタダ。水道代もタダ。空調代もタダ。部屋代もタダ。来客用のお茶代もタダ。いつも掃除が済んだきれいな部屋を渡り歩いていたらしい。儲かるはずだ。ホテル側も、常駐の空き室狙いにうすうす気が付いていたが、その神出鬼没ぶりに追いつけず、何年にもわたってその尻尾が掴めなかったらしい。自分がロビーに行って、クラークに尋ねたことから足が付いたそうだ。
 自分は小説家でも何でもない。が、夢の中で、時々これまで考えもしなかったアイディアを貰うことがある。また、そのような夢を見る必然性に疑問を抱くことが多い。その夢は一体自分に何を語りかけているのだろうか。だから夢は面白いし、このブログに「真夜中の夢」と言うカテゴリーを設けて、時々、時間つぶしをしている次第だ。


第265話「シマッタ/アカン」(昭和40年~44年)

2007-11-10 | 昔の思い出話
 入社して4年目の正月2日は会社で日直と宿直を命ぜられていた。工場現場はシフトを組んでおり、正月や祝祭日などの休日とは無関係に操業が行われている。現場は操業に専念できるようにするため、工場事務所に外部からの問い合わせ対応や連絡窓口として職員格の社員が二人必ず日宿直の当番を勤める決まりになっていた。
 しかし、実は、個人的には、この時期に重大な緊急事態の発生する可能性があった。家内の初産の予定日は12月中旬頃であったのに、歳末近くなっても産気つく気配がなく、いつ破裂するか分からない状態であった。そのようなことから、暮れから正月にかけて何時生まれても良いようにと、暮れも押し詰まった12月27日に、急遽、大阪馬場町の国立病院に入院させていたのだ。
 会社の正月の宿直や日直は、多数の人々の予定を配慮して2、3ヶ月前に決定している。勿論、新入社員や比較的入社年度の若い者を優先的に割り当ててある。自分の場合は、多分、個人的な重大事は既に終わっているであろうとの予測の下に、一応、正月の日宿直はOKと了解していたのであった。しかし、正月が近づくとともに、変わってくれる人も居なくなり、運悪く、とんでもない時に宿直をやらされて、その通り勤務についていたのであった。そして、宿直が明けた1月3日の朝、工場で早い朝飯をとって帰宅したのであるが、玄関の鍵を開けて入るや否や、電話が鳴り、家内の父の大きな声が鳴り響いたのであった。
  「おめでとう!!」
 自分はてっきり正月の挨拶だと思って、鸚鵡返しに、
  「おめでとうございます!!」
と返事した。義父は、
  「いやあ、違うんだ。子供が生まれたんだ。あんたの子供がな!
   びっくりするほど、安産だったらしいね。ほんとにおめでとう!」
 義父の「おめでとう!」とは、他ならぬ我が子が生まれたことへの祝辞であった。自分の方からは他人に「おめでとう」と言出せないシチュエーションである。「おめでとう」と言われても、自分はあらためてポカンとするだけである。初めての子供が出来たというのに、父には実感がなく、他人が先に知っていると言うこの現実。世の中というものは、常に、うまく行くとは限らないものであった。
 自分は大阪から西宮の自宅へ帰宅したばかりであったが、衣服の着替えも何もせず、とんぼ帰りで大阪の病院へ行こうと思って、玄関の扉を開けた。扉を開けると、お向かいの老年の奥さんが丁度玄関を出られるところであった。ばったりと目が合った。奥さんは、腰の低い人で、丁寧に、
  「おめでとうございます」
と挨拶をされた。
 自分は子供が出来た知らせで、頭にはそのことしか無かったので、てっきり、子供の誕生を祝ってくれたのだと思った。照れながら、
  「いえいえ、そうですか? 有難うございます」
と返事してしまった。
 奥さんは正月なので年賀の挨拶をしただけなのに、「いえいえ、そうですか?」と言う当方の場違いの返答を聞いてびっくりされたようであった。きょとんとしたまま、足早に去って行かれた。
  「しまった! お向かいの奥さんは、こちらに赤ちゃんが
   出来たことなど知っているはずがない。去年引越してきた
   若い主人と顔が合ったので、お正月の挨拶をしたら、
   いきなり“いえいえ”と言われて、さぞ、びっくりした
   ろうなぁ」
と後悔したが、後の祭であった。
 このような間違いは、我が身辺には、時々どころか頻繁に出食わす不思議な運命を持っている自分である。ともかくも、自分は、玄関先でUターンして、大阪の国立病院を目指して早がけのダッシュをした。赤ん坊の写真を撮ろうと思って、写真機だけは忘れなかった。大阪地下鉄に乗って、谷町四丁目の駅の階段を駆け上がることも、もどかしく感じた。その階段を上りきったところで、家内の兄のご夫婦に出会った。
  「今、見舞いに行ってきたとこや。可愛い赤ちゃんやったで。
   赤ちゃんも母親も元気にしているよ」
との言葉を頂いた。
 自分は、今度は言葉に注意しながら、適切に答えた。
  「ああそうですか、それは早速にどうも有難うございました」
しかしながら、自分は人の解説を聞いているよりも、自分の目で早く確かめたいのであった。しかも、我が子のことを多数の他人が先に知って、その報告を聞いていること自体、親としての尊厳と存在意義が否定されているように思われた。自分は挨拶もそこそこにして、目の前の国立病院に駆け込んだ。
 ベッドには、家内と赤ん坊が一緒に寝ていた。赤ん坊は女の子であった。確かに血色の良い赤い顔をしていて、赤ん坊と呼ぶにふさわしい。自分は早くも親の欲目で、「この子は将来ベッピンになるぞ」と直感した。
 赤ん坊は、泣きもせず、すやすやと眠っていた。しばらくすると目を開けた。目を開けたとたんに、あくびをしたり、唇を動かしたり、またあくびをしたりして、大変忙しい様子であった。赤ん坊にも、しなければならない赤ん坊の仕事があるのであった。自分は、この様子を持参した写真機で撮りまくった。何時間も夢中の時間を過ごしたあと、やっと自分は家へ帰らなければならないことに気がついた。
 「赤ん坊に何と言う名前をつけようかなあ?」と、半ば放心状態で家路についた。自分は父親となった感激に浸っていた。このようなときが実は一番危険なのだ。神経と関心が一点に集中すると、他のことをすっかり忘れてしまう。このことは、もう何十年も繰り返して、何度も痛い目にあっているのに、またもや、すっかりと忘れていた。案の定、せっかく撮った写真機を地下鉄の網棚に乗せたまま、東梅田駅で電車を降りてしまったのだ。自分は、電車を降りて直ぐに気がついた。が、見ている前で電車のドアが閉まった。
  「ああ、シマッタ!」
と思った。
 閉まりつつある電車のドアをドンドンとたたいた。如何に強くたたけどもドアは開(あ)かない。
  「こりゃあ、アカン」。
 奇しくも何故、失敗した時に「シマッタ」と言うか、そしてダメな時に大阪の人間は「アカン」と言うのか、その語源に気がついた。が、またも後の祭であった。電車はそのまま走り去っていった。
  「ちくしょう、電車のバカ!」
と言っても、バカの原因は自分にあった。
 やむを得ず、その場で、梅田にある地下鉄の落し物係へ行った。
  「今乗って来た電車の中で、生まれたてのほやほやの
   赤ちゃんの写真を撮った写真機を置き忘れてきました。
   まだ、落し物になっていないかもしれませんが、とにかく
   大事な写真やから、すぐに探してくれませんか?」
 こんなに短い時間に忘れ物の申告に来た人間も珍しかろう。電車はまだ走っていて、忘れ物自体は網棚にある。落し物係りは落し物の定義に該当しない落し物の、このような状況にどう対応して良いのか全く分っていなかった。落し物が落し物として確実に認識されるまで、彼らとしても出来ることが何もなく、手を打つべき責任も権限もないことが分かっただけであった。それからと言うもの、会社の帰りに、毎日、地下鉄の落し物係へ立ち寄った。しかし、宝物より大事な写真入りの写真機は1週間経っても出て来ることはなかった。