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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第389話「生涯の伴侶」(平成15年~21年)

2009-03-31 | 昔の思い出話
 今まで、わが糟糠の妻のことを此処に登場させたことはほとんどない。しかし、この長い自分史が終了する直前になって、お世話になった女房のことだけ、何も触れずに終わてしまうこともできるまい。
 実際、妻のことで公開するような事項は特になかったのである。しかし、全体として、生涯、当方の優柔不断や様々な欠点に対して、妻はよく我慢して、耐えて、頑張ってくれたと思う。このことには、心からの感謝の気持ちを残しておかなければならぬと思う。自分のような、恥ずかしがり屋の口下手が、面と向かって言っても、真面目に取り合ってくれないので、以下にまとめて書いておく。

 妻は生涯の伴侶
 妻が亭主の面倒を見ること
 至極当たり前のことと思っていた

 妻は健康で、働き者で、笑顔を忘れぬもの
 日や月が巡ると同じく平穏無事なもの
 昨日が今日と同じであったように
 明日もまた何の心配も要らぬもの
 亭主は 妻のことをそんなふうに思っていた

 これは考え違いであった
 妻も人間である
 人知れぬ陰の苦労がある
 耐えて偲んで堪える頑張りがある
 亭主は 妻のそんなことを何も考えていなかった

 当たり前のように 亭主は
 家事のことは何もしなかった
 亭主は会社で仕事さえしておればよい
 やがて会社でエラクなれば元が取れる
 亭主は そんなふうに考えていた
 家事の手伝い、子供の養育、何一つやらなかった
 全部妻に丸投げであった
 亭主はいつも涼しい顔でいた

 会社へ入って数年目のこと
 亭主は会社がいやになった
 亭主はサラリーマンを辞めて
 九州大学の助手に転向しようと決意した
 思いもかけず 妻は九州へ付いて行くと言ってくれた
 亭主は都合で途中で九州大学から大阪大学に変更した
 亭主の勝手な変更にも妻は快くOKしてくれた
 なのに 亭主は優柔不断
 最終決断できず 現状維持のサラリーマンを選択した
 亭主の心がころころ変わった
 妻は何も言わなかった

 ある日 会社からの帰りのこと
 亭主は大阪で一人浴びるほどヤケ酒を飲んだ
 亭主は深夜近く自宅最寄りの阪急苦楽園口駅から妻に電話した
 亭主は星降る下を妻と一緒に散歩したいとふと思ったのだ
 そして亭主は夙川公園の土手の下で座って待った
 暫しの酔い覚ましのつもりであった
 不覚にも 亭主は 苦楽園口橋の石垣にもたれて眠ってしまった
 夜が刻々と更けていった
 日付が変わった深夜丑三つ時
 石垣にもたれて眠っている亭主は妻に叩き起こされた
 気がつけば 其処は冷たい土の上であった
 妻は心配してあちこち探し回ったようであった
 妻は怒っていなかった

 その後 子供が3人生まれた
 亭主は一度も産院で立ち会ったことがなかった
 亭主はいつも会社で仕事に没頭していた
 帰宅時に子供の顔を見るべく見舞いに行っただけであった
 亭主はいつも会社優先であった
 すべて妻に任せ切っていた

 子供の勉強 子供の怪我 色々あった
 妻がぎっくり腰になって 
 一人で病院に行けなかったこともあった
 そんな時も こんな時も 
 亭主は 一切のこと すべて妻一人に任せ切っていた
 妻も亭主もほとんど病気はしなかった
 亭主は会社 妻は家庭 と割り切っていた
 家屋の新築、自動車の買い替え、お墓の購入
 すべて妻一人の仕事にしていた

 阪神大震災の対応も妻の仕事であった 
 本当の大災害であったから大変であった
 衣食の手当て、飲料水の確保、水洗トイレの処置
 家屋内崩壊物の処置(テレビ、ガラス、電子レンジ、陶器・食器、
 本棚、タンス、照明器具、その他あらゆる廃棄物の処置)
 建物本体の修復(内装破れ、天井・雨漏り)
 外構の修復(門扉・ブロック塀崩壊)
 本当に死にたくなるほどの損壊で修復は難渋を極めた
 にも拘らず すべて妻一人に任せた

 もし亭主が妻に借りがあるとすれば
 将来 亭主が会社でエラクなればよいだけと割り切った
 最後にまとめて返すと威張っていた
 だが 結果はそんな風にはならなかった
 世間並みにリストラ風が吹いて
 定年より3年早く会社を辞めることになった
 亭主には不本意の中途退職であった
 亭主は会社で思ったほどエラクもならなかった
 だが妻は黙って温かく見守っていた

 その後二人で立ち上げた有限会社K技術経営
 ド素人の妻が勉強して会社の会計処理を全部やってくれた
 税務申告(法人・個人)その他難しいことも多くあった
 亭主は全部妻に任せて安心していた
 我が家の船長は妻であった

 亭主が入院した時
 妻は命より大事にしていた自分の仕事を即断で辞めた
 亭主の看病・介護に専念するためだった
 欠かすことなく病院に日参した
 発熱・発汗のため1日数回の着替え、補完食、洗濯
 数日連続して泊り込んでくれたこともあった
 献身的にやってくれた
 亭主はあらためて妻を見直した
 妻は優しく温かく愛情豊かであった
 本当の最高の生涯の伴侶であった
 亭主は心から妻に感謝している
 心からの幸せを感じている

 もし輪廻転生して 再度人に生まれ変わることあれば
 もう一度 同じ妻に巡りあいたいね 
 そして一緒に過ごせたらいいのにね
 亭主はそんなふうに考えている
 妻の苦労も知らないで

 死ぬということはみな平等に来るので、個人の肉体的な苦痛を除けば、そんなに怖くないだろう。しかし、死別に伴う別れは人によって異なる。伴侶のうち、残された方には、長くて、辛くて、悲しい時間が訪れることとなる。今回の突然の再起不能に近い病気のために、妻よりも自分の方が先に逝く可能性が高くなった。妻の、その後に来る悲しみを思うといたたまれない気がする。
 もちろんのこと、自分の方が長生きする可能性もゼロではない。その時は、妻よ、心配する必要はないぞ。きちんと見送りをし、同じお墓に仲良く入れるようにして、思い出すたびに、倍する思いで、悲しむよ。だが、別れ際には、お互いできるだけ淡々としていたいのだ。


ISOことわざ小事典(33)(34)(35)

2009-03-30 | ISOことわざ小事典
ISOことわざ小事典(33)
141.水掛け論          
 審査員が不適合を文書で指摘しなかったため、次回の審
 査で組織との間で、言った、聞いてないと結論がうやむ
 やになってしまうこと

142.見たら見流し聞いたら聞き流し  
 指摘しても何の役にも立たぬ不適合は知らぬ顔をしてシ
 ステムの有効性を第一優先しようとする審査員の望まし
 い態度の一つ

143.身から出たさび       
 管理者が自分の責任を取らないとき現場で遠からず発生
 する、思わざる不具合の結果

144.三日すれば止められぬ乞食
 大した力量がなくても先生々々とおだてられて好い気分
 になっている審査員の心の状態

145.実るほど頭を垂れる稲穂   
 ベテラン審査員が年功を積むほどに謙虚になっていく様
 子




ISOことわざ小事典(34)
146.昔の名前で出ています    
 文書や記録の様式が改訂されタイトルまで変っているの
 に関連の文書リストや参照文書では旧来の名前がそのま
 ま使われていること

147.昔とった杵柄        
 何年も前に退職した会社と同業種の会社を訪問した審査
 員が現場で感ずる郷愁または得意の気持ち

148.無理が通れば道理が引っ込む  
 審査員の明らかにミスと思われる強引な指摘に対して組
 織の担当者が反論もせず素直に受け入れること

149.目は口ほどにものを言い   
 審査の面談において応答者の目がウソ発見器のセンサー
 のような働きをして、正直でないことを知らせるさま

150.餅は餅屋          
 故障続きの旧い設備をメーカの専門家に見せて一発で直
 してもらったときに感ずる尊敬の思い




ISOことわざ小事典(35)
151.元の木阿弥         
 苦労して是正処置を講じたに拘らず、現場の意欲が薄れ、
 最終的には誰も手順を守らなくなって、振出しに戻った
 状態

152.桃栗三年柿八年       
 構築したマネジメントシステムが経営の役に立つまでに
 は長い年月を要することの喩え。一般に、手順の定着に
 3年、有効性までには8年は掛かるといわれている

153.門前の小僧習わぬ経を読む  
 ISO規格や運用の基本的な勉強をしていないに関らず、
 ベテランに混じってあれこれと口出しする組織の担当者

154.破れ鍋に綴蓋        
 指摘された不適合に対して根本原因を究明しないまま、
 とりあえず、思いつきの処置を講ずる現場の是正処置

155.闇に鉄砲          
 本質的な原因を究明しないまま、対策案ばかり多く出し
 て軽重の判断なく、むやみに是正の処置をすること


成果を築くか没落するか

2009-03-29 | 金言・名言
ちりも積もれば山となる
Every little makes a mickle.

 僅かなものでも
 だんだんたまって積もり積もれば
 大きなものになるということ

 先ず いいほうの例を上げる

 少しずつでも毎日勉強せよ
  1年経てばビックリするほど実力が伸びている
 少しずつでも毎日運動せよ 
  やがてメタボ腹がへっこみ身体が楽になっている
 会社では毎日挨拶と笑顔を繰り返せ
  日増しにキミへの信頼感と人気が上がってくる
 日常は少しでも頭を使え 同じことを繰り返すな
  現場の小さな改善が驚くほどの結果を生んでいる
 お金は全部使ってしまうな 少しずつでも貯金しろ
  金がすこしずつたまってやがて裕福になっている

 次に 悪いほうの例を上げる

 会社で毎日不平と不満を言い続けよ
  やがてキミは上司に嫌われ 鼻つまみものとなっている
 会社で何一つ発言せず 新しい提案をしない毎日を続けよ
  キミは会社で無能との評価が下り 疎んじられ始める
 服まなくてもよい薬を毎日服み続けよ
  知らぬ間に副作用が体内に溜って思わぬところで発病する
 毎日悪い仲間と付き合い続けよ
  朱に交わって赤くなっていても気付かぬ自分となる
 学校を卒業してから本も読まず何も考えぬ日常を過ごせ
  習ったことは全部忘れて何もする気のない自分を見出す
 サラ金で少しずつ金を借り続けよ
  やがてキミは自己破産の運命 キミの人生のこと サラ金屋も知らない

 僅かなものでも
 だんだんたまって積もり積もれば
 大きなものになるということだ
 恐ろしいことだ
 
 この効果はプラスにもマイナスにも作用する
 努力する人と努力しない人との差は倍のスピードで広がるということ
 さらに 加速度というものが存在し、その差はもっと大きくなる
 加速度は坂道を降りるスピードの増加のことを思えばよい

 「ちりも積もれば山となる」は「継続は力なり」「時は金なり」に同じ
 成ることは一朝一夕にはならない
 汗して 努力することの大切さ これが人生の基本
  「カメがウサギに勝った」
  「ローマは一日にしてならず」
  「学問に王道なし」
 類語は多い
  「ちりも積もれば山となる」
 プラスにもマイナスにも作用するこの言葉
 どちら側にしても ぼんやりしていては いけないコトワザ
 注意が肝要である

※ことわざの英語は学研教室「ことわざカレンダー」を参考にしています。


縁起でもないが真実の話

2009-03-28 | 徒然草
この年になると
毎月のように
知人友人が亡くなる
人間は生まれるときと同じく
死ぬときも何ともならぬらしい
自分では選べぬものらしい
自分の身体とはいえ
生老病死のすべてにおいて
思うようにならないものらしい

長生きしたいと思っても死ぬときは死ぬ
病気だけはならないぞと思ってもなるときはなる
死にたいと思っても好きなときに死ねない
すべてにおいて仏様にお任せするしかない
本当に自分の身体は自分のものではない
わが身はご縁によって
この世に生かされているというだけのこと
この年になって 
やっと知る


第388話「旧婚旅行」(平成15年~21年)

2009-03-26 | 昔の思い出話
 家内との新婚旅行の顛末は第258話に書いた。新婚旅行は当初南九州へ行く予定であったが、当時流行った航空会社のパイロットのストライキで、高校時代の修学旅行と同じ、北九州方面へのお決まりコースとなった。いつかはこのリカバリーをしなければならないと思っていた。
 それが出来たのは、つい最近のこと。やっとその余裕が出来たというべきか、それは2006年から2008年までの3年間、北海道、東北、伊豆、四国、南九州と全国を歩きまわり、都合、7回、家内と二人の旧婚旅行に行けたことであった。
 最初の旧婚旅行は2006年5月。裏磐梯、五色沼、日光、中禅寺湖へ行った。旅行社の企画ツアーのバス旅行である。磐梯山には雪が少し残っており、あの男らしい荒々しい山肌が、残雪に白く光り、目にまぶしかった。
 磐梯山を見れば、高村光太郎を思い出させる。高村光太郎の代表作品は「智恵子抄」である。「あれが阿多多羅山(あたたらやま)、あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)・・・・」の詩のある「智恵子抄」を読むと、自分はいつも涙が出る。その阿多多羅山の麓をバスで通過する時には、そっと家内の横顔を見て、高村光太郎の妻を愛する思いの詰まった「僕等」という詩の最初の部分を口ずさんだ。
 五色沼は学生時代に来た頃からは、すっかり変わっていた。その時に見た五色沼の清純さ、静けさがなく、五色と言われた色の変化に乏しく、あまり美しいとは感じなかった。また、日光東照宮は「日光見ずして、結構言うな」と言うほどには感激しなかった。日暮れや朝焼けの中禅寺湖の静かな佇まいは意外と良かったが。
 続いて、2006年の年末に、高知、岡山2泊2日の小旅行をした。それまで四国高知へは一度も行ったことがなかった。高知市は、案に相違して、新幹線岡山駅から特急で2時間で行ける近距離にあった。この旅行では、岡山は経費節減のためビジネスホテルで1泊とし、高知では旧藩主山内家の館跡のホテルで1泊の豪華版とした。
 岡山市では後楽園を初め、市内をあちらこちらと歩きまくった。夕方は岡山駅近くの居酒屋で過ごした。高知市では、宿泊代が豪華版であったので、魚料理も美味かった。しかし、うっかり食った脂ぎったウツボは腹にこたえて、長時間にわたってお腹がムカムカした。昼間の高知の市内見物は桂浜を含めて、タクシーを乗り回したので、大変高く付いた。
 高知から帰って僅か数日後、明けて正月3日から3泊4日で南九州へバス旅行に行った。ここでは風邪を引いたのか、ノロウイルスだったのか、原因不明の急性胃腸炎となり、嘔吐と下痢の辛い4日間となった。南九州は実は新婚旅行の最初に計画した行き先であったので、何とか、一度は行っておきたいと思っていた。
 最初の宿泊地、指宿で砂風呂に入って風邪を引いたのかもしれない。あるいは、その前日の昼間に、鹿児島市内で食った馬油(マー油)ラーメンが良くなかったのか、結果的には、自分にとって散々な旅行になった。特にマー油とは何かを知らずに、マー油の一杯入ったラーメンを食ったのが良くなかった。お腹にずしりと堪えて最初に不調の原因を作った。

 正月休みに南九州へバスツアーに行って来ました
 熟年カップル5組10人 
 3泊4日のゆっくりした旅でしたが
 雨続きの旅でもありました

 1日目
 鹿児島から指宿へ行きました
 心は嬉し 胸膨らみ
 芋焼酎たらふく飲んで 砂風呂へ入り
 ボーリングをして遊びました
 竜宮城へ来たかと思う極楽の境地でした
 家内までもが乙姫様に見えました
 この旅を人生に喩えれば成人までの時期でしょうか
 順風満帆の青年期でした

 2日目
 早朝から吐き気が始まりました
 朝食は一切喉を通りませんでした
 トマトジュース一杯だけ飲みました
 それから始まるムカムカ感
 バスの中で全部戻しました
 苦しいとか 苦しくないとか 
 苦しい人のことなど関係なく
 バスは長崎鼻、開聞岳、池田湖を走ります
 知覧(ちらん)を過ぎる頃は 座っているだけで苦痛でした
 ご馳走の昼食時には一人でバスに残りましたが
 一人で吐いて胃の中のすべてをカラにしました
 ムカムカ感がさらに募りました
 俺はここへ一体何しに来たのかと思いました
 ひたすら我慢の夕刻 バスは霧島温泉に着きました
 夕食も欠席し 部屋でカルカン1個食べて直ぐ寝ました
 寝る前に思いました
 これは二日酔いだ 自業自得だと
 しかし二日酔いならいつもある頭痛がありません
 人生で言えば二日目は人生の壮年期であったのでしょうが
 味気ない壮年期の盛りが終わりました
 翌朝まで12時間眠りました

 3日目
 下痢が始まりました
 バスが止まるごとにトイレに行きました
 3食抜いたあとの何も出ない下痢も苦しいものでした
 霧島神宮、都城、飫肥(おび)、堀切峠から宮崎までのまる1日
 この日は長い長い地獄の二日目でした
 昼食も夕食も山のようなご馳走でしたが
 ほとんど何も食べることが出来ません
 食べる気がしないのです
 見るだけでむかつくのです
 もうヤケクソになって夕刻温泉に入りました
 寒気がして早々に上がってきました
 ひょっとしてこれはノロウイルスではないかと思いましたが
 自分ひとりだけのノロウイルスはありえません
 この旅も人生で言えば壮年期の終わりの頃でしょうか?
 わけもなく苦痛の時間が続きます
 この日も12時間眠りました

 4日目
 よく寝たお陰で少し気分が快復しました
 夜中に寝汗を1升ほどかきました
 この日は宮崎から綾
 綾から酒泉の森、照葉大橋、青島、宮崎空港と回りました
 我ながら懸命に我慢しました 
 我ながら懸命に耐えました
 しかし気分はぐっと楽になってきました
 飛行機に乗って伊丹空港に着いたときには
 これはただの風邪ではなかったかと思いました
 しかし風邪にしては熱も咳も喉の痛みもありません
 また人生とは旅と同じことかもしれないと思いました
 運が悪ければ ただ苦しいだけの人生を送る人が居ますし
 一方で全然苦しくない人も居ます
 ひとり苦しんでいても 
 他のほとんどの人には何の関係もありません
 ちょっとさびしいことですが
 苦しいことも楽しいこともそれを感ずるその人だけのこと
 極めて個人的なことであったのです

 この4日間
 私個人にとっては
 クソ面白くもない旅であったかもしれません
 これを人生に喩えれば
 人生も似たようなもんだと思えてきます
 我が人生 
 まだ4分の1が残っていると勝手に思っていますが
 残りの4分の1は気楽な人生を送りたいものですね
 散々苦しんで人生の4分の3を過ごした挙句
 残りの4分の1まで病気で苦しんで過ごすなんて
 それはありませんよね
 そんなこと 考えただけでもイヤになりますよね
 老年期こそ 穏やかで苦痛や苦労のない人生であって欲しいですね
 我が4日間の旅は 苦痛の旅で終わってしまいましたが
 我が人生の残りの4分の1は 
 しっかりとした いい人生が待っていることを願います
 霧島神宮、宮崎神宮、青島神宮 すべての神様に 
 そのことだけを祈願してきました
 今年の正月は要らぬ旅して 要らぬ辛い目にあいましたが
 老年期への心つもりを構築する 
 またとない機会を得ることが出来ました
 そうです
 健康に留意します
 お酒は少し控えます
 仕事も少しペースを落とします
 そうは言っても 
 明日からまた 仕事!仕事!で頑張りますよ!
 それが健康に一番いいうちは

 旅行とは、常に楽しいものとは限らない。特に、日程の全てを旅行社という他人に決められた不自由な旅行は、意に沿わぬ仕事をイヤイヤやらされているのとよく似た感じがする。
 にもかかわらず、半年も経つと、またぞろ何処かへ行きたくなる。次の旧婚旅行は2007年8月中旬、又もやバス旅行で、今度は正反対の方角、北海道知床方面であった。冬には暖かい南九州。夏には涼しい北海道知床方面となり、理屈には合っている。
 北海道への往復は、大阪-網走間の航空機。道東の阿寒湖で1泊、網走で1泊。2泊3日の短期旅行であった。摩周湖は霧で有名であるが、到着の数分前に奇跡的に霧が晴れたそうだ。湖面に浮かぶ小さな島、周囲の山々全体がほぼ完全な姿を見せていた。
 肝心の知床半島めぐりは海が荒れて欠航。はるか遠くから知床半島だけを楽しみにしてはるばるとやって来たのに、添乗員は2千円ばかりの払い戻しをして、全て終わったような涼しい顔をしているのが癪だった。夜に自費で舞台のアイヌ踊りを見たのがせめてもの収穫であった。
 この北海道旅行はあまりにも物足らなかったので、すぐ1週間後に、自前の計画で修善寺1泊、伊東1泊の2泊3日の伊豆旅行を行った。2日目に修善寺、天城峠、堂が浜、下田、石廊崎等へとタクシーを終日借り切って、伊豆を南北に東西に自由自在に走り回った。天城峠の有名なトンネル、狩野川ハイキングコースの散策では雨が降ったが、その後の晴れ間の、瀧や渓谷ときれいな緑の眺めが良かった。堂が浜の船遊びも、空がすっかり晴れとなってきれいであった。やはり自由な時間に自由に振る舞える旅行が良い。しかし、1日のタクシー代が、コースはずれの追加料金を合わせて6万5千円ともなり、お安くはなかった。
 旧婚旅行のシリーズはなおも続く。どうやら、1年後に自分が病に倒れることを察知していたのかしらとも思われるが、もちろん、そんなことを知る由もなく、さらに2回の国内旅行に出かけた。
 翌2008年5月。大阪発青森行きの寝台特急の夜行列車日本海に乗って、下北半島、八甲田山,奥入瀬、十和田湖の旅に出かけたのである。帰りも寝台特急日本海であった。新緑と残雪のきれいな東北地方を見ることができた。
 この旅行では魚がうまかったし、思いのほか、自然の景色もよくて、大変印象が良かった。特に八甲田山の残雪の白さと新緑のコントラストは今でも目に焼きついている。また、下北半島西岸の仏が浦の奇勝奇岩も目に新しいものであった。恐山の地獄は期待に反してあまり大したことがなかったように思う。
 その3週間後、6月初め。今度は大阪発高山行きの列車に乗り、上高地、奥上高地のハイキングに出かけた。上高地で1泊。奥沢で1泊。3日間で27キロ歩いた。穂高連峰の残雪と新緑、梓川の水の美しさを堪能して来た。帰りも、高山から大阪までの特急列車ひだ号に乗った。この旅行は旅行社の決めた旅程であったが、ハイキング主体のマイペースで行ける旅であったので、大変に印象が良かった。特に梓川の澄んだ水の美しさに圧倒された。穂高連峰の残雪と雪渓は十分に残っていた。写真でしかみたことがなかった山々をこの目で見て、本当に日本という国の美しさ、素晴らしさを実感した。
 以上のように、僅か3年の間に、日本国内で、それまで行きたいと思いつつ果たせなった場所を、残らず見せてもらった。妻と40有余年を仲良く伴に過ごせたことへの感謝の旧婚旅行であったのか、それとも、直後にせまりくる自身の大病を予知した人生最後の修学旅行であったのかはよく分らない。何はともあれ、元気なうちに、妻に日本国中、端から端までを見せてやることが出来て嬉しい。妻にも色々と思い出に残る記憶が残ったことであろう。


第387話「信念の崩壊」(平成15年~21年)

2009-03-25 | 昔の思い出話
 「有限会社K技術経営」をスタートさせた初期の頃は暇であったので、昔居たX社のOB会のメーリングリストに駄文を送り、結構、ストレスの発散をさせてもらった。行き詰まりを感じたり、今日は一寸気が晴れないと思ったようなときには、他人よりもむしろ自分を元気付けるために、面白半分で何やかやと書き送った。
 つい調子に乗って、以下のような駄文を送ったことがあった。

 65歳のお父さんも
 70歳のお父さんも
 自分はそろそろ年だなんて
 思っていませんか

 大間違いですぞ

 生まれたときに
 吹き込まれたエネルギーが
 もう切れ掛かっている
 そんな幻想を抱いていませんか?

 大間違いですぞ

 お父さんは阪神フアンですか?
 阪神7回裏の七色の風船を
 見過ぎていませんか?

 エヤーが抜けたら落ちてくる
 エヤーがなくなったらアカンのや
 なんて思っていませんか?

 だが人生は風船ではありませんぞ

 エヤーなんぞ
 風船の中で作り続けりゃあ
 永久に風船は飛び続けるものなんです

 ところで
 お父さんは
 年のせいにしてエヤー作りを
 サボっていませんか?

 大丈夫です
 お父さんには
 まだまだエネルギーがあります
 エヤーを作る力は残っていますよ

 お父さん
 これから何か新しいことを始めてもOKです
 まだまだ時間があります
 驚くほどの時間が残っていますよ

 どんどん挑戦しましょう
 バリバリやりましょう

 お父さん
 年だといって
 年のせいにしたら終わりですぞ

 お父さん
 最低80歳までは現役で行きましょう
 今からその気で行けばOKです
 年だからなんて絶対に言わないでください

 この頃の自分は、人は誰でも70歳代後半くらいまで(若しくは80歳くらいまで)は、現役で働けるものと考えていた。自分も、内心、80歳までは現役で働くつもりでいた。世の中には、不幸にも病気などで働きたくとも働けない人がいることに頭がまわらなかった。今から思えば、65歳になったばかりのこの時期は、最も幸福な一時期であった。人は働けるかぎり働かねばならない。70歳を越えても働き続けなければならない。働くことが健康の秘訣でもある。死ぬまで働く。これが自分の強い信念となっていた。
 その後、それ以前を含めて「有限会社K技術経営」の活動をまる11年間続けたが、我が信念に反して、80歳まで未だ10年余を残した69歳で、仕事人生の幕を閉じることになった。夢にも思わなかった事態となり、死ぬより辛い決断をしたのである。
 詳細はあらためて述べるが、いろいろな理由の中で、再起不能の病気になったことが、仕事から引退する決意の最大の理由であった。
 病気くらい何だと言う考え方もある。これまでの自分の考え方からすれば、病気なんて言うのは、精神的な弱さが顔を覗かせただけのことであり、精神力さえ充実しておれば克服できるものだ。基本の考えに大きな変化はないが、この期に及んでは、現状を素直に認めて、仕事からの引退を決意することが最も賢明であると思われた。この決意を受けて、平成21年1月1日付けで、「有限会社K技術経営」の正式の休業届けを役所に提出したのである。
 般若心経に心無罣礙(しんむけいげ)という言葉がある。「心にこだわりを持つな」という意味である。「仕事にこだわる」「自分にこだわる」「自分の信念にこだわる」。これらにこだわることが、若き自分にとっては、基本の美徳であった。つい最近まで、そのとおりであった。しかし、ここ数年、人生を考え、人生の意味や価値を色々と振り返って、哲学として勉強した結果、少々、考え方が変わってきたのである。年齢の影響もあるだろう。結局、世界は色即是空・空即是色であり、人の心のあり方として、そこから誘導される「心無罣礙」が、最も正解に近いのではないかと思われる。特に、現在の境遇においては、心無罣礙に徹すれば徹するほど、心が安定し落ち着くことが実感できる。
 心無罣礙に徹すれば、人生でやり残したことの無念さに打ちのめされるのではなく、これまでの人生で既にやることは十分にやったと、何もやれなかった人間においても、充実感や満足感を感じさせてくれるのだ。この世は無常であり無情であると批難したり、諦観したりするのではなく、現実のそのままをありのままに受け入れて、肯定することができるのである。
 今後のことは分からないが、思いのほか長生きした場合のことは、その時に考えれば済む問題である。何も準備しておく必要もない。何事も、いつも計画とおりに行くものではない。その時点、その時点で、心静かに最善の処置を考えていけばよい。それを平常心というのだ。何はともあれ、現在に、そのときのエネルギーの全部を投入して、今を最高に生きること。これが最善の生き方である。
 その昔、弁慶は、奥州平泉の地で主君義経を守るために、背に腹に何十本という矢を受けて、満身創痍となっても、なお倒れず、立ったまま命尽きたとのことだ。このように、仕事の最中に死ぬような死に方ができれば、どんなに誇らしいことか。自分も、病室にあって、身体中に何十本という点滴や排泄の管を通して、管の化け物のような姿になっても、尚も仕事を続けながら、死んでいけたらと願わぬ気持ちもなくはない。
 しかしながら、2008年9月からの入院とその結末は、自分に劇的な心境の変化をもたらせた。半年間、病室のベッドに臥している間に、「心無罣礙とは何か」について、いやというほど考える時間を持った。自分は何にこだわっているのかを考えた。実は、何にもこだわっていないのだが、強いて言えば、これまで自分が外に向かって言ってきたことに、こだわっているだけのことであった。世間様に対して「ええ格好」を続けるかどうかだけにすぎなかったのである。そんなことよりも、現実としては、後何年生きることができるかの方が問題である。人生残りわずかなら、もう少し「人生というもの」に関して、深みを持って、しっかりと考える時間を持ちたい、と思った瞬間、「仕事はきっぱり辞める」と決意できたのである。
 自分としては、やっと到達した結論であった。意思や意欲のエネルギーは加齢とともに減っていくようだ。特に腹部の外科手術の後は、これまで感じたことのない、身体各所の不調感が継続する。今までなら数日もすれば、自然に改善に向かう違和感が、逆に悪化する日もある。このように、病気と共存する事実は事実として認めざるを得ない。
 自分は、病気を契機に、これまでの現場で働く中年の元気を喪失したのだ。そして期せずして老年の心境に到達している。僅か半年で、急転直下の変化を遂げてしまった。自分はこれを潔く認める。そして。これを恥ずかしいと思わない。この結論で良いのだ。凡夫は凡夫の引き際がある。これまで精一杯頑張ってきた自分だ。いつの間にか限界に来ている。この現実は素直に認めなければならない。
 もし、生きながらえて、少しは長く生きることがあっても、することは一杯ある。何をするかは、その時に考えればいいことだ。


健康ってヤツは(パート2)

2009-03-24 | 徒然草
健康な人はもちろんのこと
健康でない人の辞書にも
不可能という文字はない
出来ると思えばできる
大丈夫と思えば大丈夫
ダメじゃない
自分さえ何とかしようと思えば何とかなる

健康でない人の本当の喜びは
出来ないことを他人様に認めてもらうことではない
自分に出来ることが何かを知ることである
片手があったら片手で掴む
片足があったら片足で歩く
背筋があったら背筋を伸ばす

出来ない自分があったら
他人を責める前に
自ら考える
自ら工夫する
自らを信じて努力する

責める相手を間違えるな
いじけるな
出来ると思えばできる
大丈夫と思えば大丈夫
ダメじゃない
自分さえ何とかしようと思えば何とかなる

大事なのは動かなくなった手や足や背筋を恨むことではない
大事なのは何でもできた昔を懐かしむことではない
大事なのは最大限に今を生きることだ
大事なのは生きている命だ


ISOことわざ小事典(30)(31)(32)

2009-03-23 | ISOことわざ小事典
ISOことわざ小事典(30)
126.話し上手の聞き上手     
 規格の解釈を一方的にしゃべるのではなく、現場担当者
 の話をよく聞いて相手に分る言葉で説明できる、世には
 数少ない審査員のこと

127.針の穴から天覗く      
 文書化された手順書や記録様式が不備で、組織の回答者
 の言葉だけを頼りに、規格が要求するプロセスや手順の
 存在を確認することになった審査員の抱く感慨

128.一人の百歩より百人の1歩  
 現場の業務改善を進めるための基本の考え方。小さな改
 善でも万人の一致した行動で大きな効果が得られる

129.瓢箪から駒         
 再発防止のための真の原因が思いもかけないところから
 判明して解決の糸口が得られること

130.下手な鉄砲数撃ちゃ当たる  
 事前に審査ストーリを考えず、現地へ来てから闇雲に質
 問を連発する不精な審査員のお決まりの審査手順




ISOことわざ小事典(31)
131.下手の長談義        
 クロージングミーティングで不必要な感想を長々と述べ
 る審査チームリーダー

132.仏作って魂を入れず     
 規格の要求事項はマニュアルの上では見かけ上100%
 順守してあるが、具体的な実施手順や目的・目標の中身
 が思い切り手抜きされ、ほとんど実体のなくなっている
 マネジメントシステム

133.仏の顔も三度        
 軽微であると見送った同類の不適合が3回も発見されて、
 指摘せざるを得なくなった審査員の心境

134.骨折り損のくたびれ儲け   
 遠方に出張して長時間の審査をして、1件の不適合指摘
 なく、適切なアドバイスも出来ず、疲れて傷心の気分で
 帰路につく審査員の心境

135.惚れたが因果        
 マネジメントシステムの出来が悪く、本当は逃げ出した
 い思いがあるに関らず、経営者や管理責任者のお気に入
 りとなって、引き続き次回の審査の指名を受ける審査員




ISOことわざ小事典(32)
136.蒔かぬ種は生えぬ      
 経営者が品質方針や環境方針において、何ら具体的な表明
 をせず、現場に期待だけをしているときの当然の不毛な結
 果

137.負けるが勝ち        
 審査員が組織のためを思って好いアドバイスをしても、聞
 く耳持たぬ組織に対して、それ以上の発言を止める審査員
 の諦観

138.待てば海路の日和あり    
 何年にもわたって解決できなかった問題の根本原因が判明
 して、再発防止の処置が完了したときに感ずる管理者の喜
 び

139.実を見て木を知る
 アウトプット(成果・実績)を見てプロセスの有効性を確
 認すること。システム有効性の基本の考え方

140.見ざる言わざる聞かざる   
 不適合の露見を恐れて口を閉ざす組織の担当者の、審査員
 に対してときに見せる、よろしくない非協力的な態度


ウサギが勝つとは限らぬ

2009-03-22 | 金言・名言
勝ったのはカメだった
The turtle won the prize.

 最後に笑ったのはウサギではなかった
 カメが勝ったのである
 お分かりかな
 早く走るウサギが競走に勝つとは決まっていない
 だから人生は面白い
 特技がないと思っているキミ
 運が悪くていつも損していると思い込んでいるキミ
 キミにもチャンスはある
 それが何か分るかな
 カメは休まなかった
 昼寝などしなかった
 努力して歩き続けた
 諦めない 継続する 執念をもつ
 それが秘密だった
 By repetition.
 継続は力なり
 要は繰り返すことだ
 失敗など跳び箱の一つだと思って
 飛び越えていくのだ
 くじけようとくじけまいと人の勝手だ
 くじけたい人はくじけたらよい
 そこで休みたい人は休めばよい
 だが最後に勝つ人はくじけないし休まない
 頂上目指して歩き続けるだけだ
 エジソンも言ったではないか
 “Achievement is 2% inspiration and 98% perspiration.”
 天才エジソンでもインスピレーションはたったの2%だと言ってる
 残り98%が努力の汗ってことだ
 凡人なら100%全部努力の汗だ
 自信を持て
 夢を持て
 夢を目標にせよ
 目標を計画にして可視化せよ
 努力の成果を見届けよ
 うまく行かなければやり直せばいい
 工夫しやり直すこと
 それを努力と言う
 それを汗と言う
 それは気持ちの良い汗だ
 心楽しい生甲斐の汗だ
 たとえ 失敗しても 歩みが遅くても
 そんなこと気にするものは自分以外に誰も居ない
 他人の目が気になるのは他ならぬ自分だけ
 自分さえ気にしなければ障害は何もない
 頑張らずに欲しいものを得たいなんて
 コマーシャルの世界だけのこと
 騙されてはいかん
 キミはキミだからキミなんだ
 他ならぬキミ自身がキミ自身のために
 人知れず歯を食いしばるのだ
 頑張り続けるのだ
 最後に勝つのはいつもウサギではない
 カメだってことを忘れてはダメだ

英語の部分は、MacK R. Douglas ;"How to Make a Habit of Succeeding (Motivational Series)"からの引用です。


第386話「最後の外国出張」(平成15年~21年)

2009-03-21 | 昔の思い出話
 2006年。企業に対するISOマネジメントシステムに関するコンサル活動と審査員活動を営業の中心に据えながら、我が「有限会社K技術経営」は拡大も縮小もせず、安定軌道に乗っていた。しかしながら、心の中には何とも言えない違和感が滞留していた。どうもISOがウソのように感じられてならなかった。
 組織の経営者がISOをほとんど理解していない現状が目の前にあった。大抵の場合、ISOマネジメントシステムの構築は事務局に丸投げされ、経営者が乗り出すのはシステム構築が終盤を迎えてからであった。
 「そろそろ社長に品質方針(環境方針)を作って頂かないと
  認証登録の準備が出来ませんよ」
とコンサルから事務局、時には社長に直接催促する。コンサルの自分は、口を酸っぱくして、常に、
 「品質(環境)方針を実行するために、現場の手順書や
  マニュアルを作成しますので、順序としては最初に経営者
  の具体的な品質(環境)方針の意思表明をお願いします」
と説明するのだが、特にISOが始まった1990年代の後半の頃はそのような運びとなることは滅多になかった。
 大抵の場合、社長はシステム構築の決意表明とスケジュール目標だけは明確に述べられるが、経営戦略や経営方針との関連に触れられることはなかった。また、ISOマネジメントシステムの中で、どのようなことを目指し実行しようとするかは何も言わなかった。要するに、経営戦略とか経営方針とか企業の中核となるビジョンがないのであった。ないものは徳利の口を逆さまにしても出て来るはずがない。
 また、経営者や組織の関係者はISOマネジメントシステムを出来合いの、取扱説明書のような文書一式を購入するように心得ておられるようであった。また、事務局に責任感があればあるほど、社長に代わって段取りの全てを行うことを使命と考えているようであった。できるだけ社長に相談せずに、社長の気に入った内容のシステムを構築しようと心がけているように見えた。品質方針や環境方針をすべてに先行して表明するよう、社長に掛け合う事務局も少なかった。品質(環境)方針などは、すべて事務局が文案を事前に勝手に準備して、できるだけ面倒な改訂を避けるべく、社長に数分説明して、社長から同意の署名をもらって終わるのであった。
 ISOマネジメントシステムとは言うものの、経営方針や経営戦略不在で、あるいは関係なく構築されていくのである。もちろん、コンサルとしては、そうならないように社長に掛け合い、専務に説明し、常務を口説くのであるが、現実には成功例はほとんどなかった。
 ここで、自分は、如何にして経営戦略とISOマネジメントシステムとをドッキングさせるかを思案し始めた。もし組織に明確な経営方針や戦略が存在しないならISOマネジメントシステム構築時に同時に作成すべきではないかと思った。
 丁度、その頃、横浜国立大学経営学部の吉川武男教授の主唱される「バランス・スコアカード」という経営戦略構築の新しい手法が世に出始めた頃でもあった。自分はこの手法に飛びついた。元々、アメリカのハーバード・ビジネススクール教授のキャプランと経営コンサルタントのノートンという先生が構築・提案した手法であり、大変実務的で分りやすく、世界の大企業や自治体などの大組織が取り入れて大変成功したということであった。また、分りやすいテキストも何冊か翻訳出版されたので、これらの書物を何度も何度も繰り返して読んだ。
 バランス・スコアカードというのは、複雑な組織やシステムの中で一貫した経営戦略や方針を構築する手法として開発された。財務の視点、顧客満足の視点、社内業務プロセスの視点、従業員の力量・教育・訓練の視点や企業文化の視点などの、色々な組織内の重点的な価値観をバランスよく配慮して、全社的なビジョンや戦略を構築する手法である。これによれば、一貫したビジョンの下で、中長期の目的・目標から年度の実行計画まで作成できる。ISOマネジメントシステムで言えば、品質目標や環境目的・目標に基づく行動計画や実行計画まで出来てしまうのである。
 自分は、わが国中小企業におけるISOマネジメントシステムの爬行的な運用を打開する鍵は此処にあると思った。特に、中小企業などの小さい規模の企業においては、経営課題を品質や環境に区分して運用することには無駄が多い。大企業のように品質や環境を別々のシステムとして個別に捉えるのではなく、どちらの課題であっても、組織全体としてクリヤーされておればよいのである。何も大企業を真似て精緻で複雑なシステムを構築する必要はないのである。
 例えば、「コスト削減」という大方針があれば、品質ISOで言えば、顧客満足を達成しつつ生産性を向上させることであり、環境ISOで言えば、原材料からの歩留まりを上げて産業廃棄物やリサイクルに回る素材を減少させることになるが、現場でやる実施課題は、評価の視点が異なるのみで、多分同じことを実施することになる。また、コスト削減は製造部門だけの問題ではない。資材・購買、経理、財務あらゆる部門がそれぞれの課題をもっている。現行のISOのように生産部門だけに責任を押し付けていては解決できる課題は半分もない。大抵の場合は、人間の力量や資質の問題であり、労務や人事の問題であり、資源配分の問題である。これらは一つの戦略のもとに資源を重点配分して、全社的に進めていくべき問題である。
 現行の大企業を念頭において運用されていた、あるいは例示されていたバランス・スコアカード(BSC)は重すぎる。が、少し手を加えて簡易な中小企業向けのものを開発すればよい。全社を一つのシステムとして捉えやすい中小企業にとって、ISOを含めた経営戦略をマネジメントするための絶好の経営手法となるのではないか。さらに、バランス・スコアカードを適用すれば、構築済みのISO品質(環境)マネジメントシステムの改善及びレベルアップの可能性も十分にある。
 自分は、自分の手でそのような主旨の本が書けないかと思った。ひょっとすると、本格的な第二の著作物になるのではないかと、胸が躍るような興奮を感じた。著作の進め方の具体案、特に出版社の心当たりはなかったが、出版社の候補が出てきたときに提案するべく、企画提案書まで作成した。中小企業向けのBSCの簡易ソフトを作成し、営業を始めた会社があったので、その社長に面会し、当方の著作計画を説明したりした。

 このようなことを考えていた矢先、東京のN協会傘下のK情報化協会の主催で、ストックホルムとロンドンへ「第3回訪欧BSC先進企業調査団(2006年9月)」が派遣される計画があるとの情報が入った。しかも、この方面で最も活躍されている、前述の横浜国立大学吉川教授が団長ということであった。これに参加すれば、吉川先生とも懇意になれる。また、参加者と仲良くなれれば、今後の交流や情報交換も出来るようになるだろうと、自分はこれに飛びつくことにした。
 早速、K情報化協会に申し込みを入れた。
 「参加費は協会員でないと、20万円アップということですが、
  当方は会員ではありませんので、総額100万円ということに
  なります。こちらは経営が苦しい零細企業です。何とか、
  20万円をご勘弁してもらえませんか?」
 何でも思ったことは言ってみるものである。主催団体の方では参加者集めに苦労していたようだ。一発で20万円を負けてもらうことが出来た。大成功であった。

 このような経緯を経て、2006年9/17~9/24の1週間、ストックホルムとロンドンへ行ってきた。他の参加者は全て東京近辺に在住の人たちであった。関西弁をしゃべるのは自分ひとり。また、長い間、英語をしゃべったことがなかったためか、英語の発話能力がかなり落ちているように感じた。
 滞在中、酒宴が度々催された。このとき、参加者間の雑談で感じたことであるが、東京の人たちが思う東西の境界線が、案外、東側寄りにあるということであった。彼らの感覚では、静岡県の富士川辺りは既に西側で、せいぜい箱根の関あたりが東西の境界線であるらしい。そう云えば、西に住む自分も、東京から新幹線などで帰宅する時、いつも岐阜-米原間の関ヶ原(不破の関)を越した辺りで、やっと帰ったという思いがするのである。西側に住む人間も、東西の境界は、結構、西側寄りにある。

 肝心の仕事の方であるが、イギリスとスエーデンにおけるBSCブームはかなり沈静化していた。この手法から撤退した組織もいくつかあった。しかし、自分は、今でもBSCを中小企業のISOマネジメントシステム改革の起爆剤にしようとする考えは引っ込めたわけではない。確かに、現状のBSCは少し大仰過ぎる。だが、BSCを中小企業向けにぐっと簡素化すれば、中小企業にもフィットするものが出来る。このあたりの呼吸が分る者はあまり居ない。しかもISOマネジメントシステム構築の前段階に位置づけて活用できる適任者は、自分以外にほとんど居ないのではないかと思う。
 しかし、その後、何処かのコンサル先でBSCとISOのドッキング実績を作って実証したいと思っているうちに、時間が過ぎ、構想を十分に深めることが出来ないまま、現在に至ってしまった。そして、2008年9月から始った突然の療養生活で、この計画の実現は難しくなった。結局、この構想の実現も夢物語で終わることになりそうである。やり残した仕事の一つとしてお蔵入りしつつある。大変残念なことである。
 また、この旅行は大変楽しいものであった。ロンドンは過去に十回以上は訪問したと思うが、ストックホルムは初めてであった。先ずストックホルムを訪問し、まる三日間滞在してロンドンに向かった。
 9月のストックホルムは、もう秋の気配が濃厚であった。我々がストックホルムに到着した日、スエーデンの総選挙があったらしい。ホテルの中は騒然とした雰囲気であった。これまで社会党系が支配していた国会が何十年ぶりかで、自由主義的な政党に政権を譲ったとのことであった。市民が高福祉高負担に嫌気がさしたそうだ。時代は少しずつ変わりつつあるとのことであった。ホテルはその政党の祝勝会で賑やかであった。

<ストックホルムにて>
 秋のストックホルム
 スペース豊かな湖面
 水辺に映える町並み
 林立する尖塔
 吹き抜ける冷たいそよ風
 一人静かに町を眺めていると
 ここにも確かな世界がある
 狭い国 日本に居て
 其処だけが世界と騒ぎまわっている自分
 その自分が今
 ストックホルムの水辺に居る不思議
 昨日まで居た我が日常とは無関係の別世界
 忙しく車が動き
 忙しく人が歩き
 都会の雑踏と騒音がこだまする
 自分が居ても居なくてもこの世界はここにある
 自分の居る空間が透明の空間のように
 人びとが通り過ぎていく
 至極当たり前の人びとの日常がある
 自分は考える
 自分とは何か
 自分の日常とは何か
 今ここで自分が別世界の人びとを見るように
 日本で生息するわが身を観察するとき
 自分はどのように見えるか?
 大したことでないことを大仰に考え
 些細なことにこだわり
 あくせくしているだけの自分ではないか?
 日本に帰り
 日常の仕事や生活に疲れるときあれば
 ストックホルムの街頭の景色を思い浮かべれば良い
 自分一人居ても居なくても世界はちゃんと動いている
 肩の力を抜いてもっと気楽に生きていくこと
 それで良い
 人生はあっさり生きるのが良い
 スエーデンの淡白な色調くらいが丁度良い
 いつも思う
 旅は人に気付きを与える
 来てよかった
 本当に遠くまで来てよかった

 続いて、ロンドンに向かった。ロンドンは既に何度も来ている。特別、見たいところもないし、東京へ着いた程度の気安い感覚であった。円安というかポンド(ユーロ)高というか、物価が高いのに驚いた。

<ロンドンにて>
 ロンドンは温かい秋だった
 数日の滞在で快晴と雨天が交代した
 ある雨のひと時 団体ツアーから離脱した
 なぜか無性に一人になりたくなった
 一人でナショナルギャラリー(美術館)を訪れた
 入館は無料だが入口には寄付金の箱だけが置いてあった
 箱には「入館無料を維持するために寄付を請う」と書いてあった
 日本男子なればお賽銭のつもりで5ユーロ(約750円)を放り込んだ
 他に寄付金の箱にお金を入れる人は意外に少なかった
 わずか5ユーロではあるがノブレス・オブリージを意識した 
 一寸良い気分だった
 中扉を開けて展示室へ入ると驚くほど多くの見事な絵があった
 5ユーロの価値は十二分にあった 
 20ユーロ(約3000円)でも安いと思った
 いつの間にかムソルグスキーの「展覧会の絵」を口ずさみながら歩いていた
 見憶えのある絵に出会ったときは昔馴染みとの出会いのように感じた
 初恋の彼女のような絵にはどきどきする胸のトキメキを感じた
 時間忘却の数時間 
 ふと足の疲れを意識して我に帰った
 いつの間にか3時間以上が経過していた
 全ての展示物を見たわけではなかった
 全部を見るにはさらに2倍の時間がかかると思った
 帰りはロンドンの地下鉄に乗った
 チェアリングクロス駅からユーストン駅まで3ポンド(約750円)であった
 これはとてつもない高い運賃ではないか!
 梅田駅から天王寺駅よりも近い距離なのに…
 大阪の地下鉄ならわずか270円の距離だ
 無料のナショナルギャラリーとびっくりするほど高い地下鉄
 このコントラストには驚かされる
 文化の違いか価値観の違いか 
 日本とは何かが違うと思った
 ユーストン駅で地上に出るとそこは見知らぬ街だった
 ホテルはどちらの方角か何の目印もなかった
 何はともあれ山勘を頼りに歩いた
 違っているかも知れぬ道を一人行く…
 不安の混じったこの快感がたまらなかった
 この気分を味わうことがなければ旅ではないと思った
 わずか数時間ではあるが一人旅の気分を味わった
 人生も多くの時間 多くの人と一緒に歩くが
 結局は一人旅だ
 この一人旅を面白いと思うか
 淋しいと思うか 
 それはその人の哲学次第だ
 人生の素晴らしい一人旅
 楽しむことが出来ぬ人たちは本当に気の毒だ

 我が人生で、これが最後の外国旅行となったかもしれない。思えば、広くあちこちへ行ったものだ。もちろん、訪問していない地域や国の方がはるかに多いが、個人的にはもう十分に堪能したように思う。外国旅行は、たとえ一人であっても、どの国へ行っても、特に不安を感じなかった。むしろ好奇心や何でも見たいという気分が横溢していた。幸せな人生を過ごせた。


一息入れよ

2009-03-20 | 徒然草
一息ついて心静めよ
そして内なる知恵が湧き出づるを待て
心静かに自分を見つめるたびに
本当の自分が近づく
そして語りかけてくれる
走り回った後は頭の中が空になる
エネルギーが枯渇する
そんな時は暫し休め
一息ついて
心静かなひと時を持て
そして内なる知恵が湧き出づるを待て






第385話「音楽の好き・嫌い」(平成15年~21年)

2009-03-19 | 昔の思い出話
 モーツアルトの交響曲を聞いていると、よくもまあ、一人の人間がこれだけ多くのオリジナルなメロディーを創作できたものだと思う。これらの曲は発明家のような意識的な努力で生まれてくるのではなく、モーツアルトの心の奥底のどこかで、次から次から湧き上がってくる情感を五線譜上に書き写して行っただけのことであろう。自分には想像も付かないが、考えて、考えて、何かを生み出す努力などしていては、モーツアルトのようにあれだけ多くの作曲を出来るはずがない。どれもこれも珠玉のようなメロディーで、我々凡人には思いも付かない天才の所業としか言いようがない。
 学生の頃は、大人数の楽団で演奏するベートーベンなどの交響曲が勇ましくて好きであった。しかし50歳も越えてやや年を取ってくると、静かな曲に関心が移っていった。静かな曲とは言え、ソロはあまり好みではなく、四重奏や八重奏などのような室内楽がよいのである。弦楽四重奏やフルートやオーボエの入ったコンチェルトを聴いていると心が洗われる。
 特に夜更け、人が寝静まった後、少しアルコールが入った状態で、本を読みながら静かな音楽に耳を傾けていると、本などはそっちのけで、聞き覚えのあるメロディーに自分の体全体が乗っかっているような気がすることがある。
 自分を含め、人々の音楽の好みはモーツアルトに始まり、色々と浮気の遍歴を重ねて、最後にはやはりモーツアルトに帰ってくるのではないだろうか? モーツアルトのピアノ協奏曲だけでも一体いくつあるのだろうか? どれを聞いても、いつ聞いても、きれいだな、やさしいなあ、気持ちがいいなあと思う。
 モーツアルト、ベートーベン、シューベルトなどの古典派の終局の時代に、音楽の最高峰が築かれた。その頃の音楽は、特に人の心を強く打つ。シュポアなどはあまり話題にならないが、その甘美な境地は、モーツアルトやシューベルトに劣らない。ラフの交響曲もベートーベンに決して劣らない。しかし、シュポアもラフもあまり人々の話題に上らず、演奏もされないが、自分のように一人静かに音楽を楽しむ対象としては大変によろしい。ベートーベンやシューベルトはあまりにもポピュラーに過ぎて、唯我独尊の境地などに到達するのは困難だ。
 いくら聞いても好きになれないのはショスタコビッチであった。不協和音が耳障りで、我が心の琴線に触れるメロディーなどどこにもない。共産主義ソ連という国のガサツな印象が前面に出てきて興ざめである。そうは言っても、ショスタコビッチの交響曲を聴く頻度は結構高い。ショスタコビッチを聞いた後のモーツアルトがひときわ美しく、自分としてはモーツアルトを楽しむためのワサビのような効果を利用しているのかもしれない。
 R.シュトラウスも嫌いだ。ユーバーアレス(世界に優越せる国家ドイツ)のヒットラーに大変好かれたらしい。荘重、重厚だが、どうも好きになれない。ベートーベンの曲の荘重な中に存在する軽快さやロマンチックさがこの中には全く存在しない。
 あまり好きでない作曲家をもう一人。ブルックナーである。あの金管楽器の耳をつんざく音が嫌いだ。好きな人には、ヨーロッパの教会の尖塔が立ち並ぶ町の風景を呼び起こすらしいが、どうも我が神経に障る。好きでないなりにマーラーの方が、何ほど良いか分らない。しかし、マーラーにはややかび臭い匂いを感じるのは自分だけであろうか。
 ワグナーのリングは聞き始めると、大変、仕事の障害になる。続けて全部聞くとすれば24時間かかる。余程時間のある暇なときしか聞く気がしない。
 イギリスの作曲家も全く出番がない。エルガーも何十曲と聞いてみたが、どれ一つ、良いと感じられるものがない。平板。淡白。几帳面な活字で印刷された辞書か、法律文書を見ているときと変わらぬ気分にさせられる。
 ビゼーのカルメンやアルルの女は、聞けばそれを初めて聞いたのかもしれない中学生の少年時代の頃を思い出させる。遠く懐かしい気持ちは、大脳のかなり奥に存在するのであろう。漠然とした初恋の頃の郷愁は記憶というよりも感覚である。これらを耳にすると、なぜかはらはらと涙がこぼれてくることすらある。
 バロック音楽は極めて心地が良い。ヴィヴァルディやテレマンなどは全く肩がこらずに聞き流せて楽しい。宮廷音楽の時代は、庶民には好きに楽しめる余裕がなかったが、人間の本性が好むものを正直に当時の王侯貴族が愛したのである。聞いて腹が立ったり、ストレスを感じるようなものは元から排除されている。
 音楽は自分の書斎でCDやラジオで聞くのが一番良い。テレビで見る演奏は好きではない。視覚が入ると気が散って音楽ではなくなる。交響曲で言えば、指揮者ばかりが大写しでアップされる。指揮者のタクトを振る派手な身振を画面いっぱいに見せ付けられると、関心がそちらに移って、肝心の耳で聴く音がどこかへ行ってしまう。いつも思うことであるが、指揮者が指揮しているのではなく、音楽に合わせて指揮者が踊っているように感じてしまう。指揮者など居なくても、この交響曲は一人で流れていくのではないかと思ったりする。実際、練習の時の指揮者はなくてはならない存在であろうが、本番演奏では、単なる飾りであり、名誉職に過ぎないのではないかと思っている。
 実は、生の演奏を見るのもあまり好きではない。生の音の迫力にはいつも驚き、さすが本物は良いと思う。しかし、オーケストラは視野が広すぎて、一体、何処を見ていて良いのか分らないのである。指揮者は尻をこちらに向けているので其処ばかり見ているのも気が引ける。音楽の音そのものは一体となって、怒涛のように当方の体全体を襲って圧倒しているのに、チェロやクラリネットだけを見ているわけにも行かない。ついつい、図体の大きいコントラバスや音の大きい奏者ばかりを見てしまう。しかし、目はいつも一時に一点しか見ることができないので、シンバルや太鼓が響くと、ついそちらに目移りして、キョロキョロするが、全体として何処を見て良いのか分らず至極落ち着かない。
 その昔、岡山の倉敷まで出かけて朝比奈隆の指揮する交響曲を聴きに行ったことがある。最前列の中央の席が指定席であった。座ると、見えるのは指揮者のお尻だけであった。楽団そのものが見えないのだ。耳に聞こえるのは指揮者が動くたびにギシギシときしむ指揮台と指揮者の靴の音だけであった。とても音楽を聴いた気になれず、指揮者のお尻を見に行ったとしか言いようがなかった。
 以上は数年前までの正直な思いである。しかし、心無罣礙の心では好き・嫌いなどあるべきものではない。どちらかと言えば、理屈が先行する我が悟りも、自然の感性が勝手に思う気分をどの程度、管理できるであろうか。多分、管理などできるまい。こだわらないということは、好きや嫌いをも超越したところにある。好きなものは好き。嫌いなものは嫌いでいい。これが一番、こだわらない形である。要は、心無罣礙とは、我が心に素直であれば、好き嫌いにこだわろうとこだわるまいと、どちらでもよいということを云っているのではないか。


しんむけいげ

2009-03-18 | 徒然草
心は
海のように深く
空のように広く
雲のようにゆったりと
あるがままを映す
歪みなき鏡たれ
こだわらず
そのままを受容せよ
怒るな
怒りはこだわりのしるし
泣くな
泣くはこだわりのしるし
あるがままをそのままに受入れよ
死すときは死すとも可なり
死すれば千の風になりて
海の上を駆け巡らん
広い空を駆け巡らん
時空を越え
雲の上から世界を眺めん
全ての束縛を超えて
広大無辺の自由を楽しまん


第384話「吉田文武先生」(平成15年~21年)

2009-03-17 | 昔の思い出話
 京都大学名誉教授であられた吉田文武先生は大学時代の恩師である。先生は90歳を越えても、まだまだカクシャクとしておられた。久し振りにお目にかかって、少し背中が丸くなったような気がしたが、我々の遠慮がちの低い小さな声に聞き直すことなく、直球の返球が即座に返ってくるのであった。此処でのお話は先生の91歳の時の思い出話である。残念ながら、先生はその数年後、94歳で老衰のため他界された。
 この先生を囲んで雑談する「先生を囲む会」の関西部会が、毎年、京都で行われており、この年度は、昔同じ研究室で同じ釜の飯を食った大阪大学教授の古田先生(仮名)と自分との二人が世話役を勤めた。
 吉田先生は埼玉に生家があり、京都松ヶ崎に自宅があった。先生は91歳になっても絶えず京都と埼玉の間を、苦にもせず、ご自分の足で往復しておられたが、「先生を囲む会」の世話役の手前、京都のご自宅を訪問する機会があった。約2時間の訪問においては40年前の師弟関係の再現であり、話題のイニシアチブはずっと先生の側にあり、教わるばかりの時間を過ごした。
 先生の京大退官後の足跡を振り返ると、先生は70歳になろうと80歳になろうと、ほとんど年齢と関係のない道を歩んでこられた。90歳になっても諸外国の研究者と交流して、世界中を歩き回って居られた。その昔、戦後間もなくフルブライトの交換教授として、数年間アメリカで教鞭を取られたこともあって、英語が極めて堪能であられた。また、退官前の京大教授の頃は、研究成果を日本の化学工学会に投稿するよりも、アメリカの化学工学以外の学会で発表する方が多いとされた先生でもあった。
 先生について最も感心するのは、60歳を越えてから、従来専門としてやって来られた吸収工学や蒸留工学など化学工学内の専門分野に捕らわれず、当時彷彿として沸き起こった新領域、すなわち医用工学や人工臓器等の研究に転進されたことにあった。年などとは本当に無関係に、怯まず恐れず、淡々と新しい領域に首を突っ込んで、新しい情報に接し、国際的な交友関係を一から築かれた。初老の人間、特に頭が固くなり始める頃には、是非、模範的なモデルとして、先生の生き様を見習うべきだ。先生の生き方は特筆に価する。
 この「吉田先生を囲む会」の世話役として、久しぶりに先生と並んで先生とお話をさせて頂いたが、本当にお元気であった。先生の長寿と元気の秘訣は何であったのだろうか?先生の元気エネルギー維持のノウハウが何処にあったのか? 自分としても、これらの秘密を知りたいのは、極めて、自然であった。
 吉田先生は我々弟子が大学を卒業する頃、先生の歳で言えば60歳のころから、山歩きにのめり込んで、「自分は年だ」などと言わずに積極的に体力の増進と維持に努められてきた。毎週のように、京都北山にハイキングに行かれた。我々が在学中はもちろんのこと、卒業してからも、先生から声が掛かって、ハイキングにお供したことも多い。しかし、何にも増して、年を取ってから、新しい世界を見つめ直し、ご自分の研究生活において新しい世界に没入して来られたことが一番の原因ではないか。
 自分自身は、誰に強制されるのでもなく、自らの意思で、会社エンジニアから経営コンサルタントに転進したと思っていたが、実は、潜在意識の中で、この吉田先生の生き様を密かに真似て来たのだ。先生は、80歳になってからも、ドイツ、スイス、イスラエル、ニュージランド、オーストラリアなどへ行って、講演をしたり、研究発表をしたりしてこられた。
 実際、大学卒業後、先生にお目にかかるたびに、元気エネルギーを頂戴した。60歳になってからも、恒例の秋の「先生を囲む会」でお目にかかるたびに、定年後の人生を送っている鼻たれ小僧の弟子達は、まだまだ、頑張らねばならないと感じさせられた。先生から見れば、まだまだ、赤子である弟子たちは「年だ」と言って、楽をしようとしてはいけないことを、先生は身をもって示されていた。
 下記は先生への記念品を贈るときに添えた世話役である当方の言葉である。手抜きをして、記念品として図書券を選んでしまったので、金銭を送る品の悪さを感じさせないため、オブラートに包む作戦であった。

 吉田先生
 昨年は卆寿をお迎えになりました
 誠におめでとう御座いました
 そして今年はプラス1年になりました

 おめでたい卆寿ですが
 それを越えるともっとめでたいと思います
 これから1年増えるごとにもっともっとめでたいと思います
 弟子たち一同吉田先生の健康を祝し大いにあやかりたいと思います

 そしてこれから8年経って
 ここに揃った弟子たち全員ともに元気で
 吉田先生の白寿を揃ってお祝いすることを誓います
 その願いを込めて先生の末永きご長寿をお祈りいたします

 吉田先生は
 学問の道では偉大な先達として
 また人生の道でも比類なき先輩として
 私たち弟子たちに模範を示し続けて来られました

 吉田先生は
 これからもご健康の証(あかし)として
 いつもお元気に埼玉と京都の間を往復してださい
 天気の良い日には埼玉や京都の小道を毎日歩き続けてください

 私たち弟子たち一同は
 心から吉田先生の今日のご健康を祝います
 そして心から先生の白寿の日をお待ちしています
 吉田先生の背を仰ぎ見つつみんな揃って頑張りたいと思っています
 
 これを皆の前で読み上げた。読みつつ感じたことは、此処でも、これはただの散文ではないか?であった。またもや、途中で何度も「皆さん、実はこれ、詩なんです」と釈明しながら、故意に抑揚を付けて読み上げた。もちろん、詩などと称するものは、学生時代から皆の前で披露したことはない。自分としても、とんだ恥をかいているような気がした。しかし、後刻、事の顛末や主旨を、司会進行役相棒の古田先生から補充説明された吉田先生は、「毛利君は詩が趣味とは大変羨ましい」「詩は絵と違って、後に残っても嵩張らないので大変良ろしい」などとのご感想とお褒めの言葉を頂戴したらしい。
 吉田先生には、幸いにもこれを「詩」と受け止めていただいた。また、記念品を金券にして特にご立腹の様子もなかったようだ。自意識過剰に陥らず、事前に勝手な評価をして遠慮して止めてしまわず、堂々とやって、その中を突き抜けば、それはそれで、案外、正当に評価され、うまく行くものだ。


ISOことわざ小事典(27)(28)(29)

2009-03-16 | ISOことわざ小事典
ISOことわざ小事典(27)
111.年寄りの冷や水       
 ISOを理解せぬ老齢社長が現場で言わずもがなの一言を
 発して、現場のやる気を損ねる悔しい一言

112.泣く子と地頭には勝てぬ   
 押しの強い審査員が立場を利用して規格の解釈等につい
 て組織を沈黙させること。そのときに組織が抱く怨念

113.習わぬ経は読めぬ      
 組織が独力で構築したマネジメントシステムに独りよがり
 の解釈やムダが多く見られると感じた審査員の思い

114.二階から目薬        
 本来指摘すべきことを指摘すると大ごとになると気を遣っ
 た審査員が発行する是正処置要求書の意図的に曖昧にした
 表現

115.憎まれっ子世に憚る     
 横柄で言葉使いの悪い審査員が世に溢れるさま




ISOことわざ小事典(28)
116.糠に釘           
 審査員やコンサルタントが少しでも良いシステムになるよ
 うに支援しようとしても管理者や現場の意欲や理解が及ば
 ず、的確な是正処置が行われない現場の状態

117.ネコに小判         
 マネジメントシステムの有効性向上に何の興味を示さず、そ
 の努力をしようともしない組織に与えられた登録証

118.寝耳に水          
 担当の審査員が変わった途端に、解釈が変わってこれまで不適
 合とされなかったことが不適合と指摘されること
 
119.念には念を入れ       
 一つの管理項目に対して何重にも監視測定の項目を設けて不安
 を減少させること。やり過ぎると経営効率を減ずることがある

120.能ある鷹はツメ隠す     
 何でも知ったかぶりをしない審査員の望ましい態度の一つ。優
 秀な審査員ほどこの方面の性質を有する




ISOことわざ小事典(29)
121.喉元過ぎれば熱さを忘れる  
 前回の審査や内部監査が過ぎて暫く経った頃、是正処置で講じた
 対策や手順の順守が漸次おろそかになっていく現場の通弊

122.恥を知るは勇に近し     
 自分の過ちを素直に認めて謝りを入れる勇気ある審査員や現場責
 任者の望ましい態度の一つ

123.馬耳東風          
 審査員が気を遣って口頭指摘にとどめたため、組織に完全に無視
 されて何も手が打たれない不適合の運命

124.鳩が豆鉄砲を食らう     
 審査員が専門的な規格用語を用いて現場作業員に質問した時、作
 業員が往々にして見せる驚きと不安の表情

125.花より団子         
 難しい規格の解釈よりも焼酎の銘柄談義に花が咲く審査前夜の宿
 舎で行う審査員の事前打ち合わせ